第三十九話:朝の散歩
こちらの世界へと召喚されて二ヶ月ほどが経ち、季節も徐々に変わりつつある。
元の世界では春も過ぎ、夏の気配が近づきつつあった。それはこちらの世界でも同じらしく、最近では日中の気温も上がってきている。
元の世界での暦に合わせるなら、七月も半ばの気候だ。こちらの世界での暦も同じだったが、気温は若干低い。
一応四季はあるようだが、変化が緩やかなため気づきにくかった。
早朝や夜は涼しく、日中は暖かい。この世界に召喚される前の義人にとっては、これ以上ない居眠りしやすい気候だ。
「んー……朝、か?」
時間を知らせるための鐘が鳴り、義人は目を覚ました。窓の外を見てみれば、大分明るくなっている。
城の出仕は午前九時からなので、午前八時の鐘で起きれば十分に間に合う。その時間になれば大抵サクラか優希が起こしにくるので、時間を間違えることもない。
ちなみに、カーリア国の労働時間は基本的に午前九時から午後六時までだ。
午前九時と午後六時に三回鐘を鳴らし、仕事の開始と終わりを告げることになっている。昼食は正午から午後二時の間に取るのが一般的であり、城の中でもそれは同じだ。
義人の場合、仕事量が多いので午後八時過ぎまで仕事をしていることがザラである。それでも最近は減ってきているので、いずれは規定通りの時間で終われるようになるだろう。
「……誰もこないな」
ベッドから起き抜け、とりあえず優希特製の普段着へと着替えていく。
ジーパンと薄手の長袖シャツというラフなものだが、この世界にはないタイプの服なので周囲からは義人の世界ではそれが正装だと思われている。
ひとまず水場で洗面でもしようかと寝室の扉を開けると、守衛の兵士がギョッと驚いた表情を浮かべた。
「よ、ヨシト王! おはようございます! 今日はお早いですね!」
「ああ、おはよう。見張りご苦労様……って、早い?」
「はい。まだ、六時過ぎですよ?」
どうやら、時間を間違えたらしい。
ここ最近は仕事で夜更かしをする必要もなく、午前零時前には眠るようにしている。
義人は元の世界ではしょっちゅう夜更かしをしていたが、夜更かしをしようとすればカグラやサクラの目が怖いのでできない。
そのうち、午後十時に寝て午前四時ぐらいに起きるようになるかもしれんな……。
近い未来のことを想像して、義人は苦笑する。
早寝早起きは良いことだと思うが、現代人としてはどうかと思った。
もっともこれは学生の思考であり、職に就いて働き始めれば早寝早起きが当たり前になるかと義人は一人頷く。
時間があるならいつもと違う時間帯の城の中を見るのもいいな、と義人は考えて口を開いた。
「鐘の音で目が覚めてね。とりあえず顔でも洗って散歩しようかと思ったんだ」
「そうですか。それでは、お供をいたします!」
「大丈夫だって。散歩すると言っても城の中だけだし、あちこちに兵士が立ってるから危険はないって」
「しかし……」
守衛の兵士は心配そうな表情を浮かべる。
エンブズの一件以来、城の警備を担当する兵士の数が増え、多少厳重になった。交代で見張りの兵士が立ち、あちこちを兵士が巡回している。
だが、散歩をするのに兵士がついて回るのは堅苦しい。
「じゃあ、王様命令。一人で散歩させてくれ」
「し、しかし!」
毎回毎回、命令を下すところがおかしいと義人自身も思っていたりする。兵士は何かを言おうとしたが、結局は脱力したように首肯した。
それを見た義人は、笑顔で歩き出す。
すれ違う度にかけられる挨拶に返事を返しながら、城の中を見て回る。
「あ、ノーレ置いてきちまった」
ベッド脇に立てかけてある王剣を思い出し、少し眉を寄せた。しかし、数秒後には苦笑しながらそれを振り払う。
「まあいいか」
散歩に武器は必要ない。そう判断して、廊下を歩く。
部屋に帰ったとき、そのことで文句を言われるがそれはまた別の話である。
朝食の準備に追われる厨房を覗き、誰もいない謁見の間を覗き、あちこちを彷徨い歩いていく。
夜とは違う、どこか涼しげな雰囲気がある城の中を歩くのは思ったよりも良い気分だ。
「お、階段発見。この上はなんだっけ?」
適当に目に付いた階段を上り、扉を開ける。
扉を開けるなり太陽の光が飛び込んできて、義人は僅かに目を細めた。それでも気にせず前へと出ると、今度は涼しげな風が吹き込んでくる。
