第五十七話:酒は飲めども飲まれるな
カーリア城において、食堂は二ヶ所ある。
一つは、王やその客人などが利用する王用の食堂。そこまで広くはないものの、高価な調度品が飾られた気品ある食堂である。
そして、文官や武官、兵士が使う一般食堂。こちらは王用の食堂と違い、大勢で食事ができるように広々と設計されている。
最近、この国の王である義人は王用の食堂を使わず、兵士に紛れて一般食堂で食事を取ることが多い。色々と兵士の話や噂が聞けるからなのだが、抜け出す度にカグラに怒られている。 いっそのこと王用の食堂など王様命令で使用禁止にして、全員一般食堂で食事を取るようにしようかと義人も考えていた。
他の者に示しがつかないといつもカグラが怒るのだが、義人は大して気にしない。そんなことを気にするよりも、文官や武官、兵士などとコミュニケーションを取ったほうが有益だと思っているからだ。
臣下に命令しようとしたら、名前がわかりませんでした。もしそんなことになったら笑えない。そして、義人も“あえて”カグラにそういった説明はしないで怒られていた。
「今日の晩御飯は何かなーっと」
そうして今日も、義人は一般食堂に向かっていた。
政務も終わり、時刻は午後七時。今日一日執務室で政務をしていた義人は、自身の横で服を縫っていた優希と共に、カグラの目を掻い潜って一般食堂に向かって歩いていた。
「今日はねー、たしか新鮮な魚が届いたはずだから魚料理が中心だよ」
「魚か。もしかして刺身とか?」
「ううん。夏場に生の魚を出すのは危ないから、塩焼きがメインだよ。あとは煮付けとかかな? 刺身が良いなら今からさばいてくるよ?」
「いや、いいよ。塩焼きも美味しいし」
義人の言葉に微笑む優希。
体の前面には抱っこひもで龍の卵をぶら下げ、時折バランスを取るように抱え直している。そんな優希の様子に義人は目を細めつつ、楽しげに笑った。
「こっちの世界の魚は美味しいから楽しみだな」
「そうだねー」
楽しげに笑う義人につられたのか、優希は嬉しそうに笑う。そうやって二人で歩いていると、一般食堂へとたどり着いた。
「ちょっと混んでるな」
「あ、あそこ空いてるよ?」
周りを見回して呟く義人に、優希は空いている席を指差す。その指の先を見た義人は、納得したように頷いた。
「丁度良いな。よし、それじゃあ優希は席を取っておいてくれ。俺は夕飯をもらってくるから」
「うん。ありがとう、義人ちゃん」
卵を抱えたまま、優希はのんびりした足取りで席へと向かう。周りの兵士が何事かと目を向けるが、それが卵を抱えた優希だとわかると速やかに道を空けた。
義人は料理の受け取り場所へ足を向けると、並んでいる一般兵の一番後ろへと並ぶ。すると、それに気づいたらしく並んでいた兵士が目を見開いた。
「こ、これはヨシト王!? 何故こっちの食堂に!?」
「いや、向こうの食堂だと人が少なくて寂しくて。あ、ほら。一番前の人は料理ができてるぞ」
下手すれば膝をつきそうな兵士に苦笑しつつ、義人は気軽に笑う。そんな義人を前に、兵士は慌てて道を空けた。
「ど、どうぞお通りください!」
「いや、先に並んだ奴から受け取るべきだろ。ほら、元に戻る……いや、戻れ」
このままだと道を譲ったままだと判断した義人は、とりあえず命令する。すると兵士達は顔を見合わせ、僅かに苦笑して元の列に戻った。その様子を前にして、義人は苦笑する。
「王様って言っても、俺よりも年上のほうが多いだろうに」
義人としては、自分の父親ほど年が離れている者にまで畏まられるのは勘弁してほしかった。表には決して出さないが、逆に義人のほうが恐縮してしまいそうである。
騎馬隊隊長のグエンのように、礼儀を弁えながらも気さくに接してもらうほうが気が楽だ。しかし、国王に対して気さくに話しかけることができる人物などそうそういるものではない。
生来の性格で誰とでも気軽に接することができるか、本人と親しい人物や地位が同じか上の者。もしくは相手がどれだけ偉くても気にしない、図太い神経を持った者くらいだろう。
