第八十六話:サクラ
サクラ、という名は父親に付けられた名前らしい。
らしいというのは、サクラにとって父親という存在に関する記憶がまったくと言っていいほどないからだ。十年近く前に毒殺されて死んだのだが、それを悲しめるほどの面識があったわけでもなかった。
血縁では間違いなく父親に該当するが、幼い頃の記憶の中にその父親の姿があったことはない。それは、父という名の他人と表現したほうが正しいのかもしれなかった。
父親……前カーリア王からすれば数多くいる妾の内の一人の子だ。その扱いは、市井の民となんら変わらない。何せ、向こう(国王)からすれば母は特別な存在ではなかった。たまたま気に入る容姿の女性がいたから手を出したという、それはそれは横暴極まりない理由。
その横暴に遭遇し、相手がその横暴を振るえることがサクラの母にとって、不運だった。
現在城下町に住んでいる母親は、その昔カーリア国魔法剣士隊に務めていた魔法剣士である。氷魔法を操り、その腕は中々のものだった―――というのは幼い頃から様々なことを教えてくれたアルフレッドの弁である。
サクラにとっては、見知らぬ父よりも勉学から戦い方までを教えてくれたアルフレッドのほうが父親“らしい”存在だった。例えそれが将来国を支える人材を育てるための行為だったとしても、その感情は揺らがないだろう。
幸いというべきか、サクラには母親譲りの氷魔法の才とそれを操る魔力があった。
アルフレッドの指導は国政の急がしさで面倒を見る暇がなくなるまでだったが、それでも才能を努力で育て、その身を国内でも有数の使い手になるまで育て上げた。
こと戦闘においては、師であるアルフレッドと『召喚の巫女』であるカグラを除けば国内でも最強に近い。それでいて、その強さを知るのはごく少数の人間だけだ。
そして、その秘匿性と強さを買われたサクラに与えられた役目が次代国王の護衛である。もっとも、護衛と言っても四六時中張り付くわけではないが。
過去に召喚された王達の年齢は、高くても成人程度。低くて十五歳前後と、若年の者が召喚されている。
新しい国王の年齢は、過去の事例から見てもサクラと大差ない。差があったとしても、高くて精々五歳前後、低くてもサクラと同い年程度の者が召喚されるというのが召喚前に立てられた予想だった。
それらの事柄を踏まえれば、サクラに課せられた役目は日常生活の世話や護衛だけではない。召喚された王を補佐するカグラ同様、王がこの世界で“生きていきたくなる”ようにしなければならない。
その点で言えば、父親同様の黒髪にやや幼さがあるものの整った顔立ちを持つサクラは召喚されてくる者の傍に置くのに丁度良かった。
顔の造形もほぼ日本人と同じで無用な警戒を抱かせないし、元の世界の人間と近い造形の顔ならば親しみを覚えやすいだろう。少しばかりドジなところが玉に瑕ではあったが。
あとは次第に打ち解けていき、この国で国王を続けてもらうために“飴”を与える。それが、世話や護衛の他に任された役目だ。
余談ではあるが、サクラと“同じ境遇”で、その上友人であるシアラもその役目の候補に挙がっていたが、生来の性格が王の世話には向かないだろうという理由から外されている。
そんな思惑のもとに役目を与えられたサクラだったが、とある問題が起きた。
それは過去に例のない、国王を含んだ三人の異世界人の同時召喚である。男性二人に女性一人を召喚という、過去の召喚でも起こりえなかった事態だ。
それでも無事に当代の国王が召喚されており、サクラは新しい王……義人に仕えることになった。
召喚当日は義人の精神状態を考慮して対面できなかったが、その翌日からサクラのメイドとしての生活が始まったのである。
そんなサクラが義人に対して抱いた第一印象は、『変な人』だった。
召喚当日に自分の食事の質を下げるよう命令をする。
気さくで分け隔てがなく、臣下に対して気安い関係を求める。
机の上で山のように積もった政務に関する紙や羊皮紙の束を見て悲鳴を上げる。
そんな『変な人』だ。
