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異世界の王様  作者: 池崎数也
最終章
178/191

閑話:最終章之一 夜に

 カグラの謀反から一晩が経ち、カグラ達との戦いの準備を行うだけで一日が過ぎる。志信は近衛隊を指揮して訓練や準備に奔走していたが、夜になるといつものように鍛錬に精を出していた。

 こんな時にと、人は言うかもしれない。しかし、志信にとってはこんな時だからこそいつも通りに鍛錬に励んでいた。

 カグラは強い。魔法使いとしての腕もそうだが、体術一つ取っても志信と同等か、上をいく。総合して見れば、大人と子供ほどに開きがあるだろう。

 それでも、志信の表情に負の感情はない。初めて戦った際は敗れたが、二度目は勝つ。そう決意し、棍を振るう。なにせ、今回の戦いにはカーリア国の未来だけではなく、親友(よしと)の命もかかっているのだ。

 総大将が負けを認めるか、死ぬか。その二つでしか勝敗がつかないのなら、義人が死ぬ可能性は決して低くない。

 義人側が勝つには、カグラを倒す必要がある。しかし、カグラは単身で一軍に勝りかねない相手だ。そんなカグラに対して、義人側で対抗できる人間はほとんどいない。

 アルフレッドや小雪がいれば、話は別だっただろう。だが、魔物であるアルフレッド、魔物だが義人と優希の“娘”でもある小雪、その二人を戦わせることはできない。そうなれば、カグラの相手をできるのは志信とサクラ、シアラやミーファ、そして義人ぐらいだ。他者に『強化』を使うことができる者がいればグエンの手も借りたいところだが、志信の知る限りカグラぐらいしか使用者が思いつかない。



 ―――だが、ミーファを加えるのは危険か……。



 頭の中に浮かべた面々の力量を考え、志信は心中で小さく呟く。総大将である義人も危険だが、力量を勘案するとミーファも危険だ。

 接近戦で数合もてば良いが、と分析しながらも、志信は棍を振るい続ける。

 そうやって鍛錬に励んでいると、かすかに足音が近づいてくることに志信は気付いた。棍を繰り出す手を止め、足音のする方へと視線を向ける。


「シアラか……ん?」


 自身の方へと歩み寄ってくるシアラを視界に収めつつ、志信は周囲の様子を窺う。



 ―――今、シアラ以外の気配がした気がするが……気のせいか?



 僅かにシアラ以外の気配があったような気がしたが、再度確認しても誰もいない。カグラとの戦いを前にして気が立っていたのだろうかと苦笑し、志信は構えも解いてシアラへと向き直った。


「こんな夜更けにどうした? そろそろ寝ておかないと、明日が辛いぞ」


 俯きながら歩み寄ってくるシアラに、自分のことは棚に上げてひとまずそう声をかける。しかしシアラはそれに答えず、志信の傍まで歩み寄ってその歩を止めた。


「……シアラ?」


 再度、志信が声をかける。するとようやくシアラは顔を上げ、志信と視線を合わせた。


「……シノブ……わたしは……」


 何かを迷うように、シアラは言いよどむ。一度は合った視線を地面へ向け、逡巡するように、視線を彷徨わせる。

 何事かと志信は首を傾げるが、思い当たる節もない。戦いを目前にして気が滅入っているのだろうかと考えるが、シアラの様子を見る限り違うようだ。

 シアラはしばらく視線を彷徨わせていたが、やがて決意を固めたのだろう。再度志信と視線を合わせ、決意を秘めた表情で口を開く。


「……わたしは、カグラ様のもとに行こうと思う」


 そして、静かにそう言った。言い出すことに迷ってはいたものの、迷いはない瞳で。

 そんなシアラの言葉に、志信は僅かに声を失う。目を見開き、真っ直ぐに見つめてくるシアラの瞳を見つめ返し、止まった思考の中で言葉を探す。

 何故、と聞けば良いのか。どうして、と声を荒げれば良いのか。義人を裏切るのか、と失望すれば良いのか。様々な言葉が浮かぶものの、それが形になって志信の口から零れることはない。

