第七十八話:変化
縦横無尽に繰り出される斬撃と、それを迎え撃つ氷の刃。
サクラとカールの戦いは、“初めこそ”拮抗していた。
「っ!」
首を薙ぎにきた一閃を氷の刃先で逸らし、同時に逆から胴を狙う一閃は身を引くことで回避する。サクラはそこから反撃すべく踏み込もうとするが、捌いたはずの斬撃が同じ速度で別の場所を狙ってくるのでそうもいかずに再び防御に回った。
相手は攻撃の後で隙があるというのに、攻撃をする隙がないという矛盾。双剣を時には弾かれ、時には逸らされた後の不自然な体勢だというのに、繰り出されるのは全ての体重を乗せきったような重い一撃。取り回しがしやすいようにか、双剣は普通の両手持ちの剣に比べるとやや短い。だが、それでも不自然な体勢からすぐさま鋭い斬撃を放てる道理はないのだ。
サクラはそんな不可解な現象を前に動揺しながらも、義人を背に庇いながら両手の氷の刃を振るう。
今しがた、カールを援護していたヤナギを倒すために志信が向かった。『無効化』の棍はほとんど効力が切れているとはいえ、志信の高い察知能力と身体能力は“魔法使い”にとっては天敵といえる。多少骨が折れるが、ヤナギを倒しきるまでカールを押さえ込むのは可能だろう。
この時、サクラはそんな“楽観”をしていた。
だが、サクラの様子を見て取ったのかカールが僅かに口の端を吊り上げる。
『戦いの最中に楽観とは、余裕だな』
袈裟に切り裂こうと剣を振るいつつ、カールがコモナ語でそんな言葉をかける。サクラは斬撃を避けつつ、その言葉に対して眉を寄せた。しかし、すぐに表情を取り繕って口を開く。
『何の“カラクリ”があるのかは知りませんが、それだけで易々と倒されるほど甘い鍛錬を積んだ覚えはありません』
カールの斬撃を防ぎつつ、サクラもコモナ語でそう答える。すると、その言葉を聞いたカールは僅かに落胆の色を覗かせた。
『倒すだけ、殺すだけで良いのなら楽なんだけどな』
『どういう、ことですか?』
言葉に込められた意味を考え、サクラの口調に僅かな険が混じる。そんなサクラに対し、カールは気負わない口調で告げた。
『相手の力量を正確に把握するのも実力の内だってことだ。アンタは俺を抑えているつもりだろうけど、逆だよ』
そこまで口にすると、カールは挑発染みた笑みを浮かべる。それを聞いたサクラは、目を細めると僅かに声色を低くした。
『貴方が、わたしを抑えていると?』
そう言ってサクラは強く踏み込み、『強化』によって向上した膂力と体重を勢いに乗せてカールへと繰り出す。カールは身を引くことでその一撃を事も無げに回避すると、サクラの背後に少しだけ視線を向けた。
『弱っている奴や弱い奴がいるなら、そちらから無力化する。俺に比べたら、ヤナギのほうが無力化するのに適してるんでね』
その言葉に続くように、カールは僅かに表情を変える。
『あっちは時間の問題か。俺もそろそろアンタを捕まえようと思うが……今ならまだ大人しく捕まえてやるぞ?』
『捕まる理由がわかりませんが?』
『そうかい』
サクラの言葉をどう受け取ったのか、カールが表情を消す。そして、軽く地を蹴った。
『なら、多少強引にでも捕まえる』
そんな言葉を残し、カールが“視界から”消える。サクラは一瞬我が目を疑ったが、自身に迫る殺気を感じて咄嗟に右手を振り上げた。その瞬間、氷の刃に何かが当たって刃が砕け散る。
それがカールの攻撃によるものだとサクラが判断するよりも早く、今度は左手の氷の刃が砕け散った。サクラはなんとか距離を取ろうと地面と蹴るが、それに続くように鳩尾へ衝撃を受けて後ろへと弾き飛ばされる。苦痛による悲鳴を上げる暇もなく地面へ叩きつけられ、そのまま数メートルほど転がって動きを止めた。
