第2話 兄と王子
「ヘンリー様、クラリス様がいらっしゃいましたよ」
お兄様は東南の離宮で普段を過ごしている。離宮には数少ない信用できる使用人しか置いておらず、宮廷よりずっと開放感のある場所だ。お兄様の体調が回復するためには暖かい南向きの部屋でゆっくり過ごすことが大切だと医師が言って、陛下が作らせた。
「どうぞ」
案内してくれたシャルロットを残し、入室する。
「お兄様!」
見慣れているはず。ここのところばたばたしていたけれど、会わなかったのは2日だけだ。でも、懐かしく思える。
「久しぶり、クラリス」
「あら、2日ぶりよ」
そう言いながら、お兄様も同じように思っていることが嬉しかった。
お兄様は寝台に横になっていることが多いけど、今日は寝台に腰かけていて、体調はよさそうに見えた。
今でも印象は大きく変わっていないが、小さい頃はこの兄があまりに儚げなので、いつ消えてしまってもおかしくないと思ってたいそう不安だったことを覚えている。特定の病名を聞いたことはないが、よく体調を崩し、具合が悪そうにしているのがお兄様だ。優し気な美貌と儚い雰囲気が相まって、お兄様は天使のように見える。
「見て。ハンカチにお兄様のイニシャルとカメリアを刺繍したの。最初はきちんと男性用のハンカチにしていたのだけれど、失敗してしまって、私の使っていないハンカチにしたわ。外では使えないけれど、見えないところで使って頂戴」
「これはきれいだ、腕をあげたね! 人に見せられないのが残念なくらいだ」
「……また刺繍はいくらでもするわ。今度は男性用のものにね」
「しかしこれも、二人だけの秘密のようで素敵だよ」
お兄様の身の回りのいろいろなものに私は刺繍を施している。ハンカチがもっとも多いが、私がまだ下手な頃に一生懸命刺したハンカチをお兄様がいまだに持っていて、時々取り出して懐かしがるのが恥ずかしい。
「………………」
そういえば。
「どうかした、クラリス?」
「あ、……いいえ。ただ、私が初めてお兄様に刺した刺繍のことを思い出していたのよ」
「はは、お前が自分から言うなんて珍しいね。あの頃はこんなに上手になると思わなかったよ。あの、やたらEが大きい」
HENRY……そう刺繍したのだが、私はそのあとエリックにも同じようなハンカチに刺繍していた。エリックに見栄をはりたくて、お兄様のEで練習したら、気合が入りすぎて大きくなってしまったのだ。ちなみにその後エリックに渡したハンカチは、大きくしないよう意識しすぎて逆に小さくなってしまった。
あの頃から抱いていた淡い恋心。
(でもまだ、終わったわけではないわ……)
お兄様はご存知だろうか、エリックとマーガレットのことを。いや、知るはずがないか。誰が知らせるというのだ。エリックを好きだったこと、昨日の自分の失恋をお兄様には隠さず話したかったのに、いざお兄様を前にして本当のことを言う勇気は出なかった。やっぱりなんでもないことだというように話そう……。
「あのね、お兄様……」
しかし声が明らかに上ずったのに明るい表情を作ったのがちぐはぐで、かえって泣きそうなのがばれてしまいそうな声音になった。お兄様も不思議そうにしている。今から誤魔化す? ううん、もう無理、ほかに話なんてないし。
「私は昨日知ったのだけど、エリックとマーガレットって……付き合っているらしいわ。知ってらした……」
誤魔化しきれなかった。いくら誤魔化したくても、もう遅い。涙は勝手にあふれて、頬を伝わっている。
お兄様が手を私の頬にあてた。顔が熱くて、お兄様の手を冷たく感じる。
「あの二人ならお似合いよね……」
「クラリス……」
お兄様は身を乗り出し、改めて両手で私の頬を包んだ。
「マーガレットは確かに素敵な女性だよ。でも、お前の方がずっと綺麗だ。……おいで、こちらに」
私がお兄様の隣に座ると、当たり前だけれどお兄様の顔がすぐ隣にあった。異性はもちろん同性でも、普段こんなに近くに寄る他人がいないことを実感する。
「お前は長い間エリックが好きだったしね」
「私、お兄様にそう言ったことないと思うけど……、気づいていらしたの?」
「うーん、そりゃ気が付くよ。幼いころのお前は特にわかりやすかったし。大きくなってからもその恋心が続いているのかわからなかったけど……アラン殿と婚約が決まったときに、お前が婚約を渋っていたのも、エリックが原因なんだろう?」
「……お兄様ってさすがね。マギーもマーシイも気づいていなかったわ。私は自分がわかりやすいと思っていたから、二人が知らなかったのは意外だった」
「……お前が分かりやすいと思うのは、兄妹だからかもしれないな。他人から見れば、お前は自分の気持ちを隠すのが上手なのかも」