残念ながら、現在のカーリア国においてそれらが当てはまる人物は非常に少ない。そうなると、義人自ら接しやすいように振舞うしかなかった。
兵士の列に並び、傍にいた兵士と世間話をしながら列が進むのを待つ。そして自分の番がくると、義人は指を二本立てて見せた。
「あ、おばちゃん。夕飯二人前ね」
まるで、学食か定食屋で注文する学生のようである。もっとも、義人は高校生なので間違ってはいないのだが。
注文を受けた中年の女性は返事をすると、奥へと引っ込む。すでに何度か注文を受けたことがあるおかげか、大した動揺もしていない。
義人はお盆に乗った夕飯をスムーズに受け取ると、優希に確保してもらった席へと向かう。百人単位で食事が取れるように作られた一般食堂は移動用のスペースも広く、両手でお盆を持っていても誰かとぶつかることはない。
優希の言った通り魚の塩焼きがメインの夕食を眺めつつ、義人は優希が確保した席へとたどり着く。そしてなるべく音を立てないようにお盆を置くと、自身はその隣へと腰を下ろした。
「優希の言った通り、魚の塩焼きがメインだな」
「でしょ? この魚はね、今の時期が一番美味しいんだって」
「おお、そりゃ楽しみだ。それじゃあ、いただきます」
合掌してお決まりの言葉を呟くと、料理と一緒に受け取った箸を手に取る。そして、周りの様子を眺めつつ食事を始めるのであった。
「ふー……食った食った。いや、塩焼きも美味しいな」
食事を終えた義人は、あと少しで食べ終わる優希の横でのんびりとお茶を飲む。
幸いというべきか、それとももう諦めたのか。逃げた義人を連れ戻しにくるはずのカグラはいまだに姿を見せない。
義人はそのことに安堵と底知れぬ不安を等分に覚えつつ、食後の満腹感からか欠伸を一つ漏らす。
そして軽く目をこすると、後ろのほうから聞こえる複数人の大きな笑い声に眉を寄せた。笑い声程度なら気にすることはないが、やけに騒がしい声である。
「あれは……魔法剣士隊の連中じゃないか。手に持ってるのは酒か?」
振り返った先にいたのは、酒らしき液体が入ったビンを片手に盛り上がる魔法剣士隊の兵士が五人ほど。男性二人に女性三人という組み合わせだが、すでに出来上がっているのか男女共に一人ずつ顔が赤い。
訓練時間でもないので酒を飲むのを止めるつもりはないが、周りに迷惑をかけるのはいただけない。どこかの隊の隊長や副隊長がいれば注意するのだろうが、生憎と誰もいないようだった。
あまり騒ぐと周りの迷惑になると判断した義人は、ため息を一つ吐いて立ち上がる。
「こらこら。お前らあんまり騒ぐんじゃない。飲むのは良いけど、周りに迷惑をかけるのはアウト……いや、駄目だ」
義人がそうやって声をかけると、魔法剣士隊の兵士達は煩わしそうに振り返り……酒を噴き出した。
「ヨ、ヨシト王!? ここで何してるんですか!?」
「食堂ですることと言ったら食事だろ? それは置いとくとして、飲むならもう少し静かに飲んでくれよ。騒ぐなとは言わないけど、もう少し声を落としてだな」
「そんなことよりヨシト王も飲みましょーよ!」
義人の言葉を遮り、酒の入ったビンを突き出す酔っ払い。もとい、酒の入ったビンを突き出す女性兵士。すでに大分酒が回っているのか、顔は赤く目が微妙に据わっている。
「いや、俺の世界じゃ二十歳未満は酒を飲んじゃいけないんだよ」
きっぱりと断ると角が立ちそうだったので、義人はとりあえずそう言ってみた。
ちなみに口ではそんなことを言う義人ではあるが、酒は割と飲めるほうである。親が飲む時に一緒に飲んだり、親友の祖父に飲まされたこともあったので問題はない。ザルとまではいかないが、余程無茶な飲み方をしない限り酔うことはなかった。両親も同じように酒に強いため、それを受け継いだらしい。
「しかしヨシト王。この国では飲酒に関する法はありませんし、なにより貴方が法ですよ? それに酒は百薬の長とも言います。美味しいですし、飲むと日頃の鬱憤も晴れます。夜もぐっすりと眠れますし」
