第1話 舞踏会の日
「何やらお加減が優れないご様子ですわね」
侍女のマーシイが心配そうに言う。
「そうかしら。ただ変な夢を見ただけなのだけど」
私の返答にマーシイは顔を綻ばせた。
「まあ、お姫様。おかしな夢など、すぐに忘れてしまわれますわ。今夜はアラン王子を招いての舞踏会ですもの」
まさにそのことが、私の頭痛の種だ。アランは隣の大国の王子で、私の婚約者でもある。……一応。
「午前中は、庭を散歩でもするわ」
「かしこまりました、お姫様」
今日は家庭教師のマーガレットが休みだから私の午前も空いているのだ。
ただ、夜には勉強よりももっと面倒なことがあるけど。
小国の姫など気ままなものだ。予定はすぐになくなるし、そうなれば私は婚約者が来るような日にも庭の散歩をしていられる。自由なものだ。もしこれが大国なら、婚約者を迎えるために朝早くから支度をするのだろう。他の王室……大国の王室ではそういうことをしているところもあるらしいことを、最近本で読んで知った。
我が国の財政は逼迫しているらしく、今年はまた税が上がった。徴税の口実がどんどん増えているらしい。
それでも、やっぱり豊かになったという気はしない。
そんな貧乏な国にやってくるのに、アランはいつも豪勢な馬車に乗って多数の従者を連れて仰々しい。しかも趣味は狩りときた。私は狩りが嫌いだ。かわいい動物を貴族の道楽のために追い回すのは、品のいい娯楽ではないと思う。猟犬は、かわいいと思うけど。
私とアランの仲は、あまりよくない。彼は、私個人とどうだという以前に、あまり女性と触れ合うのが好きではない気がする。そんな気がするのは、彼がこの国に来ても従者と鹿を追い回すのばかりを見ているからだろうか。私としては、アランを特別嫌いだということはないが、結婚して同じ城に住み、毎日顔を合わせるというのは……正直、遠慮したい。
しかし事前に相手の顔を肖像画でしか知らぬまま結婚する王族もいるというし、やっぱり私は恵まれている方だ。これも最近本で知った。
「そうだ、エリックを呼んできてよ」
思いついてマーシイに言う。エリックは、陛下が私につけてくれた、私の幼馴染みだ。幼いころから仲がよく、年も近かったので昔は私とエリックは結婚するのでは、と私は思っていた。エリックは地位こそただの騎士だが、重臣の息子だし、私の大切な家族のようなものだ。
「エリックはアラン王子のお迎えに行っているではございませんか」
「ああ……、そうだったわね」
迎えなど誰が行っても同じことなのに、なぜエリックが行くのだ、まったく。
「姫様ったら。婚約者のいる姫君が従者と仲良くしている姿など向こうの国の方がご覧になったらどう思われますことか。もう子供ではないのですから」
まったく、とマーシイはため息をつく。私はアランを気に入らないのではない。エリックを気に入っているのだ。エリックと結婚したかった。……エリックと。
「じゃあ、お兄様は? 今日はお加減がよろしいのでしょう?」
「姫様、今夜は舞踏会ですよ。もしヘンリー様が体調を崩されましたら大変です。明日になさいませ」
「……わかったわ」
本人には言わないが、私はマーシイのことを口うるさい姉のように思っている。
お兄様はそのまま優しいお兄様で、マーシイがお姉さまで、マーガレットはお友達、そしてエリックが王子様。
そうだったらよかったのに、と小さいころよく思った。
庭は散歩のしすぎで、面白みがない。散歩というのは建前で、庭をうろうろする間に、エリックと話すことこそ楽しいことだったのに。
でも、結婚したらこの庭ともお別れなのだ。そう思ってしまうから、アランが来る日には毎日庭を散歩している。代わり映えのしない庭。退屈だ。もう帰って昼寝でもしようか。さっき起きたばかりなのにそんなことを思う。それに、なんだか体が怠いのも事実だ。昨夜の夢見が悪かったから、疲れが取れきっていないのかもしれない。そう思ったら、体がわずかにだが傾いた。
