14.私でもできること
ジジの申し出は、ハァイには、そしてその背後に存在するリェンファには、突然のものであったに違いない。だが、ジジにとっては予想外にも、あっさりと受け入れられることになった。「若を呼んでくるわ」と言い残してジジの『台所』を去っていったハァイは、程なくして、リェンファと兄ティエン、弟リオウを連れて戻ってきた。
ここからが正念場だと拳を握り締めるジジを眺めながら、リェンファはティエンによって用意された椅子に腰かけ、背後に三つ子を控えさせてから、その紅の唇に弧を刻んだ。
「……デ? 話って?」
短い問いかけではあったが、「つまらない話であったら容赦はしないヨ?」という副音声が同時に聞こえてくるようだった。下手に凄まれたり脅されたりするよりも、ただただその美しい微笑の方がよっぽど恐ろしい。
今朝になって解かれた両手の包帯の下に隠されていた傷の痛みが思い出されて、ジジはごくりと息を呑む。
まただ。また口の中が乾いてきた。今目の前で、まるで異国の王のように一人がけの椅子に悠然と腰かけて長い足を組んでいる美貌の青年の前で、何度この緊張を味わったことだろう。リェンファは椅子に座り、ジジはその前に立っている状態であるというに、何故だかジジの方がリェンファに見下ろされているような気持ちになるのだから不思議なものだ。けれど、繰り返すが、ここが正念場なのだ。一歩たりとも後退してなるものか。そんな気持ちを込めて、ジジは挑むように、自身の青灰色の瞳で、リェンファの黒瑪瑙の瞳を真っ直ぐに見つめ返し、そしてようやく、その口を開いた。
「性転換の薬は作れません」
ジジのその一言に、すぅっとリェンファの、朱の刷かれた眦が細められる。それまでどこか面白いものを見るような光を宿していた瞳の色が、いかにもつまらないものを見るような、落胆の色に取って代わられた。
「ソレはもう何度も聞いたヨ。聞き飽きたネ。それでもその台詞が出てくるってコトは、『相応の対価』を支払うつもりになったってコトでいいのカナ?」
「話は最後まで聞くものだと言われたことはありませんか?」
「……なんだッテ?」
ぴくりとリェンファの整った眉がひそめられる。美しい微笑に不快感が混ざり、その迫力がより一層増すが、ジジは退かなかった。ここで退けるはずがなかった。
握り締めた拳をより強く握り締めれば、爪が手の平に突き刺さり、ようやく癒えたはずの傷を抉る。鈍い痛みが、イチイの存在を、そしてウィッチ・ゾーイの存在を、ジジの脳裏に思い起こさせてくれる。そのおかげで、ジジを今にも踵を返して逃げ出したくなるようなこの空気の中に留まっていられた。
ぴりぴりと肌が粟立つようだと思う。薔薇の棘のような、刺繍に使う針のような、そんな空気がちくちくと肌に突き刺さってくる。それでも泣き出さずにリェンファの前に立っていられる自分を、ジジは褒めてやってもいいかもしれないと少しだけ思った。すると自然と口元に笑みが浮かんできて、そんなジジを訝しんだのか、リェンファの首がゆっくりと傾けられる。その肩から緩く編まれた艶やかな三つ編みが滑り落ちるのを見ながら、ジジは乾き切った口を動かした。
「性転換の薬を作ることは不可能です。でも、性転換したように見せかけることはできます」
ぱちり、と。リェンファの黒瑪瑙の瞳が、ひとたびばかり、ゆっくりと大きく瞬いた。そのまま何かを見極めようとするかのように、その瞳がじっとジジの顔を、青灰色の瞳を見つめてくる。ジジは目を逸らすことなく、彼の瞳を見つめ返した。しばしの沈黙の後に、リェンファは組んでいた長い足をゆっくりと組み替えて、肘掛けに腕を預けてその手の上に顎を乗せた。
「フゥン? それはどういうことカナ?」
詳しく話せ、と黒瑪瑙の瞳が先を促してくる。ごくりと唾液を飲み込めば、乾き切っている口の中がほんの少しだけ潤ってくれる。
水が飲みたいな、と、てんで場違いなことを考えてしまう自分はきっと、現実逃避をしたがっているのだろう。けれどそんなことをしている場合ではないのだ。水を飲むのも、安堵に息を吐くのも、すべては後回しだ。今はジジは、ジジにできることをしなくてはならない。
気付かれない程度の小さな深呼吸を一つしたのちに、そうしてジジは「まず」と口火を切った。
