第八十五話:紛い物
コンコン、というノックの音が響き、コルテアは明後日に行われる建国記念式典に関して書かれた書類から顔を上げた。
時刻は午後七時過ぎ。日は既に沈み、窓の外は夜の帳が下りている。卓上に置かれたランプの灯りに照らされたコルテアは、ノックされた扉のほうへと目を向けた。
するとそれと同時に、傍仕えの女性が扉のほうへと歩み寄って扉越しに一言二言言葉を交わす。
コルテアはひとまず書類を机の上に置くと、足音を立てずに戻ってきた女性へと目を向ける。
『どうした?』
『カーリアの王がお目通り願いたいとのことです』
『カーリアの……ヨシト王が? はて、何かあったのだろうか?』
僅かな疑問を口にして、コルテアは首を傾げた。だが、今の段階では判断できる材料も特にない。精々、今回の賠償に関する交渉事かと思った程度だ。
『ふむ、考えても埒が明かぬか』
コルテアがそう呟くと、女性はその意を汲んで扉のほうへと歩み寄る。そして扉に向かって声をかけると、外にいた守衛の兵士が扉をゆっくりと開けた。
『あー……っと、失礼します』
そんな言葉と共に部屋に入ってくる少年……カーリア国の当代の王である義人へと、コルテアは目を向けた。そして、柔和な表情を作る。
『どうなされた? もしや我が城の者が何か粗相でも?』
コルテア自身、そんなことはないだろうと内心で呟く。今回の件での負い目があるため、普通に歓待するよりもさらに気を遣えと厳命してある。
『いえ、そんなことはないです。ちょっとお聞きしたいことがありまして』
そう言いながら、義人は僅かに目を逸らしてコルテアの傍に控える女性へと目を向けた。その仕草から内密な話かと当たりをつけたコルテアは、女性のほうへと視線を向ける。すると、傍仕えの女性は頭を下げた。
『外に控えております。何かありましたらお呼びください』
そう言って部屋の入り口へと向かい、その途中で義人にも一礼していく。その一礼を受けた義人が少し慌てたように頭を下げると、女性は礼を返された驚きから僅かに目を見開いてその動きを止めた。
『……何か?』
動きが止まったことに、義人が不思議そうな顔をして口を開く。そんな義人に対して、女性
は再度頭を下げた。
『いえ、失礼いたしました』
『はぁ……』
再度頭を下げた女性に対し、曖昧な言葉を返す義人。そして女性が部屋から退室するのを見届けると、コルテアへと向き直って小さく頭を下げる。
『突然お邪魔してしまい、すみません』
そんな言葉をかけてくる義人に来客用の椅子を勧めつつ、コルテアは目の前の義人を観察するように見た。
初めて顔合わせをした時、コルテアが最初に驚いたのはその若さである。事前に様々な情報を得ていたとはいえ、実際に対面したときの義人の若年振りには内心驚いたものだ。
前回カーリア王と会ったのは十年以上前になる。その時のカーリア王は前代で、歳は自分よりも上だった。だが、その時に前代のカーリア王に対して抱いた印象は“金に溺れた俗物”である。
これでは補佐をするアルフレッド殿が大変だと、人にあらぬ身でありながら尊敬に足るエルフを気の毒に思ったことは余談だ。
しかし前代のカーリア王が部下の謀略で暗殺されたのが十年前。それ以降は王が不在なのに国が運営されるという、コルテアからすれば理解できない状態にカーリア国はあった。
元々、他の世界から新しい王を召喚するという風習を持つ国である。例えるならば、隣の家に住んでいるがその素性はわからないという、謎の隣人だ。
そしてその謎の隣人が、今回三人ほど召喚されたと聞いたのが今年の五月。ハクロア国との小競り合いを超えた大戦で受けた被害の復旧の傍ら、諜報を担当する臣下に情報を得るよう指示も出した。
今回召喚された王がどんな人物か、どんな政策や行動を行ったかも調べさせてある。それらの情報を得てコルテアが下した評価は、悪くはないがそこまで良いわけでもない。
実際に顔を合わせて自己紹介を受けたものの、実は志信が本当の王で義人は影武者ではないかと思ったりもしたのだ。
