11.ランファ・リー
不夜城トゥーランドット。どちらかと言うと世情にあまり聡くない……というかはっきり言って世間知らずと言っても過言ではないジジでも、その街の名前は知っていた。
この国の王都において、昼夜を問わず栄える歓楽街である。場末の居酒屋から王侯貴族が通う高級娼館まで、様々なる快楽をひさぐ街。それが眠らない街、不夜城と呼ばれるトゥーランドットだ。
「トゥーランドットはヘイロンのシマヨ。この街のほとんどの店はワタシ達の傘下ネ。そしてココはその中でもワタシが代表を務める娼館、リアーヌ。ここまではオワカリ?」
ローテーブルを挟んだ先の、一人がけのソファーに、まるで一国の王のように悠然と腰かけて、リェンファはことりと首を傾げてみせた。その背後に控えている同じ顔をした三人の男達の視線にびくつきながら、ジジはぎこちなく頷きを返した。
リェンファ達に案内されて連れてこられた部屋は、この屋敷――トゥーランドットにおいて最高級とされるに違いない、リェンファ曰く『リアーヌ』と銘打たれているらしい娼館の、最上階の応接室だった。
いかにも高級そうなソファーに座らされたジジは、それはもうガチガチに緊張していた。
自分は、とんでもないことを引き受けて、とんでもないところに来てしまったのではないか?
そんな大変今更すぎる疑問がジジの脳裏に浮かび上がる。だが、だがしかしとジジは自分に言い聞かせる。とんでもないことだろうが何だろうが、それがなんだというのだ。どんなとんでもないことであろうとも、イチイの無事には代えられない。後悔なんてしていない。
――けれどやはり、怖いものは怖いのだ。本当に、今更だけれど。
ジジの緊張など、リェンファにとっては大した意味をなすものではないのだろう。その紅い唇に弧を描いて、彼は「サテ」と口火を切った。
「まずはワタシの下僕を紹介しておくネ。これからオマエの見張り兼護衛にもなる奴らダカラ、ちゃんと覚えてネ?」
「……護衛?」
「ソウ。護衛」
思わずジジが反芻した台詞を、リェンファはしたり顔で繰り返した。見張りはともかく、護衛とはどういう意味だろう。リェンファ達にとって、自分が、『守らなくてはならないだけの価値がある存在』ということなのだろうか、とジジは内心で首を捻る。
『金の魔女の弟子』という立場が、今のジジの立場だ。正確には弟子と名乗るのはあまりにもおこがましい『鍋運び』だけれど、リェンファ達はその事実を知らない。ならば、確かにそういう意味では、ジジは彼らにとって『守らなくてはならないだけの必要性がある存在』ということになるのか。
考えても解るはずのない疑問がぐるぐるとジジの内心をかき混ぜ混乱させる。その混乱は、ジジの表情にあからさまにわかりやすく出ていたのだろう。くつくつと喉を鳴らしたリェンファは、その両手の白く長い指を絡ませ合い、組んだ脚の上に乗せる。そしてその黒瑪瑙の瞳を、背後の三人……短く刈り上げた紺鼠色の髪と暗い藍色の瞳を持つ、ゆったりとした東洋風の衣装の上からでも解る屈強な肉体の男達に、ちらりと向けた。
「まあ後で説明するカラ、今は黙って聞いてネ。ワタシの下僕であり、オマエの見張り兼護衛となるのはコイツラヨ。見ての通り、この三人は三つ子ネ。長男がティエン」
「……」
ジジから見て左端に立っていた、感情の一切を感じさせない鉄壁の無表情を誇る男が、無言のまま一礼する。挨拶一つ口にしないその姿は、下手に何か言われるよりもよっぽど迫力があり、ジジはその圧力に負けてつい頭を下げてしまった。
早々に敗北感に打ちひしがれるジジを後目に、リェンファは続ける。
「次男がハァイ」
「ご紹介にあずかり恐悦至極ってか? 俺が泣く子も黙る悪鬼の三つ子が次男坊、ハァイだ。ジジちゃんだっけ? よろしくな!」
