第三十三話:庭先の戦い
粘つく足元から、血の香りが立ち昇る。石畳に流れる血の量は、一人や二人分どころではない。
「……あ……たす、け……」
聞こえてきたかすれた声に、義人は無意識のうちに血の流れ出る場所へと目で辿って思わず口元を手で覆う。
柱の影から覗く、折り重なった数人分の人影。そのうちの一人が義人達へと手を伸ばし、必死に助けを求めていた。
「っ! 大丈夫か!?」
思わずエンブズから視線を外し、義人は怪我人の傍へと走り寄る。
初めて見る大量の血に気分が悪くなるが、怪我人に無理やり意識を向けてそれを堪えた。そして怪我人の傍に膝を突き、後方に向かって叫ぶ。
「カグラ! こいつらを助け」
「ヨシト様!」
『上じゃ!』
助けてくれ、という言葉を遮り、カグラとノーレが焦燥の声を上げる。それと同時に首筋に氷を当てられたような寒気が走り、義人は反射的に頭上を見上げた。
見知らぬ男が一人、義人の額を貫こうと剣を突き出しながら落下してくる。義人は咄嗟に王剣を振り上げようとするが、それよりも男の攻撃が圧倒的に速いだろう。
「義人!」
志信が駆ける。カグラの声を皮切りに駆け出し、頭上から迫り来る凶刃を間一髪で横薙ぎに弾き飛ばす。
男は志信の反応に僅かに笑うと、落下しながらも柱を蹴って横へと跳ぶ。少し離れたところに着地すると共にさらに地面を蹴り、エンブズの傍へと着地した。
「今のに反応できるとは中々……いや、こんな田舎の小国にも、ちったあ骨のある奴がいるらしい」
片刃の剣を肩に担ぎ、男は笑う。
身長は志信と同じくらいで、百八十センチを僅かに超えた程度。
若干ぼさぼさな髪の毛に、野性味のある顔立ち。顔立ちと雰囲気から察して歳は二十台後半だろう。
ミーファと同じく必要最低限の急所を守る鎧を身に着け、肌は日に焼けている。腰には短刀を下げ、額には一本の傷跡があった。
志信は前へ出て棍を構え、義人は気を取り直して怪我人の状態を確認する。義人のすぐ傍にカグラも駆け寄り、ミーファは志信の横に並んで抜刀した。
「何をやっとるかガルアス! さっさとあの小僧を殺さんか!」
男……ガルアスの後ろで、エンブズが巨体を揺らしながら叫ぶ。
「まあまあ、そう騒ぎなさんなって。料金分の仕事はちゃんとするからよ」
耳に障る叫び声を風に流し、ガルアスは快活に笑う。
「というわけで、だ。お前らに恨みはないが、死んでくれや」
それと同時に、殺気が膨れ上がる。片刃の剣に文字が浮かび上がり、青い光が剣を包み込んでパチパチと何かが爆ぜる音が響く。
「これは……手加減して倒せる相手じゃなさそうね」
倣うようにミーファの刀が柄元から燃え上がり、志信は『無効化』の棍を構えて腰を落とした。
志信の構えにほとんど隙はなく、それを見たガルアスは楽しそうに目を細める。
「そっちの嬢ちゃんはともかく、坊主、おめえは楽しめそうだな」
そう評価を下し、ガルアスが悠々と間合いを詰めていく。互いの距離はおよそ十メートル。そして、今もその距離は縮まっていく。
合図はなく、志信とガルアスは同時に地を蹴った。それに続くようにミーファも駆け出し、先制とばかりにバレーボールサイズの火球を三つ生み出して撃ち出す。
「ハッ、なんだこりゃ! 火の粉か!?」
ガルアスは片手の剣を振るい、いとも容易く火球を打ち払う。
それを見た志信が一気に加速し、鳩尾目がけて棍を繰り出した。だが、ガルアスは身を捻ってその一撃をかわす。
次いですぐさま連撃へとつなげるが、ガルアスも足を止めて剣で弾き逸らしていく。
今回はミーファと試合をしたときのような手加減など、一切していない。
仮に相手がミーファだったら、すぐに圧倒することができただろう。しかしガルアスは、次々と繰り出される打突を前に笑みすら浮かべている。
「いいねぇ! 鋭く、速い突きだ。お前ほどの槍捌き、中々お目にかかれねぇな!」
ガルアスも『強化』を使っているのか、その動きは志信に劣らない。
技量はほぼ互角、いや若干相手が上か。しかも、戦闘経験に大きな開きがある。