だが、時折愚痴を吐きながらも積もりに積もった仕事を一ヶ月で片付けてしまった頃には第一印象は変わっていた。
『お姫様の殺人人形』という魔法人形を使っての暗殺未遂事件。その際に義人を守ることができなかったカグラや、自分に対する処置。
甘さが目立つものの、それでも『変な人』ではなく『守るべき者』という印象を抱いた。それでも本人は相変わらずと言うべきか、時折妙なことを言い出してカグラに怒られてはいたが。
――そして、その印象がさらに変わることがあった。
「はぁ……」
そこまで思考を巡らせて、サクラはため息を吐く。自身に宛がわれた部屋に置かれていたベッドに腰をかけ、手には小さな木箱を持って顔を俯かせる。
就寝前のため、服装はメイド服ではない。これから到来する冬の季節にも大丈夫なように、厚手ながらも柔らかさを感じさせる薄黄色の生地で作られた優希お手製の寝巻き……平たく言えばパジャマを身に纏っていた。
サクラは顔を伏せたまま、割れ物を扱うかのように手に持った木箱を開ける。それは、両手で持てば見えなくなってしまうような大きさの木箱。
ふたを開けた中から出てきた物を見てもう一度ため息を吐く。そして、丁寧な手つきで“それ”を手に持った。
それは、過ぎ去った夏の日に義人が渡した桜の花の髪飾り。義人手ずから選び、渡したもの。
義人本人からすれば特別なものではない。カグラに黙って城下町の視察へ行き、偶然志信が見つけた装飾屋で見繕ったものだ。
それでもサクラにとって義人の印象……否、感情をさらに変えることとなった。
『守るべき人』ではなく、『守りたい人』へ。
役目だからではなく、奔放な主君を自らの意思で支えたい、守りたいと思えるようになった。それが、新しい感情である。
もちろん、それまでもそういった意思はあった。しかし、その感情に比べればその意思は弱い。
忠誠心、親しみ、友愛、慕情。様々な感情が等分に混ざり合ったその感情に、おそらく名前はないだろう。例えるなら恋愛感情に近いが、紙一重で違う。
そもそも、自分ではその役割は無理だとサクラは思っている。姉のような存在であり、上司でもあるカグラでも駄目なのだ。
義人とカグラの間で何かしらの“こと”があったと、いや、起きようとしたことをサクラは二人の雰囲気から察している。だが、義人とカグラの態度を見る限り、カグラの手を義人が振り払ったのだということが窺えた。
サクラにしてみれば、カグラでも駄目だったのなら自分も当然駄目だと思っている。やはり優希がいるからだろうかと首を傾げるものの、解答は出ない。
ならば世話役として、護衛としての役目を全うしようとサクラは決意していた。
そして、今回の事件である。
守るべきが守られ、庇うべきが庇われた。
相手が強かった、などというのは言い訳にもならない。相手の強さを見誤ったのは自分である。自分がしたことは、ほんの少しの時間稼ぎのみ。
後は義人自身が剣を抜き、相手が誘拐の証人としてなるべく生け捕ることを目的としていなければ殺されていたという状況を作り出してしまった。
「はぁ……」
再度、ため息を一つ。
サクラにとって辛いのは、そのことに関して義人が何も咎めなかったことだ。この世界で生きるには、過ぎた甘さ。いくら本当の原因がカール達ではなくハクロア国にあるとはいえ、その甘さは後々命取りになりかねない。同情を引くような境遇を持った刺客が殺そうとすれば、義人は相手が刺客とはいえ躊躇うだろう。
――その時はヨシト様の身代わりになるけど……はぁ。
内心ですらため息を吐くサクラ。だが、次の瞬間腹部に走った鈍い痛みで顔を顰める。
「いたた……まだ痛みが引かないなぁ……」
そう呟き、サクラはパジャマの上着を軽くめくった。
そして視線を落としてみれば、鳩尾の辺りが薄黒く変色している。それを見て、 サクラは今日一日で数え切れないほど吐いたため息をもう一度吐いた。
レンシア国第二魔法剣士隊隊長、カール=シュトラウト。資料と噂話程度でしか知らなかったが、その強さは自分を数段上回っていた。