「生き物の体内では、女性的になるための物質と、男性的になるための物質が、バランスを保ちながら作られています。私達はそれらをそれぞれ女性ホルモン、男性ホルモンと呼んでいますが、その女性ホルモンの方を増やすことで……その人の体質にもよりますからほんの少し程度かもしれませんが、とにかくある程度であれば、その身体を多少は女性的にすることは可能です」
あくまでも理論上の話だが。ホルモンにまつわる話は、ウィッチクラフトに限った話ではない。医術を多少なりともかじったことがある者であれば通じる話だ。
東の大陸における後宮には、去勢という医術を施された宦官という職種だって存在するという。流石にジジにはそんな医術を実行できるような腕はないが、まずは『男性』という性別からある程度『女性』という性別に近付くための術の知識ならば、ジジは多少ならば持ち合わせていた。
「その女性ホルモンを、まずは食事で補ってもらいます」
「たったソレだけで女になれるのなら、ワタシ達は先代の遺言にこんなにも苦労させられてないんだケド?」
「はい。仰る通り、いくら食事で女性ホルモンを補っても、それだけで身体を完璧に女性に変化させることはできません」
「ダッタラ」
「だから、話は最後まで聞いてくださいと言っているでしょう」
ジジには、今、リェンファに反論させる気はなかった。ここで論破されては何も始まらないことは解り切っていた。無理を通せば道理が引っ込むと先に口にしたのは先日のリェンファだ。あの時はそんな馬鹿なと思ったが、今のジジは違う。その通りだとスタンディングオベーションで同意してもいいとすら思っている。
詭弁と言われるかもしれないが、そんなことはないとジジは自信を持って言い返すことができる。それが、ハァイが本人が意図せずして出してくれたヒントから得た、ジジにとっての突破口であり、ジジがジジのままできること、なのだから。
「身体そのものを作り変えなくても、貴方が女性になったと思わせることは可能なんです。そういう幻覚を見せる薬を……そうですね、香水などはいかがでしょうか。幻覚というか、まやかしというか、とにかくあなたが『女性である』という認識を相手にさせることなら、ウィッチクラフトでも可能と言えるでしょう」
そう、それこそが、『わざわざ女にならなくても』、できることだった。身体をわざわざ作り変えなくても、リェンファが『男性である』という認識を『女性である』という認識に、少しばかりずらしてやればいい。これならば、自然の摂理に従って行使すべきとされるウィッチクラフトでも可能なはずだ。それが、ジジが新たに出した結論だった。
これまた『理論上』の話であるけれど、それを正直に話す気はない。騙している訳ではないのだからわざわざ自分を不利にする情報など伝える必要はないだろう。
――貴女は貴女にできることをすればいいの。それがきっと、素敵なことに繋がるわ。
師の言葉がまた聞こえた気がした。リェンファに出会ってからというもの、幾度となく自身の中で繰り返されてきた言葉は、今もなお、ジジのことを勇気づけてくれる。
ジジにできることなんて数えるほどにもない。ウィッチクラフトに関することであればなおさら少ない。けれどだからと言って、すべてをできないことにして諦めるのは違うことだと思うのだ。できることを、できるだけ。それがジジにとってのすべてだった。
リェンファは、何も言おうとはしない。ただその黒瑪瑙の瞳を眇めて、ジジのことを見つめている。朱の刷かれた目元は悩ましげでありながらも鋭く、そこに宿る光は魅惑的でありながらも何よりも冷たい。けれどここで目を逸らしてはいけないことを、ジジは本能的に理解していた。
どれだけの間、そうして見つめ合っていただろうか。瞬きにも満たないようなほんの刹那の間だけだったかもしれないし、時の流れを忘れるほどに長い永遠にも通じるほどの間だったかもしれない。
そして、先に口を開いたのは、リェンファだった。
「――――六十三点」
短い台詞だった。それが何かの採点結果であるということに気付くのに、ジジは時間がかかった。やがてジジは、その“採点結果”を把握したものの、それがどういう意味なのか、どういう結果をもたらすのかまでは解らず、ぱちぱちと瞳を瞬かせる。
