第5話 side:エリック 夢の中
アラン殿の狩りにお供をしながら、今夜のパーティーのことを考える。この日のためにマーガレットに新しいドレスを仕立てた。姫は薄桃色がお好きだから、暗黙の了解で令嬢たちは薄桃色を控える。マーガレットに似合う色が何か考えた結果、淡いグリーンで仕立てた。マーガレットのように素朴な魅力のある女性は、色も控えめな方が楚々とした美しさが光っていいだろう。もともとこの国に夜会は少ない。こうして国賓がくる時にだけ見栄を張って開催されるものという認識だ。数少ない機会のうち、何回かは遠征で出席できず、何回かはマーガレットが体調を崩し、こうして一緒に出席するのは初めてではないだろうか。何度か踊ったことはあるものの、それは交際前の話だ。となるとついに姫にも関係を知られる日が来たということかもしれない。
至近距離で響いた銃声の音に思考を現実へ戻された。いけない、今は狩りに集中しなければ。
***
夜会の日、姫は不思議なほど私たちの交際を受け入れていて、もしかして誰かに聞かされてご存じだったのだろうかと思うほどだった。最近お会いできていなかったことを少し拗ねているご様子ではあったけれど。でもあれはいつものことだ。姫は寂しがりやだから、庭を散歩するのにも話し相手を欲しがる。幼少の頃にもっと貴族のご友人が多くいらっしゃればよかったのだが。やはり姫の心に私はいないのだと思い知らされた。姫はもう私のことをなんとも思っていらっしゃらない。せいぜい遊び相手が忙しくしているのが面白くないという、その程度だ。でも、良い傾向とも言える。私も姫も、もう大人だ。姫は最近アラン殿とよく城下にお出かけになっている。一度城下で鉢合わせたが、ああしてみると似合いの夫婦だ。アラン殿は遊び好きな方だが、国民のことを真剣にお考えになっていることが分かる。アネッサに来ても城下の様子に気を配っている。よその国の民の様子でも気になるようだ。姫もそんなアラン殿と一緒に城下の様子を見て、民の日々の生活を目の当たりにしている。思うところがあるのか、アラン殿と出かけた後はヘンリー王子のところへ行っているらしい。ヘンリー王子も病弱とはいえ内政に関心の高い方だ。これから大国で、ゆくゆくは王妃になる姫には良い勉強になっているだろう。姫はどんどん私の手の届かないところへ行く。姫の変化は良いことであるはずなのに、それをどこか寂しいと思っているのも事実だった。
しかしアネッサの国内は今更救いようもないほど荒れに荒れている。不作に次ぐ重税が生活を圧迫し、疫病で多数の死者が出ているのに未だ原因もわからず特効薬もなく、国民は怪しい民間療法に頼っている。感染者が出た地域からの移動はたとえ富裕層や辺境を統括する貴族であっても制限されるが、金を積んで秘密裏に逃げ出す者もいる。これでは感染の拡大を止められないし、疫病が蔓延しているのに減税されないのでさらに負担が増し、ついに国庫を開いても、到底餓えた民を全て満たすほどの量はなく、却って混乱を招くという悪循環だった。
さらには国庫を開いてこの程度の量であるはずがない、納めた税がどこへ消えているのか、貴族が贅沢三昧するのに使われているのではないかという疑惑が生まれていた。いくら税が重くなっても滞納され、税収は下がる一方だったから、国庫が劇的に潤うことはないのだ。そんな中、去年のように勇敢な若者が蜂起した。彼は密かに同志を集い、城下に近いイディアスの町で最初の暴動を起こした。報せを聞いたとき、これはまた去年のように長引くかもしれないと思った。
騎士団はこの暴動の鎮圧に向かうことになった。城下に近いということもあり、城内は緊張に包まれている。今度ばかりは姫も駄駄を捏ねにこなかった。それも少し寂しく思ってしまう。あれから一年しか経っていないというのに、姫は本当に遠くへ行ってしまったのだと感じた。イディアスは近いので移動後も去年ほど疲れがなかった。ただ、ここで食い止めなければならないという重圧は去年の比ではない。
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「ここは?」
永遠に続くのではないかとも思われる闇の中。気づくとその暗闇を、なぜか一人で歩いていた。今自分は行軍の途中ででもあるのだろうか? 困惑のあまり自分の体を見ようとするものの、自分の姿さえもこの闇の中では見えないのだった。地面を触ろうとするが、霧のように何かに触れた感触がしない。確かにここに立っているはずなのに……?