「……あ……う……」
直前で後ろに跳んだおかげが、気を失ってはいない。だが、立ち上がることはおろか痛みで喋ることもできず、サクラはか細い呼吸を繰り返す。
『やれやれ……エリス様を攫った相手とはいえ、年下の女の子を殴るっていうのは気が引けるな……』
右手に持った剣を鞘に納め、そこから鳩尾へと拳を繰り出したカールは殴り飛ばしたままの体勢でそう呟く。そして体勢を解くと、懐からロープを取り出した。
『もっと持ってきとけば良かったか……ん? っと!』
倒れたサクラにカールが歩み寄ろうとした時、不意に進行方向を変えて後ろへと跳ぶ。そして鞘に納めた右の剣を抜くと、“進行方向を変えた原因”へと目を向けた。
『不意打ちか? それにしてはずいぶんとお粗末な魔法だったが』
そう言って挑発するように剣を持ち上げ、風の魔法を放ってきた義人へと口元を吊り上げて笑いかける。義人はノーレを振り切った体勢からすぐさま正眼に構え直すと、ゆっくりと息を吐き出した。
その表情は強張っているが、それでもサクラを庇うように前に出る。するとそれを見たカールは僅かに首を傾げ、続いてつまらなそうに鼻を鳴らして威圧するような雰囲気を放つ。
それでも義人はノーレを構え続け、油断すれば震えそうになる自身の体を抑えつけた。
『相手との力量が……といっても、アンタはわからないみたいだな。“その域”まできてないのか、それとも単に無鉄砲なだけか』
義人の様子を見て取ったカールは、ゆっくりと歩を進めながらそう声をかける。それを聞いた義人は返答の言葉を返そうとしたが、緊張した頭では上手くコモナ語を考えることができず、結局は何も言わずにノーレを構えるだけだ。すると、カールがやれやれと言わんばかりに肩を竦めた。
『下手な抵抗はしないでくれよ?』
そう言葉を残し、カールが地を蹴る。サクラの時と比べると遅いが、それでも義人の目にはほとんど映らない速度で迫る。
『右じゃ!』
「っ!」
ノーレの言葉に反応し、義人はすぐさま握った王剣を右へと振り抜く。体重の乗り切らない一撃だったが、それでもノーレを叩き落しにきたカールの剣を弾くことができた。すると、防がれるとは思っていなかったのかカールが少し驚いたような表情を浮かべる。だが、驚きながらもすでに二撃目が義人の傍まで迫っていた。
『後ろに一歩引くんじゃ!』
ノーレの言葉を信じ、義人はすぐに一歩後ろへと下がる。それと同時にノーレが剣先から風を発生させ、カールの太刀筋を僅かに変えた。
義人は顔の横二十センチほどの位置を通過する剣先に冷や汗を流しつつ、次々に繰り出される斬撃をノーレの指示に従って防いでいく。
時には弾き、時にはかわし、時には受ける。防ぎようがない場合はノーレが風を放つことで回避し、紙一重で避け続ける。
そうやって切り結ぶ、否、カールの一方的な攻撃を三十合ほど受けきると、カールが不意に双剣を振る腕を止めた。そして興味深そうに義人を見ると、視線を鋭くして腰を落とす。
『動きは素人臭いのに攻撃はしっかり防ぐか。目が良いのか、それとも別の何かか。時間もかけられないしな……あまり手加減はいらないか』
そんな言葉と共に踏み込み、振るわれる双剣。だが、先程までとは様子が違う。義人は剣の周りに“何か”の力が働いているのを肌で感じ、ノーレは義人よりも正確に現状を把握して指示を出す。
『受けずに避けるんじゃ!』
首筋と右腕を狙って放たれる斬撃を前に、義人はノーレの言葉通り回避するために後ろへと跳躍することで回避を試みる。だが、空振りした双剣から“何か”が放たれ義人を狙い撃つ。