嵐のように連撃を繰り出しつつも、志信は冷静に眼前の敵を観察していく。
二対一でも自分のペースを崩さず戦い、ガルアスは戦況を五分に持ち込んでいた。
「くっ、この!」
ミーファも隙を突くように斬撃を繰り出すが、ガルアスは見向きもせずに腰の短刀を抜いて弾く。
「嬢ちゃんはまだまだだな。あと三年くらいしたらこっちの坊主に追いつくかもしれないが、攻撃が単純だ」
しかも、軽口まで叩く有様である。ミーファは奥歯を噛み締め、射殺すような殺気を放つがガルアスにとっては何の効果もない。
「ミーファ! この男の相手は俺がする! お前はエンブズを捕まえろ!」
膠着した状況を打破しようと、志信がそう叫ぶ。ミーファは反発しようと口を開くが、ミーファにとっての本当の敵はガルアスではない。
「わかった!」
頷き、エンブズのほうへと駆け出そうとする。
「行かせるかよ!」
それにすぐさま反応したガルアスが地面を蹴り、短刀ではなく片刃の剣をミーファへと振り下ろす。鋭い斬撃に、ミーファは咄嗟に刀で受けた。その瞬間、青く光っていた剣から音を立てて電流が迸る(ほとばしる)。
「きゃああああああああ!」
刀を伝わって強烈な電流がミーファを襲い、追撃と言わんばかりにガルアスが前蹴りでミーファを蹴り飛ばす。
電流で体が硬直していたミーファはそのまま後ろへと吹き飛び、壁にぶつかって崩れ落ちた。
「ミーファ!」
視線はガルアスから外さずに、志信は義人の大声を聞く。しかし、ミーファからの返事はない。
「安心しろ、坊主。殺しちゃいねえよ。俺に剣を向けたとはいえ、女を殺すのは趣味じゃないしな」
「うっ……ぐ、ぁ……」
ガルアスの言葉を肯定するように、ミーファから呻き声が漏れる。志信はミーファが生きていることを音で確認すると、棍を振るいつつ口を開いた。
「成程、雷を使った魔法か」
「ああ。武器を合わせりゃ勝手に相手が電撃を喰らう。まあ、金属の武器が相手じゃねーと効果はないけどな。お前さんの場合、木は電流を通さねえし、しかも『無効化』まで付加してあったら電気は届かねえ」
褒め称えるような言葉だが、志信は油断など微塵もしない。そんな志信を見たガルアスは、嬉しそうな笑みを見せる。
「いいねぇ……歳の割には完成した強さだよ、坊主。しかも、まだまだ伸びる余地があると見える。名前を聞かせてもらえるか?」
「……藤倉志信だ」
「シノブ、か。覚えておくが、残念だぜ。こんな場所で出会わなけりゃ、殺さなくてすんだんだがなぁ」
「ぬかせ」
ガルアスの言葉に乗らず、志信はひたすらに打ち合う。だが、ミーファが倒れて志信のほうがやや押され始めた。
気を抜けば、一瞬で命を刈り取られる。試合ならまだしも、命を賭けた殺し合いは志信とてまだあまり経験していない。だが、緊張はなく高揚がある。
劣勢になって初めて、志信の口元に小さな笑みが浮かんだ。
「どうだカグラ! 助けられるか!?」
柱の影に折り重なっていたのは合計で五人。それぞれが深い傷を負い、体中から血を流している。伝令に向かわせたが、ガルアスに襲われたのだろう。
「治癒魔法を使えばなんとか……しかし、魔力を使って良いのですか?」
「人の命がかかってるのにそんなこと言ってられるか! 使ってくれ!」
「わかりました」
カグラが頷き、精神を集中する。すると手の平から暖かい光が漏れ出し、カグラはその手を倒れた兵士の傷口へと押し当てて『治癒』を施していく。
義人はもどかしそうにその光景を見ていたが、手に持った王剣ノーレへと話しかけた。
『ノーレ、治癒魔法は使えないのか!?』
『……妾は『風と知識の王剣』じゃ。治癒魔法は使えん』
予想通りの返答に、義人は大きく眉を寄せる。
「おやおや、ヨシト王はお優しいことですなぁ……そのような使い捨ての兵士に、治癒魔法をかけてやるなど」
離れたところから、揶揄混じりの声がかけられた。義人が睨むように見てみれば、エンブズが下劣な笑みを浮かべて笑っている。志信達は戦いに集中しているのか、聞こえていないらしい。