酒の勧めを断った義人だが、それを見た酔っ払いの女性兵士は表情を引き締めて真面目に語り始める。
酒は百薬の長と言っても、それは適量ならばの話だ。目の前の女性兵士が飲んだ量は明らかに適量をオーバーしており、薬ではなく毒になるだろう。
美味しいかどうかも人それぞれだし、飲めなければ鬱憤が晴れるどころか逆に溜まる。
飲んで気分が悪くなれば夜も眠れるかわからない。
義人は思わずそう言おうとしたが、酔っ払いに理をもって話しても無意味だ。反論すれば今度は意味の通じないことを言い出しそうだし、最終的には酔っ払いの最終奥義である『リバース』をする可能性がある。
ちなみに、『リバース』は魔法ではない。
「あはは、俺が法ね。まあ、そりゃそうだ。そこまで言うなら、折角だし一杯もらおうかな」
一杯だけ飲んで優希のところに逃げよう。
そう決めた義人は適当になだめつつ、とりあえず一杯だけ飲むことにした。
「さすが話がわかりますね!」
義人が許諾したことに嬉しそうに笑う。そして手のひらほどの底の浅い杯を持ってくると、それを義人に手渡した。
「ささ、それでは一杯」
「お、こいつはどうも、っと」
果物のポポロを原料にしたポポロ酒を注いでもらい、義人は苦笑しながら口を開く。
「お酒は二十歳になってから飲みましょう」
「はい? 誰に言ってるんですか?」
「さて、誰だろうな?」
義人は肩を竦め、ポポロ酒を口にする。アルコールはそこまできつくなく、果汁の甘さもあって非常に飲みやすい。酒特有のアルコール臭さが僅かに鼻についたが、そこまで気にするものでもなかった。
酎ハイみたいなものだなと内心で思いつつ、義人は軽く飲み干す。
「おおー! 中々イケる口ですねー!」
軽く飲み干した義人を見て沸きあがる周囲の兵士達。酔っ払いに同調してしまったのか、今までは止めようとしていた兵士も諦めたように酒を飲み始めた。
「ささっ! それではもう一杯!」
義人のグラスが空になったのを見て、もう一度酒を注ごうと酔っ払いが寄ってくる。
完全に出来上がっているのか、義人が国王だということを忘れているらしい。酔っ払った女性兵士が義人の杯に手を伸ばそうとすると、それを止めるように横合いからその手がつかまれた。
「そこまでです」
誰かが止めてくれたらしい。義人は内心で僅かに安堵の息を吐き、止めた人物へと顔を向ける。
「それで、ここで何をしているのですか……ヨシト様?」
カグラだった。王用の食堂から逃げた義人を捕まえにきたのか、表情は非常に“素敵な”笑顔である。
「また王用の食堂を使っていないと思ってこちらに来てみれば……」
酔っ払った女性兵士の手を離し、カグラは説教をしようと義人へと一歩近づく。説教が始まると思った義人は背筋を伸ばすが、そんな二人の様子を気にすることなく酔っ払いの女性兵士がカグラへと飛びついた。
「ほら! カグラ様も飲みましょうよ!」
「えっ!? きゃあっ!!」
カグラに抱きつき、酒瓶に入った酒をその口元へと運ぶ女性兵士。
カグラは完全に気を抜いていたのか、なす術もなく酒を飲み込む……いや、飲み込んでしまった。
義人は『酔っ払いスゲー』と賞賛しようとしたが、それよりも早くカグラの“異変”に気づいて口を閉ざす。
「カグラ? おい、カグラ?」
とりあえず声をかける。
酒を飲んだカグラは踏鞴を踏むようにふらつくと、かけられた声に答えるため、義人に据わった目を向けた。
「…………ひっく」
漏れ出た声は、しゃっくりのようなものだったが。
二時間後、食堂は地獄と化していた。
一口で酒に酔ったらしいカグラは義人に説教をすることなく、椅子に座って酒を飲んでいる。ただし、その周りには空になった空きビンや、カグラに絡まれて酔い潰された兵士が死屍累々と転がっていた。
その中には、いつまで経っても義人を連れてこないカグラを心配して様子を見に来たサクラが含まれていたりもする。
義人はカグラの最も近くにいたのだが、絡まれたら最後だという生存本能に従って周りの兵士をカグラへと差し出した。