「……! どうされました、姫様!」
「な、なんでもないわ」
「なんでもないというお顔では……」
「ねえマーシイ。なんだか気分が悪いから部屋に戻って少し休むわ」
「え、ええ。それがよろしいでしょう。きっと疲れがたまっているのですわ。時間になったら起こしてさしあげますから、それまでお休みくださいませ」
私の顔色は相当に悪いのか、マーシイは私の体が倒れないように支えていてくれた。
そう、なぜか眠い。寝たくてたまらない。いくら夢見が悪くても十分な睡眠時間をとっているはずなのに。
部屋に戻り、体をベッドに横たえた。マーシイが何か言っていたが、それに返事をするより早く私は眠りに落ちた。
***
「……」
暗闇にいる。暗闇に一人立っている。意識はしっかりしている。
「…………」
私のほかに誰かがいるという感覚がある。
「誰かいるの?」
「…………」
「返事をしなさい!」
私はもう確信していた。誰かは、必ずいるのだ。でも姿を現さない。
「…………クラリス」
声はそうささやくように言った。少し低いが甘い、男性の声だ。果てのない暗闇なのに、その声はまわりに壁があるかのような響き方をした。
「……あなたは誰?」
「……聞こえる?」
「ええ」
「そう、……よかった」
「あなたは誰なの? 姿を見せて」
「今はまだその時じゃない」
「じゃあ、お名前は? あなたは私の名前を知っているのに、私はあなたの名前を知らないのって、不公平よ」
声はかすかに笑った。
「……ルイ」
「ルイ? それがあなたの名前なのね」
「……クラリス、そろそろ時間のようだ。また話そう。君が私に会いたければ、私はいつでも君に会いにくるよ」
最初は遠くから響くような声だったのに、今では近くで話しているように感じた。でも相変わらず姿は見えないし、手を伸ばしても何にも触れない。
私の意識は急に浮上した。
***
「……マーシイ」
私をのぞき込んでいるマーシイが見える。
あれは夢だったのか。ずいぶん鮮明な夢だった。夢なら、ルイという男性は私がつくりだした人格か、忘れている知り合いか何かだろうか。
「なんだか魘されておいでのようだったから心配しましたよ」
「平気よ」
魘されていた、だなんて。ただ姿の見えない人(?)とお話していただけなのに、笑ってしまう。それに、これから始まる現実の方がずっと、悪夢みたいだ。
「そろそろお召し変えをなさいませんと」
マーシイが急かす。私の時間はゆっくり流れているのに、マーシイといると普段の二倍くらいの速さで物事が進む。せっかちだと思うが、これが『テキパキしている』ということなのだろうか。
薄桃色は、昔から、着ているとエリックが褒めてくれる色だ。だから私は、社交の場には大抵薄桃色のドレスで参加する。普段から着ないのはありがたみが薄れるからだ。
エリックは今日も褒めてくれるかしら。アランに会うのは気が進まないが、そう思うとうきうきしてくる。エリックが王子様だったらよかったのに。髪を結い直し、鏡をのぞき込むと、昼寝の前よりいくらかましな顔色だった。アランだけでなく大国の者みんなに、顔色の優れない姫など見せたくない。国が疲弊していようとも、王族だけはそんな姿を見せてはならない。
華やかなことは大好きだ。こうしてホールに来ると王族に生まれてよかったと、心から思う。このために生きていると感じるくらいだから。
これはとびきり豪勢な衣装で、何か月も前から仕立てさせていた。アランが来るときはいつもそうだ。貧相なドレス姿を見せるわけにはいかないし、前回と同じ服を着るわけにはいかないといって毎回見栄を張っている。扇子もドレスに合うよう揃いで作らせた。少し重い。会場を見渡すと、すぐにきらびやかな集団が目に入った。あれがアラン達だろう。すると、集団の一人が私に気づいてアランに耳打ちした。知らんぷりもできない。アランだけが集団を外れて私に歩み寄ってきた。