「エンブズ……」
怒りを込めて呟くと、エンブズは肩を竦めた。
「おお、怖い怖い。そのように睨まれては、腰が抜けそうですな」
からかうような声色に、義人は逆に冷静になる。自分はエンブズに聞くことがあると言い聞かせ、口を開いた。
「今回の暗殺騒動で、何か申し開きはあるか?」
「おやおや、暗殺ですと? そんなことが起きていたのですか? 大変ではありませんか」
驚いたような表情を作るが、その口元は笑っている。
「ああ。大変だったぜ。おかげさんで、危うく死ぬところだった」
「ヨシト王を暗殺しようなどとは、まったく大それたことを考える輩がいたものですな」
「お前が言うか。商人のベッソンから証言を取ってある。お前が犯人だとな」
「ヨシト王は臣下の私よりも、どこぞの商人を信じると?」
脂ぎったエンブズの笑みに、義人は口元を吊り上げる。
「お前は、そのどこぞの商人よりも自分が信じられているとでも思ってるのか? 前王の暗殺といい、税金の横領といい、ずいぶんと好き勝手にやってくれたじゃないか」
義人がそう言うと、エンブズは意外そうな表情を浮かべた。
「おや、前王の暗殺は私ではなく……」
そう言うなり、ミーファが義人の横を通り過ぎて壁へと叩きつけられる。意識を失っているのか、それとも激痛に耐えているのか、体はピクリとも動かない。
「ミーファ!」
そんなミーファに義人が声をかけるが、返事はない。エンブズが鼻を鳴らし、嘲るように呟く。
「そこの小娘の父親がやったことですぞ」
嘘だ。義人はエンブズの言葉をそう断じ、睨みつける。
「阿呆が。ベッソンが全部吐いた。下らんこと抜かすな、肉ダルマが」
吐き捨てるように罵倒した。すると、エンブズの顔がみるみる赤らんでいく。
「小僧が……ふざけた口をきくなっ!」
「おいおい、お前こそ王様に向かってなんて口をきいてんだ、豚野郎。『お姫様の殺人人形』なんぞ差し向けやがって」
「ふん! せめてもの慈悲に、死ぬ前に良い思いをさせてから殺してやろうと思ったがそれも要らん世話だったようだな。クソガキが、お前は儂自ら殺してくれるわ」
そう言うなり、懐から紫色の石を取り出す。それに見覚えがあった義人は、握る王剣に力を
込めて呟く。
「『魔石』か……」
『気をつけよ。あの者自体は下級魔法使い程度の魔力しか感じぬが、『魔石』を使われれば一気に魔力が跳ね上がる』
『どのくらいだ?』
『下級から中級に変化した、といったところじゃ』
『は……聞いといてなんだが、それがどのくらい強いのかわからねえ』
『この戯けが』
僅かに呆れたような響きだったが、それを気にせず王剣を構える。
「ヨシト様、わたしが!」
それを見たカグラが慌てて治癒魔法を止めようとするが、義人はそれを制して声を上げた。
「それでそいつらが死んだらどうするんだよ! カグラはそのまま魔法をかけ続けろ!」
「し、しかし!?」
いつになく慌てた様子のカグラに、苦笑を浮かべる義人。そして小さく笑いかける。
「喧嘩じゃ志信以外に負ける気しないんでね。心配なら、ミーファを起こしてくれよ」
殺し合いとは言わない。そう口にしてしまえば、滝峰義人としての何かを一つ失う気がした。
王剣ノーレを正眼に構え、義人は呼吸を整える。先程使った魔法の影響で体にだるさを感じているが、膝を折るほどではない。
『ヨシト、こうなれば仕方ない。屋敷を囲む壁に穴を開けるぞ』
『壁を? ……なるほど、外の兵を呼ぶのか』
ノーレの提案に賛同すると、一向に動こうとしない義人へとエンブズが揶揄を込めた声を上げる。
「剣を持って立つだけでは儂は倒せんぞ? クク、怯えて動けんか?」
そんなエンブズに、喧嘩腰になった義人はわざと哀れんだ目を向けた。
「ブゥブゥと鳴き声を上げられても、俺には理解できないんだ。せめて人語を喋ってくれよ」
「き、さまああああああああああああああ!」
義人の挑発を受け、怒りで先程よりも顔を赤くしたエンブズの頭上に巨大な炎の塊が生み出される。二メートル近くある火球に、義人はノーレへと話しかけた。
