第二十四話:夜へ
「よし、それでは今日の訓練はこれまでとする」
棍を片手に携えた志信がそう言うと、息も絶え絶えな調子で兵士からバラバラに返事が返ってくる。それを見たグエンは苦く笑った。
「シノブ殿の体力を化け物と見るか、それともうちの部下が軟弱と見るか迷いますな」
「いえ、俺には『強化』という魔法がかかっていますから。もしその魔法がかかっていなかったら、多少身体能力が落ちます」
「多少、ですか……」
今度は乾いた笑いを零す。
今日志信が訓練を手伝ったのは騎馬隊だが、別にずっと馬に乗っているというわけでもない。馬に乗ってから訓練もするが、まずは歩兵として戦えなければ騎兵に成りえないからだ。
地上で槍が振れなければ、馬上で振っても意味がない。それに馬に乗るにも体力がいるため、今日志信が提案したのは体力の向上やバランス感覚についてだった。
志信なりに訓練メニューを考えてみたのだが、その結果は目の前の死屍累々。
身体能力が『強化』されていることを考慮したのだが、魔法を使えない兵士からするととんでもなくハードだった。
隊長のグエンは訓練をなんとかこなしたが、途中で脱落した者もかなりいる。それらを一度見回すと、志信は少し考え込んで頷く。
「では、明日は馬に乗っての訓練をしよう」
「おや? シノブ殿は馬にも乗れるんですか?」
「一応、といった程度ですがね。以前祖父に流鏑馬をさせられたことがあります。それに、ここ最近で馬に乗るのにも慣れました」
ちなみに流鏑馬とは、疾走する馬上から的に向かって鏑矢を射る騎射の技術である。
「ほう……馬上ならば、こちらにも分がありますな」
「そうですね。むしろ俺のほうが教わるのも良いかもしれません」
この世界に来ておよそ一ヶ月。
元の世界とは違い、武を修める者としては充実した日々を送れている。
最近は義人が少し無理をしているが、義人がすると決めたことに口は出さない。それが良い結果になると信じている志信は、ひとまず自分のできることをやっていた。
実は訓練などをけっこう楽しんでいたりするのだが、それに気づいているのは誰もいない。
「……む?」
そこで志信はふと、遠目に誰かが自分を見ているのに気づいた。距離はおよそ百メートル。城の扉で隠れるように誰かが見ている。
志信が気づいたことに向こうも気づいたのか、慌ててその身をすぐさま城の扉の中へと引っ込めた。
「シノブ殿? どうかされましたか?」
急に気配を鋭いものに変えた志信に、グエンが尋ねる。どうやら疲れのせいでグエンは気づかなかったらしい。
「……いえ、なんでもないです。気のせいでしょう」
最近、よく誰かが自分を見ている気がする。
志信は首を傾げると、訓練の片付けを行うことにした。
夕食時になり、義人はため息を一つ吐いて体を伸ばす。その横では優希が椅子に座り、楽しそうに義人を眺めていた。
「義人ちゃん、今日は一緒にご飯を食べようね?」
「ああ、そうだな。良い気分転換になるし」
ここ数日は執務室に食事を運んでもらっていたため、食事を取るときは一人だった。しかし、山のように積まれていた書類の片付けもそろそろ終わりの目処がつく。普通にこなして二日か三日で終わるだろう。ここまでくれば急ぐこともない。
それを理解しているために、優希も義人と一緒に食事を取る。昨日までは食事をしながらも書類を片付けている義人の邪魔をしたくなかったので、一人もしくはサクラと一緒に食事を取っていた。
ちなみに、再三に渡る義人からの突っ込みと優希の協力により、食材費を抑えた上に品数も多く、美味しい食事を作ることに厨房の調理人一同が燃えているのは余談である。
「よし、それじゃあこいつに王印を押して……っと。これでいい。んじゃ、食堂に行くか」
一段落させ、義人は立ち上がって肩を回す。昼にサクラに揉んでもらったのだが、すでに疲れが蓄積されて再び凝っていた。
王印は机の上に置き、優希を促して執務室を後にする。
「あれ? 王印は置いてていいの?」
「ああ。どうせ俺しか使えないらしいからな」
「そうなんだ。王剣は?」
「え? あー……そういや寝室に置きっぱなしだ。ていうか、俺が持ってても飾りにしかならないしなぁ。志信ぐらいの腕になれば、いざというときに使えるんだろうけど。俺は素人だしな」
せいぜい志信の家に遊びに行った際、少しだけ基礎を教えてもらった程度だ。それから訓練を積んでいるわけでもないため、役に立たない。あとは喧嘩で拳や蹴りを振るった程度だが、志信を相手にしたら一撃で負ける自信が義人にはあった。
「そうかなー。義人ちゃん運動神経良いのになー」
不満そうな優希に、義人は苦笑する。
