第三十一話:狂気
優希が突然歩き出したのに最初に気づいたのは、ミーファだった。
偶然や勘が良いなどという理由ではなく、優希が歩く先にいたのがミーファだったために最初に気づいたというだけである。
周りは義人の言葉やベッソンの反応に気を割いており、動いた優希に気づいたのはそれから数秒経ってのことだった。
「優希?」
ミーファに続いて義人が気づく。義人の呼びかけには笑顔で応じるはずの少女は、能面のような無表情で振り向きもしない。ただミーファの傍まで歩を進め、呆然と自身を見上げるミーファや他の武官の視線を無視して膝をつく。
「借りるね」
事も無げに告げ、ミーファの腰から刀を抜き取った。ミーファの腰には鞘だけが残り、優希は白刃を片手に再び歩き出す。
あまりにも自然な動きでベッソンに近づく優希に対して、誰も反応ができない。
刀を抜かれたはずのミーファでさえ、他の武官に押さえ込まれた状態で怒りすら忘れて優希の一挙一動を見送った。
「おい優希、どうした?」
例外は、義人だけだ。幼馴染みが取った行動に疑問の声を向ける。
それを聞いた優希は、ベッソンの傍で足を止めて満面の笑みを浮かべた。
「義人ちゃんは、人形を誰に売ったかこの人に教えてほしいんだよね?」
その笑顔に若干気圧されつつも、義人は頷く。
「あ、ああ。教えてほしい」
ひとまず返事をするが、それを聞いた優希は座っているベッソンに硝子染みた無機質な目を向ける。
「ねえ、聞こえたよね? 誰に売ったか義人ちゃんに言ってよ」
義人のような、作った無表情ではない。
優希は一切の感情を声に乗せず、ただ言い募る。
ベッソンはそんな優希に恐れを抱きつつも、首を横に振った。
「……言えません」
いや、“振ってしまった”。
「そう」
短い言葉。それと同時に刀を逆手に持ち替え、何の戸惑いもなく振り下ろす。
それにすぐさま反応したのは志信だった。優希が逆手に持ち替えた瞬間、床を蹴って一気に間合いを詰める。
棍先で刀の腹を叩いて刀の軌道を変えようとするが、想像以上の鋭い太刀筋に僅かにしか軌道が変わらない。
「っ!?」
僅かに刀が逸れ、白刃はベッソンの左耳をかすめて床へと突き刺さる。もしも志信が棍で軌道を変えなければ、今頃ベッソンの左耳が床に落ちていただろう。
優希は志信によって刀の軌道がずらされたことに何の反応も返さず、もう一度刀を振り上げる。
「ねえ、義人ちゃんの言葉が聞こえなかったんだよね? だから答えないんだよね? だった
らそんな聞こえない耳―――いらないよね?」
表情はなく、怒りに濁った瞳だけで告げて再度刀を振り下ろす。
志信は咄嗟に刀を持った優希の右腕をつかむと、振り下ろせないように力を加える。
優希の細腕では志信の力に対抗できず、刀を振り下ろすことはできない……そう、志信は思っていた。
「そんな聞こえない耳は、いらないよね?」
そんな志信に構わず、優希の握った刀は徐々に下へと下がっていく。優希を突き動かす激情が可能にするのか、志信の膂力を上回る力だった。
ゆっくりと迫ってくる刀の切っ先に、ベッソンは今度こそ腰を抜かす。逃げようにも体が言うことを聞かず、その場で震えることしかできない。
震えるベッソンを虫でも見るような目つきで、優希が告げる。
「―――言える、言えないじゃないの。“言うの”」
志信はこれ以上押さえきれないと判断すると、すぐさま義人に目を向けた。
「義人!」
「ああ、わかってる。優希、そこまでだ! やめろ!」
王座から立ち上がって叫ぶ。すると、今まで志信の力を超えて下へと降りていた白刃が動きを止めた。
義人にかけられた言葉を聞いた優希の体は、すぐさまそれに応じて動きを停止する。そして、義人に困ったような笑顔を向けた。
「どうしたの、義人ちゃん?」
「いや、どうかしたのはお前のほうだろ。ほら、そんな物騒な物は志信に渡してこっちに来い」
「うん、わかったよ」
いつものように頷くと、刀を志信に渡す。そして義人の傍へと駆け寄ろうとして、ベッソンへと振り向いた。
「義人ちゃんが優しくて良かったね?」
笑顔で、そう告げる。
それを聞いたベッソンは、顔色が青を通り越して白くなった。恐怖が理性を上回ったのか、震えながら口を開く。
「……え、エ……ン、ブズ、さ、まです……」
蚊の鳴くような声だったが、義人は聞き漏らさず聞き返す。
「エンブズ? エンブズに売ったんだな?」
確認するために聞くが、ベッソンはそれ以上喋らずただ頷く。それを見た義人は、やはりかと納得した。
「カグラ、エンブズの家に向かわせた兵はまだ戻っていないか?」
「は、はい。まだ戻っていません」
優希の様子に呆けていたカグラは、なんとかそう言葉を返す。
「逃げる気か、すでに逃げてるか……よし、今からエンブズの自宅に向かう! 魔法剣士隊と騎馬隊はすぐに準備をしろ! 逃げていたらすぐに追うから歩兵隊や魔法隊も準備をしといてくれ!」
『はっ!』
「準備が完了次第すぐに出発する! 急げよ!」
『はっ!!』
臣下全員が気合の入った返事を返し、ミーファがすぐさま飛び出していく。
それを仕方ないかと見送った義人は、いまだに震えているベッソンに目を向けた。
「お前への罰は後日通達する。まあ、そんなに重いものにはしないからひとまず牢屋で気楽に待っていてくれ。」
義人がそう言うと、ベッソンは震えながらも兵士に連れられ退室する。
