第二十五話:月下氷刃
パサリ、と布が地面に落ちる音がして、義人は思わず振り返る。そして、思わず絶句した。
「あ……う、え?」
言葉にならない。目の前の光景が理解できず、義人の思考は完全に停止した。
窓から差し込む月明かりに照らされ、浮かび上がるサクラの姿。上半身を覆っていた服は地面へと無造作に脱ぎ捨てられ、その裸身を月明かりに晒している。
「いや、あの、ちょ、ちょっとサクラ?」
何故上着を脱いでいるのか理解できず、いや、その意味こそ理解しているが頭に浸透しない。
「ふふ、どうかしましたか? ヨシト様」
そんな義人を見て愉しげにサクラが笑う。そして一歩、また一歩と義人に近づく。
「あー、えっと、だな。何のつもりだと聞いてみたいがどうだろう?」
いまだに混乱から抜けきらない義人はそう尋ねてみる。サクラはもう一歩近づくと、色気の溢れる仕草で口元に手をやった。その際僅かに胸が揺れ、義人はすかさず目を逸らす。
「夜のお勤めです、ヨシト様。その意味はおわかりでしょう?」
さらに一歩サクラが近づき、それに合わせるように義人が一歩後ろに引く。
「い、いやー。わかるっちゃわかるんだけど、わかりたくないというか何というか……」
据え膳食わねばなんとやら。義人の脳裏に官能的な想像が僅かに浮かび上がるが、それを気力で捻じ伏せた。
「もしかして遠慮しているのですか? 大丈夫です。わたしはこういったことも含めてヨシト様のお世話をするのですから」
サクラの瞳が妖しげに輝き、口元は媚を売るように緩んでいる。
ともすれば遊女のような雰囲気。男としての本能が刺激され、義人の思考を奪おうと本能を攻め立てる。
「ね? ほら、ヨシトさまぁ……」
甘える声。両の腕を前へと差し出し、サクラは義人へ淫蕩に微笑む。
「……はは」
その仕草に、ひどく違和感を覚えた。艶のある笑みも、どこか温度が感じられない。
本能は男としての行動に出ようとして、理性が口を動かす。
「―――お前、誰だ?」
疑念が口から零れる。一度警戒を覚えれば、後は楽だった。
理性が警鐘を鳴らし、思考が切り替わる。疲れは危機感で吹き飛ばし、義人は睨むようにサクラを見据える。
「ひ、ひどいです、ヨシト様。貴方のメイドのサクラですよ」
そんな義人の視線に怯えたようにサクラが身を震わせた。その動作だけを見るならたしかにサクラのものだが、どこか違和感がある。
「ハッ、サクラがそんな大胆なことをできるわけないだろ」
ゆっくりと距離を取りつつそう言い放つ。するとサクラは再び艶然とした笑みを浮かべた。
「ヨシト様、人とは様々な顔を持つものです。わたしにもこういう一面があるとは思えませんか?」
訴えかけるようにサクラが一歩前に出る。義人もなんとか下がろうとするが、後ろはすでに壁だ。
「大丈夫です。怖いことなんて、何もないですから……」
笑みを浮かべながら近づいてくるサクラ。その笑みはどこか人形染みていて、義人は僅かな恐怖を覚える。それでもなんとか恐怖を捻じ伏せ、義人はサクラの様子を窺った。
身長や顔はまったく同じ。スリーサイズは当然知らないが、おそらくこれも同じだろう。だが、頭の隅で理性が警鐘を打ち鳴らしている。
警戒している義人を見たサクラは、歩みを止めて悲しそうな表情を浮かべた。
「……ひどいです、ヨシト様。勇気を振り絞って来たのに、わたしを拒絶するんですね?」
目には涙が浮かんでおり、声は震えている。作り物の感情だと思っても、義人は少し罪悪感を覚えて少し目を逸らした。
「ああ、悪いけど突然すぎるよ。固いことを言うみたいだけど、もっとお互いを知ってからだな……」
「そうですか……だったら」
目を逸らしながら答えた義人に、サクラは肩を落とす。
義人は何と声をかければいいか迷い、
「死んでください」
告げられた言葉に、驚いて身を引いた。そして、それが義人の身を助ける。