そんなジジを見遣って、リェンファは、ほう、と一つ吐息を漏らした。その吐息に込められた意図は、ジジには読み取れず、けれどそれをジジが考えるよりも先に、リェンファの方が更に言葉を紡ぐ。
「ギリギリ及第点ネ」
その言葉に、ジジは目を見開いた。及第点。リェンファは確かにそう言った。ということは、と、リェンファの顔を恐る恐る見つめるジジに、リェンファは微笑んだ。
「ソレでいいヨ。性転換の薬の代わりに、性転換したように見せかけるようお嬢サンがワタシ達に協力するってコトで、マァ手を打ってアゲル」
「あ、りがとう、ございます」
「ウン。ドウイタシマシテ」
にこりと微笑むリェンファの声がどこか遠かった。それよりも、自分の心臓の音の方が余程よく聞こえてくるようだった。どくどくと忙しく、そして激しく脈打つ心臓を押さえるようにして両手を胸の上に寄せるジジの元に、リェンファの背後に控えていた三つ子の内の一人――三男坊であるリオウが、のんびりと、それでいて足音一つ立てない動きで歩み寄る。
急に近寄ってきたリオウにびくりと身体を竦ませるジジに、リオウはにこにこと気の抜けた笑顔で笑った。緊張感など欠片もない笑顔だというのに、何故だろう。ジジはなんだか、余計に身体が強張っていくのを感じた。
「よかったねぇ、ジジちゃん」
「は、はい」
「ほんとよかったよぉ。もし若からジジちゃんが合格点もらえなかったら、僕達がジジちゃんのこと片付けなくちゃいけないことになってたからさぁ。そんなことにならなくってよかったぁ」
「――――え?」
ジジの思考回路は、リオウの言葉をすぐに処理することができなかった。青灰色の瞳を見開いて硬直しているジジに、リオウはのんびりとトドメを刺した。
「よく考えてもみなよぉ。ヘイロンの幹部が後継者争いのために性転換しようとしたなんて事実を知った奴を、単にそのまま娼婦に堕とすだけで済ませる訳ないじゃん。ねぇ、ティエン兄ちゃん、ハァイ兄ちゃん」
リオウが同意を求めて兄達に声をかけると、ティエンは無言のまま微動だにしなかったが、ハァイは苦笑交じりに「あー言っちまったな」と呟いた。彼ら二人のあっさりとした反応は、下手な肯定よりももっとずっとリオウの言葉を強調するものだった。知らず知らずのうちに顔を強張らせるジジに、リオウはへにゃりと笑う。
「命拾いできてよかったねぇ」
「…………」
その一言に、ジジは無言で、ぎこちなく視線をスライドさせた。その視線の先にいるのは、涼しい顔で椅子に座っているリェンファだ。花のような彼の美貌を改めて見遣れば、彼の黒瑪瑙の瞳とばっちりと目が合う。
「ン? なァに?」
リェンファは、それはそれは美しく微笑んだ。誰もが見惚れずにはいられないような、大輪の花のつぼみがちょうど綻ぶ瞬間を切り取ったかのような、艶やかで華やかな笑みだ。
彼のその花のような笑みに、ジジは理解する。リオウの言っていることは真実なのだと。ジジが、リェンファが納得できない結論を出すのであれば、本当にリェンファはジジに『相応の対価』を払わせるどころではなく、下僕である三つ子にジジを“片付け”させるつもりだったのだということを。
「~~~~っ!」
今更ながら腰が抜け、ジジはへなへなとその場に座り込んだ。
“ギリギリ”とリェンファは言ったが、本当にその通りであったことを今更自覚する。自分の知らないところで、自分の命はぎりぎりの綱渡りをしていたらしい。その事実が遅れて自身の頭に追いついてきたジジは、もう一言も声を発することができなかった。
「ウィッチクラフトとやらでお嬢サンがワタシ達に協力してくれるってことは、ワタシが周りに女になったと思われた後も、ずっと協力し続けるってコトだってコト、忘れずにネ」
「は、い」
美しくも恐ろしいリェンファの微笑みに対し、ぶるりと身体を震わせながら、ジジはそう答えることしかできなかった。
そんなジジを見下ろして、リェンファは微笑を深め、ティエンは無表情のまま、ハァイは無邪気に「面倒が一つ減ったな!」と笑い、リオウは「これから頑張ってねぇ」とのんびりとジジに声援を送った。四種類も表情があるというのに、ジジにとってはそのどれ一つとして、嬉しいものでもありがたいものでもなかったということを、ここに明記しておこう。