「っつ!」
“何か”……双剣から放たれた鎌鼬が左頬を掠めるが、義人は痛みを堪えながらノーレを振るう。それと同時に義人がノーレへと魔力を送り、魔力を受け取ったノーレが迎撃用の鎌鼬を生み出してカールの魔法を相殺していく。しかし、カールは自身の魔法を相殺されても動揺することはない。怜悧な眼差しで義人を見据え、次々と急所目掛けて斬撃を繰り出す。
「くっ……そぉっ!」
次々と迫る必死の一撃を、義人は辛うじて防いでいく。だが、防ぐにつれて義人は目の前のカールと自分自身の実力差を正確に認識し始めていた。
義人とて、ここ数ヶ月はほぼ毎日志信の早朝訓練に付き合っている。日中は政務などがあるとはいえ、多少は剣の腕も伸びていた。だが、伸びたが故に相手との差がわかる。身を守れるようにと体を鍛え、それが原因で相手の強さをわかって恐怖するという皮肉に義人は臍を噛む気持ちだった。
――段違いではなく、桁で違う。
そう痛感し、そして何より、何の躊躇もなく急所目掛けて剣を振るうカールが恐ろしかった。
『ノーレ、みんなはこっちに来られないのか!?』
刃先が掠め、肩口に走った鋭い痛みを堪えつつ義人はノーレへと叫びかける。それを聞いたノーレは、すぐさま周囲の様子を確認した。
『仏頂面と魔法使いはこちらに来ようとしておるが、動きようがない。そしてメイドじゃが、まだしばらくは動けそうにないようじゃ』
『っ! じゃあ他の……ミーファ達は!?』
『この騒ぎじゃから駆けつけるとは思うが……あと数分といったところじゃな』
『数分……』
ノーレの言葉に、義人は固い呟きを零す。
あと一分すら耐え切れるかわからない。今でさえすでにあちこちに傷を負い、息は上がりつつある。ノーレを振る腕は重くなっているし、そもそも体全体が重く感じていた。
――逃げる、か?
思わず心の中で呟いた言葉。だが、今はそれが酷く魅力的に思える。しかし、逃げる方法はない。背中を見せればその瞬間に斬られるだろう。それに、倒れているサクラを置いて逃げるわけにもいかなかった。
捕まえるという言葉を聞いてはいたが、それも何故かわからない。下手すれば……と、そこまで考えた時、義人は根本的なことが頭に浮かんだ。
「そもそも、何で俺達を捕まえるんだ?」
思わずそんな言葉を口にする。それを聞いたカールは日本語がわからなかったのか首を傾げた。
なし崩し的に戦っていたが、自分達が捕まる理由がない。向こうにはあるのかもしれないが、少なくともこちらにはなかった。義人がそう思考していると、それを隙だと判断したカールが一気に間合いを詰める。
「しまっ!?」
手元に激しい衝撃。それと同時にノーレが義人の手から離れ、数メートル離れた場所へと飛ぶ。義人は咄嗟に手を伸ばしたが、掴むことはできない。
『動くな』
ノーレを拾うべく義人が地を蹴ろうとした時、そんな言葉と共に首筋に冷たい感触が伝わる。自分の首筋に剣の刃を当てられているのだと気付き、義人は動きを止めた。
『下手な動きはするな。魔法を使おうとするな。口を割らせる“証人”は多いほうが良いが、絶対じゃない。この意味がわかるな?』
殺気と共にそんな言葉を投げかけられ、義人は無意識の内に唾を飲み込む。僅かに腕が震え出すが、それでも聞くべきことがある義人はゆっくりと口を開いた。
『一つ、聞かせてほしい』
義人はここ最近になってようやくまともに話せるようになったコモナ語で話しかける。多少発音にぎこちなさがあったものの、それでも意味が通じたらしくカールが僅かに眉を寄せた。
『なんだ?』
『何で、俺達を捕まえようとする?』