腹部の痣は、そんな彼に殴られたのが原因である。サクラはまだ知り得ぬことだが、カールの攻撃は風を纏った一撃だ。カールは移動だけではなく、攻撃や防御にも風の魔法を応用する。それによって今まで生き延びてきたのだが、そんなカールの繰り出した拳はサクラに重大なダメージを与えていた。
肋骨はなんとか折れていない。内臓にもそこまで異常はない。だが、それでも体の芯に痛みが残っている。動くのに支障はないが、痛みのせいでいつもより動きが緩慢にならざるを得なかった。
外傷には効果がある治癒魔法も、病気や体の内部の傷を治すことはできない。それでもサクラは、『ヨシト様に気付かれて余計な心配をかけるよりはいいや』と一人頷き……不意に、扉がノックされる音を聞いた。
「おっす、サクラ。ちょっと良いか?」
次いで、扉の外から聞こえる義人の声。それを聞いたサクラは、慌ててパジャマの上着を元に戻す。そして、桜の髪飾りを木箱に戻すと机の上に置いてから口を開いた。
「ど、どうぞ」
「んじゃ、失礼しますよっと」
義人はそんなことを口にしつつ、サクラの部屋の扉を開ける。そして部屋の中に足を踏み入れたところで、気まずそうに視線を逸らした。
「あー……ごめん。もしかして寝るところだった?」
言われて、サクラは自分の姿を確認する。上着を元に戻すことと髪飾りに気を取られ、自分がどんな格好をしているか失念していた。
寝巻き姿など、アルフレッドを含めて異性の目に晒したことなどない。家族や同性ならばまだしも、夫でもない男性に見せるような服装ではないのだ。そのことを意識して、サクラは自分の顔が赤くなるのを自覚した。
それに対して、義人にとっては寝るところを邪魔してしまったかという気まずい感情が大半を占めている。昔、優希とは互いの家に泊まり合ったこともあるために、パジャマ姿にも表面上はほとんど動揺することはなかった。
「ま、まだ起きているつもりでしたけど……何か御用ですか?」
サクラは服装のことを思考の中から一度追い出すと、とりあえず話しかける。義人がわざわざ部屋を尋ねてきたのだ。
『戯け、その“気が乗らない日”がこれからずっと続いたらどうするんじゃ? お主の気遣いは美徳じゃがな、場の雰囲気を乱す者は注意するものじゃ。でなくては仕事が捗らんじゃろう。それに、お主は国王。その仕事の邪魔をされるくらいなら、メイドではなく他の者を傍に置き変えるのも責務のうちじゃ』
そんな、ノーレに向けられた言葉が頭に掠める。義人自ら、役目の解任を告げにきたのかと僅かに血の気が引く。
「いや、夕方ノーレに説教されただろ? それでサクラの様子が気になって見にきたんだ」
だが、義人から向けられたのはそんな言葉だった。
近くを通りかかったのもあるけど、と笑いながら小さく付け足す義人。それを聞いたサクラは、内心でああ、と呟く。
国王として、臣下の様子が気になったのだろう。だが、その気のかけ方は臣下というよりも友人知人にかける気遣いに近い。
サクラを解任するつもりなどまったくないのだろう。義人はノーレの言葉で落ち込んだかもしれないサクラを励ますために、この部屋を訪れた。
そのことだけで立ち直れると、今までの自分で在ろうとサクラは内心で呟く。
「お気遣い、ありがとうございます」
そのことに、サクラは頭を下げる。夕方のように辛気臭い顔をしていれば、義人は心配するだろうと自然に微笑みながら。
「ん……まあ、その、なんだろう。少しは元気になったみたいで良かった。これなら、明日にはいつものサクラに戻ってるかな?」
サクラの表情を見た義人は、表情を緩めながらそんなことを口にした。それを聞いたサクラは、僅かに首を傾げる。
「いつものって……ヨシト様はいつもどんな風にわたしを見ているんですか?」
「そりゃアレだ。お茶を入れるのが上手だけどちょっとドジで、そんなところが癒される俺より強い女の子、かな?」
そう言って義人は苦笑し、サクラをポンポンと撫でた。
