第七十五話:予感
レンシア国王都ハサラ。
カーリア国の王都フォレスの三倍以上の人口を誇り、その人口に伴った敷地面積を城壁に囲まれたレンシアの主要都市。そのハサラの中でも一番重要な施設である王城の客間で、カグラは一人思案に耽っていた。
馬で駆けて六時間ほどかかる道程を半分の時間で踏破し、レンシア国の現国王であるコルテア=ハーネルンに謁見したのが三時間前。最後にカグラがレンシアに訪れたのは三年以上前になるのだが、記憶にあった人柄に変わりはない。義人達の到着が遅れる旨を伝えたのだが、大した問題もなく謁見は終了し、カグラは僅かに安堵していた。
「あとはヨシト様達の到着を待つだけ、かぁ……」
客間には自分一人しかおらず、気が緩んだカグラはいつもの口調を崩して呟く。だが、すぐに気の緩みに気づいて軽く頭を振った。
「っと、いけませんね」
誰も見ていないが、カグラは口調を改める。そして自分に対して苦笑すると、着替えが入った袋を手に取った。
「少し汗をかきましたし、湯を借りますか」
『強化』を行使しながら走ったとはいえ、疲れるし汗もかく。『強化』は一定以上に出力を上げない限り魔力を消費することはないが、長時間使えば集中が乱れて余計な魔力を使ってしまうこともある。三時間程度の連続使用はカグラにとって造作もないことではあるが、多少肉体的な疲労を感じていた。
客間の扉を開けると、扉の前に立っていた二人の守衛の兵士がカグラのほうを向く。その手には僅かな装飾が施された槍を持っており、客人の護衛を任務にしているようだった。もっとも、カグラの行動に対する見張りも兼ねているようではあったが。
「どうかされましたか?」
片方の兵士が直立したままカグラに尋ねる。その問いに対して、カグラは僅かに苦笑した。
「少し湯を借りたいのですが、よろしいですか?」
「はっ! それならばこちらへどうぞ」
声をかけた兵士が返事をして、もう片方の兵士へと目配せをする。すると、目配せを受けた兵士は一度頷いて駆け出した。
護衛を女性の兵士に交代するのだろうとカグラは思案し、ふとそこで足を止める。そして軽く周囲を見回し、眉を寄せた。
「どうかされましたか?」
足を止めて周囲を見回すカグラに、兵士は困惑しながら尋ねる。カグラはその問いに答えず、五感を研ぎ澄ませて周囲の様子を窺った。
ざわついているというか……少し騒がしい? 何かあったのでしょうか?
カグラは『強化』を使うことで聴力を上げ、遠く音を拾う。すると、慌しく走り回る音やそれに紛れて聞こえる鎧や剣などの金属が擦れる音が耳に届いた。カグラはその音がするほうを見ながら、小さく口を開く。
「何やら少し騒がしいようですが、夜間訓練でも行うのですか?」
「……は、騒がしいとは?」
カグラの問いかけに対して、兵士は真顔で首を傾げる。カグラは何かを隠したその態度に僅かに眉を寄せるが、余計なことに首を突っ込むわけにもいかない。そのため、カグラは不審に思う心を押さえつけると、兵士に『気のせいでした』と笑って歩き出した。
そして歩くこと数十秒。カグラが兵士と当たり障りのない会話をしながら歩いていると、廊下の先から慌しく走る音が響いた。カグラは衣擦れの音しかしないことから兵士ではないと判断し、それと同時に“この国で”城内を走り回る人物が頭に浮かんで苦笑する。
そうやってカグラが苦笑していると、小柄な少女が廊下の先の曲がり角から姿を現す。豪奢ながらも動きやすそうな白いドレスに身を包んだその少女は、曲がり角を曲がった勢いのままでカグラへ体当たりを敢行した。
「わぷっ!?」
だが、少女としては体当たりをするつもりはなかったらしい。走り寄った少女は小さく悲鳴を上げ、カグラにぶつかった勢いで後ろへと倒れそうになる。しかし、倒れるよりも早くカグラが腕をつかみ、体勢を整えさせた。
「うぅー……いたたた……」
