第18話 嵐の前の
私は離れそうになった手を強く握った。
暗闇のなかでも彼―――ミカゼが息を呑むのが分かる。
火照って上手く働かない頭が、咄嗟に起こした無意識の行動だった。
今夜は彼と離れたくない。
痛いほどに繋がった手のまま、私達は部屋に入った。
どちらの部屋かなど覚えていない。
ガチャリと鍵の掛かる音がした。
大音量で鳴り響く心臓が、沸騰した血液を全身に送り込む。
私は彼を見上げた。彼も私を見つめた。
玄関とか場所はどうでもいい。気にしている余裕もなかった。
彼が背中に手を這わせてくる。
私は子供のように体をその手に委ね、彼の胸に顔をうずめた。
やがて二人の境界が曖昧になり、溶けて混ざりあって――――。
「っ! はぁ……はぁ……」
目を覚ました。
夢? 夢かぁ……。って何残念がってるの、私!
今まで見たこともないピンク色の夢に、ウナフは布団のなかでうずくまった。
昨日の夜、キャンプファイヤーが終わり、私達は肩を寄せあって帰った。
生活棟へ着くと、少しの間のあとミカゼにおやすみと言って別れ、離れてしまった彼の温もりに寂しさを感じながら部屋に戻ったのだった。
あの時、ミカゼが私を離さなかったら。きっとそれを受け入れていただろう。そして私も彼を離さなかっただろう。
「う~……」
いつもより早いが、寝られそうになかったので起きることにした。
汗とかもかいたので、お風呂に入りたい。
お湯をためる時間は無いから、適当にシャワーを浴びた。
その後、脱ぎっぱなしだった着物を畳み、制服に着替える。
一旦落ち着いたので何をしようか迷ったけど、浮かぶのはミカゼのことばかり。
だから私は、朝にマラソンをしているという彼を見ようと、外に出たのだった。
外は少し靄がかかり、日の光を放射状に拡散している。
大きく息を吸えば、きりりと引き締まった新鮮な空気が肺を満たし、老廃物を押し流して澄んだ体にしてくれるようだった。
私は二、三回深呼吸をする。
そして階下へ続く階段を下り、中庭へ出た。
未だ彼の姿は見えない。
ここから学校までの道をコースにしているらしいので、すぐに現れるだろう。
私は隠れてミカゼを盗み見ようと思った。
あんな夢を見たせいで、気恥ずかしさと後ろめたさがあったのかもしれない。
来た道を戻り、中央の棟の階段へ身を隠した。
やがて、不規則な地面を踏むリズムと、風を切るような音が聞こえてきた。
私は少しだけ顔を出し、音がした方向を見る。
そこにいたのは間違いなくミカゼだった。
その姿を見て、私ははっと息を呑んだ。
彼が斜め上を鋭く脚で横凪ぎにする。発生した回転の力を体幹で制御し、勢いを殺さず蹴り上げた足が地に着くと同時に、もう片方の脚で踵から空を切り裂く。
次いで着地した両の足を折り曲げしゃがみ、そのままの姿勢で体を前に傾ける。重心がずれるに従って倒れていく体を、畳んだ脚を一気に伸ばすことで前への回避行動に繋げる。
頭から地面に突っ込んで行くと思われたミカゼは、手を前に出し体を押し上げ前方倒立回転を決めた。
彼が体を動かすたび、しなる筋肉、鋭く吐く息、前髪を伝って飛ぶ汗、それら全てが目に見えるようだった。
これが今の彼なのだと、4ヶ月の努力の証なのだと、そう感じた。
どうしようもなく彼を求めてしまうのも、これでは仕方ないことだなあ、と私は苦笑した。
私は陰から見るのをやめ、中庭へ足を踏み出す。
中庭の木製テーブルをタッチし、折り返そうとしていたミカゼは私に気づいたようだった。
足を止め、なぜ私がここにいるのか分からないという表情をしている。
「おはよう、ミカゼ」
「あ、うん、おはよう。どうしたの、こんな朝早く」
「ちょっと、目が覚めちゃっただけだよ」
「珍しいね。僕なんか昨日はよく眠れなくて、朝は結構辛かったな」
「そうなの? 私はぐっすりだったよ」
「あ、そう……」
ミカゼはなぜか肩を落として落ち込んだ。
その様子に私はくすりと笑うと、一歩近づいてその手を取る。
「ちょ、ウナフ、汗かいてるから!」
気にせず私は言葉を紡ぐ。
「好きだよ、ミカゼ」
「え!? 今日はどうしたの、ほんとに! いや、僕もす、好きだけど……」
赤くなって焦るミカゼに、私は心が温かくなった。
「ふふっ。まだ走るの? 私、ミカゼに会いに来ただけだから、続けるんだったらここで待ってるけど」
「あ、会いに……。いや、今日はここまでにするよ」
