12.選択
リェンファがただの構成員の一人ではなく、幹部であったことにはなんとか理解した。この態度でヒラです、なんて言われて信じられるはずがない。幹部クラスの人間です、と言われた方が余程納得できるのだから、それはもういい。
けれど、まさか先代のヘイロン首領の息子であるとは思わなかった。自分とは住む世界が違いすぎて、現実味がない。けれど、いくら現実味がないと言っても、これは現実なのだ。
リェンファ・リーの母にして、先代ヘイロン首領、ランファ・リー。彼女が残した遺言は、『次代のヘイロン首領は女でなくてはならない』ということ。それが、今回の事件の発端ということなのだろうか。
沈黙のまま考え込むジジを前にして、リェンファは肩を竦めてみせた。
「この喋り方は母親譲りヨ。あの女は東国生まれで、ワタシには公用語じゃなくて自分の故郷の言語でばかり話しかけてきてたカラネ。おかげでワタシの公用語は東訛りになっちゃったヨ。マ、これで油断してくれる間抜けも多いから、利点がない訳でもないけどネ」
ジジにとってはとんでもない衝撃をもたらす内容の台詞を、なんでもない明日の天気を話すような口振りで紡ぎ、リェンファは「それはさておき」とジジの顔を見つめる。
黒瑪瑙の瞳から放たれる視線から逃れるすべが見つからず固まるジジに、リェンファは微笑みながら続けた。
「現状として、次代の首領になれるほどの権力を持ち勢力を誇る女の幹部は……マァいないこともないケド、皆自分から辞退してるネ。当然だヨ。組織における頂点に立ちたがるヤツなんて、よっぽどの馬鹿か変人ダネ。一番楽しいのは、トップを矢面に立たせて自分は安全なところで好き勝手に組織を動かして、いざという時の責任を全部トップに押し付けるコト。これに限るネ」
巨大ギルド幹部の台詞とは思えない台詞である。それとも、巨大ギルド幹部だからこその台詞なのだろうか。
「そういう意味でも、さっさと首領は選出されなくちゃいけなかったし、自分カラ生贄になりたがるヤツがいるならソイツでいいはずだったんケドネ。その『自分カラ頂点に立ちたがるヤツ』が、変人の方じゃなくて馬鹿の方なモノだから、チョットばかりまずいコトになっちゃって」
「まずいこと、ですか」
「ウン。その馬鹿の名はヴィルフォール。高級娼館ヴィルジニアの代表にして、ワタシと同じヘイロンの幹部ヨ」
今まで余裕にあふれ笑みを含むばかりであったリェンファの声音に、わざとらしいほど明らかに、『面倒くさい』という感情が色濃く乗せられた。その解りやすすぎる変化にジジは戸惑うが、それにリェンファは構うことなく、とんとん、とそこはかとない苛立ちを込めて自身の唇を指先で叩いた。
「ヴィルフォールには首領としての才覚はない。ソレが、アイツを筆頭にした一派を除いたワタシ達幹部と、ヘイロン構成員の総意ヨ。だからこそまだヘイロンはアイツの手中に収められるコトなく、平常運転のまま今の勢力を保ち続けテル。デモ、厄介なコトに……チョウド一年くらい前カラ、小賢しい知恵者をご意見番に取り立てたみたいでネ。ソイツのお陰でアイツの権力はこの一年でヘイロンの中でも一位二位を争えるダケのモノとなり、表立ってアイツに逆らえるのはワタシくらいなモノになっちゃってネェ」
とん、と。もう一度ゆっくり唇を叩き、緩慢な動きでリェンファは脚を組み替える。その膝の上で指を絡ませ合い、彼はその整った眉をひそめてみせた。
「ヴィルフォールは、自分の娘であるオリヴィアとワタシを結婚させて、オリヴィアを首領の座に据えるつもりネ。もちろんあんな贅沢にしか興味のない小娘に首領が務まるハズないってコトは皆知ってることネ。要はあの小娘はお飾りヨ。新しい首領となった娘の立場と、その婿にして先代の息子であるワタシの立場を利用して、ヴィルフォールは自分が実質的なヘイロンの頂点に立つつもりネ。ダケド」
その瞬間、ざわりと空気が変わった。
「誰がそんなことを許すものかよ」
ぞっと背筋を凍らせずにはいられないような、冷え切り凍てついた、低い声音だった。
その美しいかんばせからは笑みが消え、その代わりにただただ凝り固まった深い深い憎悪が窺える。
その声に、その表情に、思考を完全に奪われてジジは硬直した。
こわい、と。ただその一念ばかりが身体と心を満たしどうしようもなくなっているジジを哀れんだのか、はたまた余裕を失いつつある様子の主人を諫めるためか、「若」と三つ子の長男たるティエンが短く声をかける。
その途端、リェンファがまとっていた凍てつく雰囲気は霧散し、元の微笑みが彼の唇に再び刻まれる。
「――怖がらせちゃった? ごめんネ」
くつくつと笑うリェンファとは対照的に、ジジの表情は強張っていた。それでも、ごくり、と唾液を飲み込んで気付けば乾き切っていた喉を湿らせ、ジジはいよいよ口を開いた。
今回の件において、ジジが――製薬に長けた『金の魔女』のウィッチクラフトが狙われた理由がようやく見えてきた気がした。リェンファの求める薬。それは。
「貴方が、欲しがっている薬って」
「その想像でたぶん正解ネ」
にこり、と笑みを深めてリェンファは言った。
「ワタシが欲しいのは、男が女になる薬。性転換の薬ヨ」
――やっぱり。