今ではカグラから離れ、優希や途中から食堂へと顔を見せた志信と共にその様子を眺めている。
「まさか、カグラがここまで酒に弱いとは思わなかったんだけど……いや、これは逆に強いのか?」
義人は疲れたように呟く。
原因の一端を担った自分がこの場から逃げ出すわけにもいかず、さりとて絡まれて酒を大量に飲まされるのも困るため離れたところから見ていることしかできなかった。
最初は必死に止めようとしたのだが、酒を一口飲んで酔っ払ったらしいカグラは聞く耳を持たず、義人に打てるのは逃げの一手しかない。
「やはり、酒は危険だな」
カグラの様子を見て、志信は至極真面目に頷く。武術家たるもの酒に溺れるわけにはいかないらしいのだが、それ以前に未成年である。将来の禁酒を誓う志信に、義人は苦笑を向けた。
「でも、志信の爺さんは普通に飲んでたぞ?」
「お爺様は酒を飲んでも問題はない。年齢的にも、武術家としてもな」
「そんなもんか?」
「そんなものだ」
言葉少なに語る志信の言葉に首を傾げつつ、義人は手元のポポロ酒を飲む。その隣では義人と同じように、優希がポポロ酒を飲んでいた。ただし、優希の飲んでいる方は杯が大きいもののアルコール度数はかなり低い。
「美味しいけど、ジュースみたいだね?」
「それはアルコールが二、三パーセントくらいだろ? それにポポロの味が強いし、ジュースっていっても間違いじゃないかもな」
二人がポポロ酒について適当に批評していると、今度はミーファが食堂の入り口に姿を見せた。騒ぎを聞きつけたのか、それとも遅い夕飯を取るのかはわからない。食堂の床に転がる兵士達を見て眉を寄せ、端の方で椅子に座る義人を見て目を見開く。
「ヨシト王? 一体何をされているのですか?」
ミーファからそんな言葉をかけられ、義人は苦笑交じりに手に持った杯を見せる。
「ちょっと色々あって。そんなことよりどうだ? ミーファも一緒に飲まないか? 志信もいるぞ?」
義人がそう言うと、ミーファはつられたように歩み寄ってきた。そして椅子に座ろうとして、離れたところで酒を飲んでいる者を見る。
そこでは、カグラが楽しそうに酒を飲んでいた。
「やっぱり遠慮します」
そう言い残し、食堂の出入り口へと全力で“逃げ出す”ミーファ。『強化』を使用した、実に素早い反応である。
その行動に義人が疑問を覚えるよりも早く、酒を飲んでいたはずのカグラが姿を消した。
「ミーファちゃん、どこに行くんですか?」
どうやって移動したのか、カグラは食堂の出入り口、すなわちミーファの眼前へと移動している。しかも右手には酒瓶を持ち、左手には杯を持ったままだ。その動きが見えなかったミーファは、頬を引きつらせながら後退していく。
「か、カグラ……わ、わたしはほら、明日も訓練があるから、ね? お酒を飲むと差支えが出るのよ」
「大丈夫、大丈夫です。ちょっとです。お酒の一升くらい……」
ちなみに、一升とは一.八リットルである。
「ちょっとじゃないわよそれ!? あんた、前もちょっとって言ってわたしに大瓶二本飲ませたでしょ!? あ、駄目! そんな引っ張らないで!」
「あはは、ほら、一緒に飲みましょう?」
必死に逃げようとするミーファを力ずくで押さえ込むカグラ。
ミーファは『強化』を使って逃げようとするが、カグラも『強化』を使ったのかビクともしない。『強化』は使用者の魔力量によって効果が変わるので、ミーファでは抗いようがなかった。
「もう、逃げちゃだめです……はい、あーん」
楽しそうに笑いながらミーファに無理矢理酒を飲ませるカグラ。義人はそんな二人を見て、引きつった笑みを浮かべた。
「か、カグラって過去にもこんなことをしたのか?」
やはり今のうちに逃げたほうが良いかもしれない。そう判断した義人はミーファに心の中で合掌しつつ、優希や志信と一緒にこっそり食堂から抜け出そうとする。
「どこに行かれるんですか?」
しかし、今のカグラはそれを許さない。
