第三話:ある日森の中、熊さんに出会った
その少年と出会ったのは、四歳の頃だった。
同じ幼稚園、同じ小学校、同じ中学校。そして、高校も一緒という、それは世間一般で言えば“腐れ縁”というもの。
もっとも、腐った縁だろうが腐ってない縁だろうが、その少女には関係なかった。
どこか飄々としていて、それでいて自然と物事の本質を見極める。そんな、他の人とは少しだけ違う少年のことを、いつしか目で追うようになっていたのだから。
頭は良いくせに、勉強は嫌いで、運動が得意なのに部活にも入らない。裏表がない性格で、男女分け隔てなく接して、そのおかげで友達だって多かった。……そのおかげで、少女がやきもきしたこともあるが。
なにはともあれ、少女はその少年のことが好きだった。鈍感なのが欠点だけど、それでも良い。それで助かったこともあるのだから。
「ふにゅ……」
そこまで少女が思い浮かべたとき、ぺちぺちと頬を叩かれた。
「おーい優希ー。朝ですよー。そんでもって、ここは樹海ですよー。あ、もしかして富士の樹海かここ」
義人が声をかけるが、優希は起きようとしない。実に幸せそうな顔で、寝息を立てている。
「仮に富士の樹海だとして、日本にあんな鳥がいるのか?」
「いや、スマン。いないな。というか、いたら困る。もしいたら、近隣住人から行方不明者が続出するぞ、きっと」
軽く前言を撤回しながら、義人は優希の傍に膝をつく。
「ふにゅ……」
「幸せそうな顔しやがって……」
苦笑しながら、義人は優希の頬を軽く叩いた。柔らかい頬が叩かれ、ぺちぺちという緊張感がない音が辺りに響く。その音に、珍しく志信が笑っていた。
「おい優希、早く起きてくれ。いや、俺としてもそんなに気持ち良さそうに眠っているのを起
こすのは、かなり心苦しいものがあるんだ。だけど起きてくれ」
もう一度頬を叩くと、優希は軽く身じろぎをする。そして、ゆっくりと目を開いた。そのまま目の前の義人を確認すると、不思議そうに首を傾げる。
「……義人ちゃん? なんで、わたしの部屋にいるの?」
「素敵なボケをありがとう。もしここがお前の部屋なら、是非とも出口まで案内してほしいよ」
寝惚け眼をこする優希に、義人は苦笑を深くした。
「って、あれ? ここ、どこ?」
完全に目が覚めたらしい。優希は周りを見回すと、困惑したような声で呟く。
「俺にもわからない。ただわかるとすれば、あまり長居はしたくないってことくらいだ。というわけで、立てるか?」
優希に手を伸ばし、尋ねる。優希はその手をつかむと、引っ張られるようにして立ち上がった。
「さて、優希も起きたし、この森から出ないとな」
そう言ってみるが、どの方向に進めば出られるのかがわからない。辺り一面は木々に覆われ、目に見える範囲に抜け出す場所はなかった。
「……ま、歩いていれば出られるか」
確証はないので、義人は希望を込めて言ってみる。それに同意するかのように志信も頷いた。
「おそらくは」
「そこは、絶対って言ってほしかったぞ」
志信の言葉に突っ込みを入れてみると、優希が不思議そうな顔で尋ねる。
「ねえ義人ちゃん、この森って何かあるの? 話を聞いてると、すぐに出ないといけないみたいだけど……?」
「何かあるっていうか、いるっていうか……」
義人は困ったように志信を見る。この場で言うべきか、言うべきではないか。そのアイコンタクトに、志信は頷いてみせた。
「さっきの鳥が出てからでは遅い。先に言っておいたほうが、心の準備もできる」
「だよなぁ。いいか、優希。この森には……」
義人がそこまで言ったとき、志信が弾かれたように反応する。体を反転させ、腰を落として棍を構えた。そして、その棍の向く先には、全長三メートルほどの熊の“ような”生き物がいた。
「この森には馬鹿でかい鳥とか、あんな化け物が……いたんだな」
優希に説明していたはずが、途中から確認になる。なにせ、熊のような生き物のインパクトは強すぎた。