「馬鹿だな、ここには戦いを本職にしている人がわんさかといるんだぜ? 俺が戦う必要はないって。というか、おっかねえ」
心からの本音を最後に呟き、義人は食堂の扉を開く。すると、そこではすでに志信が椅子に腰をかけていた。
「おっす志信。今日はグエン隊長の隊の訓練だっけ? お疲れさま」
「いや、俺よりも義人のほうが大変だろうに。俺はただ、体を動かしていただけだ」
「その『ただ体を動かしていた』に巻き込まれて、どれだけの人が被害を被ったんだろうな……」
少し遠い目をしながら言ってみるが、あながち間違いではない。
十日ほど経った後に騎馬隊の兵士から連名で、『シノブ殿の訓練をもっと優しいものにしてくれ』という嘆願書が届くのは別の話である。
「まあいいや。それで、兵士のほうはどうだ? 志信が訓練に参加するようになって三週間以上になるだろ。ちょっとは強くなったか?」
「三週間程度ですぐに強くなれるほど、武術は甘くない。しかし、無駄な動きが多少減ったな。それと、魔物相手に何度か実戦を積ませたから勝負度胸も少しはついただろう」
何事にも通じることだが、継続は力なりだ。志信は兵士がほとんど成長してないと思っているが、実際は体力や筋力がつき、三週間前に比べれば確実に強くなったと言えるだろう。ただ、志信はその強くなった兵士を軽く倒しているので実感が沸かないだけである。
そんな志信の話を聞いていると、ふと思い出したように志信が首を捻った。
「そういえば、ここ最近誰かに見られている気がするのだが、義人や北城は大丈夫か?」
突然の質問に、義人と優希は顔を見合わせる。
「誰かって……誰よ?」
「それはわからん。こちらが気づくと、すぐに慌てて身を隠してしまうのだ。だから顔の確認もできん」
不思議そうな志信だが、話を聞いた義人は思わず吹き出した。
―――ミ、ミーファさんバレてますよ!
内心でそう叫び、笑い転げたくなるのを我慢する。
「クク……い、いや、あれじゃね? ハハハ、きっとほら、志信のファンだって」
堪え切れなかった笑い声が混じったが、なんとか誤魔化そうとする義人。それを聞いた志信は腕を組んで悩みこんだ。
「しかし、あの視線はただ見ていただけとは思えない。まるで俺を観察していたような……」
「いやいやいや! だから! ミ……いや、なんでもないわ」
志信にバラしたら真っ二つにされる気がする。
直感がそう告げたので、義人は口を閉ざした。
「ミ?」
「いや、なんでもないって。な、優希!?」
「そうだねー。うん、藤倉君“も”けっこう鈍いところがあるんだね?」
「お、優希も言うなー」
優希の言葉に再び笑う義人。言葉の意味をきちんと理解しなかったのだろう。優希は密かにため息を吐く。
「よーし、それじゃあまずは食事にしようぜ。話は食べながらでも出来るしな」
ひとまずそう締めくくると、義人と優希も自分の席へと向かった。
この国では現代のような正確な時計はないが、水時計を使って一定の時間で鐘を鳴らし、それを参考に生活している。
鐘は一日で十二回鳴るため、一回ごとの間隔は約二時間。
夕食は大体午後六時頃から取り、就寝は午後十時からだ。それ以降は城の必要なところ以外火を消し、見張りや見回りの兵士がいるだけとなる。
義人は八時頃に地下の浴場で風呂に入り、そこから再び政務をこなす。
ちなみに、風呂などは魔法で火を発生させ、それで水を温めている。戦いなどに使われると思われがちな魔法ではあるが、こういった日常の場でも多く使われていた。
義人は本日十二回目の鐘、すなわち零時の鐘の音を聞くと書類から顔を上げる。
「やべ、いつの間にかこんな時間かよ……寝ないと明日あたりカグラに怒られそうだな」
真剣に考えていると、時間が経つのも早い。昨日までなら徹夜をしていただろうが、流石に四日連続徹夜は体力的に無理だ。
カグラとサクラは十時の鐘が鳴った時点で部屋に返しており、それ以降は自分の判断でできる簡単な仕事や、元の世界の知識を使って何か作れないかと考えていた。
残った仕事は専門の者と相談をしなければいけないため、どのみち今日の仕事はここまでだろう。
そう判断した義人は、書類を軽く片付けて机の上や壁に設置されている明かりを息で吹き消す。すると、すぐに執務室は闇に包まれた。光は外からの月明かりだけで、窓から離れるとかなり暗い。
「おお、こえー。暗闇から何か飛び出してきそうだ。って、そんな魔物いないだろうな?」
冗談交じりに呟きつつ、執務室の扉を開ける。すると、扉の前に立っていた守衛の兵士二人が直立不動の体勢を取った。
「ヨシト王、お疲れ様です!」
「ああ、お疲れ。というか悪いね。俺が遅くまで仕事しなかったら、二人もすぐ家に帰れるのに」