倒れずにすんだ少女は、顔を右手で覆いながら頭を振る。その際絹のように細い金髪が左右に揺れ、カグラ少女を見ながら苦笑を深めた。
「お久しぶりですティーナ様。そして、廊下は走るものではないですよ?」
カグラが諭すように優しく告げると、その言葉を聞いた少女……レンシア国第三王女のティーナ=ハーネルンは顔を上げる。そしてカグラの顔を見ると、嬉しそうに満面の笑みを浮かべた。
「あっ! カグラ様! お久しぶりです!」
「はい、お久しぶりです」
自身の三つ年下の割には小柄で、なおかつ幼く見えるティーナに目を細めつつ、カグラも笑顔で返答する。最後に会ったのは三年近く前だが、それでも覚えていてくれたことをカグラは嬉しく思った。
「ずいぶんとお急ぎだったようですが、何かありましたか?」
カグラは僅かに膝を折ると、自分の目線をティーナの目線に合わせてそう尋ねる。すると、カグラの言葉を聞いたティーナは先程の笑顔が嘘のように悲しそうに表情を歪めた。
「カグラ様っ、お姉様が!」
「お姉様? それはレミィ様ですか? それともエリス様ですか?」
ティーナの剣幕に困ったように微笑みつつ、カグラは尋ねる。レンシア国国王のコルテアには息子がおらず、いるのは三人の娘だ。
長女はカグラよりも一つ年上で、名前をレミィ=ハーネルン。レンシア国第一王女としての自覚を持ち、指導者の才を持つ明朗な女性である。
次女はカグラの一つ年下で、名前がエリス=ハーネルン。レンシア国第二王女で、物静かで温厚な少女である。
そして現在カグラの目の前で目に涙を溜めているのが、レンシア国第三王女であるティーナ=ハーネルン。歳の割には小柄だが、感情の表現がはっきりしている元気の塊のような少女だ。
カグラはティーナが姉と呼ぶ二人の少女を頭に思い浮かべ、今にも泣きそうなティーナをあやすように笑いかける。
「ほら、落ち着いてくださいティーナ様。レミィ様かエリス様のどちらかはわかりませんが、どうかされたのですか?」
悪戯でもして酷く怒られたのだろうか、などという考えが頭を掠めたが、カグラは努めて無視した。十分に有り得そうな考えだったが、目の前のティーナの様子からさすがにそれはないと判断する。目に涙を溜めたティーナが口を開き、何を言おうとしているのか察した兵士が声を張り上げる。
「姫様それは!?」
「エリスお姉様が……急にいなくなって……」
ティーナの言葉を隠すように声を張り上げた兵士ではあったが、カグラには聞き漏らすことなくティーナの言葉が届いていた。
「……エリス様が?」
急にいなくなったという部分に不穏なものを感じつつ、カグラが尋ね返す。すると、そんな
カグラの問いを遮るように女性の声が響いた。
「兵士からエリスを探し回っていると聞いて探してみれば……ティーナ、あなた何をしているの?」
困惑と呆れを等分に含んだ声を聞き、カグラはその声を発した人物……レミィのほうへと体を向ける。ティーナと同じ意匠の白のドレスに身を包み、ティーナよりも幾分か長い金髪を颯爽と翻して歩みを進めてくるレミィだったが、カグラと視線が合うなり足を止め、ドレスの裾をつまんで優雅に一礼した。
「お久しぶりですね、カグラ様。三年振りでしょうか?」
「お久しぶりです、レミィ様。三年振りでございます」
レミィの一礼に対し、カグラは膝をついて礼を示す。カグラはカーリア国宰相と同格の役職ではあるが、相手は一国の王女である。ティーナも王女だが、レミィの王女としての挨拶には相応の態度で応えなくてはならない。
「カグラ様、今は公式の場での会談というわけでもありません。顔を上げ、お立ちになってください」
レミィはカグラが膝をついて頭を下げたことに対してそう告げると、カグラはゆっくりと立ち上がる。そして目を合わせると、カグラはティーナの言葉の意味を求めて口を開いた。
「エリス様の姿が見えないとのことですが……どうされたのですか?」