一瞬で義人の背後に接近すると、そのまま片手で持ち上げて元の席へと戻す。義人は一切抵抗せず、首の裏を持たれた猫のように大人しく元の席へと戻った。
ミーファのほうを見てみれば、逃げられないと悟ったのか別の席で怯えるように酒を飲んでいる。
「ね? ほら、ヨシト様も飲みましょうよ? さっきから他の人に飲ませてやれって言うばかりですし、ヨシト様も飲みましょう?」
「飲んでるって、ほら」
そう言って杯……カグラが持つものに比べて二周りほど小さい杯を見せた。だが、そんな義人にカグラは頬を膨らませる。
「そんなのは飲んだうちに入りません。はい、わたしの杯を使ってください」
ズイ、と突き出される杯を、義人は突き返す。
「いや、ほら。明日も政務があるから、な?」
「いいじゃないですか少しくらい。美味しいですよ? それとも、わたしの酒は飲めませんか?」
「そういうことじゃなくてですね、俺の世界では二十歳未満は飲酒できないという法律がありまして、ええ」
「ここではヨシト様が法です。ヨシト様が飲もうと思えば飲んで良いんですよ?」
「そりゃそうだけど。じゃあ、やっぱり二十歳未満は飲酒禁止という法律を作ろうかな、なんて……」
徐々に近づいてくるカグラから身を引きつつ、義人は断り続ける。
「むぅー……それじゃあ」
断り続ける義人に業を煮やしたのか、カグラは見る者を惹きつけるような綺麗な笑顔を浮かべた。それは、街角を歩けば誰もが振り向くような、魅力ある笑顔。
そしてカグラは、そんな笑顔をまま杯を持ち上げて口を開く。
「飲め」
命令だった。
「はい」
生存本能に従い、義人は頷く。そこに主従関係など見えず、あるのは強者と弱者の構図だけである。
せめてもの抵抗か、差し出す杯は義人が今まで使っていた小さめのものだ。
「えいっ」
それを見たカグラは、笑顔で杯を叩き割った。
「ちょっと!? いきなり何してんの!?」
真っ二つどころか八分割に砕けた杯を見て、義人は震えた声を上げる。そんな義人に、カグラは自分が使っていた杯を差し出した。
「それじゃあ小さすぎですよ。はい、わたしの杯を使ってください」
笑顔で杯を差し出してくるカグラ。
笑顔ながらも強烈な威圧感を前にした義人は思わずその杯を受け取りそうになったが、それよりも早く、笑顔の優希が自身の杯を義人の手に乗せる。
「義人ちゃん、こっちのほうが良いよ」
乗せられた杯は大きさがカグラの杯とほぼ同じで、深さもほぼ同じだ。
「あ、ああ。サンキュ」
義人はとりあえず優希に礼を言うと、カグラのほうへと杯を差し出す。すると、カグラは僅かに不機嫌そうな顔で杯に目を落とした。そして酒を注ぐことなく、義人へと視線を移す。さらに自分が使っていた杯を見ると、何が不満なのか頬を膨らませた。
「お酒、注がないの?」
無言で義人を見るカグラに、優希が笑顔で話しかける。すると、カグラも笑顔を浮かべて優希と微笑み合った。
「いえ、やはり止めておきます。ヨシト様には明日も政務がありますから」
「そうなんだ」
「ええ」
笑顔のカグラは義人が優希から受け取った杯を手に取ると、それを少し遠くに置く。そして、自分の杯を義人の手に握らせた。
「それでは一杯」
「はい、ちょっと待ってね」
笑顔の優希は酒を注ごうとしたカグラから酒瓶を取り上げ、義人が握らされたカグラの杯を回収する。
「何をするんですか?」
「義人ちゃんは明日政務があるから飲ませないんじゃなかったの?」
「あれ? そんなこと言いましたか?」
カグラは笑顔でとぼける。そんなカグラに、これまた優希も笑顔で頷いた。
「あ、そうでしたね。うっかり忘れちゃいました。あははは」
「うん、そうだよ。あははは」
笑顔で笑い合う二人の横で、義人は志信の方へと身を寄せる。
微妙に空気が軋む音が聞こえた気がしたのだが、義人は幻聴だと自分に言い聞かせて口を開いた。
「……なんか、胃が痛くなってきた」
「飲みすぎではないか?」
素で答える志信。
結局、騒動が収まるのはカグラが酔いつぶれる二十分後のことだった。