第五十九話:想いと願い
小さな頃から、少女は『カグラ』として育てられてきた。『カグラ』として次代の王を召喚し、その身を助けるために様々なことを学んだ。
召喚するための魔法だけではなく、多岐に渡って様々な魔法を覚えた。
魔法を操るための技術を身につけ、異世界からの召喚という魔法を使うために魔力量を必死に増やした。
王の剣として戦えるよう、どんな敵とも戦える術を学んだ。
王の知能として役立てるよう、山のような知識も頭に叩き込んだ。
自身が召喚する王と共に、この国を守るために。
自身が召喚した王を、守るために。
幼少の頃から『カグラ』となるべく英才教育を施された“少女”は、同年代の異性と話す機会など皆無だった。もちろん男女交際などしたことがなく、友人と呼べたのはミーファやサクラぐらいである。日常的に言葉を交わす男性など、精々アルフレッドぐらいしかいなかった。
そのため、今自分が“していること”も、“しようとしている”ことも知識としてしか知らない。それでもそれは『カグラ』としての“務め”であり、未知への恐怖と期待を含んだ少女の“願い”でもある。
『カグラ』の務めは王を公私共に支えることだ。故に、王が望むならどんなことにでも応えなければならない。
『カグラ』として、王の欲望を満たさなくてはならない。それは義務であり、『カグラ』の役目の一つだ。だから、“こうする”のはきっと自然に違いない。
少女は未知に対する恐怖で震えそうな自分を鼓舞するために内心でそう唱え、それでも、そんな理由をつけなくても良いぐらいには、“彼”に惹かれていた。だから、少女は自ら望んでしまった。王が望むかどうかを別に、望んでしまった。
この世界、少女よりも歳若い娘が嫁にいくなどザラである。少女よりも歳若い娘が母親になっていることも多々ある。
政略結婚を筆頭に、望まぬ婚姻はどの国でも掃いて捨てるほどにあるのだ。もっとも、望まぬ婚姻とて人買いに攫われて売り飛ばされるよりは余程マシというものだが。
それらに比べれば、好きな者と添い遂げることができればどれ程幸せかわからない。
そして、少女は『カグラ』としても“少女”としても、“彼”とはこの国で共に在りたかった。
共に政務をこなし、時には笑い、時には怒る。何気ない平凡な日々でも、きっと楽しいだろう。そんな日々を、隣で歩みたい。
目を閉じた少女……カグラは、そう思っていた。
「ん……」
目を閉じたカグラは、唇に伝わる感触に眉を寄せる。その感触は、想像よりも硬い。そのことに僅かな疑問を覚えたカグラは、目を開けよう判断する。そのついでに、いつの間にか呼吸を止めていたことに気づいた。
余程緊張していたのか、先ほどまでは感じなかった息苦しさも感じる。義人の“右手”をつかんでいた腕は、僅かに震えていた。
自身の緊張に気づけなかったカグラは僅かに内心で驚きつつ、ゆっくりと目を開けて、
「……え?」
そのまま、目を見開いた。
「え……あれ?」
何度も、目を瞬かせる。目の前の光景が理解できずに、カグラはただうろたえた。
普段は明晰な頭も、この時ばかりは上手く働いてくれない。
何故義人の“左手”が義人の唇の前にあるのか、カグラには数秒理解できなかった。
何故義人が困ったように、それでいてどこかつまらなそうな目で自分を見上げているのか、わからなかった。
「あ、その、わ、わたし……」
義人から僅かに身を離し、カグラは言葉にできないように小さく呟く。義人はそんなカグラを体の上からどけると、ベッドから転がり落ちる。そしてすぐに立ち上がり、僅かに肩を竦めていつもより少し固い声を出した。
「カグラさ、やっぱり飲みすぎたんだよ。だからそんなことをするぐらい、“酔ってる”んだ」
「そ、んな。違います。わたしは……」
カグラは立ち上がった義人の顔と、義人の左手を交互に、何度も見る。
想いは、義人自身の手によって“文字通り”受け止められていた。
重ねるつもりだった唇は、義人の手のひらで受け止められている。影は重なっても、唇は重なっていない。想いは、重なっていない。
たしかに、酒を飲んだ酔いもあった。思わずつかんでベッドに投げてしまった勢いもある。だが、それでもカグラには、確りとした想いがあった。
ベッドの上から呆然と見てくるカグラに、義人は力ない笑みを浮かべて背を向ける。
カグラはそんな義人を止めるためか、右手を上げた。だが、その手が届くことはない。義人は部屋の扉の前まで移動しており、離れた距離はすでに五メートルほど。それでも、カグラは上げた右手を下ろさない。遠ざかる義人を必死に止めようとしているのか、右手が下がることはなかった。
「あ……う……」
口から零れる言葉に、意味はない。
声をかけて、振り向いてもらえば良い。頭ではそうわかっているが、声帯が麻痺したように声が出なかった。
だから、カグラは右手を伸ばす。立ち上がって追いすがることなど、浮かばない。これでは止まらないと、カグラもわかっていた。
それでも、カグラの予想に反して義人は立ち止まる。扉の取っ手に手をかけ、義人は振り向かずに口を開く。
「カグラの“願い”はわかった。そして、気持ちは嬉しかった。でも、それが『カグラ』の“務め”なら、俺はお断りだよ」
カグラに聞こえるか聞こえないかの声量で言われた言葉に、カグラの上げていた右手が力なくベッドへと落ちる。それは小さな、それでいて乾いた音を立てたると、カグラは動かぬ口をなんとか動かす。
「わ、わたしは……わたしは……」
多くは望まない。ただ、一緒にいてほしいと。“この国で”共に在りたいと。