全長約三メートル。それだけなら、納得できただろう。だが、その熊の腕は四本。そして極めつけは、口から炎らしきものを吐いていることだ。
「な、なんだありゃ! 熊か? ベアーか?」
「違うよ義人ちゃん! きっとツキノワグマだよ!」
「落ち着け二人とも。熊とベアーは同じ意味だし、ツキノワグマもそこまで変わらない」
慌てる二人に、冷静に突っ込みを入れる志信。だが、その顔にも先程まではなかった焦りのようなものが見えた。
「ゴアアアアァァッ!!」
そんな三人に構わず、化け熊が雄たけびを上げる。そして、口から炎を吹き出した。それは威嚇のつもりだったのだろう、三人のすぐ横の木に命中し、音を立てて燃え上がらせる。
その突然の光景に、優希は腰を抜かした。比較的心の準備ができていた義人は、さっきの化け鳥のほうがまだ手に負えたなー、と内心で呟く。志信は油断なく棍を構えたまま、化け熊との距離を目測で測った。
化け熊は、三人が自分にとって大した脅威ではないと判断する。それまで空けていた距離を、悠々と縮めだす。
三メートルほどの熊が迫ってくるのを見て、義人は冷や汗を流した。
「これは、逃げたほうが得策だと思わないか?」
「逃げ切れれば、だがな」
志信は横目で腰の抜けた優希を見る。それと見た義人は、あちゃあ、と言って手で顔を覆った。
「仕方ねぇ、優希は俺が担いで逃げる。なんかわからないけど、妙に体が軽くて速く走れるか
らなんとかなるだろ。優希も重くないし」
「わかった。義人はそうしてくれ」
「……俺は? 志信も一緒に逃げるんだぞ?」
訝しげな表情で義人が尋ねると、志信は小さく首を振る。
「あの熊は俺が食い止める。どの道、同時に逃げたとしても、炎を吐かれたら逃げられる保証がない」
淡々とした志信に、義人は動こうとしていた足を止めた。
「馬鹿言ってんじゃねえよ。お前を置いて、逃げられると思ってんのか?」
僅かに怒りを含んだ声に、志信は薄く笑う。
「お前は、相変わらずだな」
「は?」
「俺のような人間でも、変わらずに接してくれる」
それだけ言うと、志信は化け熊に向き直る。先程よりも近くに寄ってきた化け熊を見据えつつ、握る棍に力をこめた。すでに語る言葉はないと、その姿が言っている。それを見た義人は、ため息を一つ吐いて優希に話かけた。
「悪い、優希。逃げるのは後になった」
そう言って、手頃な石を拾う。それを見た優希は、わかっていたように微笑んだ。
「うん。義人ちゃんなら、そう言うと思ったよ」
優希の言葉に、困った性分だよなぁと義人が笑う。
正直に言えば怖い。自分の何倍かありそうな体格に、口からは炎を吐く化け物。これで怖がらないほうが可笑しいというものだ。
内心で湧き上がる恐怖を、義人は無理やり押さえつける。膝が震えそうになるが、力を込めて無視した。
生憎と、友人を囮にして逃げるような根性は持ち合わせていない。義人は右腕を振りかぶり、化け熊に狙いを定めた。野球部には負けるが、それに準ずる程度のコントロールは持ち合わせている。
「くらえっ!」
大きく踏み込み、オーバースローで石を投げた。それと同時に志信が駆け出す。投げた石は狙い違わず化け熊の腹部に命中し―――毛皮で弾かれた。
「ゴアアァァッ!!」
ダメージを与えることなく空中へと弾かれた石を、化け熊が腕の一本で殴り飛ばす。それはライナーとなって、志信のほうへと叩き出された。
「っつ!」
時速百キロ超で迫る石を、志信は咄嗟に棍で弾く。志信の後ろには優希が腰を抜かしているため、避けるわけにはいかなかった。
弾いたおかげで僅かに痺れた右手を無視して、志信は走る。打撃では効果が薄いと看破し、化け鳥と同じく目を狙うべく高く跳躍した。
「はっ!」
勢いを乗せて棍を突き出す。狙いは右目。どんな生き物でも、眼球は急所だ。