「おー……城壁の上だったか」
周囲を見回してみれば、そこは城壁の上だった。
あちこちに見回りの兵士が立っており、義人の姿を見るなり驚いて目を丸くしている。義人はそれに苦笑を返すと、城壁からの景色へと目を向けた。
城は平地よりも高いところに作られており、その視点は高い。そのため、眼下には城下町が一望できる。
城下町の人間はすでに起き出しているのか、往来を人が行ったり来たりしていた。風に乗って僅かに喧騒が聞こえ、義人は頬を緩ませる。
「平和だな……」
元の世界に比べたら、実に小さな規模の町だ。外敵から身を守るために石造りの壁に囲まれ、箱庭と言っても良い。
「本当に、平和だ」
それでも、そこには人々の営みがあった。今日を平和に過ごし、明日の平和を祈る。
そんな“当たり前”。現代にはない、どこか暖かな風情がそこにはあった。
そして、その当たり前の平和を長くもたらすのが王の役目である。
義人は目を瞑ると、深く息を吸ってゆっくりと吐き出した。
「よし、今日も一日頑張ろう」
自分に気合を入れて、背伸びをする。そしてもう一度息を吐くと、目の端に見慣れぬ建物が映った。
「ん? なんだ? 見張り小屋か?」
城から少し離れたところに建てられた建物。
大きさは縦三十メートル、横五十メートルほどで、高さは十メートルほど。目を引いたのは、屋根に幾何学的な模様が描かれていることだろうか。その上、建物の四方には変な形の石柱が立っている。
「……なんだ?」
気になって注視していると、建物の扉が開く。そして、見慣れた人物が外へと歩み出てきた。
その人物を見た義人は、すぐさま扉を開けて階段を駆け下りていく。
建物から出てきたのは、カグラだった。
「おーい、カグラー! おはよー!」
外への扉を開け、歩いてくるカグラへと手を振る。
いつも通り紅白の巫女装束に身を包んだカグラは、義人に気づくなり驚いたように目を見開き、慌てて走り寄った。
「よ、ヨシト様! お一人で何をしているんですか!?」
「いや、城壁の上からカグラが歩いてるのが見えてさ。いやぁ、この世界に来て『強化』で視力も上がってるから便利だよな」
正確には『強化』の“ような”ものだが、義人には違いがわからないので放っておく。
「城壁って……なんでそんなところにいるんですか!?」
「さ、散歩っす。早くに目が覚めたから散歩してて、偶然たどり着いたんです、はい」
カグラに怒られることが多い義人は、カグラの剣幕にすぐさま腰が引けてしまった。
怒った美人にはものすごい迫力があるのである。
「もう! いいですか、ヨシト様!? ヨシト様はこの国の王としての自覚をきちんと持ってください! 城の中とはいえ、危険がないとも限らないんですよ!? 王剣はどうしたんですか!?」
「い、いやー……ノーレは寝室に置いてきちゃったんだ。散歩には必要ないかな、なんて。城の中には兵士がたくさんいるし、な?」
詰め寄るカグラに、義人は必死で弁明する。身振り手振りを加え、なんとか怒りの矛先を納めてもらおうと必死だ。
「それにほら、普段とは違う時間帯の城の中を見てみたかったし。今まで行ったことのない場所に行けたし。それに、カグラにも会えたから良いじゃないか」
「わ、わたしにですか?」
「ああ。カグラが歩いているのを見て、城壁の上から走ってきたんだ」
動揺したカグラを見た義人は、畳み掛けるように言葉を繋げていく。
走ってきた理由はもちろん、奇妙な建物について聞きたいからだ。
「そ、そういうことなら……で、でも、あまり心配をかけるようなことはしないでくださいね?」
義人の勢いに押されたカグラは、どこか嬉しそうにして目を逸らす。義人はそんなカグラの様子に小首を傾げたが、このまま押せば話題が逸らせると判断した。
「うん、わかったよ。それでさ、もし良ければちょっと一緒に散歩しないか? 色々と話を聞きたいし」
そう言いつつ、カグラを促す。するとカグラは一瞬虚を突かれたように動きを止め、落ち着かないように視線をあちこちに向けた。
「さ、散歩ですか……そ、そうですね。はい、わたしで良ければ」
そして、目を逸らしたままで小さく頷く。
「よし、それじゃあ早速行こうか」