「お久しぶりです、クラリス姫。しばらく見ないうちに一段と美しくなった」
アランが慇懃に挨拶する。毎度この文句を聞く気がする。
「ええ、本当にお久しぶりですこと……、アラン様はそれほどお変わりないようですわね」
アランに最後に会ったのはいつだったか思い出せないが、アランから受ける印象はいつだって同じだ。毎回銃と獣の匂いがする。
「ぜひ、この後のダンスを、一緒に」
アランが手を差し出す。断られることなど微塵も想定していなさそうだ。ここで「お断りします」と言ってやれたら気分がいいだろうに。
「喜んで」
口はもう嘘をつき慣れている。私の心がどうであろうと、形式的な動きをする口なのだ。
楽隊の音楽とともに、私たちはホールの真ん中に移動した。踊っている最中に婚約者とどんな会話をするものなのか知らないが、アランは毎度ご丁寧に狩りの獲物の報告をしてくるものだから、困ってしまう。興味がないし、彼の勲章にされた動物を哀れに思う。今回もどうせ鹿を追い回した話を聞かされるのだろうと思っていたが、意外なことに彼の口から出たのは狩りの話ではなかった。
「そういえば姫、例の疫病。とうとうアネッサにも入ってきたと聞いた。今はまだ南の村だけだという話だが、この疫病……、何が原因かわからないからいつ城下までくることやら。我が国もどう対策したものか困っている」
話が見えない。
「例の疫病……?」
「ユーフォリムの国王を崩御させた疫病。アネッサでも南の村で初の患者が出たと噂を耳にして」
「そう……」
そんな話は初めて聞いた。この国にも病魔の手は迫っているのか。
「去年は不作、今年は疫病。私たちの結婚がアネッサにとって明るいニュースになればいいが」
「でもまだ、南の村一つで見つかったというだけなのでしょう? 国全体の大事ではないわ」
私の耳に入っていないということは、やはり大したことではないと思う。そんな恐ろしい病ならば、マーシイあたりが大騒ぎしそうだ。
「……姫君の前でする話ではなかったな。お許しを」
いつもその姫君の前で血なまぐさい狩りの話をする男がそんな風に謝ったことの方がよほど衝撃だった。
疫病……疫病なら、エリックが駆り出されることはないわよね? 去年の不作で国が国庫を開かなかったので暴動になり、その鎮圧のために軍が出動し、エリックもしばらく帰らなかったのだ。あの時は城内が閑散としてしまったようでさみしかった。エリックが行くほどのことではないわ、と散々騒いだのが記憶に新しい。
ちょうど去年から結婚の話がいよいよ現実味を帯びて、周りの者が私の顔を見ると何かとアランの話をするので不安が募り、私がもうすぐ他国に嫁いでエリックに会えなくなるのに、暴動なぞを起こして私からエリックを取り上げた人たちが恨めしかった。
そんなことを回顧しながらホールを見渡すと、女性と踊っていたエリックの姿を見つけた。
「エリック!」
「姫様」
エリックと踊っていた女性も振り向く。後姿ではわからなかったが、それはマーガレットだった。
「あら! 驚いたわ、マギー、今日のドレスも髪型もとても素敵ね。特にドレスはよく似合っていてマギーらしいわ。あなただとわからなかったもの」
家庭教師としてのマーガレットは地味な服装だ。もちろん仕事中に舞踏会のようなドレスは着ていなくて当たり前なのだが、もともとのマーガレットの印象が素朴なので余計にそう感じる。マーガレットは嬉しそうに頬を染めた。
「もったいないお言葉ですわ、姫様。このドレス、エリックが選んでくれたんです」
「姫様はさすがにマーガレットと付き合いが長い。彼女に似合うドレスを選ぶの、結構苦労したんですよ。姫様に聞いてみればよかったですね」
まあ、姫様をそんなことで煩わせるなんてとんでもないですわ。 君のことをよく知っている一人として意見を聞きたいだけだよ……。
二人の話声が遠くに聞こえた。
なんで、エリックがマーガレットのドレスを選ぶの?
