第8話 Nightmare
ダンスの練習は、小さい頃にはダンス教師の他にお兄様が相手をしてくれていた。
私がもう少し成長してからは、エリックが。
そして今や私は練習なんてしなくても誰にでも合わせられる。
ダンスは好きだ。楽しいから。
柱に掴まってターンをする。
靴のつま先が磨り減るのも気にならない。
春のように暖かな日差しが降り注いでいる。
どこかから、聞き覚えのある音楽が聞こえる。
主旋律を奏でるヴァイオリンの音。
ダンスする足を止める。
この、ピアノの伴奏をしているのはお兄様だわ。
どこから聞こえているのか……。
音を辿ると私の部屋の扉があった。
扉を開くと、お兄様と私がいた。
正確には、今の……大人のお兄様と、幼い頃の私だ。
ピアノはお兄様で、幼い頃の私がヴァイオリンを弾いている。
「クラリス」
お兄様がピアノを弾く手を止めないまま、部屋に入った私に笑顔で声をかける。
”私”も弾きながらちらっと私を見る。
「何かいいことがあったって顔ね」
”私”が嬉しそうに言う。この年齢にしては大人びているような気がする。
「ええ、……」
目の前の二人は時々目配せをしながら演奏を続けている。
「いいことならあったわ」
そうだ、今の私は不思議なほど心が軽い。
「そう?」
”私”は弓を置いた。何でここで演奏を辞めたのか分かる。ここから先を上手に弾けないからだ。
「何があったの? 教えて!」
子どもの”私”が無邪気に問いかける。私はそのキラキラした目を見つめた。子どもの頃は楽しかったなあ。この頃はお兄様の体調だってずっと良くて、結婚の話もまだなくて、エリックだって私によく構ってくれた。私も毎日、楽しかった。何をしていても、これから先の未来は明るいと思っていたし。
「いいわ。こっちよ」
微笑ましい気持ちで、”私”の手を引く。
いや、引こうとした。
しかし、手はすっと消えてしまった。”私”ごと。
お兄様もいなくなっていた。
私が弾いていたヴァイオリンもなくなり、現在の私の部屋と同じ風景になる。あの、春らしい日差しもなくなってしまった。
「ごめんね? 君の、本当の夢の途中だったのに」
部屋に入ってきたルイは大して申し訳なさそうでもなかったけれど、わざとこの夢を見せたわけでもないらしい。それに、突然夢に乱入されても嫌な気分にはならなかった。
「いい夢だった?」
「そう思うの?」
「機嫌が良さそうだからね」
ルイは出会ってから、……正確には私が彼の姿を見てからだけど、笑顔でないことがない。
ここまでいつも笑顔を貼り付けていることができるのは、ルイの他にはお兄様くらいだろう。
「ええ、機嫌ならいいわよ。もちろん。この間まで最悪そのものって感じだったけどね」
自分の声は確かに機嫌が良さそうだ。いまにも歌い出しそうなほどだ。”この間”と言うのは、本当に12時間以内の話だ。
「言っただろう? 証明してあげるって。夢で見せてあげたように、エリックが君の望む言葉を吐くとね。細部は少し違ったかもしれないけど」
ルイが穏やかに言う。
「最高の気分よ。序幕があまりに酷い出来だったから、正直失望してた。でも、こうして私の望むものを手に入れたのよね! あなたにも見せてあげるわ」
私はポケットから指輪を取り出した。夢の中でも、きっと持っていると思ったのだが、やっぱり入っている。
指輪は夢の中でも、くすんだダイヤ、血で汚れた地金もそっくり現実の通りだった。あまり意識したことはないけれど、前にルイがこの空間を人が通らないのは私がイメージできないからだと言っていた。
そう考えると、こんなにもリアルに指輪をイメージできるということは、私がそれだけ熱心に指輪を見つめ、観察し、執着していたからだろう。
私は取り出した指輪をルイに差し出した。ルイはそれを手に取って、光に透かすように掲げた。
「ふうん、なるほどね。これが君の欲しかったものか」
ルイは指輪をしばらくくるくると回転させてから、私に返した。
「綺麗でしょう」
「汚れているけれどね。拭かないの」
「ええ」
自慢げに見せた指輪は確かに汚い。私の宝石箱にこれがあったらあまりに異質すぎて浮くだろう。
「最初は、磨こうと思ってたわよ。でも気が変わった。このまま持っていることにしたの。だってこれは勲章なんだもの」
私は血塗れの指輪を自分の右手の薬指に嵌めた。左手の薬指は取っておかないと。
少しサイズが大きいのか、それは簡単に嵌まった。そのままにしていたらいずれ抜けて失くしてしまうだろう。
以前の私なら、他人の血がついた指輪を自分の指に嵌めるなんて、とても正気じゃないと思った。
でも、エリックの口からあの言葉を聞かされた今、マーガレットの死を知った時に覚えた罪悪感というものはかなり薄れていた。私は指輪を嵌めた手を掲げた。なんといい気分だろう。こんなにいい気分になったことはここ最近にない。
「君はエリックの申し出を拒否したよね」
責めるようにルイが言う。その言葉を不思議に思った。
「ええ。それが? あなたが困ること?」
「いいや。ただ、君は彼の手をとると思ったから」
「……それに関しては、正直複雑な気持ちなの」
「複雑?」
「だってマーガレットを亡くした直後よ。あの言葉も、本心だとしても正気だとは思えないわ。明日か明後日には、いいえ、もしかしたら今もベッドの中で後悔しているかも」