そう納得すると共に、ジジはドン!と握り締めた拳をローテーブルに叩きつけた。
「そんな、そんなの、作れるはずがないでしょう!」
悲鳴のような怒鳴り声だった。リェンファの背後の三つ子が、ジジを取り押さえようとするかのように動くが、彼らを片手を上げるだけの動きで制したリェンファが、笑顔でジジを見つめる。黒瑪瑙の瞳が「続けろ」と、言葉よりも雄弁に物語っていた。それをいいことに、ジジは最早遠慮の『え』の字すらもかなぐり捨てて唇を震わせる。
「ウィッチクラフトは自然の摂理に従い、ほんの少しだけその力を借りることで行使されるものです! そんな、本来の身体を作り変えるような、道理を捻じ曲げるような薬なんて……!」
ウィッチクラフトは、火の精霊サラマンダー、水の精霊ウンディーネ、風の精霊シルフ、土の精霊ノームという四大精霊の力を借りて行使される、『物事を少しばかり素敵な方向へ導く秘術』だ。それは決して、性別を変えるなどという奇跡を起こすようなものではない。
「私は、金の魔女たるウィッチ・ゾーイの弟子として、そのような道理を覆す薬は作れません」
「無理を通せば道理が引っ込むって言葉が東にはあるらしいネ」
「何言って……っ!」
「許す許さないを決めるのはこのワタシヨ。オマエでも、精霊でも、ましてや神でもないネ」
リェンファは笑っている。絶対的に有利な立場に佇む、圧倒的な強者の笑みだ。リェンファを、草食獣を捕食する側の凶暴な肉食獣とするならば、ジジは草食獣どころかもっとか弱い小動物でしかない。
「オマエに拒否権はない。もし拒否するのなら相応の対価を払ってもらうとワタシは言ったネ?ワタシはオマエのその身をウチの最下層の娼婦に堕とすコトだってできるケド、ソレでも断るって?」
リェンファの言葉は脅しではない。真実であり現実であり、これ以上もなく本気なのだろう。
――だが、それでも。
それでも、小動物にだって小動物なりの意地と矜持がある。無理を通せば道理が引っ込むという言葉があるというならば、窮鼠猫を噛むという言葉だってあることを、この青年だって知らない訳ではないだろう。ならば、ジジの答えは一つだけだ。
「娼館の主人のものとは思えない台詞ですね。娼婦という職業を汚らわしいとする古い考えは私は持ち合わせてはおりません。娼婦になっても、私の名前も身体も魂も、何一つ傷付きません」
どこで何をしようとも、どんな立場になろうとも、ジジは金の魔女の――ウィッチ・ゾーイの弟子だ。正確には鍋運びだが、この際それはどちらであってもいい。どちらであったとしても、ウィッチ・ゾーイに師事する者であることには変わりはないのだから。だからこそ、ジジはウィッチ・ゾーイに恥じないウィッチクラフトを行使しなくてはならない。
そう決意を秘めた瞳で真っ直ぐにジジがリェンファを見つめ返せば、彼は、顎に片手を寄せて、ふむ、と頷いた。
「ンー、思っていたより強情なお嬢サンだ。コレは困ったネ」
ちっとも困っているとは思えない口調で、リェンファはそう呟いた。そして、その白い手を、わざとらしく芝居がかった仕草でポンと打ち鳴らす。
その軽い音に思わず身体をびくつかせるジジに、リェンファは笑みを深めた。
「なら、お嬢サン。金の魔女の屋敷の情報を対価にするとワタシが言ったらどうする?」
「な……っ!」
「あの高名なる金の魔女の屋敷の所在なんて、金貨や宝石を山と積んでも欲しがるヤツはたくさんいるヨ。あの隠し屋敷の情報、高く売れるんだケドな?」
「……どうして」
「ウン?」
「どうしてそこまでして、貴方は首領になりたがるんですか?」
性別を変えるということ。それは生半可な決心ではない。『金の魔女』の屋敷を探し出し、自身の性別を変えてまで、首領になりたがるなんて、正気の沙汰とは思えない。
リェンファ本人だって言っていたではないか。組織における頂点に立ちたがる存在なんて、よっぽどの馬鹿か変人であると。だというのなら、リェンファは自分のことをそんな馬鹿か変人だと思っているとでも言うのだろうか。それこそまさかだ。
けれど、そんなジジの問いに、リェンファが答えることはなかった。笑みを深めた彼は、とん、とローテーブルを軽く指先で叩く。その音は驚くほど大きく部屋の中に響き渡り、ジジから言葉も思考も奪っていく。
「ソレはお嬢サンが知る必要のないコトネ。それで、引き受ける? 引き受けない? サァ、ドッチ?」
さっさと答えろと言外に告げられ、ジジは言葉に詰まった。ジジの答えは一つだけだ。一つだけしか許されていない。そしてその答えが、ジジの望むものでは許されないことを、やっと改めて思い知らされる。
「――わかり、ました」
そう紡いだジジの声は、とうとう震えてしまっていた。
「あなたが求める性転換の薬、このジジが作ってみせます」
そう答えることしかできなかった。
リェンファの言う通りだ。ここまでついてきた時点で、もうジジには選択権はない。最初から、リェンファに従うより他はなかったのだ。
それが悔しくて拳を握り締め、唇を噛みしめるジジに、リェンファは満足げにひとつ頷いた。
「交渉成立ネ」
そう言って、青年は微笑む。その笑顔はやはりとても美しくて、同時にとても恐ろしくて、ジジに、忘れていたはずの両手の痛みを思い出させたのだった。