だいたいマーガレットは舞踏会に出席することは少ないのに。
まさか二人は。いいえ、ありえないわ。マーガレットは……マーガレットに限って、私を悲しませるはずがないもの。
マーガレットは私がエリックを好きだって知っているでしょう? 口に出しては言わなくても! それにエリックとマーガレットが結婚できるわけない……エリックのお父様なら、もっといい縁談を、と言うはずだわ。公然と男性と親しげな様子を見せるのははしたないとかって、マーガレット、あなたが言っていたのよ。
「エリック……、アラン王子を迎えに行っていたのよね?」
「ああ、殿下をお迎えに行って、その後は狩りにお供しました。殿下はウサギを3羽、……」
「それに最近、忙しそうだったわよね、王子を迎える準備がどうとか」
「ええ、そうですね、いつもより。お陰で姫様になかなかお会いできませんでしたね」
「…………」
「姫様?」
私に会いにこられないほど忙しいのに、マーガレットのドレスを仕立てる時間はあるのね。
そう言えたら、どんなに楽か。
「なんでもないわ。それより、お仕事のしすぎで恋人を寂しがらせないことね」
姫様、何を勘違いしていらっしゃるんですか……そう返ってくることを期待したけれど、エリックは苦笑いしながら、ええ、そうします、と答えた。
***
早々に部屋に戻るとマーシイが心配して様子を見に来た。マーガレットのことを友人のように思っていただけに、裏切られたような衝撃が大きかった。マーシイは知っているのだろうか、マーガレットとエリックのことを。
「姫様、殿下から預かってまいりました。先ほど姫様にお渡ししようとなさったけれど、もうお姿がみえなかったとかで」
マーシイは私に花を差し出した。ピンクのリボンで束ねられてはいても、見るからに野草だ。なんの花かわからないが、狩りの途中にでも摘んだものだろう。普段ならアランらしいな、と思うが、今はそのちっぽけな花が自分のように思えた。きれいなリボンがついていて花がかわいらしくても、見てもらえない花。なんのためにきれいな花弁がついているのかしら。マーシイは私が黙って戻した花を受け取り、「活けてまいります」と言った。
「そんなことするほどのものでもないわ」
「狩りのときにでも姫様のことを思い出して摘んでくださったのですよ。殿下のお心を無碍にしてはいけません」
マーシイはもっともらしいことを言ったが、彼女もその花を狩りのついでに摘んだ花と思っていることがなんだかおかしかった。
「ねえマーシイ。マーシイは、エリックとマーガレットが恋人同士ということを知っていた?」
「ええ、なんとなく察してはおりましたよ。なぜそんなことをお聞きに?」
「……私は今日知ったのよ」
「……姫様。嫉妬など淑女のすることではありませんよ。……兄妹同然のエリック殿を取られたかのように感じるんでしょう」
「…………はあ」
「ひめさま」
「わかっているわよ」
わかっているけど、マーシイは何もわかっていない。
マーガレットもマーシイも気づいていないんじゃ、ほかに誰も気づいていないだろう。しかし敗れた今となっては、誰も知らなかったことが幸いだろうか。
「もう、ひとりにして頂戴」
くる、とマーシイに背を向ける。マーシイは、私が拗ねているとでも思っているだろう。
一人になって、今日のことを考える。朝からさんざんな一日だった。へんな夢をみて体調が悪かったし、エリックのいない庭を散歩するはめになったし、昼寝をすればまたへんな夢をみて、舞踏会では相変わらずの王子に狩りでなく疫病の話をされ、そのあとは。
マーシイが出ていくと、すう、と涙が頬を伝った。流れるままにしておく。声を殺す。
よく我慢したわ。
あの場で泣かなかったんだから。
誰も見ていないんだから、感情のままにしておいてもいいわよね。びしょびしょのシーツも朝には乾いているもの。