カグラが首肯したことに義人は笑い、早速歩き出す。目指す場所はもちろん、あの奇妙な建物だ。
歩き出した義人に苦笑交じりの息を吐くと、カグラもそれに倣って歩き出す。
「お、あれだ。なあカグラ、あの変な建物はなんだ?」
遠目に見えた奇妙な建物を指差し、義人はカグラへと尋ねる。義人の指し示す先を見たカグラは、今しがた自分の出てきた建物を見るといつものように微笑む。
「あれは魔力回復のための施設です。四方に置かれた魔法石と屋根に描かれた魔法陣で周囲の魔力を集め、中にいる人間の魔力回復を助ける効果があります。魔法隊の宿舎でもあり、大きく魔力を消耗した魔法剣士隊が利用することもあります」
「へぇ、あれが例の魔力回復施設か。あんまり設備が良くないんだっけ?」
以前聞いた話を尋ねてみると、カグラは申し訳なさそうに苦笑する。
「そうですね。他国のものと比べると、その効果は三割から四割といったところでしょうか。魔法石が大分古くなっていますし、魔法陣も徐々に効果が薄れてきていますから」
「……ちなみに、いくらぐらいで他国と同じ効果が出せる施設にできるんだ?」
義人が興味本位から尋ねてみると、カグラは片手を開いて見せた。それを見た義人は、僅かに首を傾げる。
「五百万ネカか?」
それならすぐにでも工事の許可を出せるな、と義人は内心で計算をした。しかし、カグラは
首を横に振る。
「ん? じゃあ、五千万ネカか?」
それぐらいなら、まだなんとか捻出できる。最悪、前財務大臣のエンブズが横領していた金を使えば良い。だが、カグラはこれにも首を横に振った。
義人の額から、冷や汗が流れる。
「ざっと見積もって五億ネカです」
「五億!? 『お姫様の殺人人形』の五十体分じゃないですか!?」
あまりの巨額な数字に、義人は思わず敬語で驚きの声を上げた。そんな義人の驚きを見たカグラは、頬に手をやって困ったように微笑む。
「四方に設置する魔力吸引用の魔法石が一つ一億ネカくらいしますからねー。あとは屋根に刻む巨大な『魔法文字』を刻める魔法使いと、建物を建てるための人足と建設用の材料で一億ネカ。合計で五億ネカです。もっとも、その時の相場によって変わるので、多少上下はしますけど」
「むむむ……魔法石を自分の国で発掘できればそんなに金はかからないと思うんだけど、どうだろう?」
「この国の鉱業は盛んじゃないんですよ。以前説明しましたが、多少良質な鉄が取れるくらいで、あとは金や銀が少し、それと稀少金属がごく稀に取れるくらいで……魔法石の類が発掘されたという話は聞きません。あまり山の奥で作業をすると、中級以上の魔物が襲ってくることもあるので……」
「それは……さすがに努力じゃなんともできないか。じゃあ、鉄はどのくらい良質なんだ?」
「質で言うと中の上ぐらいですね。普段流通している鉄よりも多少質が良いぐらいです。取引価格は今年の相場で十キログラムあたり百ネカ程度ですね」
「一応この国の貿易の要だしな。しかし、なるほど……今度実際にどの程度の鉄なのか志信と一緒に見てみるか」
そこまで呟き、義人はいつの間にか思考が仕事のほうへと移行していたことに気づいて苦笑する。
「いかん。俺って本当は勤勉だったんだな」
「はい?」
「いや、気にしないでくれ。せっかくカグラと散歩するっていうのに、王様としての仕事が頭から離れなかった自分が少しおかしかっただけさ」
そう言って、義人は魔力回復施設に背を向けた。そしてカグラを促し、城の周りを歩き出
す。
「仕事開始の鐘が鳴るまで、仕事のことは忘れよう。カグラも立場を忘れて、敬語なんか使わなくていいぞ?」
カグラと共にゆっくりと歩きながら、義人はそう提案してみる。しかし、カグラは困ったように笑うだけだ。
「そういうわけにはいきません。わたしは『カグラ』です。その立場を忘れるわけにはいきません」
表情は穏やかだが、どことなく悲しげな色が含まれている。それを見て取った義人は、右手で頬を掻いた。
「そういうもんか?」
「はい。それに、この口調には“慣れて”いますから」
「ふーん……」
楽じゃなくて、慣れているのか。
義人は思わずそう尋ねたくなったが、どことなくカグラが尋ねてほしくないように見えて口を閉ざした。その代わりに、別の質問をぶつける。
「そういえば、カグラって何歳なんだ?」