謁見の間から次々と人が走り出て行くのを見送った義人は、横で控えていた優希に目を向けた。
「優希……お前、無茶しすぎ」
いつものように話しかけると、優希もいつもの朗らかな笑顔を浮かべる。
「無茶じゃないよ?」
「無茶だっての」
笑顔でとぼける優希にデコピンを放つ。ペチーンと気の抜けた音がして、優希は額を押さえた。そこには、先程までの狂気めいた気配は微塵もない。
「う〜……痛いよ、義人ちゃん」
「痛くしてるんだから当たり前だ。まったく、脅しとはいえ刀を振り下ろすなんて、滅茶苦茶驚いたじゃねーか。本当に耳を切り落とすかと思ったぞ」
「あはは、まさかー。本当にそんなことするわけないよー」
義人と共に笑うが、それを傍で見ていた志信は優希を抑えていた腕を見る。
あの時、間違いなく優希は本気だった。放たれた殺気は本物で、振り下ろす太刀筋に迷いはない。そのことを義人に言おうとして、それを察したように義人が横目で制す。
言うなという意味が込められた視線に、志信は口を閉ざした。
魔法剣士隊と騎馬隊の準備が整ったとの報告を受けて、義人はマントと王剣を身に着けて馬に跨る。
「それじゃあ、行くか」
「ああ」
志信が頷き返し、カグラは無言で頷く。優希やサクラ、アルフレッドは待機だ。
優希が一緒についていきたいと言ったが、義人が大人しく待っていてくれと言えばすぐに頷いてくれた。
「よし! それじゃあエンブズのところまで案内してくれ!」
「はっ!」
頷く騎馬隊の兵士が先行し、義人達がそれを追う。エンブズの屋敷は少し離れた場所にあり、馬を飛ばして十分程度の場所にある。
騎馬隊と魔法剣士隊が隊列を組み、街道を疾走していくのに合わせて義人達も馬を走らせた。そして少し走ると、馬に乗った志信が横へと走り寄ってくる。
「義人……北城のことだが」
風を切って走っているためか、少し聞こえにくい志信の声に義人は困ったような表情を浮かべた。
「さっきのことか……実はさ、優希がああいうことをするのって初めてじゃないんだよ。昔にも二回、似たようなことをしたことがあるんだ」
「同じようなこととは? ……いや、気軽に聞く話題ではなさそうだな」
志信は興味を示すが、すぐさま言葉を撤回する。義人は苦笑すると、綱から離せない手の変わりに首を横に振った。
「別に重い話ってわけでもないさ。なんか、優希って俺のことになるとすごい豹変することがあるんだ。自分のことを馬鹿にされても怒らないくせに、俺が馬鹿にされたりすると何でか別人のように怒ることがあるんだ」
「ふむ……それだけ義人に深い友情を感じているのか」
「かもな」
真面目にぼける二人の後ろで、同じく馬を走らせていたカグラがため息を吐く。
「お二人とも、そこは友情じゃないでしょう……」
小さく呟いた言葉は風に流れ、二人の耳には届かない。そんなカグラに気づかず、義人は話を進めていく。
「一回目はいつだったか……たしか、小学生の時だったかな? クラスの男子が俺を馬鹿にしていたとかで、そいつを平手打ちして泣かせたって話だ。二回目は中学の時で、俺が停学くらった時に担任が俺のことをクズだとか不良だとか言ってたらしくてさ。それを聞いた優希が椅子から立ち上がって、笑顔で平手打ちしたらしい。一回目は昼休みだったから外で遊んでたし、二回目は停学で学校にいなかったから、両方ともあとでクラスの奴に聞いた話なんだけどな」
「それは……すごいな。停学とは、まさか俺の時のやつか?」
「ああ。志信と一緒にいじめっ子共を退治した時だな。まあ、それは置いとこう。優希が教師を叩いたって聞いた時は驚いたけど、その後担任に『今の言葉、全部義人ちゃんのお父さんとお母さんに言っておきますね』って言ったらしい。そのおかげで優希は停学にならなかったってよ」
「なるほど。良い手だな」
参考になると言わんばかりに頷く志信を脇に、義人は眉を寄せる。
「今回初めてその場に居合わせたわけだけど、正直あれは驚くな、うん」
まるで他人事のように言うが、実感が沸いていないだけだろう。義人にとって、優希という存在からは想像もできないような出来事だった。
どうしたものか、と義人が唸っていると、それを見かねたようにカグラが馬を寄せてくる。
「ユキ様はヨシト様が危険に晒されたことに怒っていたのでしょう。それで暗殺を企てた者の情報を聞きだすべく刀を振るったんです。ヨシト様を大事に思っているんですよ」
カグラはそう言うが、実際は違う。
義人が尋ねているのにベッソンが答えなかったこと、表に出さないが義人が深い怒りを覚えていたこと。もちろん、義人が怪我を負ったことに対する怒りもある。
義人のことを想っていたのは確かに合っているが、カグラが想像したものとは意味合いがかなり違っていた。
「それで人の耳を斬り落とされたら困るって。しかし……そうか。まあ、俺も優希のことは大事だけどさ。むしろ怪我が酷かったのは優希のほうだし……ううむ、今度何か埋め合わせをするべきか」
顎に手をやり、悩むように目を細める。義人はしばらくそうしていたが、諦めたように頭を振った。
「いかん、良い方法が思い浮かばねぇ……まあ、今はひとまずエンブズを捕まえることに専念するか」
「そうだな。まずは片付けられる問題から片付けるべきだ」
二人して頷き合う。カグラはそんな二人の横でため息を吐き、気を取り直して前を見据える。
エンブズの私邸が、すぐ傍まで迫っていた。