『ずいぶんとでかい魔法だけど、どうするよ』
『戯け。あの程度の魔法、大した脅威ではないわ。あの豚が魔法を撃ったら妾を横へと振るが良い』
さり気なくエンブズを豚と呼称したノーレに、義人は改心の笑みを浮かべる。
『ノーレ。お前、俺の良い相棒になれるわ』
『こ、こんな時に何を言っておるか! 気を引き締めよ!』
何故か微妙に慌てたノーレに義人は首をかしげると、エンブズを見据えた。頭上の火球はさらに大きさを増し、三メートルほどまで巨大化している。
「焼け死ねえええええええ!」
エンブズが吠え、火球が放たれた。
圧倒的な熱量を持った火炎は、命中すれば骨も残さず燃やし尽くすだろう。後ろにはミーファがうずくまっており、避けるわけにもいかない。
『今じゃ、振れ!』
ノーレの言葉に従い、義人は王剣を横へと薙ぐ。体から力が抜け出すのと同時に剣先から突風が吹き荒れ、火球を風の流れに乗せて屋敷を囲む壁へと誘導する。
激しい爆音。
壁に接触した炎が爆ぜ、轟音と共に壁に穴を開ける。その音に志信とガルアスは攻撃の手を止め、互いに距離を取った。
「風魔法、だと? ……何故、そんなものを使える」
風で火球を受け流されたエンブズが呆然と呟く。義人は力が抜けそうになる足腰に力を込め、口元を笑みの形に吊り上げる。
「どうでもいいだろう、そんなこと。さて、これで外の兵が中へと雪崩れ込んでくる。お前の負けだ、エンブズ」
義人の言葉を証明するかのように塀の外から兵士達のざわめく声が聞こえ、穴から数人の兵士が中の様子を窺う。そして戦闘が行われていることを確認すると、他の兵に指示を出して中へと突入し始めた。
「ヨシト王!」
爆音を聞きつけたのか、邸内を探索していたグエンが兵士を連れて扉から飛び出してくる。ミーファもなんとか痛みを堪え、身を起こして刀を構えてエンブズへと怨嗟のこもった目を向けた。
「エンブズ……父の仇。今こそ、殺す」
「ふんっ、ポドロのような正義馬鹿は邪魔だったからな。前王もあやつの言葉によく耳を傾けておったわ。しかし、毒殺の容疑をかけられた時の顔ほど傑作なものはなかったわい」
挑発するようにエンブズが笑う。
「貴様ぁ……燃え尽きろ!」
ミーファが怒りの叫びと共に左手を前へと突き出すと、怒りに呼応するかのように燃え盛る炎が一直線に放たれた。エンブズへの最短距離を奔り、髪の一本も残さず燃やし尽くそうと迫る。
「おいおい嬢ちゃん、俺のこと忘れてるだろ?」
だが、ガルアスの前では無力だった。雷を纏った片刃の剣を炎へと振り下ろし、相殺して霧散させる。
「邪魔をするなぁっ!」
「無茶言うねぇ。俺の仕事はこいつを無事にハクロアに連れていくことだから、そいつは聞けないって」
激昂するミーファに苦笑を向けるガルアス。治癒魔法をかけていたカグラは、ガルアスの言葉に眉を寄せた。
「ハクロア? まさか、内応していたとでも!?」
内応とは味方を裏切ってひそかに敵方と通じることである。カグラの疑問の声に、エンブズはつまらなそうに鼻を鳴らす。
「儂はこんな小さな国の財務大臣などで終わる気はないのでな。ここ数年、献納金を差し出してハクロア国に取り立ててもらったわい。本当なら貴様を殺して手土産にしたかったがなぁ」
ハクロア国とは、カーリア国の友好国であるレンシア国に隣接する国である。
戦火が絶えず、他国の領土を武力で奪い取ることが多い。この付近にある国の中では最大の軍事力を保有しており、友好国のレンシア国と小競り合いを数多く繰り広げている。
「そうかい。本当に最低な奴だな、アンタ……だが、この状況で逃げられるとでも?」
エンブズの言葉を聞いた義人は王剣をしっかりと構えて言い放ち、志信も棍を下段に構えた。グエンも槍を構え、塀の外からは続々と兵士が集まってくる。
例えガルアスが奮戦したとしても、物量差で押し切ることができるだろう。だというのに、エンブズの顔に焦りの色はない。