『――は?』
殺気が強まり、同時に義人の首筋へと僅かに刃が食い込む。皮膚が切れそうで切れない嫌な感触に、義人は口を閉ざした。
『何故だと? ふざけているのか?』
『……ふざけてなんか、いない。本当にわからないんだ』
義人がそう言うと、カールの殺気が僅かに弱まる。そして、探るような目つきで口を開く。
『エリス様を攫っておいて、ずいぶんと虫の良い話だな。一国の王女を誘拐する……捕まって当然だと思うが?』
そんなカールの言葉に、義人はようやく相手が何を考えて自分達を捕まえようとしているか理解した。会話が噛み合わないはずだと、ようやく理解できた。だが、王女という単語が頭に引っかかり、義人は自身の記憶を漁る。記憶があやふやだったが、レンシア国の王女の名前に似たような名前があった気がした。
『そのエリス様って子、レンシア国の王女……だったっけ?』
誰かに聞いたか、それともそんな資料を見たかはわからない。だが、今はそんなことを気にしている場合でもなかった。
『その通りだ。わからないというのは嘘だったか?』
再度、剣の刃が首筋へと食い込んでくる。義人は冷や汗を浮かべつつも、否定の言葉を紡ぐ。
『なんで俺達が友好国の王女を攫わなくちゃいけないんだよ。そんなことをしてもメリット……利点がない』
義人がそこまで言うと、カールは眉を寄せる。そして疑惑的な口調で義人へと尋ねた。
『友好国、だと? お前はどうせハクロアの人間だろう?』
『ハクロア? 何でハクロアの名前が……俺はカーリアの人間で、一応国王をやってる。カーリアとレンシアは友好関係にあるんじゃないのか?』
国王という言葉を聞き、カールは目を見開く。だが、首筋に当てた剣を下ろすことはない。義人が言っていることが嘘である可能性がある以上、警戒を解くわけにはいかないかった。
『……国王である証拠は?』
それでも、だいぶ険が取れた声色に義人は多少安堵する。
『そこに転がっている剣……あれは『風と知識の王剣』といって、カーリア国では王にしか使えない剣だ。あと、ちょっと離れた場所に野営地が作ってある。そこまで行けばわかるはず……』
『では、何故王が戦っている?』
『カール』
再度義人へ質問をしようとしたカールを、そんな呼びかけが遮った。義人の首筋に剣の刃を当てたままカールがそちらに少しだけ目を向けると、志信とシアラに杖を突きつけながら歩み寄ってくるヤナギの姿がある。志信もシアラも手には何も持っておらず、シアラが使っていた杖はヤナギが握っていた。だが、二人を連れて歩くヤナギの表情には困惑の色が浮かんでいる。
『何かおかしい。こいつらがエリス様を攫ったとは思えないんだが』
『その理由は?』
『こっちの女はエリス様を知っていたが、男は知らなかった。そして、カールがソイツに剣を突きつけて動けなくしたら抵抗しなくなった』
そう言ってヤナギは志信とシアラを見ると、志信が頷く。シアラは苦痛に呻くサクラを見ながら、両手を強く握り締める。その際怒気を感じ、志信は手でそれを制した。下手な動きを見せれば、義人に危険が及ぶ可能性がある。シアラは口元を強く引き結ぶと、小さく頷いた。
『そっちは何かわかったか?』
ヤナギは志信とシアラの挙動に注意しながらそう尋ねる。それを聞いたカールは、眉を寄せながら答えた。
『本人いわく、カーリアの国王らしいが……確証がない』
『おいおい。本当に国王だったらとんでもない事態だぞ』
カールとヤナギは顔を見合わせ、次いで義人へと視線を移す。その視線を受けた義人は、僅かに固い表情で口を開く。
『とりあえず、野営地まできてくれないか? そうすれば、誤解だってわかると思う』