 言葉を返さない志信を見て、シアラは帽子を外して片手に持った。そして胸に手を当て、訴えかけるように言葉を紡ぐ。


「……でも、勘違いはしないでほしい。わたしは、カグラ様の主張に同意するからカグラ様側につくわけじゃない」


 そんな志信の表情をどう思ったのか、シアラはそう言った。続いた言葉に、志信はようやく思考を動かし、口を開く。


「ならば、何故?」


 他に何か理由があるのかと、志信は尋ねる。それは感情の見えない、どこか冷たさのある声だったが、志信は自分がそんな声を出したことに気付かない。

 シアラは、義人側についたと志信は思っていた。カグラ側が優勢だと見たから寝返るような性格ではないことも、志信は理解している。

 だからこその、疑問だった。何故と、志信は尋ねる。

 すると、シアラは僅かに沈黙してから答えた。


「……行動で、償うため」

「……っ」


 その言葉で、志信は理解する。かつて己が助言したことを、シアラは実行しようとしているのだ、と。

 “咄嗟に”、志信はシアラを引き留めるための言葉を探す。

 戦力的に厳しくなるから―――ではなく、心情的に、志信は咄嗟にシアラを引き留めるための言葉を探した。そして、理屈ではなく感情でシアラを引き留めようとする自分に気付き、驚きの感情を覚える。



 ―――……なんだ? この感覚は……。



 カグラ側についたシアラと対峙する自身の姿が脳裏に過ぎり、“何故か”凍えるような寒気を覚えた。腹の底が冷えるような、それでいて心臓が締め付けられるような、嫌な感覚。

 意味もなく心臓が早鐘を打ち、手の平に妙な汗が浮かぶ。それでも志信は手に持った棍を握り絞めて心を落ち着けると、躊躇いがちに尋ねた。


「……本気、なのか?」


 その声が僅かに震えていたことに、志信は気付かない。シアラは帽子を小さな手で握り絞めると、志信を見つめて頷く。


「……うん」


 そこに、迷いの色はない。悩み、逡巡し、その末に決断したことが窺えるだけの、力強さがあった。

 シアラは、己がカグラにしたことを悔いていた。カグラの身を案じたとはいえ、己が余計なことをしなければ、ここまで義人とカグラの仲が拗れることはなかったのではないか、と。

 そのカグラが、義人に対して反旗を翻した。カグラが何を思っていたかは、シアラも知らない。しかし、あれほど義人を想っていたカグラなのだ。召喚国主制を廃止することで義人が王座を降り、“元の世界”に戻るようなことがあればと考えたのならば。カグラが義人と離れたくないと願ったのならば。その手助けをと、シアラは決意していた。

 無論、義人に対する負い目も同様にある。己の取った行動で迷惑をかけたのは、義人も同じだ。しかし、義人とカグラを天秤にかけ、傾いたのはカグラの方だった。

 そんなシアラの葛藤を前にして、志信は意識して深呼吸をする。何故か、気を抜けば声が震えそうだ。それ故に、ゆっくりと、確かめるように尋ねた。


「何故……何故、俺にその話をした」


 志信に話すことなく、王城を抜け出してカグラに合流することもできたはずだ。いや、志信がシアラの裏切りを咎め、捕縛する可能性を考えればそうするほうが妥当だろう。それでも、その危険性を無視してまで志信(じぶん)に話す理由があるのか、と。

 そう指摘する志信に、シアラは視線を逸らす。


「……それ、は……」


 唇を引き結び、シアラは言いよどんだ。志信の周囲にいる女性と比べると小柄な体を縮こまらせ、動揺するように視線を彷徨わせる。


「……その、シノブには、伝えるべきだと思って……」

「……何故だ?」


 理由がわからず、志信は再度尋ねる。シアラは手に持った帽子を両手で抱え込むと、顔を俯かせて視線を隠した。

 何故かと聞かれれば、明確な理由はない。カグラの味方をすると決意して、その次に浮かんだのは志信の顔だったのだ。カグラの元へ行く前に、志信にだけは話をするべきだろうと、シアラは疑問に思うことなく決めてしまった。


「…………」

「…………」


 志信とシアラが沈黙し、吹いた風が立てる僅かな音だけが場を満たす。

 シアラは志信への説明の言葉を探し、志信はシアラへかける言葉を探す。しかし両者とも上手く言葉が見つからず、無言で見つめ合うだけだ。

 シアラは、眼前の寡黙な少年を見る。

出会ってまだ一年程度の付き合いだが、それまで親しいと呼べる異性がいなかったシアラにとって初めての、異性の“友人”。真面目で正直で、共に居れば心安らぎ、時折見せる笑顔が暖かな気持ちにさせた少年。

 志信は、眼前の寡黙な少女を見る。

 “こちらの世界”に来るまでの志信にとって親しい異性と言えば、義人と共にいた優希ぐらいだった。そしてシアラは、“こちらの世界”に来て出会った異性の中では“それなりに”親しいと言える。性格が合うのか、それとも別の理由か、共にいても苦に思わない少女。志信以上に口数が少ないものの、二人で無言の時を過ごしても安らげた。そんな異性は、志信にとって“二人しか”いない。

 沈黙が続き、しかし、二人とも合わせた視線を外さない。

 シアラは形容しがたい心中を言葉にしようと必死で、志信はシアラを引き留めるべきかと迷う。だが、このまま見合っていても埒が明かない。見回りの兵士が来る可能性もある。

 何故、自分は志信に話をしようと思ったのかと、シアラは自問する。

 このままカグラと合流すれば、シアラと志信は敵同士だ。戦場で、志信と戦うこともあるだろう。義人とカグラの取り決めた戦の規則に従う限り命の危険は大きくないが、小さくもない。



 ―――シノブと、戦う?