結婚したら……一人で泣く時間はあるのだろうか。大国のしきたりに雁字搦めで、こんな風に泣けなくなるのかもしれない。婚約が決まって泣いていた時はマーガレットが慰めてくれたっけ。そして、どんな時でも毅然として、人前で涙など見せてはなりませんよ……そう言っていたことを思い出す。今はまだ一人だ。心のままに泣いてもいい。でも、城にいて、エリックとマーガレットが仲睦まじくしている様子をこれからも見てしまうんだとしたら、私はいっそ早く結婚して、この国を出ていきたいと思った。
「悔しい……」
その呟きはほとんど音にもならず、空気を僅かに震わせただけだった。
悔しい。屈辱。惨めだわ。よりによってこの私が、よりによってマーガレットに……。
私の方がずっといいのに。
私はだんだん、エリックに恋人ができたことが悲しいのか、マーガレットに取られたことが悔しいのかわからなくなってきた。
***
「……泣いているね」
いつの間に眠ってしまったのか、私は昼のあの真っ暗な夢の中にいた。そして、ルイの声を聞いた。昼よりもそれは近くで聞こえるようだ。相変わらず姿のない、声だけの男。
「……失恋したのよ」
言うと、他人事のように聞こえるから不思議だ。でもそれは間違いなく自分の身に起こったことで、口にするとより一層私の心を苛む。
「君は、エリックと結婚したかった?」
「……どうかしら」
冷静に考えると、そうは思っていなかったような気がする。
小さいころはエリックと結婚すると思っていたし、結婚したかった。
しかし最近は、結婚したくても当然それはかなわないから、ただ自分の結婚までは一緒にいたいという程度のものだった。ただ、私の結婚よりもはやくマーガレットとよろしくしている姿を見せられて、衝撃だったのだ。
私が結婚した後、人づてや手紙でエリックの結婚を聞く覚悟はできていたし、その相手がマーガレットでもそれはよかったと思う。でも、私が望まぬ結婚をしようという時に恋人同士のささやかな幸せを見せつけられるのは我慢がならなかった。
「マーガレットが憎くない?」
「何を言うのよ、それはないわ」
「本当?」
「本当よ! マーガレットは私の数少ない友人だもの」
「君の恋心に気づかないのに? マーガレットの方は君のことを、ただのわがまま姫だと思っていたかもしれないよ。権力者の君に恋路を邪魔されないように、今まで黙って悟られないようにしていたのかもしれない。友人なら、恋の話くらいするものだろう?」
「……私だって話さなかったのだから、マーガレットから話してくるわけがないわ」
「マーガレットと代われたらいいと思わない?」
「そりゃ、代われるものならね。王子と結婚しなくていいし、エリックは私のものになるし、王族の責任から永遠にさようなら、だもの」
そう思うとマーガレットってなんて恵まれた境遇なのだろう。そこそこ裕福だが責任はなく、このご時世に恋愛結婚しようとしている。世の中は不公平だ。私は自分の容姿が他の子と比べて多少優れているのを両親に感謝していたが、今のところなんの役にも立っていない。これが普通のご令嬢なら武器になっただろうが、王女として美しい容姿でもエリックは地味なマーガレットを選んだし、アラン王子も私に夢中ということはなく狩りに情熱を注いでいる。また、私の容姿がどんなに冴えなくても彼との縁談はあっただろうし、アランは冴えない女に文句を言うほど女に興味がない。
「君とマーガレットを替えてあげることはできない」
真剣な声音なので、そんな気分ではないのに思わず吹き出してしまった。
「そんなこと! ……別に望んでいないわよ」
「君の体にマーガレットの魂を入れて、マーガレットの体に君の魂を入れることはできない、という話だよ。だから君を王族の責務から解放するのは無理だ。アランの婚約者という立場からも。その代わり……エリックが君を好きになるようにさせることはできる」