「今年で十七ですけど……ヨシト様。安易に女性に歳を聞くのは失礼ですよ?」
カグラの指摘に、義人は思わず背を伸ばす。
「それもそうだ。以後、気をつけるよ。しかし、俺と同い年だったのか……てっきり年上かと思ってた」
「……それって、わたしが老けてるってことですか?」
笑顔で尋ねるカグラ。しかし、微妙にこめかみが引きつっているところに義人は恐怖を感じた。
義人はなんとかその恐怖を抑えこむと、肩を竦める。
「いやいや、カグラは落ち着いて見えるからな。一つ二つは上かなと。ミーファはさすがに年上だよな?」
「ミーファちゃんは今年で十九歳です。ちなみに、サクラは十五歳です」
「むむ、そこは予想通りだな」
もしミーファが年下でサクラが年上だったらと想像し、義人は思わず吹き出す。
「くくく……ありえねぇ」
「何を想像しているかが手に取るようにわかりますよ? あとでミーファちゃんとサクラに言っておきますね?」
「ちょっと!? それは勘弁してくれ!!」
サラリと告げるカグラに、義人は慌てて笑いを引っ込める。すると、慌てる義人を見たカグラは袖口で口元を隠して楽しそうに笑った。
「冗談です。わたしも、ちょっと面白いと思っちゃいましたから」
「なら共犯ということで」
「ふふふ、そうですね」
顔を見合わせ、二人で笑い合う。そしてしばらく笑い合うと、義人は一つ息を吐いて背伸びをした。
「いや、こんなにのんびりした気分になったのは久しぶりだよ。ありがと、カグラ」
「いえ。わたしもこんな気分になったのは久しぶりですから、お互い様です」
「そっか……こんな気分になれるなら、毎朝起きて散歩するのもいいかもな。あ、でも散歩も良いけど、志信に稽古つけてもらうのもいいな。志信のことだから、朝からどこかで訓練してるだろうし」
気が緩んだのを自覚しながら、義人は早起きの計画を立て始める。それを聞いたカグラは、首をかしげながら口を開いた。
「シノブ様でしたら、最近はヨシト様の寝室に近い場所で訓練をしていましたよ? 警備も兼ねているようでしたから、てっきりヨシト様が指示をされたのかと」
「え、本当か? 気づかなかったな……」
言われた言葉に、義人は記憶を掘り返す。しかし、寝室の窓から外を見た時に志信の姿を見た記憶はない。
「志信のことだから、気づかなかったじゃなくて“気づけなかった”って言ったほうが正しいかもな。あいつ、最近人間離れが進んでる気がするし」
元の世界の時でさえ、義人が心底驚くような身体能力を持っていた志信のことだ。こちらの世界に来て、さらに磨きがかかったに違いない。いつしか、名前を呼んだら音もなく傍に現れるようになる可能性がある。
義人はそう考えると、腕を組んで悩みこむ。
「志信が暗殺者だったらこれ以上怖いことはないなぁ……いや待て、暗殺者か」
ふむふむと考えこむ義人を見たカグラは、苦笑しながら目を細めた。
義人がこうなったときは、何か良い案を出す兆候である。ここ最近でそれを覚えたカグラは、考えを促すように話しかけた。
「何か思いつきましたか?」
「うん? いや、志信が暗殺者だった場合、うちの城の警備で防げるのかと」
「……わたしやサクラが本気で迎撃しても良いのなら防げますが?」
「城の中で強力な魔法をぶっ放すか?」
「もちろん城を崩したりはしませんよ?」
義人の問いに、えらく物騒なことを仰るカグラさん。
崩そうと思えば崩せるのかと聞きたくなった義人だったが、肯定されたら怖いので聞かないことにした。
そうやって取り留めなく話していると、午前八時を知らせる鐘の音が響く。それを聞いた二人は、顔を見合わせた。
「やれやれ、楽しい時間はあっという間に過ぎるもんだ。朝食を食べて、今日も一日頑張らないとな」
「そうですね。最近は大分落ち着いてきたとはいえ、まだまだ片付けるべき仕事はたくさんありますから」
「うへぇ……あーやだやだ。でも、そうも言ってはいられない、か」
たまには愚痴も言いたくなるが、義人はすぐにそれを飲み込んだ。そしてカグラへと向き直り、笑いかける。
「それじゃあ、今日もよろしくな」
「はい。頑張りましょうヨシト様」
そんな義人にカグラも笑い返す。
またいつか、のんびり散歩でもしよう。
そんなことを思いながら、義人はカグラと二人で城の中へ戻っていった。