コルテアがそう思うほど、現在来客用の椅子に腰を下ろしている義人は“王”らしくなかった。
『それで、一体何の御用ですかな?』
それらを表に出さず、コルテアは尋ねる。その問いに対し、義人は頬を掻いてから少し困ったように口を開いた。
『いきなりで、なおかつ変なことを聞くと思うのでしょうが……』
前置きにそう言って、
『王って、何でしょう?』
義人は、そんな言葉を口にした。
『王って、何でしょう?』
義人はそう口にして、我ながら何とも抽象的な問いだと内心苦笑する。
わからないなら本物に聞けば良い。安易な考えながらも、この国に来て、この国の人間と顔を合わせ、言葉を交わして感じた違和感を解消するにはそれしか浮かばなかった。
『王とは何か、とな……』
案の定というべきか、コルテアは困惑している。大方、カール達が攻撃を仕掛けてきたことに対する交渉を想定していたのだろうと、義人は内心で苦笑した。今までのどこか探るような視線は、不意を突かれたことでその色を失っている。
『ええ。ご存知でしょうが、俺はこの世界の人間じゃありません。いきなりこの世界に召喚された、異世界の人間です。カーリア国の慣習に則って王という地位に就きましたが、
元は何の地位もないただの人間です』
慣れないコモナ語を頭の中で組み上げ、義人は言葉を続けていく。
『だから、聞きたいんです。“本物”の、王という立場にいる人間の話を』
そこまで言って言葉を切る。そのまま義人がコルテアを見れば、コルテアはどこか戸惑ったような表情になっていた。それを見た義人は、急すぎたかと苦笑する。
この世界の人間……特に、義人にとって身近なところで言えばカグラやサクラなどと接していても、時折感じることがあった違和感。現代人の感覚と、この世界では当たり前の感覚とのギャップ。それらは義人の中で燻り続け、今回コルテアに話を聞きたいと思わせるほどに大きくなった。
『これは俺個人の、滝峰義人としての願いです。ですから、断られても文句などありません……しかし、聞かせていただけると明日からの“交渉”がスムーズに……いえ、潤滑に進むかもしれません』
そう言って、義人は僅かに口の端を吊り上げる。個人と言いつつも実際には交渉に関してちらつかせ、その内心では交渉を担当している財務大臣のロッサにどう説明しようかと悩んでい
た。
そんな義人に対し、コルテアは僅かな黙考の後に口を開く。
『それでは逆にお聞きするが、ヨシト王は“王”とはどんなものかと思いますかな?』
探るようにかけられた問いに、義人は思案する。そして、ポツリと呟く。
『その国が、国として成り立つようにする者……国のまとめ役ですかね』
『国のまとめ役、とな。なるほど、確かにその通りではありますな。しかし、それは一面に過ぎぬとも言える』
『王の一面ですか……では、コルテア王はどう思っているんですか?』
教えを乞うように尋ねると、コルテアは表情を引き締めた。
『ヨシト王の言う通り国のまとめ役であり、国を外敵から守りつつも発展させる者であり、民の生活を保障する役割を持つ責任者であり、国でも最大の権力を有する者であり……』
そこまで言うと、コルテアの目が刃のように鋭くなる。
『―――国でも最大の殺戮者、と言えるでしょうな』
そう言い放つコルテアに、義人は気圧されるのを感じた。コルテアの言葉を理解するのと同時に、体温すら下がったように感じられる。
『殺戮者、ですか……』
尋ねた声は、少し震えていた。そんな義人の様子を見て取ったコルテアだったが、雰囲気を和らげることなく話を続けていく。
『我が国がハクロアと長年に渡って戦を行っていることをご存知ですな?』
『はい』
それは知っていると、義人は頷く。
『実際に戦うのは将兵。しかし、戦うように命じるのは王である自分。敵の将兵と戦え、敵の将兵を殺せと命じる。たしかに、実際に手を汚すのは己ではない。だが、“それ”は王の命で行ったこと。返り血は浴びずとも、殺したのは王であるこの身。“最も安全な場所”で“最も多くの人間を殺す”……わかりますかな?』
『それは……』