「ふふっ……それって良いことかしら? お兄様」
「姫としては良いことだよ。幸せなことかは、わからないけどね」
「…………今からでも、エリックが私に心変わりしてくれたらいいのに、って思うわ」
「姫……、」
「わかってる」
お兄様が私を姫、と呼ぶときは私を諭そうとしているときだ。
嫉妬は高貴な女性のすることではない。ましてや目下の者になど。
「でも、お兄様だって、そう思うことない? 誰かと替われたらいいのにって。そんなこと無理だとしてもよ」
「そうだね……ないわけじゃないな」
「あら、本当に?」
自分で尋ねておいて、少し意外な返答だった。
お兄様が誰かを気にするなんてなさそうなことだと思っていたから。
同時に、無神経さを恥じた。お兄様だって健康な誰かを羨んだことくらいあるだろう。
「でも、誰かを言うつもりはないよ。お前も言っていた通り、そんなことは叶わないことだから。クラリス、お前の恋心は確かに長かった。他の女性と交際し始めたからと言って、簡単に諦められるはずもないよ。忘れようと思わなくていい。ただ、少しずつ思い出す回数は減らしていかなくては。接することが減れば次第に忘れていくこともできるよ……何年か経つうちに」
「今はまだ、そんな風には……」
「そうだろうね。すぐじゃなくていいさ」
「私、昔は自分がエリックと結婚できると思っていたの。陛下もエリックとなら、ゆるしてくださると思ってた。あの縁談が持ち上がるまで……。アランとのことがなければ、陛下は私の結婚相手をエリックに、と考えていたんじゃないかと思うのよ。ねえ、そうは思わない? お兄様……」
「そうだね……確かに歳も近いし、適任かもしれない。でも、陛下の胸中を忖度しても詮無いことだ。そうだろう? 今のお前にはアラン殿という婚約者がいて、そのアラン殿も申し分ない立派な方だよ。……アラン殿とは、どう? 昨日からいらしているのだろう」
「ええ……」
なぜかは知らないが、お兄様は私とアランの婚約に賛成派だ。この件に関してはお兄様は私の味方をしてくれない。私があまりに嫌がっているからお兄様にも意見を聞こうと陛下がせっかく仰ったのに、肝心のお兄様が諸手を挙げて賛成してしまったので、私はそれ以上何も言えなくなった。迷っていた陛下も、お兄様がそんなに賛成するならやはり正しい判断なのだと、却って自信を持ってしまった。
そんな経緯があるので、お兄様にアランの文句は言いづらい……。
「あのー、アランから聞いたのだけど、隣国で流行っていた疫病が、この国にも入ってきたんですって?」
お兄様が推しているアラン殿は女性にこんな無粋な話をする人だと、さりげなくアピールする。もちろん、無駄だとわかっているが。
「ああ……、いずれこの国でも流行るかもしれないな。宮中に入れないように気をつけなくてはね。それより、お前とアラン殿との結婚が、そんな不安を吹き飛ばす明るいニュースになるといいね」
「……はあ」
お兄様まで! アランとまったく同じことを言うのね。思わず気の抜けた返事をしてしまった。
じゃあどんな言葉を期待していたのかと聞かれても、何も言えないけれど。
「ねえお兄様。……ただ、頷いてくれる?」
「……うん?」
「お兄様が私とアランの結婚に賛成だということは知っているわ。でも、それを憂うことくらいは許してほしいの。……婚約を今更どうこうしようなどとは言わないから、私の味方でいてくれる?」
「…………私はいつでも、かわいい妹の味方だよ」
そう言って、お兄様は私の額に口づけをした。それだけで、いくらか安心できる。マーガレットやマーシイだって、今まで私の味方だったし、今だって敵ではない。でもあの二人はやはり他人だと、私を理解しているわけでも、理解しようとしているわけでもないと気が付いた。他の人より少し距離が近いというだけで、やはり家族には及ばない。両親ともそうそう頻繁に会話しているわけではないし、私にお兄様がいなかったら、今よりもっとひどい精神状態だったと思う。本当に、お兄様には感謝しなくちゃ。
***
その晩も、やはり同じ夢を見た。
最初に比べて、だいぶルイの声が近く、クリアに聞こえる。普通に向かい合ってお話ししているかのように。
「覚悟はできた? 姫君」
「あなたの案って、確かに魅力的よ。そんなことができたらどんなにいいか! でも、考えたけれど、実現するのは難しそう。私の知り合いに呪術師はいないし、探すのも大変」
「できる、できないという話をするのは無意味だよ、できるんだから。君、まだ疑っているんだね。君さえ望めばエリックの気持ちを君に向けさせることができる。やるのはこの私だ」
「……どうしてあなたが? 私の夢に出てきて……、なぜ私に協力しようとするの? あなたが私の作り出した存在じゃないなら、なおさら不思議。あなたのメリットはなに?」