「分かった。じゃあ、荷物取ってくるから、ミカゼの部屋に遊びに行ってもいい?」
「え、いいけど、僕シャワー浴びるよ?」
「あがるまでミカゼの部屋で待ってるよ」
そう言って私は握ったままの手を引き、自分の部屋まで連れていく。
「な、なんかすごく積極的だね!?」
あたふたするミカゼだったが、ちゃんとついてきてくれた。
私は彼を部屋の前に待たせ、荷物を取るために玄関を開けようとした。
ガチャン。
しかし扉が開いたのは、隣のとなりにあるミエコの部屋。
そして出てきた人を見て凍りついた。
「え……、ヒリアス……?」
そう、出てきたのは明らかに男物のTシャツとジャージを履いた、ヒリアスだったのだ。
ヒリアスも、目を見開いて固まる私達を見て「あ……」と声を漏らした。
「おい、ヒリアス。立ち止まってどうした……、あ?」
時が止まるミエコとヒリアス。
私はミカゼと目配せをし、ささっと荷物を取ると空気を読んで背を向けた。
「ちょっと待て、そこの二人! これは誤解だ!」
「そ、そうだよ! 別に私はやましいことなんて何も……」
「「……ごゆっくり」」
「おい、待てミカゼ! ぶっ殺すぞ!?」
「違うの、ウナフちゃん! だから、そんな目で見ないで!?」
ミカゼは振り返ってジト目で二人を見る。
「じゃあ、納得できるように簡潔に理由を述べてよ」
「いや、連れ込んだはいいものの、恥ずかしくなってなにもしなかったんだよ。このTシャツとジャージはヒリアスを着物で帰すわけにはいかないからっていうちゃんとした理由があるんだ!」
「連れ込んだ、ねぇ?」
私もミカゼと同じ目をしているのだろう。
「ふ~ん」
少しだけ羨ましいと思いながら、そんなことは表に出さずに相づちを打った。
「そ、そういうお前らこそ、こんな朝早くに二人でどうしたんだよ」
「私は別に早く目が覚めちゃったから、マラソンするミカゼを見に行っただけだもん」
「ウナフ、ちょっと恥ずかしいんだけど……。ぼ、僕もただマラソンしてただけだよ」
ウインドブレーカーを着て、汗をかくミカゼが何よりの証拠となってミエコは何も言い返せない。
目を泳がせる二人に今度こそ背を向け、ミカゼの部屋へ歩いていく。
「本当に私達は何もしてないからー!」
まだ弁解するヒリアスに、私は「分かった、分かった」と苦笑して手を上げた。
彼らがそういうことをしたのかはどちらでもいいけど、昨日ミカゼを引き留めなかったことを、私はちょっぴり後悔するのだった。
ウナフは気付かない。
ずっと誰かが自分にどす黒い目を向けていたことに。
その視線はウナフを見ているにも関わらず、彼女自身を見ていないことに。
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昼食が終わった午後。
ミカゼは一人、キンサ先生に来るように言われたので、外の訓練施設へ足を進めていた。
朝にキンサ先生に呼び出された時は何事かと思ったが、ミエコとヒリアスのようにやましいことはしていないので、生活についてではないだろう。
こうして呼び出されるときは、大抵コピー能力に関することなので、今回も例に漏れずといったところか。
そうそう、ミエコ達だったが、今日はずっと付かず離れず微妙な距離を保っていた。
ミエコがトイレに立ったので、ついていって聞き出したところ、どうやらキスはしたらしい。それを聞いてミカゼも昨日の熱いベーゼを思い出した。
男二人がトイレの鏡の前で赤くなっていたのは、中々に気色悪かったと今は反省している。
結局肝心なところはやってないの一点張りだったから、そう思うことにした。
でもつくづく僕はミエコに負けているな、と感じてしまう。
彼がヒリアスを連れ込んだのは事実であり、男としては称賛すべき勇気と行動力だ。
朝ウナフが積極的だったことを考えるに、多少強引でも拒否しないのではないか? むしろウェルカムだったらどうしよう。
なんだか情けなくなってきたのでミカゼは考えるのをやめた。
次の機会は必ずものにすると、心に決めて。
やがて訓練施設に着いた。
施設の前に職員が居るわけではなかったが、ミカゼは躊躇わずに重い扉を開け、中に入る。
すると、そこには白衣を着た見慣れない女性が立っていた。
読んでくださり、ありがとうございます。
汗〝とか〟ってなんでしょうね(ニッコリ)