「いえ。ヨシト王の身辺警護という重大なお役目ですから。それに、ヨシト王はこの国を良くするために頑張ってくださっています。それに比べたら、扉の脇で立っているだけなんて楽な仕事ですよ」
「ははは、良くなってるかまだわからないけどな。さて、それじゃあ俺は寝室で寝るよ。今日は寝ないと、明日カグラに眠らされるからな。物理的に」
最後の『物理的に』という言葉を聞いた兵士二人が目を逸らす。
「そ、そうですか。それならすぐにお休みになられたほうが良いですよ。ええ、それがヨシト王の身のためです」
「ちょ、待てや! 何故に目を逸らしながらそんなことを言いますかね!?」
「いえいえ目を逸らすなんて滅相もありません」
「そう言いながらも壁を見てるのは何故かね? んん?」
見過ごせない態度に義人が突っ込むと、兵士二人は顔を見合わせて頷く。
「言ってもいいかな?」
「大丈夫じゃないか? むしろ知らないとヨシト王が危ないだろ」
小さく話し合うと、一つ咳払いをして義人へと向き直る。
「実はカグラ様ですが、岩を素手で砕けます」
「は?」
突然告げられた言葉に、義人は素で聞き返す。
「実はカグラ様ですが、岩を素手で砕けます」
そんな義人にもう一度繰り返す守衛。義人は言葉の意味を噛み締めるように理解すると、顔
を青くした。
「う、うっそだー」
「いえ、これが嘘じゃないんです。カグラ様はこの国一番の魔法使いですから、岩を素手で砕くというのはまだ序の口ですよ。噂では、城の城壁くらいなら一撃で木っ端微塵にできるとか」
真剣な顔で語る守衛二人に、義人は唾を飲み込む。
「そ、それじゃあ……カグラが俺を物理的に眠らせるっていうのは……」
「殺す、とはいきませんが、あばら骨の二、三本は折れる覚悟をしろということでしょう。ですからヨシト王。すぐに寝室でお眠りください」
本気で心配しているらしい守衛二人に、義人は頷き返して駆け出す。
「おー……ヨシト王、走っていっちゃったよ」
「いや、まさか信じるとはねぇ」
遠くなっていく義人の背中を見つつ、二人の守衛は顔を見合わせて小さく笑う。これで義人が徹夜をすることもなくなるだろう。
さっきのは義人の身を案じた嘘であり、本当にカグラが岩を素手で砕いたり、城壁を破壊するというのはあくまで嘘だ。
「でもさ、さっきの冗談本当だって話を聞いたことがあるんだけど……」
「あはは、まさか」
義人を見送った守衛二人は、とりあえず笑いながらその場を後にした。
「あー、やべえ。寝ないと殺されちまうぜ」
寝室にたどり着いた義人はそう呟き、軽く身を震わせる。
「は、はは……いや、まさか、ねえ?」
自分にそう言い聞かせるが、疲れきった頭は考えることすら拒否した。明かりをつけるのすら面倒で、部屋を照らすのは月明かりのみ。
義人はとりあえず服を寝間着に着替えようと上着に手をかけ、
「ヨシト様」
扉越しに声をかけられ動きを止める。
今しがた噂していたため一瞬カグラかと身を固くするが、声色が違ったので安堵して聞き返した。
「サクラか。どうしたんだこんな時間に? ていうか、部屋に戻って良いって言っただろ?」
そう声をかけるが、サクラからの返事はない。
義人が訝しげに眉を寄せると、寝室の扉がゆっくりと開いてサクラが入ってくる。ただし、サクラの服装はいつものメイド服ではなく、寝巻き用の若干薄いパジャマのような服だ。服の前をボタンで留めるタイプの服だが、いくつかボタンが外れている。
「あ、えーっと……サクラ? ここはお前の部屋じゃないぞ?」
義人は自分が部屋を間違えたかと一瞬本気で悩んで辺りを見回すが、いくら疲れた頭でもそんな馬鹿なことはしない。
サクラは一歩義人に近づくと、艶然とした笑みを浮かべる。
「夜のお勤めに参りました」
いつもの幼い笑顔とは違う、大人びた女性らしい微笑を前にした義人は若干慌てて頭を働かせていく。
―――お勤め……仕事か? 何かサクラに任せていた仕事があったっけ? 肩揉み? いやいやサクラの性格ならいつものメイド服で来るだろ。そもそもここは寝室だぞ? あ、最近寝室で寝てなかったから布団を取替えにきたのかな? うん、そうだ。そうに違いない。
グルグルと思考が回り、強引に答えを決めて一つ頷く。
「ああ、ベッドメークね。なんだ、今頃になって気づいたからメイド服を着るのが面倒だった
んだな。よし、それじゃあよろしく」
ひとまずそう言うと、義人は目を逸らして深呼吸を吐いた。
―――うん、きっと自分が言ったことで間違いはない。
内心でそう言い聞かせ、義人はもう一度深呼吸をする。
そんな義人の傍で、薄い布が地面に落ちる音がした。