「おとぎ話のお姫様は、自分に魔法をかけてくれる魔法使い側のメリットなんて考えないよ」
「そうね、私はおとぎ話のお姫様じゃないもの。だから気になってしまうのよ、見返りは何なのか」
「……なんだと思う? 私が望む見返りは……」
昼に呪術師のことを考えていてふと思い当たったのが、ルイの正体は現実のどこかにいる呪術師なのでは、という可能性だ。私は呪術に詳しくないので、できるかはわからないが、何らかの呪術、あるいは魔法みたいな方法で、私の夢に入り込む。私がここでイエスと言えば、現実のどこかにいるルイの実体が、呪術を使う。呪術師に本当に不思議な力があるなら、それができてもおかしくない……ように思う。というか、何ができてもおかしくない。
「私の、ただの推測だけれど」
「……ふむ、聞こうじゃないか」
「あなたはこの国の人間じゃないわ。他国の呪術師なのよ。それも、私とアランが結婚したら、困る国の人。私が臣下との恋を成就させ、アランとの婚約を破棄させれば、大国が小国を取り込んでさらに力をつけるのを防ぐことができる。……そんな感じの命令を主君から受けたのではないかしら?」
「……」
ルイは、しばらく黙っていた。それはもう、この場からいなくなったのではないかと思うほどに。
「あのー、ルイ? そこにいるー?」
「…………いるよ。なるほどね? 面白い発想だ。当たらずも遠からず。……いや、全然違うか、不正解」
「……どっちよ」
「一つだけ、君の言った中にも真実はある。私は確かにこの国の人間じゃないということだ」
まあ、ルイってこの国の名前じゃないし、当ててもそんなにすごいことじゃないけど、と付け加えられる。
「……他は外れなのね」
「はずれだね。私に主君はいないし」
「じゃあ、王様が自分も呪術の力を持っているとか! あなたがどこかの王族でも、驚かないわよ。なんだか声からして、気品を感じるもの」
「それは、自分と同類の匂いがすると言いたいの?」
からかうような声だ。
「でも、それもはずれだ。しかし、私が王様か! それも悪くないな。今度から王を名乗ろう」
「あなたがどこの国の人でも、不敬罪で罰せられるわよ。でも、あなたには王を敬う心がないのは確かなようね。もしかして革命軍のリーダー?」
「小説の読みすぎだ、お嬢さん。残念だが時間切れ。無限の回答を許していたら、いくら君でも真実にたどり着くかもしれないし」
「……今のは時間切れにしないとって思うくらい、真実に近かったのね?」
「それはどうかなあ。ただ、いつかは時間切れにしないと今日の話が進まないだろう? 時間は有限だ。君がうっかり寝台から転げ落ちて目を覚ましたりしたら、この時間は唐突に終わってしまう。この時間は君が眠っている間だけだからね」
「……あなたの目が覚めるというパターンはないの?」
「前例はない」
ルイはきっぱりと言った。
「他の人にも、こんなことを?」
「こんなこと、とは? 夢に入り込むこと? キューピッド役のこと?」
「キューピッドって」
そんなかわいいものなのだろうか。他人の心を操ろうという行為なのに。
「両方よ」
「ふうん。……夢に入ることは頻繁にするよ。キューピッド役も初めてではないかなあ。覚えていないな。おっと、時間切れと言ったのに。これは私の正体を知るヒントだね。せいぜい謎解きに励むといい」
覚えていないほど、たくさんの人の夢に入る職業? で、キューピッド役もすることがある、となると……夢占い師? とか、そんな胡散臭い職業しか思いつかない。どちらにしろ、この国にはない文化の職業かもしれないし、他人の夢に入ることが趣味の変人、という線も消えてはいない。
「シンキングタイムは昼にしてもらおう。睡眠は脳を休める行為、考え事のように理性を働かせるのは昼の仕事だ。さあ、夜らしく、心のままを聞きたい。 ……『覚悟』は、できた?」
あなたが考えさせるようなことを言ったのに……、とか、そんな恨み言はこの際置いておくとして。
「あなたの『見返り』がわかるまで、答えは『ノー』よ」
タダより高いものはない。絶対に、何かあるはず。彼が、私に求めているものが。
「……世間知らずの姫君と侮っていたことを素直に謝罪しよう。でも、私が欲しいのは、不確かなものを嫌う君なら、価値がないと判断しそうなものだよ?」
「……それは、何?」
「意地悪しているわけではないが、今は答えられない。君が私の正体を当てたら、あるいは私が君に正体を明かす気になったら、お話ししよう。私の正体を知っても、君はたじろいだりしなさそうだし」
「普通の人ならたじろぐの? あなたの正体を聞いて」