「馬鹿め! 逃げる手段などとうに用意しておるわ!」
嘲るように笑い、エンブズが懐から“何か”を取り出す。
その形状は羽箒のようだが、金色に輝いている。
どこかで見た記憶があると義人は記憶を漁り、すぐさま思い出した。
それは、ゴルゾーが以前『お姫様の殺人人形』と一緒に売りに来た物。
「『飛竜の翼』か!?」
「ふはははは! その通りじゃ!」
エンブズが『飛竜の翼』を頭上へと掲げる。すると『飛竜の翼』が発光し、エンブズを黄色い光が包み込んだ。そしてそのまま宙に浮かぶと、矢のような速度で飛び去っていく。
それを確認したガルアスも、懐から『飛竜の翼』を取り出してやれやれと肩を竦めた。
「そんじゃあ、俺も失礼するぜ。もうちょっと戦っていたかったけどな」
『飛竜の翼』を頭上に掲げ、ガルアスの体が黄色い光に包まれる。
「ま、あのおっさんに“未来はない”。シノブ、また戦えることを祈っとくぜ」
それだけを告げ、ガルアスも矢のような速度で飛び立つ。
義人達にそれを止める手段はなく、エンブズの姿もガルアスの姿もすぐに見えなくなった。
「くそ……くそおおおおおお! 待て! エンブズッ!!」
エンブズが飛び立った方角へとミーファが叫び声を上げる。
「逃がした、か」
志信は左腕を押さえ、無感情に呟く。ガルアスと戦っている最中に斬られたらしく、服の袖から血が滴っていた。服もところどころ斬られているが、怪我を負ったのは左腕だけのようだ。
義人は王剣を鞘に納め、目を瞑って深呼吸を数回繰り返す。そして目を開くと、集まってきた兵士に視線を向けた。
「重傷者が五人、他にも怪我をしている者がいる。すぐさま治癒魔法を使える者呼んできてくれ」
「はっ!」
ミーファのように、いや、それ以上に怒鳴り声を上げたいのを押し殺し、指示を出す。
カグラが治癒魔法を使ってはいるが、五人同時ではさすがに効率が悪すぎる。それでも五人ともまだ息があり、治癒魔法使いが到着すれば助かるだろう。
肝心のエンブズには逃げられたが死者はなく、重傷者を含めて怪我人が数人のみ。
『気に病むな、ヨシト。お主は出来る限りのことをした。死者も出さず、怪我人とて治癒魔法を使えばじきに回復する。それで良いじゃろ?』
義人の内心を読み取ったノーレが思念を向けてくる。その声色に心配の色を感じた義人は、なんとか胸の中の激情を堪えて首を横に振った。
「良いわけがねえよ」
小さく呟いた言葉は、風に流されて消える。王剣の柄を力の限り握り締め、義人はエンブズが飛び去った方向に目を向けた。
「良いわけが、ねえよ……」
もう一度呟いた言葉に込められた感情は、深い怒りと自身に対する情けなさ。
それでもなんとか己を律し、義人は待機している兵へと歩み寄る。
「みんなでエンブズの屋敷内を隅から隅まで調べてくれ。隠し金庫や隠し部屋がある可能性が高い。徹底的に探し、なんとしても見つけだせ」
「はっ!」
せめて横領された金だけは取り戻す。
それだけは、最低でも果たさなければならない。
義人は屋敷の中へと走っていく兵士達を見送りながら、睡眠不足と昨晩からの実戦で張り詰めていた緊張の糸が緩むのを感じた。それを自覚するなり疲労が足にきて、前のめりに地面へと倒れ込む。
「ヨシト様!?」
カグラが慌てた声を上げるが、疲労が蓄積された体は容易く義人の意識を奪う。徐々にかすんでいく視界に、義人は小さく悪態をついた。
「くそ……」
不甲斐無い。心の底からそう思う。
そんな義人を嘲笑うかのように、風が頬を撫でていった。
ハクロア国王都フートリアのすぐ傍の街道に、空から二人の男が舞い降りる。
一人は先に逃げ出したエンブズ。もう一人はその後を追って飛び立ったガルアスだ。
さすがにいきなり王都の中に飛び込むわけにもいかず、ひとまずその傍の街道に着地することにした。
地面に足を着くと、今まで発光していた『飛竜の翼』が光を失って羽が白く染まる。埋蔵されていた魔力がなくなったためだ。
「やれやれ、こいつは便利だが一度使えば再使用するのに時間がかかるのが難点だな」