そんな義人の提案に、カールとヤナギは少しばかり顔を見合わせてから頷いた。
『この方は、間違いなくカーリア国の国王であるヨシト様です』
武器をカール達に渡した状態で野営地に向かい、話を聞いてそんな言葉を放ったのは商人のゴルゾーだった。その言葉を聞いたヤナギは、精彩を欠いた表情で口を開く。
『ゴルゾー。それは、本当か?』
商売のために他国に赴くゴルゾーは顔が広く、ヤナギはゴルゾーの顧客の中の一人である。今回ゴルゾーが運ぶ積荷……大半は米だが、その米の買い手の一部はジパング出身のヤナギだった。何度も顔を合わせたことがあり、ヤナギとしてはゴルゾーは信用に足る人間のため、義人が王であるということも本当なのだろうと信用した。
『はい。本来ならば昨日のうちに王都ハサラへ到着する予定だったのですが、予定よりも進行が遅れてこの場で野営をしておりました。その際、森のほうに人影を見かけたため人を向かわせたと聞いております』
『そうか……』
カールとヤナギは互いに目を合わせる。そして、すぐさま義人の前で膝を突いて頭を下げた。
『弁解の言葉もありません……まさか、カーリア国の王でしたとは露知らず……』
治癒魔法使いに傷を癒してもらいつつその言葉を聞いた義人は、傍で直立するミーファに目を向けた。
『あー……ちなみに、これってどれくらいまずい事態なんだ?』
そんな義人の問いに、ミーファは僅かに考え込む。その周囲では魔法剣士隊の兵が取り囲み、中には義人と同じように治療を受ける志信やシアラの姿がある。サクラは外傷こそほとんどなかったものの、野営地について治療を受ける内に気を失って天幕へと運ばれた。
義人は痛みが消えていく心地良さに浸りつつ、今の状態を把握するべく頭を動かす。
誘拐犯と間違われて襲われた。
言葉にすればこれだけだが、互いの立場に問題がある。
『国としては、十分に戦端を開く理由になります。それくらいの事態かと』
考え込んでいたミーファがそう言うと、義人は『だよなぁ……』と呟く。しかし、いまいち考えがまとまらない。疲労のためか、それとも緊張状態から開放された安心感からか、思考の回転がやけに鈍く感じられた。
『……駄目だ。頭が働いてくれない』
時刻は午前二時を少し過ぎた程度で、義人としては“あれだけ”の体験をしたというのにあまり時間が経っていないように感じられた。しかし、体に圧し掛かる疲労感が酷い。
『はぁ……今すぐに結論を出さなきゃいけないってわけでもないか。とりあえず、えっと……
カールだっけ?』
『はっ……』
本当ならさん付けで呼ぼうとしたが、それは立場柄控える。すると、カールは畏まった様子で返事をした。
『時間も時間だし、明日になればハサラにも到着できる。ここですぐに結論を出すわけにもいかないし、今のところは保留ってことで。それと、そっちの姫様が使う天幕は用意させてるから寝かせてやってほしい』
『……ありがとうございます』
その返事を受け取ると、義人は傷がほとんどふさがっているのを確認してから背を向けた。
「くそ……」
王用の天幕に戻り、布団に腰を下ろした義人は開口一番そう呟いた。そして、安心したせいか今になって小刻みに震える右腕を見下ろし、義人は小さく舌打ちする。腕は震えているのに、手はノーレを握った形のままで動こうとしない。手を開こうとする気も起きず、義人は再度舌打ちをした。
次いで、義人は左手を頬へと伸ばす。カールの放った鎌鼬でできた傷はすでにふさがっており、痛みも残っていない。だが、もしも掠めた位置が頬ではなく首筋だったら頚動脈が切れていたかもしれないのだ。そう考えて、義人は体全体が震えるのを感じた。