「普通の人ってどんな人? 君以外の人ってこと? たじろぐ人もいるけど、私がこうして夢に入り込める人はたじろがないよ。私を怖がることもない」
頭の中を大量の疑問符が埋め尽くす。
「そんなに難しい顔をしなくてもいずれわかるよ。そろそろ朝だ。今日は何する? 呪術師を呼ぶ方法なんて考えなくてよくなった。お兄様には昨日会いにいったから……今日はエリックにでも会いにいってみたら? あるいはアランに。どちらにしても君の選択の補助になる……」
最後の声がかすれていき、やがて闇が白くなり、意識が浮上した。
***
ルイは睡眠が、脳を休める行為だと言っていたけれど。
「夜ごとあんななぞなぞを出されていては、休める暇もない……!」
思わず呻いた。
ルイが私の作り出した人格じゃないことに確信が持てているわけではないが、この際そこを疑うのはやめておこう。私の勘では、多分ルイは私が作り出した人格ではない。私はあんなふうに人をはぐらかしたり煙に巻いたり、なぞなぞめいたことを言って人を試したりするような人間ではないからだ。たぶん。
(自分が気付いていないだけでそういう一面もあるのかもしれないけどね……今は信じないわ)
私はチェストから、日記帳を取り出した。
ぱらぱらと捲る。最後に書いたのは……結構前だ。
私は日記をつけているが、いいことしか書かない主義である。前は悪いことも書いていたが、読み返したとき生々しく甦るので、書くことは記憶が甦ってもいいこと、覚えておきたいことを書くようになった。なんとなく見ていても、エリックのことばかり書いていることがわかる。その次にお兄様のこと。アランなど一文字も出てこない。ましてやLouisという文字列は見つかるはずがなかった。エリック、エリック、エリック…………。かいてあるのはいいことばかりのはずなのに、今は読み返すのが辛い。いや、何も読み返すために開いたんじゃなかった。
白紙の見開きページを出す。日記ではないから、いつもの日記用とは異なる太さのペンにした。
ルイについてわかっていることを整理しておこうと思ったのだ。夢の中のことだから書いておかないと忘れそうだし、忘れたら、ルイは私が忘れたのをいいことに二度と同じことを教えてくれなさそう。
「ええと……、まず何かしら」
・この国の人間ではない
・他人の夢に入り込む人(で、キューピッド役? をすることもある)
・人の心を操れる……と言う
・見返りは、私が無価値だと判断しそうなくらい、『不確かなもの』
「うーん、こんなものよね……」
不確かなものとは何だろう? 夢や希望、『運』とかだろうか。でも、私が無価値と判断しそうなもの……。私は確かに占いだとか、呪術も含めてそういったものは胡散臭いから信用していない。でも、だからと言って私が目に見えないものすべてを無価値だと判断しているかと言えば、そうではない。
「ルイが勝手にそう思っているだけだから、実際には私でも価値があると思えるものかもしれないわ。……私だって、ルイがどんな物の考え方をする人かよく知らないもの。でも、彼は私のことをよく知っているような気がする」
気がする、程度のものだろうか。ルイは私が昨日お兄様に会いに行ったことを知っていた。エリックのこともアランのことも、私は直接ルイに話していない。不思議にも思わなかったけれど、本当にルイが現実にも存在する人なら、こんなに私について知っているのは少しおかしな話だ。人の夢に入り込むという芸当ができる人なのだから、交友関係を知るくらい朝飯前なのだろうか? あるいは大なり小なり、心が読めるとか。
私がこうして起きている間、彼はどこで何をしているのだろう。私のことを監視していたり……して。
(エリックやアランに会いに行くことが、何になると言うのよ……。私はどういう条件が揃えば、ルイの提案にイエスと言えるのかしら)
見返りがわからない限りと昨日は言った。
でももし、見返りが本当に大したことのないもので、私が差し出すことに何の疑問も抱かないものだったら、私はイエスと言うの? エリックの心を操って……私のことを好きにさせて、私はそれからどうするのだろう。
もしそうなっても、マーガレットを悲しませて、私は罪悪感を覚えて、いいことは何もないんじゃないの? アランと結婚するのはもう決定事項だ。結婚を覆せないのに、エリックに好きになってもらえても、仕方ないわ。やっぱりこの提案ってばかばかしい。提案を受け入れてもらえたルイだけが丸儲けするもの。何が見返りだか知らないけれど。
(悔しいって、思ったじゃない)
内に眠る悪魔が囁く。
(マーガレットに負けたと思うのが、私は我慢ならなかったじゃない。姫としてのプライドを取り戻さなくては。私が受けたのと同じ屈辱を、マーガレットだって味わっていいはず。