しかし、化け熊はその動きを上回る。迫る志信を嘲笑うかのように、口を開けた。そして、先程よりも大きな炎を吐き出す。
志信の眼前に炎が迫る。だが、志信は表情を変えない。突き出していた棍を引くと同時に軌道を変え、横に生えている木を突く。志信自身はその突いた反動で横へと体を押し出し、炎から身を逸らした。
「うっわ、相変わらずとんでもない運動神経してんな……」
その曲芸染みた動きを見ていた義人は、思わず呟く。義人自身も運動神経には自信があるが、志信に比べれば段違いどころか桁で劣るだろう。チワワとドーベルマンの例は、冗談ではない。
義人がそんな呟きを漏らすとほぼ同時に、木を突くことによって横に回転した志信は、打突を諦め横薙ぎの一撃へと転じる。体勢は悪いが遠心力の乗った一撃だ。もしも相手が人間なら、殺傷するに余りある。
そんな威力のある一撃を、化け熊の側頭部へと叩き込む。志信の身の丈ほどある棍で殴られた化け熊は僅かに後退し、
「ガアアアアアッ!」
すぐさま反撃を繰り出した。
志信が握る棍を爪で切り裂き、その余波をもって志信を弾き飛ばす。
「くっ!」
その衝撃をガードした志信は、何とか足から着地する。直接的なダメージはないが、それでも僅かに動きが鈍った。
チラリと、今まで棍だったものに目を向ける。爪で切り裂かれた棍は、長さを変えて一メートル程になっていた。その姿は、もはや棍ではなく棒。だが、それでも志信は表情を変えない。棒を正眼に構え、化け熊と対峙する。
「くそっ」
そんな志信を見ながら、義人は歯噛みした。友人が身を挺しているというのに、自分は何もできないのか、と。
義人は周りを見回し、何か打開策になるものはないか探す。右を見て、左を見る。そして、今度は正面を見た。
「―――は?」
そして、間の抜けた声を漏らす。その声を聞いた優希は、つられたように義人の視線の先を追って、
「―――え?」
つい、義人と似たような声を漏らしてしまった。その方向には志信と化け熊がいるが、二人の視線はさらにその奥へと釘付けになる。
そこには、こちらへと駆けてくる一人の少女の姿があった。
歳は義人達と同じか、少し上に見える。整った目鼻立ちに赤い長髪を後ろでまとめ、纏うのは華美でない装飾の施された白い鎧。それは一切の無駄を省いたように、必要最小限の急所だけを守っている。そして、右手に握られている一振りの日本刀。鎧は西洋の趣だというのに、その少女が握っているとやけに似合っていた。
「ハアアァァッ!!」
そのまま跳躍。少女は刀を振りかぶり、化け熊よりも高く跳ぶ。それを見た志信は僅かに目を見開くが、すぐさま後方へと跳躍した。
「セイッ!」
刀は円を描き、振り下ろされる。その一閃は鋭く、化け熊の脳天から股下にかけて一息に両断した。まるで、包丁で野菜を切るかのような鮮やかさ。義人は思わずその光景に見入り、隣の優希は何も見まいと目を瞑っていた。
少女は化け熊を切り裂いたまま、地面へと着地する。真っ二つに斬られた化け熊は悲鳴を上げることすらなく、その体を二つに分けて地面へと倒れた。
化け熊が死んでいるのを確認した少女は、一度刀を血振るいしてから鞘に納める。そして、志信へと目を向けた。
「…………」
互いに無言。志信は警戒を解くことなく、手に持った棒に力を込める。それを見た少女は、今度は義人と優希に目を向けた。
その視線を受けた義人はとりあえず手を軽く挙げ、優希はそんな義人の袖を引く。
そして少女は僅かに思案し、志信の方へと歩み寄った。自分に敵意はないというつもりなのか、日本刀は地面へと置かれる。それを見た志信は、とりあえず棒の切っ先を少し下げた。
それを確認した少女は、志信に向かって膝を突いて頭を下げる。それは、臣下の礼と呼ばれるもの。
「カーリア国第一魔法剣士隊隊長、ミーファ=カーネルです。王をお迎えに参りました」
「―――は?」
その台詞に、志信は珍しく素の声を発した。