軽い風切り音。何気なく振ったサクラの腕から伸びる、透明の氷刃。西洋刀を形取ったその氷刃は、身を引かねば野菜でも切るように首を叩き落しただろう。
「なっ!?」
首のほんの数ミリ前を通り過ぎた横薙ぎの一閃に、義人は驚きの声を上げる。
「もう、避けちゃ駄目ですよヨシト様。ちゃんと今ので死んでくれなきゃ」
そんな義人を見たサクラは、クスクスと笑い声を立てた。そして、今度は腕を振り上げる。
「動かないでくださいね? 頭から一気に斬っちゃいますから」
口の端を吊り上げ、サクラが笑う。
言葉の意味を理解するのとほぼ同時、右手を振り上げたサクラが踏み込んでくる。義人は生存本能に突き動かされて咄嗟に横へと転がった。転がった後のことなど考えない、生き延びるための動き。
それでもサクラの氷刃は義人の上着をかすめ、切れ端が宙に待う。
「あーもう。避けちゃ駄目って言ったじゃないですかぁ。仕方ないですね、ヨシト様ったら」
愉しげに嗤うサクラ。その表情はどこか陶然としており、目は焦点を結んでいない。
地面に転がる義人の背を、激しい悪寒が通り抜ける。向けられた殺気に体が竦み、足が震えた。それでも何とか自分を奮い立たせ、義人はゆっくりと立ち上がる。
「氷……サクラって、魔法使えたんだな……」
右手を覆っている氷の刃について尋ねてみると、サクラはお茶を入れるときのような笑みを顔に浮かべた。
「王の傍に仕える者が弱いわけがないじゃないですか。わたしはメイドですが、何かあればヨシト王を守る役目もありました」
「……それが今では俺を殺すってか?」
笑えねぇと吐き捨て、義人は寝室の扉に目を向ける。部屋の外には寝室担当の守衛の兵士がいるはずだ。その兵士の手を借りて、なんとかサクラを押さえ込む。
そう考え、頭が否定する。
何故寝巻き姿のサクラを守衛の兵士がそのまま通した? メイド服ならまだわかるが、明らかにいつもと違う様子のサクラを通すわけがない。なら外の兵士は?
サクラを警戒しつつも思考を巡らせていると、サクラが小さく笑った。
「さっきから扉のほうを見ているみたいですけど、無駄ですよ? 外の兵士には眠ってもらいました。当分目を覚ましません」
解答を示すサクラだが、義人は内心で舌打ちする。
それならすぐに逃げたいところだが、サクラが魔法を使えるとなると話は別だ。背を見せればミーファのような遠距離用の魔法を使ってくるだろう。そうなれば、志信と違って避けることもできない。
そもそも、最初の一撃を避けられたことでさえ幸運に過ぎない。二太刀目を避けられたのはどこに向かって氷刃を振ってくるかわかっていたからだ。
このままではすぐに殺されるだろう。そう判断した義人は、ゆっくりと周りに視線を向ける。武器になるようなものがほしいが、ここは寝室だ。
椅子……駄目だ。あんなもの、振り回しにくい。
花瓶……攻撃をしても防御をしても、一撃で割れるだろう。
王剣……最初に引き抜いて以来、ずっとベッド脇に置きっ放しにしていた。だが、今はそれに感謝する。
義人はサクラを警戒しつつ、ゆっくりとベッドに近づく。そんな義人の動きを見たサクラは、殊更楽しそうに笑った。
「王剣ですか。それで、剣を取ってどうすると? シノブ様と違い、ヨシト様は戦う術を持たないはずでしょう?」
「さて、ね。それはどうかな?」
虚勢を張ってみるが、サクラの指摘通りだ。
王剣を抜いたとしても義人は素人に過ぎず、サクラにとって脅威にならない。
「どうぞ、お取りくださいな。サクラは邪魔をしませんから」
余裕か、はたまた油断を誘うためか、サクラは両手を広げて見せる。今のサクラは上半身に何も纏っていないが、この状況でそんなことを気にする余裕はなかった。
宣言通り、邪魔されずに王剣を手にする。そして剣を引き抜こうとして、戸惑った。
剣を抜いてどうする? 剣を抜いてサクラと戦うのか? サクラを……殺すのか?