そうよ! 見返りとして差し出すものが何であろうと……私は自分の矜持を保つ道を選ばなくては)
私は自分の頬を叩いた。
(何てこと考えるの、たとえ心の中だけでも浅ましい……友人のように思っていたマギーに対して、あまりにも恥知らずだったわ。自分の思い通りにならないからとマギーの不幸を願うのは、間違ってる……)
自分のプライドのために、マーガレットの不幸を願う気持ち。エリックに対する純粋な恋情。恋人同士の仲を裂くという不道徳。
しかしこの不道徳なことをしようとするのにも、興味がある。どれも偽りなき私の本心なのだ。
私は日記を閉じた。今日は、アランに会いに行こう。ルイはそれも選択の一助になると言っていた。マーシイにアランのところに行くと告げるとマーシイは心なしか嬉しそうで、スキップでもしそうな様子で伝言に行った。
一体どういう風の吹き回しかと思われているだろう。でも、マーシイのあの嬉しそうな顔、弾んだ声! 私がアランと何事もなくくっつけば、誰も不幸にならない。本来それが、あるべき姿だし。お兄様の嬉しそうな顔、マーシイの嬉し涙、ルイはなんて言うだろう。でも、アランと私の結婚をエリックに祝福されるのは、嫌だな……。
***
婚約者を訪ねる私の姿が珍しいのか、アランの側近のナントカは私を半ば不審者でも見る目で見つめていた。この女を本当に主のもとに素直に案内していいものか、迷っているようにさえ見える。ちなみにこの側近、最初こそ私に丁寧で印象はよかったのだが、私が彼の敬愛するアラン様とそううまくいっていないことを感じ取ってか、最近は慇懃という方が当てはまる。
(アランに会うのは気が進まないけど……こうして周囲の反応を見るのは新鮮で楽しい。たまには、らしくないことをするのもいいものね)
側近が側近なら主も主で、来るとは聞いていたもののまさか本当に来るとは思わなかったというような反応をされた。
「姫君は……一体いかがされた?」
「あら、マーシイに私の来訪を伝えられていたのではないの?」
もちろん伝わっているに違いないのだが、からかい半分にそう聞いてみる。
「もちろん朝そう聞いたが、姫が私を訪ねてくることなど、珍しいことだから」
珍しいっていうか、はじめてです。
「私だって、たまには自分の婚約者とお話ししようと思いますわ」
嘘だけど。
「それとも、何か用がなければ、殿方の部屋を訪ねるなど淑女のすることではないかしら?」
アランを困らせようと思って言ったが、他国の文化がそうでも不思議じゃないな、と思った。
「いや! そんなことはない。あなたは私の婚約者なのだし。…………」
「うれしいわ。そういえば、先日はお花をありがとう。狩りのときに私を思い出してくださったのね」
「あ、ああ、あれは……あの花が、姫君に似ていると思って」
「…………そうでしたの」
あのちっぽけな、どこにでも咲いていそうな花が私に似ていると思ったのか……。花を受け取った夜、まさに私自身が惨めな境遇を花に重ね合わせただけに、そういわれても素直に喜ぶのは難しい。かわいい花だったとは思うけれど。
「ところで、私がこうして来なければ今日は何をなさって過ごすおつもりでしたの?」
「特に何かしようと思っていたわけでは……。……いや、実は、城下に出かけようと思っていた」
「まあ! 城下へ……?」
そんなところへ何をしに行くのだろう。
「もしよければ、姫も一緒に行かないか」
「でも……」
「護衛なら、私が連れてきた者がいる。もちろん姫が嫌なら今日は城にいても構わないが」
城下を祭り以外で出歩いたことはない。馬車でお店に行くことはあるが、ふらふらせず、まっすぐ帰っている。中庭の散歩をするくらいの気軽さで城下に行こう、という提案はアランがしたものにしては、なかなか魅力的に思えた。
「いいえ。ぜひご一緒するわ」
マーシイにアランと城下へ行くことを伝えたら心配そうにしていたが、アランの護衛が一緒だとわかると渋々送り出してくれた。それに、城下が心配という以上に、私とアランが一緒に出掛けることを歓迎しているようだった。
質素な外出着に着替えて馬車に乗り込む。中央公園までは馬車で行き、そこから城下を見て回ろうという提案だった。
王家の紋章を隠した馬車は小さめで、いつもより少し揺れる。
アランは私が城下のことについてほとんど知らないのを意外に思ったようだった。聞けば、彼の妹姫(私より年下)はお転婆で、城下を抜け出すことも多いらしい。あの手この手で城下を抜け出し、何度言っても聞かないとか。男兄弟ばかりだからそのように育ったのだろうか、とアランは推測していたが、他国に来たその日に狩りを楽しんでいるような男とは確実に血がつながっているなと思った。