すると前方にぼんやりとした光が見えた。家だろうか。この深い闇に一人ではないことにとりあえず安堵する。ここは世界の全てから置き去りにされたのではないかと錯覚するような場所だから。光に向かって進むと、その光は家ではなく、何かの灯ということもなく、人のようだと分かった。人が発光しているかのように、そこだけくっきりと見える。自分の姿さえ見えないこの闇で、なぜかこの人の姿だけがはっきりと。人物は私を見て微笑んだ。
その顔を見て思わず息を呑む。彼は蠱惑的な美貌を持っている。どんな雑踏に立っていようと誰もが振り返って、今自分が見たものが現実なのか確認しようとするだろう。金糸のような髪に、切れ長の目がエメラルドのように煌めき、すっと人形のような鼻筋が通っている。その薄い唇は、役者のように甘い台詞を吐きそうだ。背はまっすぐ高く、気品さえ感じさせる立ち姿。周りに何もないからこう思うのだろうか? いや、彼がもし大輪の薔薇に囲まれていたとしても、薔薇は引き立て役にすらならないだろう。自らの美しさに自信をなくして閉じてしまうに違いない。
この人物の姿を目にしてから、足は止まってしまった。これ以上は近づいてはいけないような気がする、この人外の美しさ。
しかし彼はためらいなく私に近づいてきた。後ずさりしたい気持ちに駆られたが、凍りついたように体が動かない。彼は私の眼の前まできて足を止めた。
「初めまして、エリック」
声さえベルベットのように甘く柔らかに響く。
「わ、私の名を?」
「よく知っているよ。君の名前や経歴どころか、君の想いさえ……」
この静かで何もない空間で、彼の声と、自分の呼吸と、ばくばくと跳ねる心臓の音しかしない。敵地に一人足を踏み入れてしまったかのようだ。背中を冷たい汗が一筋伝う。どうしてこれほど彼のことが恐ろしく感じられるのか、自分でもよく分からない。
「想い?」
「君は本当は、あの姫を愛しているのだろう」
確信的な口調で彼は言う。
あの姫……。姫への思いを、誰にも口にしたことはない。それをなぜ初対面のこの男が知っているのだろう。
肯定も否定もできずに固まっていると、男はさも可笑しそうに笑う。
「隠さなくてもいい。私は、君の味方だからね」
その言葉を信じたいと言う衝動と、こんな胡散臭い言葉を信じるものかと言う理性がせめぎ合う。
「君は本当に昔から姫を愛していた。でも、身分が違う。身分違いの恋は悲劇を生むだけだ。お互い別に相応しい相手がいる。君はそう考えていただろう。その証拠に、姫は大国の王子との婚約が決まった。君は釣り合いが取れた家の令嬢と。このまま君が黙っていれば、丸く収まる。アネッサは大国の庇護を受ける。君はこの国で穏やかな家庭を手に入れるだろう」
「何が言いたい?」
「今が最後のチャンスということだ、エリック。姫を、自分のものにしたくない? 姫がアネッサを出ればもう二度と会えない。今なら間に合うんだ。君が自分の気持ちに正直にさえなれば、私は君の援護をしてあげる」
男の瞳は、言葉とは裏腹に嗜虐的に輝く。
姫を欲しいと思うのは紛れもない本心だ。大それた夢。そうだ、これは夢だ。こんなことが現実のわけがない。夢でなら、もちろん姫のことが欲しい。
「さあ、エリック。その望みを口にして」
頭に響くように、優しい声音。こんな気持ちになったことが前にもある。そうだ、遠征ついでに寄った大聖堂で、壮麗な天使像を見た時だ。あれは人の手で造り出せる最高のものだった。あの時の天使が私の迷いを振り払って、救いに導いてくださる。
「姫様が国を捨て、私を選んでくださるなら、私も姫様の手をとります」
誓うように言う。目の前で、黄金の天使が微笑んでいる。天使はそっと私の顔を包むように手を添えた。その手が徐々に下がり、首に両手の指がかかる。細く長い指が優しく喉を触り、心地いいと感じるのに、そのうちそのしなやかな指が絡みついて呼吸を奪われるのではないかという錯覚もあった。
「そして、君にも捨てなければならないものがある」
天使に促されるまま、舌が動く。声を発するたび、喉の上にある天使の指の存在を感じた。
「マーガレット……そして家の安泰は諦めねば……」
夢とはいえなんということを口にするのか。我ながらそう思ったが、もう天使は私から少しの距離を置いて艶やかささえ感じさせる美しい微笑みを浮かべた。
「エリック。お前が望むものを与えよう。そしてつまらない柵を全て捨て去り、新しい運命に導こう」
天使はこれまでのように甘く囁くような声ではなく、力強い王のようにそう宣言すると、煙のように消えてしまった。耳に、狂おしく毒のような声が残る。新しい運命。それが自分に与えられると言う。天使の、宝石のような瞳を思い出す。あの翠の瞳。黄金の天使。天使がなぜ私の元へ現れたのだろう。夢だからだろうか。夢にしてはやけに五感がリアルだった。
(しかし現実のはずがない)
私がマーガレットと家の安寧を捨て、姫の手をとる? 姫が私を選んでくれる?