『ヨシト……』
そんなヨシトの様子を見て、ノーレが気遣わしげに思念通話で話しかける。その声を聞いた義人は、頬から手を離した。
『なんだ?』
『その、なんじゃ……すまなんだ。妾は、大した力になれなかった』
気落ちしたような口調で話しかけてくるノーレに、義人は僅かに驚きの感情を覚える。そして、少しばかり肩の力を抜いてからそれに答えた。
「そんなことはないさ。ノーレがいなければ、俺は多分死んでたよ」
死んでいた。そう口にして、義人は少しばかり目を見開く。
「……そっか、俺、死んでたかもしれないんだよな」
自分で口にしたことなのに、理解が追いつかない。義人は落ち着かない感覚に眉を寄せると、先程カールと斬り合った……否、必死に攻撃をしのいだ時のことを思い出す。
一度剣を振るわれる度に強く感じた、彼我の差。以前税金を横領したエンブズの屋敷に乗り込んだ際には強く感じなかった危機感。そして、死ぬかもしれないという恐怖感。目を閉じながらそれらを思い出し、義人は深いため息を吐いた。
「……はぁ……本当に、“別世界”だな」
平和だった元の世界とは違うのだと、義人は本当の意味で理解する。自身が王として召喚されたカーリア国が特別だったのだと、この世界は決して平和で安全な世界などではないということを。
「しかし、また面倒なことになったな……」
湧き上がる恐怖感を誤魔化すように、義人は頭を掻きながら呟く。
カール達は現在向かっているレンシア国の人間であり、軍に属する。しかも一部隊を率いる隊長であり、そんな立場の人間が誤解とはいえ他国の王を攻撃して怪我を負わせた。それらの事態は、自身が予想しているよりも大事になるだろう。
そうやって義人が考え事をしていると、ボスボスと天幕を叩く音が耳に届いた。義人はそれがノック代わりだと悟ると、顔を上げる。
「誰だ?」
かけた言葉は、いつもに比べて硬い響きがあった。だが、今の義人にはそれに気付く余裕もない。
「わたしだよ、義人ちゃん。少し良い?」
「……優希か。寝てたんじゃなかったのか?」
てっきり志信かミーファ辺りだと思っていた義人は、僅かに面食らったような言葉を返す。
「さすがに起きちゃった。話も大体は聞いたんだけど、義人ちゃんは大丈夫だったのかなって思ったら心配になっちゃって」
閉められた天幕越しでの会話に、義人は少しばかりため息を吐く。そして、十年以上付き合いのある幼馴染みの顔を見れば落ち着くかもしれないと腰を浮かせた。
「なあ、優希。少しで良いから話さないか?」
時間はすでに午前二時を回っているが、このままでは眠れそうにない。疲労はあるのに、頭が冴えて眠れそうにない。そう思ってかけた言葉に、外にいる優希はすぐさま返事の言葉を口にする。
「うん、いいよ。じゃあ、お邪魔するね?」
そんな言葉と共に、天幕の入り口から優希が顔を覗かせた。優希はいつも寝巻きに使っている薄黄色のゆったりとした服を身に纏い、その上に上着を羽織っている。その優希に続くように小雪が天幕の中に入ってくるが、こちらは半分寝ているのか微妙に足取りが怪しかった。
優希が義人の傍に腰を下ろすと、小雪は優希の膝の上に頭を置いて再び眠りの中へと沈んでいく。
その様子を眺めていた義人は、隣に座った優希へと目を向けた。着ている服こそ寝巻きのものだが、その顔は十年以上見てきた馴染みあるものだ。時間的な長さで言えば両親よりも長い時間見ているかもしれない。
義人が何も喋らずに優希を眺めていると、優希は不思議そうに首を傾げる。
「どうしたの?」