柄に添えた手が震え、膝から力が抜けそうになる。頭に浮かんだ嫌な想像が、剣を抜かせない。
殺すかもしれないという恐怖に、殺されるかもしれないという恐怖。
口の中がカラカラに乾き、義人は額に冷や汗がいくつも浮かんだのを自覚した。
「どうしました? さあ、剣をお抜きなってください。そして……」
剣を抜くこともできない義人に、サクラは優しく微笑む。
「サクラと―――踊りましょう?」
殺気が膨れ上がる。残像が霞む速度でサクラが踏み込み、義人は反射的に鞘に納まった王剣を頭上に掲げた。
「ぐっ!?」
甲高い金属音と共に、両手に激しい衝撃が走る。頭を割りにきた一撃は鋭く、そして重い。 年下の女の子による細腕での斬撃とは到底思えなかった。
義人が斬撃を防いだことに喜悦の笑みを浮かべると、サクラは横へと回転する。独楽のように回転し、遠心力の乗った横薙ぎ。義人は痺れかけている手で王剣を横へと倒し、なんとか氷刃の間に滑り込ませた。
しかし、王剣で受けた瞬間義人の体が浮き上がる。
「マ、ジ、がぁっ!?」
横薙ぎを防いだ体勢のまま壁へと吹き飛ばされ、叩きつけられた。背中を強打し、口から空気が漏れる。
激しい痛みがあるが、幸いにして骨に異常はないようだ。
以前志信が『戦闘において、どれほど魔法に有利性があるのか』と言っていた。義人は頭の片隅で思い出した親友の言葉に、諦観にも似た笑いを向ける。
「……片手で人を数メートル吹っ飛ばすぐらいは簡単らしいぞ、志信」
痛みを堪え、身を起こす。もしも『強化』に似た効果が働いていなかったら背骨が折れていただろう。もっとも、今の状況では大した慰めにもならないが。
「ふふふ……痛かったですか? でも、ヨシト様が防ぐから悪いんですよ?」
「……馬鹿やろー。防がないと胴体が真っ二つだろうが」
氷刃を片手にサクラが前傾姿勢を取る。義人はなんとか両足で立つと、両手で鞘を構えた。
「それでは、次はもうちょっと激しくいきますね」
言葉と同時に、寝室の温度が下がる。空中に水分が集まり、パキパキと音を立てながら氷へと変わった。
「は、はは……なんつーファンタジーだよ。ちくしょうめ」
矢じりのような形になった氷を見て、義人の口元が引きつる。義人の表情を見たサクラは嬉しそうに笑う。そして、氷の矢が一斉に撃ち出された。
その数は十二。手のひらほどの大きさの氷が唸りを上げて降り注ぐ。距離が近いためそこまでの速度はないが、義人では避けきれない。そして、氷が降り注ぐと同時にサクラが義人の間合いへと踏み込んでいる。
このままでは氷の矢に全身を貫かれ、その後サクラの氷刃によって体を真っ二つにされるだろう。思考することを放棄しそうになる頭を必死に働かせ、義人は目の前の状況を見据える。
放たれた氷の矢は何本かが義人の周囲に飛んでいるため横には動けない。残った矢は義人へと向かっている。その内体をかすめる軌道が三本に、眉間と心臓目がけて一本ずつ。さらに、サクラが氷刃を振りかぶっている。
ああ、これは死んだな……。
逃げ場はなく、防ぐ手立てもない。義人の思考を諦観が支配し、目の前の死を受け入れようとする。
―――だが、体がそれを拒否した。
力が抜けた膝が崩れ、義人の体が頭一つ分下へと下がる。
その瞬間義人の頭と左耳を氷の矢がかすめ、壁へと突き刺さった。
「っ!」
一瞬の忘我。氷の矢が当たらなかったことへの安堵と共に、目の前の氷刃を振りかぶるサクラへ意識が収束する。
「ああああああああああああ!!」
生への渇望で、叫びを上げながら我武者羅に鞘を振り上げた。サクラの振り下ろした氷刃と鞘がぶつかり合い、火花を散らす。火事場の馬鹿力か、義人とサクラの力は拮抗する。
「本当にっ! 運の良い方ですね!」
まさか体から力が抜けたことで魔法を避けられるとは思わなかった。そのままサクラは義人と力比べを数秒すると、僅かに眉を寄せる。そしてすぐに後ろへと跳び下がり、右手の氷刃に視線を向けた。
今までは綺麗な曲線を描いていた氷刃が、ところどころ欠けて一回り小さくなっている。
「『無効化』、いや、『反射』? それとも『吸収』?」
突然問われるが、義人には何のことかわからない。サクラは目を細めると、義人ではなく王剣の鞘に目を向けた。
「なるほど、仕掛けは王を選別するための魔法だけではなかったということですか……小賢しい」
憎々しげに吐き捨てる。サクラが何に対して怒っているかわからなかったが、義人はひとまず王剣を引き抜き、鞘と一緒に片手ずつ構えた。
王剣と鞘を使っての二刀流……ではなく、防御するなら両手に構えていたほうが良いだろうという素人考えだ。
威嚇するように構えを取って腰を落とすが、あくまで適当なものである。
元来二刀流は片手に両手と等しい腕力がなければ成り立たないが、『強化』もどきによって強化されている身体能力ならギリギリで可能だ。
義人は警戒しているサクラと対峙し、
『寒いわ、戯け』
不意に、そんな声が脳裏に響いた。