今度は、頷けない。そんな戸惑う義人に、コルテアは年長者が若輩に向ける労わりのような優しさと、厳しさがこもった目を向ける。そして、コルテアは敢えて敬語を止めた。
『もちろん、そういった命令を下すのは戦時だけではない。疫病が流行った時に、発生源の村を村人ごと焼き払うこととてある。罪人の処刑を命じ、首を落とさせることとてある。己の失策が、民や将兵を殺すこともある。しかしそれでもなお、国を、民を導かなくてはならない。それが上に立つ者の役目で、責務である』
もちろんそれも一面だが、と付け足すコルテア。それらの言葉は、実際に己も行ってきたという重さがある。王として、コルテア個人としての経験であり、積み重ねてきたものだ。
義人は自分自身に、『疫病が発生したらその村を焼き払うか』と尋ねてみた。すると、すぐに答えが返ってくる。
答えは否、だと。正確には、できないと。
『では質問をするとしよう』
そんな義人に対し、コルテアは指を二本立てて見せる。
『二つの村が同時に他国の軍、もしくは魔物や山賊などに襲われているとする。村と村の間には距離があり、さらに戦力的にもどちらか片方しか救助にいけない。もしも救助の手を二つに分けた場合、その救助の者達は全滅してしまう。そして、片方の村の救助が終わる頃にはもう片方の村が全滅する。さて、そんなときはどうするかね?』
そう言って、コルテアは立てた二本の指を一本折る。それを見た義人は、眉を寄せた。
『……それは、絶対に助けられないという前提なんですか?』
『そうだ』
頷くコルテア。義人はしばらく考えるものの、答えが出ない。
すると、コルテアは先程折った指をもう一度伸ばし、再度二本の指を立てる。
『では、条件を変えよう。片方の村には百人の民が住んでいるとする。そしてもう片方には五十人の民が住んでいるとする。さて、それならどちらに救助を向かわせるかね?』
そう尋ねてくるコルテアに、義人は思わず食って掛かりそうになった。人の数は物のように数えられるものではないと、そう抗議しようとして、そんなことは百も承知かと自分を抑える。そして数十秒の沈黙の後に、義人は答えた。
『百人のほうを、救います』
『ふむ……それは何故かね?』
『両方助けられないのなら、少しでも数の多いほうを助ける。それだけのことです』
コルテアはなるほど、と頷く。大を生かすために小を殺す、“当たり前”の答えだ。そう心の中で呟き、次の問いを口にする。
『では、とある村に三百人の民が住んでいるとする。そしてとある村には三十人の民が住んでいるとしよう。ただし、その三十人の中には君にとって最も大切な者が含まれているものとする。さて、どちらに救助を向かわせるかね?』
『その大切な者っていうのは……』
『君にとって、最も大切な者だ。妻子、親、兄弟姉妹、血族、恋人、親友。三百人を助けるか、それとも大切な者を含んだ三十人を助けるか……どちらかね?』
義人は沈黙し、視線を宙に向ける。最も大切な者、と小さく呟いて、この世界でそれに該当する人物を思い浮かべた。
最初に思い浮かんだのは、優希の顔。続いて志信の顔が頭に思い浮かび、義人はその二人のどちらのほうが大切かと考え、そこで思考を打ち切る。
優希と志信の二人と見知らぬ三百人を秤にかけ、どちらに傾くか。嫌な質問だと苦く思いつつ、義人は熟考の末に答えを口にする。
『俺は、大切な人を助けます』
小を取って大を殺すと、そう口にする。見知らぬ他人を見捨て、大切な者を助けると、そう口にした。
『それは、私情というものだ』
その義人の言葉を、コルテアは切って捨てる。
しかし、先程の問いにも例外はある。もしも危機に晒されているのが自分の娘達……この場合では家族としての意味ではなく、婿を取って王位を継承させるために必要な人材だった時は、助けに行くだろう。そうでなくては、国を導く者がいなくなってしまう。だが、そうでなかったらコルテアは千人を取る。
それこそまさに大を取って小を殺す選択だ。そうしなくては、見捨てられた民に関わる者達が叛意を抱くだろう。百人を取って千人を見捨てれば、その千人と親しかった別の者達が不満を抱く。