「……いや、優希だなぁって思って」
特に何も考えずにそう言うと、優希は口元に手を当てておかしそうに笑う。
「ふふっ、変な義人ちゃん」
本当に見慣れた、“元の世界”と同じ優希の笑顔。それを見た義人は、僅かに心が揺らぐのを感じた。すると、不意に優希が視線を下へと下げて眉を寄せた。
「手、どうかしたの?」
「え? あ……いや、ちょっとな」
震える腕を見た優希の問いに、義人は曖昧な言葉を返す。すると、優希は義人の目を正面から見つめた。それに対し、義人は僅かに目を逸らす。
「痛いの?」
そう言って優希が手を伸ばし、義人の左手に触る。そして労わるように義人の手を撫でると、口を開いた。
「本当に、大丈夫?」
心配の色を覗かせた瞳で見られ、義人はどう答えるべきか迷う。だが、優希を相手に嘘を言っても通じないだろうと頷いた。
「大丈夫だけどさ……なんていうか、さっきまでこの世界が“元の世界”とは本当に違うんだ
なって実感してたんだよ。でも、優希の顔を見たら落ち着いたっていうか、安心したっていうか……まあ、そんなところかな」
優希に握られた左手の暖かさに少しばかり照れながら、義人は右手で頬を掻く。いつの間にか右手の震えも収まっていたが、義人がそれに気付くことはなかった。
「わたしの顔を見て落ち着いたの?」
きょとんとした表情で優希が尋ねる。その言葉に対して、義人は苦笑交じりの笑みを浮かべた。
「優希の顔っていうか、笑顔というか……まあ、長年見てきたからかな。何か、安心するんだ」
義人がそう言うと、優希ははにかむように微笑む。
「そうなんだ……」
本当に嬉しいと、そう言わんばかりの優希の表情。それと同時に、義人の肩に僅かな重みが加わる。
左手を握りながら、優希は義人へと肩を寄せた。義人はそんな優希の行動に僅かに驚くものの、優希の表情と心地よい重み、そして安心できる暖かさを感じて驚きの感情を消す。
「うん、すごく嬉しい」
小さく、優希が呟く。それを聞いた義人は、不意に強い衝動を感じた。
――もっと触れていたい。
そんな衝動に駆られ、義人は無意識のうちに自身の左手に添えられた優希の手をつかむ。そしてそのまま腕を引き、やや力任せに優希を引き寄せた。腕を引かれた優希は、その勢いで義人の胸へと身を倒す。
「わっ……」
ほぼ無意識に引き寄せた優希からそんな声が上がり、義人は動きを止める。だが、抱きとめた優希から身を離すこともできずに義人はあちこちに視線を飛ばした。
自分は何をしているのか。何を考えているのか。それと抱き締めた優希の感触やら。それらが頭の中で飛び交い、上手く言葉にすることができない。
「あ、いや、その、なんだ……あー……ごめん、何か急に抱き締めたくなった」
義人は言い訳を言おうとするが、適当なものが浮かばず本音で話す。すると、驚いたように義人を見ていた優希が頬を染めて僅かに首を傾げた。
「本当に急だね?」
「そう……だな、急だ。ごめん。何と言うか、その、安心するというかなんというか」
優希を引き寄せた体勢のまま、義人は少しだけ頭を下げる。その際、甘い香りが鼻に届いて義人は視線を下げた。そして、嬉しそうに微笑む優希と視線がぶつかる。
本当に嬉しそうな、優希の笑顔。それを見た瞬間、義人は“本当に”気が緩むのを感じた。
「あ……れ……?」
「義人ちゃん?」
視界が揺れる。それに気付いたのか、優希が声をかけた。だが、それに応えることもできない。完全に気が緩んだせいか、意識が虫食いのように欠落していく。
――やばい、気が遠くなる……。
そう自覚した瞬間、義人はまるでブレーカーで電気を切るように意識を失った。