カグラとしては、ティーナの姿が見えないのならばまだ納得できる。明るく活発な性格の彼女ならば、城の中を探検するなり護衛を連れて城下町に遊びに行くなど考えられた。しかし、自身の記憶にあるエリスの大人しい性格を考えればティーナのような振る舞いをするとは考えにくい。
レミィの言葉を待ちながら思考していたカグラだが、当のレミィが口を開こうとした途端に傍で控えていた兵士が口を開く。
「レミィ様、それは……」
他国の人間に聞かれると拙い。そう言いたかったのだろう。だが、兵士は意図が伝わることを見越してそこまでは口にしない。それに対して、レミィは首を横に振った。
「しかし……」
「調べればわかることです。それに、調べずとも明日には知れることでしょう」
諌めようとする兵士に対して、レミィは隠すことはないと告げる。それを聞いていたカグラは何があったのかとさらに思考を巡らせるが、思いつく回答はない。
「何があったのでしょうか?」
回答を求め、カグラはレミィへと再度尋ねる。すると、レミィは僅かに表情を翳らせた。
「……何者かの手により、攫われたようです」
告げられた言葉に、カグラは無言で眉を寄せる。その回答は予想した状況の中でも悪い部類に入るものだったが、同時に疑問も沸いた。
「しかし、一体どうやって……」
一国の王女ともなれば、周囲には常に護衛がいる。国王ほどとはいかないかもしれないが、それでも並の護衛体勢ではないのだ。
カグラの言葉を予想していたのか、レミィが表情を変えることはない。だが、カグラはレミ
ィの雰囲気が僅かに変わったことを感じ取った。視線を下げてみれば、右手がドレスの裾を強く握り締めている。
攫った者が余程の手練だったか、城の内部について精通していたか、それとも手引きする者でもいたか。
レミィが感情を抑えるまでの時間に、攫うことができそうな可能性を思案する。カグラとしてはその三つの内二つ、最悪三つ全てが該当していたのではないかと判断した。
それと同時に、レミィが口を開く。
「どうやら、城の中に敵方に通じる者がいたようです」
言葉には、目立った感情が込められていない。しかし、だからこそカグラにはレミィの感情が痛いほどにわかった。
「そうですか……」
悔しく、悲しいのだろう。だが、カグラはそう言うだけに留める。同情染みたことを言うこ
ともない。このご時勢、裏切りや引き抜きはどの国でも起きていることなのだ。
それでもレミィは傍に立つティーナを安心させるためか、表情を緩める。
「ですが、現在我が国の誇る風と雷の使い手達が後を追っています。エリスを取り戻すのも時間の問題でしょう」
「カール達が!?」
レミィの言葉を聞いた瞬間、ティーナが輝くような笑顔を浮かべて何者かの名を口にした。どこかでその名を聞いた覚えがあったカグラは素早く思い出そうとするが、思い出すよりも目の前のレミィかティーナに聞いたほうが確実だと判断して口を開く。
「風と雷の使い手……それとカール、とは?」
レンシア国に関する情報を頭の中から引っ張り出しながら、カグラが尋ねる。それに対して、レミィはどこか誇らしげに口を開いた。
「第二魔法剣士隊の隊長と、第一魔法隊隊長のことです。『風』のカールと『雷』のヤナギと言えばお分かりになりますか?」
その声に込められた感情は、深い信頼と他の“何か”。カグラはそれを感じ取りつつ、与えられた新しい情報を元に自身の記憶から符合する情報を引き出す。
カーリア国は諜報に関して非常に弱く、他国に関しての情報があまり入手できない。義人が召喚されてからはゴルゾーの協力で多少改善されているが、それでも前王が没してからの十年間は他国に関して大した情報が入ってこなかった。だが、そんな状況の中でもカグラの元に届いた情報の中に“その”情報は存在している。