白くなった『飛竜の翼』を懐に入れ、ガルアスが呟く。魔力が溜まればまた使えるようになるが、ハクロア国の魔力回復施設に放り込んでも一ヶ月はかかる。
「そんなもの、新しく買えば良いことであろう? ほれ、儂を早くハクロア国王の元へと案内せんか」
そんなガルアスを見たエンブズは、急かすように口を開く。飛んだだけで疲れたのか、少し肩で息をしていた。だが、これから先の未来を思い描いているのか口元が笑みで歪んでいる。
横領した金をハクロア国へと流し、その国の財務大臣として登用してもらう。ハクロア国はカーリア国と違い、国土も広く国民の数も多い。その上商業や工業、農業や魔法技術がカーリア国の数歩先を行っており、軍の練度も段違いだ。税収も多く、自分に払われる給金もカーリア国の時とは比べ物にならない。
金に対する欲が人一倍強いエンブズは、そんな考えで自分の生まれ育ったカーリア国をあっさりと裏切った。
そんな欲にまみれたエンブズを、ガルアスは冷ややかな目で見る。
「おめでたい野郎だな……ヨシトとかいう新しい王にちょっとだけ同情するぜ。こんな無能で害にしかならねえ部下がいたとはよ」
カーリア国は他国と違い、非常に独自色がある国だ。
王の決定に従うのはどの国も一緒だが、その従い方が妄信的と言える。今までエンブズのような者が出なかったのが不思議なくらい王を信奉していた。さすがに最近は重税や横領などのせいでぐらついていたようだが、エンブズがいなくなれば安定するのは遠くないとガルアスは見ている。
「ん? 何か言ったか?」
「いや、なんでもねえよ。ほら、王都にはそっちの道だ」
「なんと!? 儂にここから王都まで歩けというのか? 馬車を呼べ馬車を!」
王都までは歩いて数百メートル程度。歩いて十分もかからないだろう。いや、エンブズの肥えきった体ではもっと時間がかかるかもしれないが、それでも大した距離じゃない。
「愚痴を言いなさんなって。ほら、王都に着けばアンタの『フートリアまで送り届ける』って
仕事は終わりだ。着けばいくらでも贅沢できるんだろ?」
「そ、そうだったな。仕方ない、それでは歩くとするか……」
贅沢という言葉に頬が緩み、巨体を揺らして歩き出す。時折ブツブツと愚痴を吐くが、それでも先へと進んでいく。
そうすること十五分。ガルアスにとっては散歩にもならない速度だったが、エンブズはすでに汗をかいている。それでもなんとか城壁に囲まれた王都の門前まで辿り着くと、エンブズが歓声を上げた。
「ふはははは! これで儂もハクロア国の官僚じゃ!」
「おめでとさん。そんで、俺の仕事もこれで終わりだな?」
「ああ! 金は先払いで払ったからのう! とっとと儂の前から消えるが良いわ!」
「そうかい。それじゃあ」
エンブズの罵声に近い声にも、ガルアスは反応を示さない。エンブズがフートリアに一歩踏み入れた瞬間、気軽な動作で片刃の剣が横へと一閃する。
「“次の仕事”に移らせてもらうかね」
「……は?」
何が起きたかわからない。そんな表情を貼り付けたままで、エンブズの首が胴体から離れて宙に舞った。
弛緩しきった反射神経ではガルアスが剣を抜いたことすら察知できず、間抜けな顔のまま地面に首が落ちる。体はそのまま前のめりに倒れこみ、事も無げに切り捨てたガルアスは剣を血振るいして肩を竦めた。
「アンタのような奴が、本当にこの国の財務大臣になれると思ったのか? まったく、寝惚けるのも大概にしてほしいぜ」
心底馬鹿にするように呟き、門の前にいた兵士が駆け寄ってくるのを見てため息を吐く。あとはこの死体を引き渡して、次の仕事に移らなければならない。
「お疲れ様ですガルアス様!」
「ああ、お疲れさん。そんじゃあ、手筈通りに頼むわ」
「はっ!」
兵士の敬礼に見送られ、ハクロア国軍所属傭兵隊隊長のガルアス=アーミルは城門をくぐって王都へと帰還する。
「次は報告業務か……あー、めんどくせえ」
欠伸を一つ漏らし、ガルアスの姿は雑踏へと消えた。