もっとも、そんな選択を迫られる時点で最悪であり、それを回避するのが当たり前だ。
『私情で大切な者を救う。それは人間ならば当然だと言えるだろう。だが、救ったことでその大切な者はこうも思うだろう。自分を救う代わりに、多くの人が死んだのだと。そうなれば、命は救えても心は救えない。それでも救うというのかね?』
『それは……』
義人は答えない。いや、答えることができない。
もし本当にそんな状況が訪れたら? そう考え、義人は泥沼にはまったように悩む。いや、しかし、でもと様々な考えが頭の中を通り過ぎ、それでもなお、答えは出ない。
そうやって悩む義人を見て、コルテアは僅かに相好を崩す。
『すぐに答えは出ないはず……儂とて、散々悩んだものだよ。もちろん、今でも悩むことはある。どれが正解で、どれが間違っているのかなど後にならないとわからない。それでも決断をしなければならないのが“王”というもの……少しは参考になったかね?』
柔和な声色で話しかけてくるコルテアに、義人は一度思考を止める。そして、姿勢を正して頭を下げた。
『少しどころか、とても。正直、本当に話してもらえるとは思っていませんでした』
『なに、これで少しでも“交渉”が潤滑に進むのなら安いものです』
個人としてのコルテアは終わりなのか、口調を元に戻すコルテア。少々冗談混じりのその言葉に、義人は相好を崩す。
『打算的なんですね』
『それも王には必要な要素ですぞ?』
むしろ、全てが打算だとは言わない。
義人は苦笑を一つ残し、椅子から立ち上がる。
『突然の押しかけ、すいませんでした。そして、ありがとうございました』
一礼する義人に、コルテアは頷いて返す。そして義人は踵を返し、コルテアの執務室を後にするのだった。
義人が立ち去った後、コルテアはカーリア国との交渉を任せていた臣下を部屋に呼ぶ。
『お呼びでございますか?』
『うむ。急に呼び出してすまぬな』
呼び出しから五分足らずで到着した臣下を軽く労い、コルテアは口を開いた。
『カーリア国との交渉だが、明日から向こうの出方が変わるやもしれん』
『は……それは、一体?』
コルテアの言葉に、臣下は戸惑った言葉を返す。そんな臣下に、コルテアは小さく笑って見
せた。
『なに、今日のままということも十分に有り得る。だが、もしも違うようならば……』
そう言って、コルテアは臣下へ指示を出す。そこに、半ば以上の確信を持って。
「あー、疲れたなぁ……」
そんな声を漏らし、義人は自身に宛がわれた部屋へと足を向ける。話を聞くのにノーレは無用と、今はほぼ丸腰だった。もちろん、護衛に魔法剣士隊の兵士が付き従ってはいるのだが。
コルテアの話は、義人にとって貴重なものだった。そもそも価値観が違うこの世界では、元の世界での常識など通用しない。ましてや、一国を治める王など日本にはいなかった。
それが、“本物”の王様に話を聞くことができた。もっとも、コルテアが話したのは厚意ではなく打算からだろう。
「あとでロッサを呼んで、明日からの交渉について少し話すか……」
歩きながらそう呟く義人だったが、ふと足を止める。それに従うように、傍を歩いていた兵士も足を止めた。
「どうかしましたか?」
「いや、そういえばこの辺はカーリア国の使者向けに宛がわれた部屋が多かったなと思って」
そう言って、義人は周囲を見回す。客室を宛がわれたのは、義人だけではない。カーリア国の城よりも多少大きいこの城には多くの部屋があり、それぞれが部屋を借りていた。
義人は誰がどの部屋にいるかを頭の中から探し出し、自分の部屋とは違う方向へと足を向ける。
このまま部屋に戻る気分でもない。義人は、夕方にノーレから説教を受けたサクラの部屋へと足を向ける。
――まあ、俺も少しは王様らしいことをするかね。
内心で、そんなことを思う。例え“紛い物”の王様でも、できることはある。
コルテアの言うような大を取って小を殺す命令を出すわけでもなく、まずは自分にできそうな周囲の人間関係の改善を目標にして、義人はサクラがいる部屋の扉をノックするのであった。