第9話 Kill the Lights
「……姫様」
私の訪問を全く予想していなかったかのような顔で出迎えられた。昨日の今日でまさかエリックを訪ねることになろうとは自分でも想像していなかった。できればあまり会いたくないとさえ思っていた。でもルイからあんな話を聞かされて、黙ってはいられない。早朝で、まだほとんどの人は眠っているだろう。この時間に起き出しているのは私達くらいのものではないだろうかというくらい静かだ。こんな時間に歩くこと自体稀だが、人気のなさに驚いた。こんなにも夜は人がいないものなのだろうか。そもそも私が、こんな時間に一人で出歩けるということにすら驚いたほどだ。私が移動するときには、いつも誰かがついてくる。私はもし誰かに会ったら、眠れないから散歩するとでも言うつもりだったのに、なぜか誰にも会わないままここまで来てしまった。
まるでここが、私の関心がないことは描写されない、ルイと出会う夢の空間のように。
「眠っていた?」
「…………」
エリックが視線を落とす。眠れていないことくらい見ればわかる。青い隈が目の下にくっきりと現れている。エリックの肩が下がって、シャツの襟が開いているのでその首があらわになっているのを見て、私はエリックにゆっくりと近づいた。
「エリック、首を見せて」
「え?」
エリックの困惑に満ちた声を無視して促す。
こんなに近づいたことは、幼い頃以来なかったかもしれないというくらいの距離にまで近づく。
そして、こんなときだというのに、エリック本人を前にすると自然と鼓動が早くなる。
私はエリックの襟に手をかけて、首元を晒す。わずかな影さえもなくなり、エリックの肌の上にありありと痣のようなその印が見えた時には思わず目を閉じてしまった。何度見てもそれは現実のものに違いないのに。
「あの、姫様……?」
「鏡を見た? お前の痣」
「え?」
私はエリックを姿見の前に引っ張っていく。この些細な触れ合いさえここのところはなかった。
姿見の前で佇むエリックと私。どう見ても似合わない。エリックの隣が相応しいのはマーガレットで、私の隣が相応しいのは、多分アランだ。誰が見ても私たちが恋し慕いあう仲に見えないだろう。いいところ仲のいい主従とか。生きる世界が違う。その私たちを同じもので結びつけたのはルイだ。悪魔だか天使だか知らないけれど。
エリックの指が首元の痣をなぞる。
「気がつきませんでした、こんなところに……」
ルイはエリックにどんな話をしたのだろう。私から話させようとしているのだろうか。
私はふう、とため息をつくと左手を見せた。左手の甲にできた印。エリックにあるのと同じもの。
「これは……?」
「お前の夢の話を、詳しく聞かせて。私にも、話さなくてはならないことがあるの」
ルイはこうなることを見越していたのだろうか。事ここに至ってもまだどこまで話すか決心はついていなかった。けれど私がマーガレットとエリックの破局を望んだことを話さなくては、エリックはずっと自責の念に駆られてしまう。私が元凶なのだということを話さなくては。エリックが私に恋心を持っていたとしても、それを単に利用されただけなのだと。
***
エリックの夢の話は、最初に聞いた時こそ馬鹿馬鹿しいと思っていたけれど、詳細に話を聞いていればどうしてこれで思い当たらなかったのか、信じられなかった。夢の中の人物が現実にも干渉してくるという異常事態を私自身経験しているというのに。エリックの夢が、あまりにも私の場合と異なるシチュエーションだったから……。
実際、エリックの話では随分ルイが一方的だと思った。願いを叶えるという割には、少し誘導尋問じみてもいる。それに対価が魂でないということは、こうして契約の印があるとしても私のものとはまた違う契約なのだろうかと思わせられた。
「夢に天使が出てきたのはその1回だけなのね」
「はい。そしてその翌日には……」
エリックは言葉を濁したが、その先を言わなくても十分通じる。
「では私の話をするわ。まず、お前の夢に出てきた天使というのは名前をルイといって、私は悪魔だと思った。そして私も契約をしたの。お前の時と違って、ルイは何度も私の夢に現れた」
私は左手の甲にできた痣を指で撫でながら話し始めた。
最初の夢を見たのはアランが来た時。そしてその次は私がエリックとマーガレットの交際を知った時。そして、ブティックの前で鉢合わせて私が衝動に任せて契約をしたこと。ルイにエリックの姿で試されたこと。その試練を打ち破って早く約束を果たしてと促した結果、マーガレットが死んだこと。
マーガレットの死が私のせいだとわかっていたから、エリックにあんな態度をとったこと。
「わかったでしょう? 私の方が先に契約したのよ。マーガレットの死を、お前は気に病む必要ないの。どちらにしろマーガレットは命を落としていたわ」
私は、ろくな相槌もなく話を聞くエリックの方を見られなかった。
彼は今こそ私にどうしようもなく幻滅しているかもしれない。こんなことを知られたくなかったのに。
国に対して責任があるのに、その責任を全て投げ出すような真似をしようとしたことを知られるのは嫌だったのに。
「そして、昨日の夜もルイは夢に現れた」
私はマーガレットの指から抜き取った指輪を見せた。それは血で鈍くくすんだ環でしかなく、到底高価には見えない代物。二人が将来を約束した永遠の象徴。でもこの汚い指輪が何なのか彼にはすぐわかったようだ。
「私はマーガレットの遺体からこれを抜き取ったのよ。何も考えなかった。これが私の欲しいものだったんだもの。私が魂と引き換えにしてでも欲しかったもの」
この指輪は、どう見ても汚れているのに私にはきらめきさえ放っているように見えるのだ。