エリックが長年私のことを想っていたとしたら、きっと私と同じくらいの年月のはず。私は、エリックがその間押し込めていられた想いを今になって私に吐露したのはマーガレットの死に参ったからだと踏んでいる。婚約者の死。しかもそれを、自分のせいだと思っているのだから。かわいそうなエリック。そんな風に勘違いしている人の手を取りたくない。
ルイは浅いため息をついた。
「あのね。以前、お姫様は魔法をかけてくれる魔法使いのメリットなんて考えないと言ったよね」
「そうだったわね。私は、考えるけど」
「おとぎ話の王子様がお姫様を好きになる理由がわかる?」
「……その美貌でしょ。一目惚れよ。私には備わっているけれど、現実ではあまり役に立つものだとは思えないわ」
「姫。理由があるとしたら、物語のエンディングが近いからだ」
「からかってる?」
私は思わず腕を組んだ。
「違う。エリックはこの国に未来がないと思ってるんだ。君一人犠牲になったって……もうダメなんだよ」
最後のはルイの意見なんだろうか。ここのところ城の外に出なくなったから、外がどうなっているのかわからない。悪い噂ばかりが聞こえてくるけれど、陛下は何をしているのだろう。急に気になってきた。
「じゃあこの物語のエンディングって何? 国の滅亡? 私たちの逃避行? おとぎ話の”めでたし めでたし”の先には何もないわ。これは現実よ。私たちがもし結ばれても、その続きがあるの。続きのことを考えなくては。エリックが勘違いしてるなら、目を覚まさせてあげる。エリックがもし本当に私のことを心から愛していると言うなら、私はエリックのためにこの国を安定させるわ。アランと結婚してね」
「君は頑固だね。幸せになるお膳立てを、こんなにしてあげたのに」
ルイがため息をつく。自分のしたことが徒労に終わったと思っているのだろうか。
「ルイ。心配しなくても私は幸せよ。私、マーガレットのことを本当に好きだった。大好きな友人だった。でも、エリックは渡せない。あなたは”最初の状態”にしてくれただけなのよ。私はアランに嫁ぐし、エリックは私のいなくなったこの国で新しい伴侶を見つける。それが私の描いていた未来。エリックに好きになってほしいと言ったけど、本当にそれだけだった。結ばれる必要はないのよ」
ルイの目をまっすぐ見返す。その明るい色の瞳からは、どんな感情もうかがい知ることが出来ない。
「もう終わり。あなたの役目はおしまいなの。ありがとう。期待していたものとは少し違うけれど、私は望むものを手に入れた。あなたは悪魔なんだもの。私の魂を手に入れるのに手段を選んだりしないわよね。それがわかっていなかったのは私の責任。あなたは仕事をしてくれたから、対価はきちんと支払うつもりよ」
「……」
ルイは真剣な眼差しで私を見つめながら、私の手を取った。
「君の愛情の示し方に文句を言うつもりはさらさらないけれどね……」
ルイの手が私の手から緩やかに離れる。些細な違和感を覚えて手を見ると、小さな痣のようなものができていた。よく見ると何かの形に見えないこともないが、奇妙な痣だ。
「何、これ」
「契約の印。君の死後、魂を見失わないためにね」
「悪魔っぽいわね」
そう言いながら痣を眺める。
確かにこういうものがあった方が契約っぽい。ルイと会うのはこれが最後なのだろう。もうこの美術品のような姿の青年を見ることはないのだ。なんだか感慨深く思えて彼のエメラルドのような光を宿す双眸をじっと見つめた。
ルイは私の視線を捉えて艶然と微笑んだ。ちょうど、エリックの姿をして私を騙した時のように。
「さ、夢から覚める時間だ」
見慣れた景色全体がぼやける。なんだかいつもと夢の覚め方が違うような気がした。これが最後だからなのだろうか。
「そうそう、エリックにはどこにつけたんだったかな、その印。首だっけ」
ぼやけていく景色の中でルイの声がやたらはっきりと頭に響いた。
「エリックにもあるの?」
自分の声が届くのかわからず声を張り上げたが、ルイの耳にはしっかりと聞こえたようだ。その声が楽しそうに聞こえたのは気のせいではないだろう。
「嫌だな、彼が自分でちゃんと説明していただろう。契約の内容をさ」
何のこと……そう問おうとして、分かった。天使だ。エリックが天使と形容したのはルイのことだったのだ。確かに天使と言われても違和感はないかもしれない。だったらエリックの言っていたことは、本当に……ただの夢ではなかったのだ。
「待って! ルイ……!」
声を張り上げてももう遅かった。もう完全に夢から覚める手前だ。
今の声もルイに聞こえていないだろう。
まだ完全に夜は明けきっていないどころか、十分に深夜と言える時刻だろうに、目覚めは最悪だった。ここのところの目まぐるしい変化とともに気分はよく変わる。このあいだルイに会った時にはこの世の終わりのように思えたし昨日寝る前は気分が良かった。そして今、また暗い気持ちが私を覆う。ルイは私との契約があったからエリックの夢に現れたのだろうか。
私は手の中の指輪を握りこんだ。私の願いはエリックにも大いに代償を強いたのだ。喪失の悲しみも、良心の呵責も。
私はするりとベッドを抜け出した。ルイは私がエリックのことに気がついていないと分かっていて、わざと去り際にあんな言葉を残した。私を揺さぶるために。
このままでも魂をあげると言ったのに、これ以上私とエリックに介入して彼に何のメリットがあるのだろう。それともこれもただの戯れに過ぎないのだろうか。