「……そんなこと、どうやって?」
「別に望んでいないって言わないの?」
ルイが明らかに私をからかった調子なので腹が立った。でも、自分が見ている夢に腹を立てても仕方がない。望んでいないと思うが、こうして(声だけとはいえ)魔法使い気取りの男が夢に出てくる以上、彼の提案は本当は私が心の奥底で望んでいることなのだろう。誰かと代わりたいと私が願うなんて屈辱だけれど。
「望んでいないとは言えないわ……望んでいるもの。でも、人の心を操作するのは、いけないと思う……」
語尾が弱弱しく消えるのと同時に、闇が晴れていくのを感じた。
「……よく考えて、姫」
***
目が覚めると、流した涙も乾いて、頬にその名残をわずかに感じるくらいだった。もともとあまり夢を見る方ではないのに、立て続けに同じような夢を見るとは、珍しい。マーシイが起こしに来るより早い時間に目が覚めたようなので、寝返りを打った。
(エリックが、マーガレットではなくて私を好きになってくれたら、どんなにいいだろう……。お父様もひょっとしたら、エリックとなら……って、縁談を考え直すかもしれないわ)
もう一度、寝返りを打つ。
(いいえ、お父様がそう思ってもアランの方はどうか……この期に及んで破談になどするかしら。だけど私に、醜聞があれば向こうから身を引いてくれるかも)
ごろん。
(でも、どんな醜聞が? 国民にも嫌われるようなものはいやだわ)
ごろん。
(ばか、エリックのほかには何もいらないと思っていたことだってあったじゃない。婚約が決まったばかりの頃。その時私に勇気があればエリックに気持ちを打ち明けていたはず。そうしなかったのは、エリックが絶対に私を突き放すに違いないと思ったから……私のことをどう思っていようと)
ごろん。ごろん。ごろん。
(……そうよ、そうだわ。エリックは私のことを好きでも、その想いを認めない。そういう人だもの。釣り合わないと思えば私のことも突き放す。あの頃私が勇気を出さなかったのは、エリックがそういう人だと知っていたから!)
ごろん。
(……なら、エリックが私を好きになったところで、無意味よ)
ごろん。
(いいえ、あの時そうでも、今は? あの頃と違って、私の結婚はいよいよ現実味を帯びてきている。今ならエリックだって、いずれ私がいなくなるということを実感できるはず。そうなれば、私と離れるのが本当は嫌だと……言ってくれるかも)
天井に向けてため息をつく。
(……それもこれも、エリックが私を好きなら、の話だわ)
ルイはそれができると言った。
隣国では宮廷お抱えの呪術師とかがいるらしいが、生憎わが国にはいない。呪術というのは国の行く先を占うことに使うと聞くが、隣国は皇太子を弟王子が呪い殺しただの、正妃が亡くなったのは寵姫の呪いによるものだの、そんな血なまぐさい噂が絶えず、内乱状態だったこともある。隣国を見ていると、呪術が国を救うことより、災いを招く方が多そうだ。
(でも実際、呪術が有用なら……、胡散臭いとは思うけれど、エリックの心を操ることもできなくはない、のかも)
やりたいかどうかは置いておいて。
(夢の中に呪術師が出てくる……、私もついにそういうものに頼りたくなったのかしら)
不確かなものに頼るのは私らしくない。父も母も兄も、そういうものが嫌いだ。だからこの国に呪術は根付いていない。それはすなわち、
(エリックの心変わりが呪術によるものだと疑う人はいないということでは? ……この国でなら)
呪術師とコンタクトをとるのは並大抵のことではない。私が呪術師とかかわったことが知れては意味がないが、一人ではとても無理だ。