城下に出て何をするのかしらと尋ねると、一般人のふりをして国民の話を聞くらしい。
「……それってお仕事?」
「そういう側面もあるにはある。不穏な動きをいち早く知れることも。でも、大概はくだらなくて、面白い世間話さ」
アランがそう言って笑った顔は、私に見せた笑顔の中で一番自然なものだった。
「いつもそんな風に笑っていればよろしいのよ」
「え?」
「あなたの笑顔。今のが一番自然でしたわ」
「……私は、いつもそんなに無愛想だろうか」
「あなたはいつも私に、狩りだとか疫病だとか、そんな話ばかりなさるんですもの」
「……そうかもしれない。私はあまり舞踏会というものが好きではないんだ。女性に気の利いた話の一つもできないし」
「ふふ。今度からは平民から聞いた話をするといいわ。私には」
「姫は平民の話にも興味がおありか?」
「……私には、あるとは言えないけれど、もし面白いお話なら、お兄様の退屈を紛らわせて差し上げられるかもしれないわ」
「……兄君のお加減は相変わらずなのか」
「昨日お会いしたわ。……相変わらずよ。外の世界のこと、お兄様は私よりご存じなの。きっといろいろと知りたいこともおありなのよ」
私は、やろうと思えばアランの妹姫のように城を抜け出すこともできる。それなのにしない。お兄様はもし健康なら、城下に繰り出して平民の話を聞く人だろう。健康な私がそれをしないでいるのはお兄様に申し訳ないくらい、贅沢なことのような気がしてきた。
馬車を公園の隅につける。公園に人通りは少ないが、警備の者は散見された。なんだかものものしい雰囲気である。
「いつもこうなのかしら? 公園ってもっと……国民に開放されているものだとばかり」
こんなに警備がうろついていては、疚しいことが何もなくても入りづらい。私ですらそうなのに。
しかしこんなことを外国人のアランに言っても仕方ないかと思ったが、すぐアランは肯定した。
「私が来ているからさらにいつもより厳重だということもあるだろうが、少し前から都の治安も悪くなり、警備の予算も増えたらしい。エリック殿に聞いた話だが」
「エリックがあなたにそんな話を?」
「私もこの警備の多さが気になって尋ねたのさ」
厚い雲が空を覆っている。雨になりそうな気配はないが、このような天気ではせっかくの外出も気分が損なわれそうだ。
いくつかの店をふらふらしていると、ショーウィンドウに見覚えのあるデザインのドレスが飾ってあった。
(マダム・フリンゲルのブティック……)
ショーウィンドウに飾られたドレスは、色こそ違うし、細部も異なるが、マーガレットのドレスに似ている。
(城も近いし。……きっとここで作ったのね)
貴族の中には服飾に並々ならぬ関心を持ち、毎日のようにデザイナーを招いている者もいるというが、私はそれほどではない。美しいドレスを身にまとうのは大好きだけれど、そこまでのこだわりはないのだ。その私がこうしてマーガレットのドレスの店を見つけるなんて、恋の直感もばかにできない。
「姫はこの店が好きなのか?」
私がショーウィンドウを見つめていたからか、アランがそう声をかけてきた。
「とんでもない。私はもっと……」
もっと、なんだろう。このドレスは派手でもなくシンプルでもない。素材もいいし、その派手でもシンプルでもないという加減がちょうどよくて十分素敵だ。だいたい私はあの夜、マーガレットにこのドレスがとても似合っていて、とてもきれい、と嘘偽りなく褒めた。一等地に店を構えているくらいだから、繁盛しているのだろう。私が知らないだけで、もしかしたら流行っているのかも。
言葉の先が続かなくて顔の火照りを実感していると扉が開き、中から誰かが談笑しながら出てきた。先に出た女の方とまず目が合う。
「! 姫様……と、アラン様じゃありませんか」
声を落とすマーガレット。となると、当然一緒にいるのは。
「奇遇ね、マギーも、エリックも」
朝、今日はエリックに会いに行こう! と思い立っていたとしても、エリックには先約があったわけだ。エリックのことだから私を……姫の用事を、優先してくれるとは思う。仕方なく。
「マギーの素敵なドレスはここで作ったんだなあと思って、見ていたのよ。そうしたらちょうど二人が出てくるものだから驚いたわ」
聞かれてもいないのに淀みなく説明してしまう。
「私たちも驚きました。姫様が城下にいらっしゃるなんて珍しいですね」
「ええ、アランに誘われたから……」
「まあ、デートですね」
マーガレットがさらに声を忍ばせる。エリックとアランは二人で何やら話している。
「マギーもデートじゃない。うらやましいわ」
本当に。