「たしか……先の数々の戦いで武勲を上げ、僅か三年足らずで隊長まで登り詰めた方々ですね?」
「ええ。その二人と、彼らの率いる部隊の最精鋭が探索をしています」
「……失礼ですが、戦の腕と探索の腕は比例しないのでは?」
「フウちゃんがいますから大丈夫ですよ!」
レミィの言葉に疑問を覚えたカグラがそう尋ねると、ティーナが元気良く言葉を発する。
「フウちゃん……とは?」
何かの愛称だろうかと、カグラは首を傾げた。そんなカグラに対して、レミィは苦笑混じりに笑う。
「カールが操る風竜のことです。“彼女”ならば、例えエリスが遠くにいても風に乗った魔力や匂いを辿ることができますから」
以前も同じような状況がありまして、と苦笑するレミィに、カグラは納得の意を込めて頷く。
「風龍、ですか。なるほど、それならば追跡も容易でしょう」
魔物、それも上位種である風龍ならばその追跡は容易だろう。そこまで考えた途端、カグラは言いようのない奇妙な感覚を覚えた。
「……?」
胸に手を当て、僅かに首を傾げる。すると、そんなカグラを見たレミィも首を傾げた。
「どうかしましたか?」
「いえ、どうかしたというわけではないのですが……」
急に感じた不安と焦燥が混ざったような感情に対して、カグラは確とした答えを返せない。何故いきなりそんな感情を覚えたのか、それを思考しようとしたが上手く考えがまとまらなかった。
「カグラ様?」
ティーナがカグラを見上げるように見ながら、不安そうな声をかける。その声を聞いたカグラは、強引に思考を打ち切った。そして、取り繕うように微笑んでみせる。
「……あっ、いえ……どうやら、少し疲れているみたいです。昼間にずっと走ってたせいですかね?」
カグラは不安そうなティーナに笑いかけ、ついでに軽く冗談を口にした。すると、レミィが小さく笑う。
「ふふ、そうでしたか……あら?」
駆け寄ってくる兵士の姿を見て、レミィの表情が引き締まる。そして、カグラのほうを見ると優雅に一礼した。
「何かあったようですね。それではカグラ様、失礼しますわ。ほら、ティーナもきなさい」
「はい。それじゃあカグラ様、またお話してくださいね?」
一礼と無邪気なお願いに対し、カグラは膝をついて頭を下げる。そして頭を下げたまま、二人の気配が遠ざかるのを待って頭を上げた。
「レミィ様がああ言われるのなら、時間の問題なのでしょうね……」
王女が誘拐されたなど、国家を揺るがす大事件だ。だが、カグラはレミィの様子から事態が終息するのは本当に時間の問題なのだろうと判断する。
移動用の魔法具……例えば『飛竜の(・)翼』などを使うとしても、使用者以外は目的地に飛ぶことができない。つまり誘拐などに使うことはできないため、移動は馬か自分の足で走ることになるだろう。だが、龍種の移動速度は馬とは比べ物にならない。もしも人を乗せて飛べるほどに成長した龍ならば、逃げた者に追いつくまでそこまで時間がかかることはないだろう。
「人を抱きかかえたまま走るのは目立ちますし、おそらく移動は馬でしょうね……もしくは馬車でしょうか?」
カグラは部屋に戻りながらも考えを巡らせる。
「風龍がいるなど、調べずともわかることでしょうに。これでは、逃げても捕まるだけです」
先ほどから落ち着かない感情を、別のことを考えることで抑えていく。
「なら、何を目的としているのか……」
思考に没頭しようとするが、上手くいかない。それでもカグラは考えをまとめようとしたが、自身に近づいてくる足音を聞いて思考を止める。
「あの、湯の用意が整いましたが……」
カグラの様子を見たからか、女性兵士が言い難そうにそう声をかけた。それを聞いたカグラは、自分が何故部屋から出たのかを思い出して苦笑する。
「そうでした……では、湯を借りるとしましょうか」
身を清めれば、少しは落ち着くかもしれない。
そう自分に言い聞かせ、カグラは女性兵士の後について歩き出した。