「ルイに感謝したわ。お前の告白を聞いて、私は確かに嬉しかったの。良心の呵責より喜びが優った。私はルイの仕事に満足したわ。方法を指定しなかったのは私の過失だし。だから、私は昨日でルイと会うのも最後だと言ったのだけど、夢から覚める直前に、お前にもこの痣があると教えられたの。多分、わざと伝えるのを最後にしたのね。私がお前の手を取らなかったのが、ルイはお気に召さなかったみたいだから……」
この痣がエリックにもあるというなら、私はエリックが囚われているであろう罪悪感から解き放たなくてはならないと思った。そして同じ契約を交わしてしまったものとして、それが彼のやり口なのだと教えなくてはならないとも。エリックの顔を見て、それが今朝エリックの部屋を訪ねた理由だ、と続けようとした。
しかしその言葉が私の口から出ることはなかった。エリックの唇が乾いているのが感じられた。何度夢に見ただろう。この瞳。絵本ではお姫様が王子様とキスをするとき、目を閉じているものだけど。私は目を閉じることなどできなかった。あまりにも突然のことで驚いていたし、理解が追いついてからは、この光景をもう二度と目にできないかもしれないから、きちんとこの目に焼き付けなくてはと思った。エリックの髪はいつもきっちりと整えられているけど、今日は少し乱れている。私が訪ねるのが早くて用意が間に合わなかったのだろうか。それとも他のことを考えている余裕などなかった? 昨日、エリックは何を思いながら眠りについたのだろう。肌もやっぱり乾燥しているような気がする。私はこうしてエリックの目が閉じられているのを見たことってあったんだっけ。記憶にはない。エリックはいつだって私のことをまっすぐに見つめていた。まっすぐに、逸らさずに。私が、彼にとっては仕えるべき王族だから。瞼を縁取る睫毛をこうして見るのは初めてだ。そしてこんなに近くで、彼の息遣いを感じるのも。
永遠にも、一瞬にも感じられる口づけの後、その唇がそっと離れた時、乾いていると思った彼の唇は私の唾液でわずかに湿っていた。唇は離れたけれど顔は相変わらず近く、開かれた目はいつかルイがエリックの姿で私を誘惑しようとした時のように熱を宿している。どうしてかしら。心は不思議と凪いでいた。こんなことは天地がひっくり返っても起こり得ないと思っていたのに、心のどこかでいつかこうなるとわかっていたような気もする。
「……姫様」
苦しそうな声。
「私の手を取ると言ってください」
昨夜の言葉が蘇る。昨夜も同じことを言われたけれど、私はなんと返したのだっけ。
この手を取らなければ私の予定通りだ。私が思い描いていた未来もまだ取り戻せる。エリックは私とは違う人と結婚する……私がアランに嫁いで、しばらく経った頃に。
私は左手をエリックの手に重ねた。言葉は出てこなかった。
これを逃せば次はない。エリックの手をしっかりと握り、今度は私から唇を重ねる。
ずっとお前とこうしたかったのよ。
そう言いたかった。
小さい頃から何度夢見ただろう。何度も、何度も。それこそ夢にまで見て、想像した。彼の隣で生きる将来。決して私には訪れないけれど、ささやかな幸せ。
エリックの瞳の色を見たい。そう思った。榛色の瞳。その色は真摯で、お兄様のように穏やかでもなく、アランのように自信に満ち溢れて威厳的でもなく、ルイのように明るく冴えた怜悧さでもない。この光が私に注がれることをいつも夢見ていた。この瞳に姫としての私ではない、クラリスの姿が映ること。仕えるべき相手ではなく、共に歩む伴侶として選ばれること。今その夢が叶おうとしているのか、なんて考えてしまう。
私はエリックに重ねた手を離し、両手でその頰に触れた。手に握りこんでいたマーガレットの指輪が軽い音を立てて転がっていく。あんなに欲したものが手を離れて床に這いつくばっていても、まったく拾う気にはなれなかった。汚れてくすんで、鈍く光りさえしないあの指輪。魂と引き換えにしてでも私が欲しくてたまらなかったものなのに、今この両手で包むものに比べれば、あんなものは何の価値もありはしないのだ。日が高く昇っても私はあれを探さないだろう。もうこの手に戻らないだろう。
私はこのとき、ルイに心から感謝した。彼は確かに天使だったのかもしれない。こんな風に私に、祝福を与えてくれる。
***
「もう、戻らないと」
鳥の囀りが聞こえるよりも早く私はそう言った。黙って私の左手の印を撫でていたエリックが目を見張る。
「私がいないことにマーシイが気がついたら困るでしょう」
私自身名残惜しくてまだ離れたくなかったが、万が一にでも夜エリックの部屋にいたなんて知られたら困る。騒ぎになる前に私は自分の部屋に戻って、何事もなかったかのようにしていなくてはならない。
エリックも頷くと、私の額にそっと軽い口づけを落とした。
「立てますか」
「ええ……」
エリックに手を引かれて立ち上がる。
私は後戻りできないことをしてしまった、のだろうか。もしこのまま私が思い描いていた未来に至ろうとするなら、処女と偽るために少量の血液を持ち込むような真似をしなくてはならないのかもしれない。
(私はこの期に及んでなんということを……)
私はエリックに見送られて部屋を出た。誰にも見られていないことを確認しながら中庭を抜けていく。まるで体の内を解放されたような軽さがあった。
自分の部屋のベッドに再び潜り込む。朝はもうすぐやってくる。鳥の囀りももうすぐ聞こえはじめるだろう。月はまだ青白く空に浮かんでいるけれど。
私はエリックの手を取った。滅びゆく国を残してエリックと共に歩む。それは王族としては無責任なことだけれど。
(ルイが望むような結末になったのかしら)
そんな風に考えて、私自身の望みでもあるとはいえ、それは少し癪だとも思った。