三人の内、その真ん中に立つハァイと紹介された男は、悪戯ざかりの子供のように明るく笑った。だがその台詞の内容は、無邪気な笑顔に相応しくない、とても物騒なものである。
泣く子も黙る悪鬼の三つ子とは何だ。女や赤子を取って食うとでも言うのだろうか。冗談でも笑えない。
「三男がリオウ」
「僕がリオウだよぉ。兄さん達と同じくらい強いつもりだから、末っ子だからって侮らないでねぇ?」
最後に、右端に立っていた男がそう言ってひらひらと手を振った。のんびりとした口調であり、その笑顔は気の抜けた柔和なものだが、何故だろう。まったく安心できない。それどころか不安ばかりが煽られる。
世の中には同じ顔の人間が三人存在するというが、彼らは既にその三人が生まれながらにして揃っているらしい。だが、彼らのことを見間違えることはおそらくないだろうとジジは思った。それほどに、ティエン、ハァイ、リオウという三兄弟の、その表情とまとう雰囲気の違いは明らかだった。
だが、そんなことは今のジジにとっては些末に過ぎない。三人が三人とも、ジジにとっては決して味方にはなり得ない相手であることには変わりはないのだから。
これ以上気圧されてなるものかと、膝の上で両手を握り締める。そんなジジに、にこりとまたリェンファは笑いかけた。美しい花は棘ばかりではなく毒も持ち合わせているとでも言いたげな笑みだ。
「そして、改めましてもう一度。ワタシはリェンファ・リー。オマエ達が闇ギルドと呼ぶ組織、ヘイロンの幹部ダヨ」
「ッ!?」
その言葉に、ジジは息を呑み、青灰色の瞳を大きく見開いた。そのまま目玉が飛び出てしまうのではないかと自分で思うくらいに驚いた。とんだ間抜け面を晒している自覚はあり、現にリェンファは「すごい顔ネ」とくつくつ笑っているが、今のジジにはそんなことに構っている余裕はなかった。
今、リェンファは自身のことを、『幹部』と、そう言った。その振る舞いや服装から一介の構成員風情ではないとは思っていたが、まさかの幹部。
だからこんな立派な屋敷の最上階を我が物顔で使えるのか――と、感心している場合ではない。それはただの現実逃避である。そんなことは重々承知の上だというのに、それでもジジはひたすらに呆然とすることしかできなかった。
あの、巨大闇ギルド、ヘイロンの、幹部。その言葉の恐ろしさは、ジジにとってはあまりにも現実離れしたもので、どう言葉を返していいものなのかさっぱり解らない。
何度か喘ぐように唇を震わせたけれど、何の言葉も、音すらも出てこない。そんなジジを置き去りにして、リェンファはその鮮やかな朱の走る目尻を細めた。
「オマエ、今のヘイロンの首領の名前、知ってるカナ?」
「……え、と。し、知らない、デス」
リェンファにつられたのか、同じように不思議なイントネーションで言葉を紡いだジジを気にすることなく、リェンファは笑顔で頷く。まるで、ジジのその答えなど、はじめから解っていたとでも言いたげに。
「ウン、だろうネ。ダッテ今現在、ヘイロンは首領が不在ダカラ」
「不在?」
そんな話は聞いたことがなかった。どんなギルドであっても、その頂点に立つ者――様々な面においてそのギルドの代表となる首領は存在するものだということくらい、いくらジジでも知っている。ヘイロンほどのギルドであっても、それは変わらないはずだ。むしろ、巨大ギルドであるからこそ、その構成員を取りまとめ、総指揮を執る者が必要とされるのではなかろうか。
それなのに、何故。疑問をありありと顔に描いてジジは首を傾げた。リェンファの笑顔は変わらない。
「我らがヘイロン首領……モウ先代と言わせてもらうケド、その先代首領が死んでカラ、もうすぐ一年になるカナ。彼女は病に倒れ、コロッとこの世を去ったネ」