「姫様はなかなかこういうところにいらっしゃれませんものね……。ご結婚前にこうしておふたりの時間を持つのは良いことですわ。それにアラン様がいらっしゃるなら姫様のこんな息抜きも安心です」
私が立場の不自由さを嘆いたと思ったのか、マーガレットはそんなフォローをした。
「……今日はドレスを仕立てたの?」
そう気軽に尋ねると、マーガレットはぽっと頬を赤らめた。あ。なんか嫌な予感がする。
「まだ先のお話ですけれど……、結婚式の衣装の相談に参ったんですの」
「……もう?」
私が知ったのが三日前というだけなので、二人の交際は(私が知らない間にいつの間にやら始まって)長いのかもしれない。
「まだ先のお話、ですよ」
マーガレットは幸せそうな様子を隠そうともしない。普通おめでたいことだから、当たり前だが。
「でも、おめでとう。マギーもエリックも私の大切な人たちだから、我が身のことのように嬉しいわ」
「姫様……」
マーガレットが瞳を潤ませる。その様子に罪悪感を覚えないではないが、私はもう時間がないのだと焦っていた。エリックが結婚してしまえばさらに道は険しい。アランには悪いが、もう帰りたくなってきていた。早く眠って、ルイに会おう。私は、もう悩まない。覚悟を決めた。何を今まで考えていたのだろう。二人を前にして、こんなにも我慢がならないというのに! マーガレットの幸せそうな顔など、もうこれ以上一秒たりとも見たくない。
***
アランに疲れたからはやく帰りましょうと急かして城に戻ったものの、就寝の時間は決まっている。
(今夜は、ルイのなぞなぞに付き合っている暇などないわ)
そう思いながら、今朝開けた日記帳をもう一度開いた。
ルイの正体が何なのか。
ルイが王族の命を受けた呪術師でないとすると、アランとの結婚を阻止しなければならない理由も思いつかない。それに、私がアランと結婚しなくて済むかどうか、エリックの気を私に向けさせただけではわからないではないか。もちろん私としてもエリックと結婚できるというのは願ってもない話だが、エリックが私を好きになってくれるなら、アランと結婚することになっても仕方ないと思っている。ルイに何のメリットがあるというのか……。
(やめよう、考えるのは。マーガレットのことも、考えないわ。私はもう決めたのよ。これで後悔することになったとしても、これが私の選択なのだから。後悔するより、ずっといい)
エリックに想いを告げなかったのは、エリックが応えてくれるはずないと思っていたから。今でもそう思う。エリックは、私に遠慮するから。でも、あの時伝えなかったことを後悔していないわけではない。それに、もし伝えていたら、あの二人は今ほど無神経ではないはず。
(……でも、伝えていて尚二人が付き合ったら、私に気を遣うでしょうね……。そんな屈辱には耐えられる気がしない……)
最初から、姫という身分などなければよかったのに。
***
「覚悟を、決めたんだね」
ルイの声がした。
「あら? 私……」
まだ眠っていないはず。
「君は机上に突っ伏しているよ」
「そう……」
あのまま、眠ってしまったのか。
「ルイ、私は、覚悟を決めたわ。エリックの気持ちが欲しい。マーガレットに申し訳ないとか、もう思わないわ」
「そうか。なら、姫、君の期待に応えよう」
「頼んだわよ。それで? 見返りはなに?」
「ビジネスライクなお姫様だ。すぐに見返りを要求するほど卑しくないよ。君はまだ自分が頼んだ仕事の成果も見ていないじゃないか」
「……いずれ渡すものなら、いつ知ってもいいでしょう」
「その通りだ。いつ知ってもいい。今じゃなくても」
ルイに教える気がないなら、食い下がっても無駄だろう。
「なら、あなたがどこの誰なのか教えてよ。あなたは私のすべてを知っているようだけど、私はあなたの……声しか知らない」
「どこの誰か、か……それは私の秘密に関わるが……。姫が望むなら、姿くらいは見せてあげよう」
今さら得体の知れない人の顔など見ても……と思ったが、素性を詳しく教えてくれる気がない以上、彼が晒す手の内はどんなに大したことがなくても見ておこうと思った。私が黙っていると、今までずっと無風だったこの空間に風が吹いた。目を開けていられないほどの風。思わず目をとじ、風がやむのを待つ。すると、明らかに空気が変わったような瞬間があった。目を開けると、そこは今までの闇ではなかった。
「え……」
見慣れた庭園。城だ。私の……。でも、違和感がある。誰もいない。ここが無人なんてありえない。使用人や貴族、鳥さえも。本当に、私しかいない。
「ルイ! ルイ……!」
姿を見せると言った彼を探す。
「ここに。姫」
「きゃあっ」
急に近くで声がした。振り向くと、そこに一人の青年が立っていた。
「あ……あなたが、ルイ……? あなたなの?」