隣国出身の召使と知り合って知り合いの呪術師を紹介してもらうのが近道だが、この召使の口封じはどうしよう。金品で永久に閉ざしていられる口ならいいけど。そもそも隣国出身の都合のいい召使と、どうやって知り合う? 私に近づいていい召使などいない。貴族で隣国出身の母がいる令嬢を探し出して出仕してもらうしかない。いや、そんな者の口封じは骨が折れそう。ただでさえ噂好きなのが貴族令嬢というものなのだから。貴族は殺せないし、貴族が連れてきた呪術師なども、やっぱり殺せない。この案はなしだわ。
私に悪だくみは向いていないような気がしてきた。悪だくみをするには世間知らずすぎる。楽な道を選べばもれなく面倒な後始末がついてくる。かといって後始末の楽さを優先していたらいつまで経っても呪術師と知り合えない。
「姫様、朝でございますよ」
「起きているわー」
マーシイに返事をすると、扉を開けて部屋に入ってきたマーシイは案の定、変な顔をしていた。
「めずらしいこと、姫様がもう起きていらっしゃるなど。よく眠れましたか?」
「私だって、たまには早く起きるわ。お兄様の本日のお加減はどうなの?」
「特別優れないというわけではなさそうですが、お庭に出ることは控えられませ。けれど姫様がお会いしたいと昨日おっしゃっていたことを伝えましたら、喜んで部屋に来るよう仰せでしたよ」
「そう……でも、心配ね。具合がいいときは本当にいいと仰るのに。……そうだ、お兄様に差し上げようと思っていたハンカチの刺繍が、もうすぐ終わりそうなのよ。午前中には仕上げられると思うから、お兄様には午後に伺うと伝えておいて」
「かしこまりました。……姫様のお顔色もすっかり元通りで、安心いたしました」
「え?」
「昨日は姫様もお加減が優れないご様子でしたし、……」
「まあ、もう大丈夫よ!」
マーガレットとエリックのことにショックを受けていたことを言いたいのだろう。そう察したからこそさえぎってしまった。人から聞くのは、本当に惨めだ。一晩でこの傷が癒えるはずはない。それに、変な夢を見たから、よけいなことまで考えてしまう。策謀を巡らせるのは一部の強欲な者のすることだと思っていたけれど、私も何かする可能性が出てきた。
もしどこかの呪術師を雇ってエリックを心変わりさせたら、呪術師はもちろん、私が呪術に関わったと知る人の口封じをしなければならない。国家の大事ではないからこんなに警戒する必要があるのかはわからないけれど、いつだって確実な手を選びたい。何があるかわからないもの。そんなこと、したくはないけれど。
***
刺繍は好きで、いろいろな花を刺繍してきた。でも、このハンカチの図案を最初に考えたとき、私はどうかしていたに違いない。陽はまだそう高くない。やり直す時間はある。これより簡素なものになってしまうけれど、やはり今の私にこれを美しく仕上げるのは無理だ。花もかわいそうだし、何より受け取るお兄様に失礼だもの。私は白いマーガレットの刺繍糸を乱暴に解いた。きれいには解けなかったけれど、捨てられるのにはふさわしいくらいに無残になった。
棚から使っていないハンカチを出す。女性ものだけど……、お兄様は貰ってくれる。
雪のような白に赤い刺繍糸を重ね、図案を考える。改めて、ここでマーガレットを刺繍する気になった自分の正気を疑いながらカメリアとHを絡めた図案を起こした。途中まででも、手元のハンカチの刺繍が最初のものよりずっと素敵だと確信した。
刺繍が終わると陽が高くなっていた。
中庭に出て花を摘む。お兄様の部屋にはいつでも花が飾られているけれど、たまにはこうして庭に何気なく咲く花もいいだろう。
……お兄様に、失恋したことをお話ししようか。
私はお兄様にもエリックが好きだとしっかり打ち明けたことはないが、幼いころから私とエリックの仲がよかったことは知っているし、さすがにお兄様なら気が付いているかもしれない。ああ、私は誰かに話したいのだ。夢の中で自分が作り出した幻想の魔法使いではなく、現実で私の痛みを受け止めてくれる人に。