そう言いたいのに、自身の意思に反してカグラの口は動かない。
義人はそんなカグラに振り向くことなく、カグラの部屋を後にした。
カグラの部屋から出た義人は、自分の寝室へと向かう。警備のために明かりが灯された廊下を歩き、その足を止めた。
「困った、な」
小さく呟き、ため息を吐く。そして、カグラの“想い”と“願い”を思い出して目を細めた。
カグラの“想い”は、たしかに嬉しい。一人の男としても、滝峰義人としても。
けれど、カグラの“願い”には応えられない。
「本当に、困った」
場の流れに乗るわけにはいかなかった。乗れば行き着くところまでいってしまっただろうし、そうすれば傷が残る。カグラに対する負い目と、愛情という傷が残ってしまう。そして、それは“枷”にしかならない。
もしもこれが元の世界での出来事だったら。そんな言葉が頭を過ぎるが、生憎とここは異世界。『if』の話を考えても仕方ない。
義人は困ったように苦笑すると、傍の窓へと歩み寄って空を見上げる。しかし、さきほどまで見えていた月は雲に隠れていた。
それでも隠れた月を見上げつつ、義人は思考を巡らせる。
「さて……ちょっとまずい、かな?」
しばし思案に耽った後、そんなことを思う。現状や様々な情報を頭の中で整理すると、義人は見上げた視線を元に戻した。
「ま、なんとかなる……いや、なんとか“する”か」
そう呟くと、義人は再び寝室へと歩き出す。そして、ぼやくような声を漏らした。
「据え膳食わぬは男の恥っていうけど……それが毒入りでも食わなきゃいかんのかねぇ」
呟いた声に僅かに含まれていたのは、無機質な感情。それでも義人は頭を振ると、気を取り直したように歩を進める。
今日はもう遅い。早く寝て、明日に備えなくてはいけないのだ。
いつの間にか早寝が習慣になっている自分に苦笑を一つ残し、義人は寝室へと向かった。
翌日、義人はいつも通りの生活を送っていた。
早朝に起きて動きやすい服装に着替え、志信達と共に朝食までの早朝訓練。王剣のノーレを使っての訓練は良い運動になり、同時にノーレを使って魔法の練習もする。
そして朝食の時間になると、服を着替えて食堂へと向かう。さすがに朝から兵士用の食堂に行くわけにもいかず、王用の食堂で優希や志信と共に食事を取るのだ。
その際サクラやその他の使用人が世話をするのだが、いつもならその中にカグラも含まれている。しかし、その日カグラの姿はなかった。
「カグラはどうかしたのか?」
それを疑問に思ったのか、志信が首を傾げる。義人はその問いに対して、肩を竦めた。
「二日酔いでもしてるんじゃないのか? 昨日あれだけ飲んだんだし」
義人の言葉に、志信は納得したように頷く。たしかに、あれだけ飲んでいれば二日酔いしてもおかしくはないと、そう納得した。
結局カグラが食堂に姿を見せることはなく、義人がそのことに疑問の声を上げることはない。ただ、少し苦々しい表情を浮かべるだけだ。
さすがに朝の報告会には参加していたが、カグラの表情は優れない。寝不足か、はたまた別の理由か、目が僅かに赤く充血していた。
「おはよう、カグラ」
報告会も終わり、執務室へと移動した義人はそう声をかける。それはいつも通りの挨拶だったが、答えるカグラの声は小さい。
「おはよう……ございます」
僅かに目を逸らしつつ、頭を下げる。それでいて時折怯えたように義人を見るが、目が合うとすぐに逸らしてしまう。そんなカグラの様子に、義人は内心だけでため息を吐いた。
「どうかしたんですか?」
明らかに様子がおかしいカグラを見て、サクラが首を傾げる。その横では、同じように優希が首を傾げていた。
「い、いえ、なんでもないです」
声に僅かな張りを持たせ、カグラはそう返事をする。カグラは執務室に備え付けられた自分の机へと向かうと、仕事をするべく椅子に座った。
「はぁ……」
そして、早々にため息を吐く。
「二日酔いですか?」
カグラがため息を吐いたことに驚きつつも、理由がそれしか浮かばないサクラはそう尋ねる。しかし、カグラは一瞬だけ義人のほうに視線を動かそうとしてその動きを止めると、サクラに“作った”いつも通りの笑顔を向けた。
「いえ、違います。サクラこそ、二日酔いになってませんか?」
「なってませんけど、できれば無理矢理飲ませないでほしいです……」
抗議するように、それでいてほんの少し冗談染みた口調で言葉を返すサクラ。カグラはサクラの言葉に、儚く笑う。
「ちょっと、胃が痛くなってきた……」
そんなサクラとカグラの横で、義人は小さく呟く。それでも、自分が招いた結果だと享受する。
「お薬もらってこようか?」
義人のすぐ隣で縫い物を始めた優希がそう尋ねるが、義人は首を横に振った。
卵は縫い物をするのに少し邪魔だったのか、抱っこ紐から外して義人と優希の丁度中間に置かれている。
「いや、いいよ」
置かれた卵を眺めつつ、義人は遠慮した。そして、ゆっくりながらも仕事を始めたカグラへと目を向ける。すると、見事に目が合った。
「あ、う……その……」
目が合ったカグラは怯えたように、それでいてどこか期待するように呟き声を漏らす。そんなカグラに、義人は“いつも通り”笑いかけた。さも何もなかったと、言わんばかりに。
「それじゃあ、今日も頑張って仕事しようか」
「え……は、はい。頑張り、ます」
その意図が通じたのか、カグラは僅かに表情を引き締めて、それでいてどこか寂しそうな表情で仕事に取り掛かる。
カグラの表情を苦く思いながらも、義人も政務を片付けるべく机に向かう。
結局、その日の仕事はほとんど片付かなかった。