「ええ。この声に聞き覚えが?」
青年は跪いて私の手に口づけをした。
「そう、ね……確かにあなたの、ルイの声みたい」
でも。でも、なんなの、これは? あまりにも……美しすぎる。
今までハンサムだと称される何人もの男性に会ったが、彼ほどではない。絵本の挿絵のように美しい。それも、兄のような儚い美しさではなく、芸術品のように、力強く危うい、人に本能的な畏怖を与える類の美。その肌は陶器のように滑らかで、髪は薄い金糸を思わせる。私を映している瞳はエメラルド。
服は白を基調としていて、彼の近寄りがたい美をさらに際立たせていた。我が国とは異なる様式だが、その服の素材や意匠を見るに、貴族……か、そうでなくても金持ちに違いはないようだ。しかしこのように洗練された雰囲気の平民など、想像もつかない。大陸一と謳われる美貌をもつ私さえ、彼には敵わないと思い知らされる。彼が今私に跪いたりしなければ、私は一生、彼が誰かに跪くことなど想像さえできなかっただろう。
「姫が今何を考えているか、手に取るようにわかるよ。自分の容姿が優れていること、わかってはいたが、実際こうして美貌の姫にそんな反応をされるとは光栄だね」
姿を見てしまった今となっては、聞きなれた彼の声さえ甘い蜂蜜のように思えるから不思議なものだ。
(自分が美しいって……自覚があるのか……)
そう思うといくらかほっとする。こんなに見事な顔立ちの人に謙遜されたら腹が立つに違いない。
「どうして今まで、姿をみせなかったの?」
「見せなかったんじゃない。見せられなかったんだ。君は最初、私を自分が作り出した夢の中の人物だと思っていただろう。そういう時、私は姿を現わすことができない。でも今は、君も私が完全に別の人格だと認めている。だからこうして、姿を見せようと思えば見せられるのさ。隠したままにも、できるけど」
「それになぜ、この城なの? 姿を見るだけなら、あの闇の中でもよかったじゃない」
そう言うと、ルイは心外そうに首を振った。そんな仕草さえ様になるのが憎らしい。
「君が望んだんじゃないか。ここは君の夢だから」
「私、望んでいないわ」
「深層心理ってやつじゃないの? 得体の知れない他人と会うのに、自分のテリトリーで会う方が……それも人通りの多い場所で会う方が、安全だと判断したんだろう。よくあることだよ、初めてじゃない」
「……なら、ここを誰も通らないのはなぜ?」
「君が具体的にイメージできなかったからだろう? 普段ここを通る人がどんな顔で、どんな服で、何をしながら、どこへ向かっているのか、君が咄嗟にイメージできなかった。君はつくづく、自分にしか興味がないよね」
ルイは何でもないことのように言ったが、私が周りを見ていないと指摘されたも同然で、顔に熱が集まった。自分さえよければいい。私は、今そう思っているのだ。マーガレットが悲しむ。エリックも……。二人とも私の大切な人。それは間違いないはず……なのに。二人の思いを全部無視して私は自分の好きにしようとしている。
「ルイ、姿を見せてくれてありがとう。あなたのような素敵な人を前にしても、やはり私にはエリックしかいないと思い知ったわ。エリックはあなたに比べれば全然大したことのない、凡庸な男よ。顔だってきっとそんなに良くないし、取り立てて優れた何かを持っているわけでもない。……それでも私には光なの。なければ生きていけない……」
「わかっているよ、姫。エリックの心を、君に捧げよう」
芝居がかった口調でルイがそう言うと、誰もいないと思っていた……否、今まで確かに誰もいなかった柱の陰から、エリックが姿を現わした。
「……エリック!」
思わず駆け寄ろうとすると、闇が城に変じたときのような強い風が再び吹いた。
「姫……」
頭の奥から、声がする。風の音に邪魔をされて、エリックの声なのかルイの声なのかわからない。
***
いつもは夢から覚めることをルイが教えてくれていたのに、今日はいつの間にか目が覚めていた。
(ついに、やってしまった)
不思議と、罪悪感のようなものはない。ただふわふわと、まだ夢の中にいるような感覚が続いているだけだ。
(今頃、エリックは私を好きに……?)
すぐ効果を発揮するものなのか時間を要するのか、エリックはある日目が覚めたら突然私を好きになっているのか? ルイに確認し損ねていた。
(まあ、いいわ。今日効果が表れていないとわかれば、また今夜ルイに尋ねればいいのだし)
それにしても、気分の良いこと。ここ最近の鬱屈した気持ちがすべて吹き飛んでいる。今の私の顔はきっといつになく晴れ晴れとしているだろう。
ところが、その後何日か経っても、エリックに会えないし、ルイに夢で逢うこともなくなっていた。