10.ここは不夜城
ゆっくりと開かれた扉の向こう。そこに立つ存在を布団の下から恐る恐る見守るジジの様子が面白かったのか、くつくつと喉を鳴らす声がジジの耳朶を打った。
「亀の次は幽霊にでもなるツモリ?」
笑みを含んだそのアルトよりも少しばかり低い、聞き心地の良い声音に、ジジはそろそろと布団から顔を出す。
ジジの視線の先、扉の前には、相変わらず黒い東洋風の丈の長い衣装を身にまとったリェンファが、その紅い唇に弧を描いて佇んでいる。朱の刷かれた眦を細め、からかい混じりに小首を傾げてみせる小鳥のような仕草と同時に、その緩く編まれた艶やかな黒檀の三つ編みが揺れた。
ほんの一瞬その動きに目を奪われたジジだったが、すぐにジジの青灰色の瞳は、リェンファの背後へと惹きつけられる。悠然と佇む青年の、その背後にいるのは。その手にあるのは。
「鍋!」
リェンファの背後に立つ、短く刈り上げられた紺鼠色の髪と暗い藍色の瞳を持つ無表情の男の手にある、光を弾く見事な金色の輝き。見間違えるはずがない、ウィッチ・ゾーイの大鍋だ。
ベッドから転がり落ちんばかりの勢いで降りると同時に、ジジはその鍋の元へと駆け寄ろうとした。だが、それよりも先に、無表情の男の後ろから出てきた二人……同じ顔の作りでありながらその表情はまったく異なる二人によって阻まれる。ウィッチ・ゾーイの屋敷での一幕とまったく同じような状況に、悔しげに顔を歪めるジジとは対照的に、リェンファの笑みには余裕があふれていた。くつくつとその喉を鳴らして笑ったかと思うと、ちらりとその目尻に朱の刷かれた切れ長の黒瑪瑙の瞳で、三人の男にそれぞれ目配せを送る。
「そんなに必死にならなくても、ちゃんと返してあげるネ。ティエン、お嬢サンに鍋を。ハァイ、リオウ、ちょっとそこを退くヨロシ」
その言葉の通りに、ハァイ、リオウとそれぞれ呼ばれた男達がジジの前から退いてリェンファの背後へと控えるようにして移動した。
その代わりに、無表情の男……どうやらティエンという名前らしい男が、リェンファの背後から前へと出て、無言のままジジにその手の鍋を差し出してくる
。ほとんど反射的に受け取り、その両腕に余る大きさのそれを抱き締めるようにして、ジジはほうと息を吐いた。
「よかった……」
「オマエがその鍋じゃなくちゃ薬は作れないって言ってるノニ、ワタシがソレに何かする訳ないデショ」
「生憎、誘拐犯をそこまで信用できるほど人間ができてはいないもので」
「ナルホド。それも道理ネ」
ジジの精一杯の嫌味など、リェンファにとっては羽虫の羽ばたき程度にすら気に留めるまでもないものなのだろう。むしろ、彼の部下である三人の男達の方がよっぽどジジの発言が気に食わなかったようだ。ぴりりとひりつく空気に、自分で煽っておきながら身体を震わせ、ジジは鍋を抱き締めた。そんなジジを哀れむように、リェンファは黒瑪瑙の瞳を眇めた。
「そんなに怯えなくてもナニもしないしさせないヨ。お嬢サンには薬を作ってもらわなくちゃならないんダカラ。ティエン、ハァイ、リオウ。オマエ達は少し落ち着くネ」
「……」
「へーい。承知しましたー」
「はぁい、若。ごめんねぇ、お嬢さん」
リェンファのたった一言で、それまでの殺気立っていた空気が霧散する。強張っていた肩から力を抜けたジジは、ごくりと生唾を飲み込み、ついでに乾いた唇を唾液で湿らせた。
気を抜けば震えそうになる身体。でも、ここで舐められてたまるものか。自分は『金の魔女』たるウィッチ・ゾーイの弟子なのだから。
正確には『鍋運び』だけれど、それをこの青年達に気取られるような真似なんて絶対にしない。
そしてジジは、震えそうになる声を意思の力で懸命にしっかりと紡ぎ上げる。
「ここはどこですか? どうして私を気絶させたりなんか……」