幹部ともあれば、首領との距離もそれなりに近しいものであったはずだ。にも関わらず、その親しかったのではないかと思われる上司の死を口にするには、リェンファの口調はあまりにも無味乾燥なものだった。そして同時に、何故かつまらなそうなものでもあるように聞こえたのは、ジジの気のせいなのだろうか。
「本来ならばすぐに次代の首領が選出されるハズだった。ケド、そうはならなかった。先代がとある遺言を残して逝ったカラネ」
「遺言……?」
「ソウ。何だと思う?」
急にそんなことを言われても解るはずがない。瞳を瞬かせるジジに、リェンファはピッと長い人差し指を立てて唇に寄せた。
「ヒントは、残されたワタシ達首領候補にとってトッテモ都合が悪い……って言うのはチョット違うカナ。ウン、そうダネ……アー、面倒くさいコトって言うのがいいカモ。そして、それこそ魔女の秘薬に頼らなくちゃならないくらいにどうしようもないコトってコトカナ?」
いやだからそんなことを言われても、ジジに解るはずがないというのに。
解りやすく眉尻を下げて困り顔になるジジの答えを待つことに、リェンファは早々に飽きたらしい。彼はそれまでもったいぶっていたのが嘘のようにあっさりと、その答えを口にした。
「『次代のヘイロン首領は女でなくてはならない』。それが先代の遺言ネ」
――なに、それ。
それが、ジジが最初に抱いた感想だった。
ぱちぱちと瞳を何度も大きく瞬かせてリェンファの顔を伺っても、彼の微笑みは崩れない。その様子に、からかわれている訳ではないことを知る。
『次代のヘイロン首領は女でなくてはならない』。リェンファの台詞を内心で反芻してから、ジジは訝しげに眉をひそめた。
別に女性が首領になることが悪いと思っている訳ではない。世の中にはギルドの代表を務める女性なんて数多いるし、女性だけで構成されるギルドだってあるくらいなのだから。
だが、だがしかしだ。ヘイロンほどの巨大な勢力を誇るギルドの長が、女性でなくてはならないとはどういうことなのだろう。女性に限らず、男性であろうとも女性であろうとも、どちらであったにしても、本当にその座に相応しい者が首領となるべきなのではないかと考える自分の感覚の方がおかしいのか、ジジには解らなかった。
無言のままリェンファの言葉の続きを待っていると、彼は至極億劫そうに、ほう、と物憂げな溜息を吐いた。たったそれだけの仕草すら、ぞくりとするほどの色艶にあふれている。
「先代は元はこのリアーヌの最高級娼婦でネ。その並外れた美貌のせいで人買いにさらわれて、ココに売られて娼婦として働かされていたところを、先先代首領に見初められて妻になり、その先先代がこれまた病で死んでから、その後釜に座った女ヨ。そういう自分の経歴のせいか、あの女はやけに女という生き物に同情的でネ。自分が死んだ後、女がこれ以上食い物にされないように、女の気持ちは女にこそ解るモノだって言って、次代の首領は必ず女でなくてはならないって遺言を残していったんダヨ」
「だからって、それに従わなくても……」
「首領の命令は絶対。それがヘイロンにおける掟ヨ。ソレがどれだけ理不尽な命令であっても、構成員は従わなくてはならない。それが死んだ女の夢見がちで甘っちょろい戯言であってもネ」
ジジが恐る恐る割り込ませた台詞を、その笑みに皮肉げな色をたっぷりと乗せて切り捨てて、リェンファは続けた。
「その面倒な命令を残して死んだ先代ヘイロン首領の名前は、ランファ・リー」
「リー、って」
まさか。そう声なく続けるジジに、リェンファは微笑んだ。大輪の花が咲き誇るかのように美しく、その花弁を撫でていくそよ風のように優しげな笑みだというのに、彼の黒瑪瑙の瞳に宿る光は、氷よりも冷たい。
「ソウ。お察しの通り、先代ヘイロン首領ランファ・リーは、ワタシの実の母親ネ」
その言葉に、ジジはまたしても大きく、自身の目を見開かされる羽目となった。