そうできたらどんなにいいか。
でもそれができなくて、ずっと苦しんでいた。
***
変な夢を見たのは慣れない城下付近での戦いのせいだろうか。いつもとは違う緊迫感がある。しかしそれもリーダーの戦死により収束に向かいつつあった。近いうち、十数名の事後処理要員を残して帰還できることになった。若手や私のように婚約者がいるものは優先的に帰還メンバーに名を連ねた。これほどの規模の暴動も、今後増えるかもしれないと、漠然と思った。結婚を急ごうとする父の気持ちが分かる。幸いウエディングドレスがもう出来上がっているはずだ。もう少し落ち着いたら取りに行こう。式も、佳き日を選んで早く決めてしまおう。そうだ、あの天使像がある大聖堂で挙式してもいいかもしれない。もっと小さなところで行う予定だったが……。夢でマーガレットを裏切った罪悪感もあり、一生に一度の結婚式くらい贅沢に行なってもいいだろうと思った。あの立派な天使像に向かって裏切ったのであったが。帰ったら、マーガレットに話してみよう。
(あの天使……夢とはいえ、本当に輝かんばかりだった)
あの魅力的な声を聞くうちに身体が浮遊感を覚え、心の奥底に眠る欲望を隠しておけないような気持ちになった。今思うと別にあの大聖堂の天使像と顔が似ていたわけではない。この世のものと思えないほど立派だったという共通点はあるが、天使像より天使らしく神々しかった。そして見つめられれば自分の気持ちを偽れなくなる、あの眼差し。
(あんな人が夢に出てくるなんて)
もし私が彫刻師だったら、あの夢を天啓と思って、男の像を作るために生涯を費やそうとするかもしれない。そして自分の技量ではあの人外の美しさを表現できないことに絶望するだろう。そんなところまで想像がついてしまう。幸か不幸か芸術方面にはからっきしなのでこのまま騎士団としての人生を歩んでいけるが。
城へ帰還した私たちを待ち受けていたのは息さえ苦しいような悲しみに包まれた城だった。一歩足を踏み入れた瞬間から、何かよくないことが起こったのだと分かる。
まず私を呼びに来たのは待機で城にいた同僚だった。彼は先日怪我をして待機組となっていたのだが、まるで何日も膠着状態の戦線にいたかのように顔面が蒼白だった。
「エリック。落ち着いて聞け……」
そう言って私を落ち着かせようとする彼こそ動揺しているように見えた。
「サリンジャー嬢が……」
マーガレットが?
すべてを聞き終わらないうちに私は駆け出していた。全てに膜がかかったように白っぽくぼんやりとしている。霧の中のように。これが現実? 昨日の夢の続きではないのか? 聞こえる音もすべて遠く、自分が水の中にいるかのようだ。
「医務室……」
頭が冷静でなくても微かに耳に残ったその単語。医務室にお世話になることはよくあるから、体が勝手に向かって行く。冷たい地下でなく医務室だというから、もしかしたら発見が少しでも早ければ助かったのかもしれない。少し前までは息をしていたかもしれない。そう思いながら、いつもより重力が増したような城内を進む。
薄靄のかかったような世界でその扉だけがはっきりとした輪郭を持っていた。
扉を開けるとすぐにその姿が目に飛び込んでくる。
「エリック殿……! ご覧にならない方が……」
その後に続く言葉は耳に入らなかった。気の毒そうな顔がいくつもこちらを向いている。やめてくれ。私には、慰めてもらう資格はないんだ。世界が揺らめき、歪み、全ての顔が混ざり合って溶けてなくなっていく。マーガレット。お前に何を言えばいいんだ。これが、本当にマーガレットなのか? なぜ医務室に運ばれたのか。いや、そもそもよく城の門を通れたものだ。こんな状態で。
君にも捨てなければならないものが……
黄金の天使の言葉を思い出す。人外の美貌を持つあの男。あの男の仕業なのか、これは。
こんな仕打ちがあるのなら、姫を望むような真似はしなかったのに。でも、もう遅い。これが新しい運命だというのか? こんな悲劇で始まる運命が私の望みだったのか? 私の答えがマーガレットを殺したのか?
あれは、ただの夢だったはずなのに。