「いくらお嬢サンが自分でワタシ達についてくるって決めたとしても、道中で暴れられたら面倒ダカラネ。意識を奪って直接運んだ方が楽だったからダケド?」
「…………」
要は『生きた人間』と共に道中を過ごすより、単なる『荷物』を運ぶ方が確実だと思われた訳だ。
反論しようにもできなかった。おそらくは馬車によってここまで運ばれたのだろうが、もしその間ジジに意識があったのなら、ジジは何かしらの手段を講じてなんとか自ら逃げ出そうとしたに違いない。
それを思えば、リェンファの見解は正しかったと言える。ジジにとっては、非常に遺憾なことではあるが。
「イチイ君は、無事ですか?」
鍋を取り戻した今、ジジには改めてそれが気になってならなかった。意識を失ったことで、イチイの最後の姿を目にすることができなかったことが悔やまれる。
最後に覚えているのが、ぐしゃぐしゃの泣き顔だなんてあんまりだ。イチイの美しく愛らしい顔立ちにはそんな表情なんてちっとも似合わないのに、それをさせてしまったのが自分であることが申し訳なくて仕方ない。
せめて、どうか無事でと。
そう切なる思いを込めたジジの問いかけに対するリェンファの表情に、ジジはぞくりと背筋を冷たいものが走っていくのを感じる。リェンファは微笑んでいた。
とても優しく微笑んでいるのに、その微笑みには、隠しきれない残酷さが表れていた。
「ああ、あの子供のコト? オマエを気絶させたらまた子犬みたいにうるさくなったから、ちょっと黙らせてやったヨ」
その言葉に、全身から血の気が引いていくような気がした。
まさか、まさか。最悪の予感が脳裏を過ぎり、ジジは鍋を抱いたままリェンファに詰め寄った。部下の男達は、先程よリェンファの言葉に従うつもりらしく、今度はジジを止めようとはしなかった。それをいいことに、ジジはリェンファの美貌を間近から見上げた。
「まさかイチイ君を……っ!?」
「ン?ドッチだと思う?」
「――――っ!」
言葉が見つからなかった。悲鳴とも罵声とも取れない怒鳴り声がジジの口から迸ろうとした瞬間、とん、と、リェンファの白く長い指がジジの唇を押さえる。
反射的に口を噤んだジジに対して、リェンファは楽しそうににっこりと笑った。
「ナンテ、ネ。オマエと同じように気絶させたダケヨ。金の魔女の不興をこれ以上買うつもりは、流石のワタシにもないカラネ」
「――そ、う、ですか」
「ウン。安心した?」
からかわれたのだと。ジジはやっとそのことを理解した。
リェンファにいいように遊ばれ、そしてあしらわれている自分が悔しくて、かと言って対抗するすべもなく、結果として黙ることしかできないジジを、満面の笑顔でリェンファは見下ろしている。
その美しい笑顔が、とても性格の悪い性質のものであるということに、どうして自分は気付けなかったのか。
悔しくて悔しくて、それでも何も言えないジジにもう一度美しく、そして大層意地悪く笑いかけたリェンファは、くるりと踵を返した。その後に三人の男が続く。
「例の薬について話をシマショ。部屋を移動するカラ、ついてくるネ」
肩越しに振り返ってそう告げるリェンファに、鍋を抱えたまま、ジジは口を開いた。
「その前に、もう一度訊きます」
「何ネ?」
「ここは、どこですか?」
「アア、そういえば言ってなかったカ。じゃあ改メマシテ」
なんだそんなことか、とでも言いたげに気安く、それでいてまるで古い詩歌を丁寧に諳んじるかのように。
再びリェンファはジジの方へと身体ごと振り返り、そんな彼がジジの正面になるようにと三人の男は横へとその屈強な身体を寄せる。
そうして、リェンファはその両腕を広げ、やはりとても美しく微笑んだ。
「ココは我らがギルド、ヘイロンが居城。眠らない街、不夜城トゥーランドット。ヨウコソ、お嬢サン」
そう言って芝居掛かった仕草で一礼してみせるリェンファの背後に、ジジは、明けない夜の姿を見せつけられた気がした。