「……ここは喜ぶところなんでしょうか?」
いまいち諸手を挙げて喜べないサクラ。そんなサクラに、義人は『さあ?』と無責任に肩を竦める。
サクラはそんな義人に苦笑し、義人は苦笑するサクラを見て安心する。
――どうやら、ノーレの説教だけで吹っ切れてたみたいだな。こりゃ、余計なお世話だったなぁ……。
少しは王様らしいことをしようと意気込んできたものの、どうやらすでに解決していたらしい。それでも、サクラの表情がここ数日の中でも最も生き生きとしていることに満足する。これなら明日淹れてもらうお茶を美味しく飲めるだろうと、義人は小さく笑った。
「どうやら、ノーレの言葉で元気になれたみたいだな。こんな時間にお邪魔して悪かったよ」
そう言って、義人は部屋を出るべく立ち上がる。それを見たサクラは、見送りだけでもするべきだと声をかけた。
「あ、見送りを……っ!」
そう言ってサクラは立ち上がろうとして、腹部に走った痛みで思わずよろける。そして思わず服の上から右手で鳩尾の辺りを押さえると、それを見た義人が顔色を変えた。
「サクラ? どうした?」
「……いえ……なんでも、ありません」
気が緩んだためか、痛みが酷く感じられる。
そんなサクラの様子を見た義人は一瞬腹痛かと考えたが、サクラの痛がり方は明らかに違う。まるで打撲の箇所を庇うようなその仕草は、サクラの言葉が嘘だと判断させるには十分だった。
義人の頭に、ごく最近のサクラの様子が思い出される。いつもに比べて緩慢な動きと、どこかふらつくような足取り。その上、目の前で明らかに痛みを堪えているサクラの姿。
義人はサクラが右手で鳩尾の辺りを押さえているのを見ると、僅かに眉を寄せる。その場所は、カールと戦っている時に殴られた場所ではないのかと。
そこまで思考した義人は、無言のままでサクラの右手を握る。
「ヨ、ヨシト様?」
突然手を握られたサクラは困惑した顔をするが、義人はそれに構わずサクラの右手をどけると、パジャマの上から軽くサクラの鳩尾部分を押した。
「っ!」
それだけで、サクラは痛みに顔をしかめる。それを見た義人は、目を細めて歯を噛み締めた。
「それ、カールに殴られた時の怪我だろ?」
確信を持って、義人が尋ねる。
「……はい」
その声色から誤魔化せないと悟ったサクラは、僅かに逡巡した後頷いた。すると、義人は瞳に怒りの色を見せて口を開く。
「なんで黙ってたんだ?」
「それは……」
ヨシト様に心配をかけないように、と囁くような小さな言葉に、義人は大きなため息を吐く。そこまで自分は頼りない主君だったのかと、自身に対する落胆を込めて。
「そういう気遣いは逆に心配するっての……ったく、なんで気付けないかね俺も。ほら、サクラはベッドで大人しく寝ててくれ」
“自分に対する怒り”を抑え、義人は苦笑を浮かべてサクラをベッドへ寝かせる。そして大人しくしているよう厳命すると、部屋を飛び出すのだった。
「すぅ……すぅ……」
その一時間後、安らかに寝息を立てて眠るサクラの傍に立つ義人の姿があった。
レンシア国側に事情を話して脅迫……もとい、お願いをして手に入れた薬が効いているのか、その表情は穏やかだ。
城の医者は、体の治癒機能を高める魔法薬と塗り薬の効果ですぐに良くなるだろうと言い残し、すでにこの場にいない。
さすがに塗り薬を塗るときは部屋を追い出されたためにどれだけ効果があるか義人にはわからなかったが、現在のサクラの顔色を見る限りきちんとした効果があるのだろう。
「まったく、王様らしいことをしようと思った矢先に自分の駄目さを知るとはねぇ」
苦笑交じりにそう呟き、義人はサクラの頬にかかった髪を優しく払う。そして、サクラを起こさないようにと静かに部屋を出ようとした。
「……んん……すいま、せん。ありがとう……ございました……」
だが、義人は扉を静かに閉めようとしてその動きを止める。
寝言だったのか、それとも僅かに目を覚ましたのかわからない。
義人は僅かに苦笑して『おやすみ』と小さく呟いてから、扉を閉めるのだった。