 カグラに味方をするというのはそういうことだと、理解していた。しかし、反芻した途端に恐怖に近い感覚が湧き上がってくる。例え魔物を相手に戦っていたとしても、覚えなかった感情。それが、志信相手だと湧き上がってくる。


「……なんで?」


 シアラの呟くような声に、志信が片眉を上げた。シアラの表情に変化はないが、どこか戸惑うような雰囲気が漂っている。そのことに疑問を覚える志信だが、理由がわからず内心で首を傾げるだけだ。



 ―――……怖い……シノブと戦うのが、怖い。



 強者を相手に戦う恐怖――ではなく、シアラにも理解できない、未知の恐怖感。初めて実戦に立った時でさえ、これほどの緊張はなかった。

 そんなシアラの様子を見た志信は、このタイミングになって初めてシアラが不安を覚えているのかと思い、口を開く。


「……それなら、カグラの味方をしなければ良い」


 志信にとっては何気ない一言。しかし、シアラにとっては内心を見透かされたのかと驚きの感情を覚える。

 志信と戦いたくないのなら、戦わなければ良い。義人の味方として、カグラを相手に戦えば良いのだ。


「……それは、駄目」


 それでも、責任感が頷かせない。感情では頷きたいが、理性が頷かせないのだ。シアラは小さく首を横に振ると、自身よりも頭一つ以上背が高い志信を見上げる。


「……頑固者め」


 そんなシアラを見下ろしながら、志信は形容しがたい苛立ちを覚えた。義人達と戦いたくないのなら、戦わなければ良い。志信にとってはそれだけの話だ。

 対するシアラは、自分の感情の動きに戸惑っていた。普段は、ここまで動揺することはない。いや、普段と言わず、物心ついてから動揺という言葉からは縁遠かった。


「…………?」


 そこでふと、シアラは疑問を覚える。そんな自分だが、大きく動揺した記憶があった。最近とは言わないが、ここ数か月以内に、である。


「……あ」


 小さく、声が漏れた。なんのことはない、実の母親にからかわれ、無性に恥ずかしくなるという埒もない思い出だ。ただ、無性に恥ずかしくなった理由が、シアラにとっては重要だったのだが。

 そこまで思い至り、シアラは内心で苦笑する。なんとも簡単な理由だが、意図してか無意識か、シアラは志信と戦いたくない理由を見過ごしていた。

 


 ――誰だろうと、好きな人とは戦いたくないはずだ、と。



 そのことに思い至ったシアラは小さく微笑む。志信は突然シアラが表情を崩したことに疑問を覚えるが、それでもシアラの言葉を待った。


「……シノブ、わたしがシノブに話をしにきたことには、理由があった」

「理由?」


 雰囲気の変わったシアラの様子に戸惑うものの、志信はそのまま尋ね返す。シアラは僅かに頬を赤く染めると、手に持った帽子を軽く撫でる。そして深呼吸をして気持ちを落ち着けると、志信を見つめた。

 真っ直ぐに、ひたむきさを感じさせるほどに真っ直ぐに、志信を見つめる。


「……カグラ様への加勢については、どちらかと言えばついでだった。こっちが、本題」


 これからのことを思えば、この気持ちを、この言葉を伝える必要はなかっただろう。カグラに加勢をすると、自身の取った行動が引き起こした結果に殉じると、そう誓った自分(シアラ)には。

 だから、その想いを伝えようとするのはシアラのわがままだった。

 本来ならば、このまま何も伝えず立ち去り、戦場で(まみ)えれば良かっただろう。その結果が、どのような形になるとしても。それで、余計な戸惑いは覚えなかったはずだから。



「……わたしは、あなたのことが……」



 伝えれば、逆に志信を苦しめることになるかもしれない―――それでも、伝えたい。


 自身が望む答えを返してもらえるとも思えない―――それでも、かまわない。



 今にして思えば、それはシアラにとっての初恋だった。周囲の女性兵士達が結婚していく中で、特に意識をしていなかった感情。それが義人達、ひいては志信と戦う可能性――それも下手をすれば、今生の別れになるかもしれないと思った途端、一気に芽吹いたのだ。気付けなかった、気付こうとしなかった――気付いてなお、認めていなかった自分自身の感情が。

 このまま立ち去れば、それはきっと未練になる。

 このまま自身の気持ちを口にしなければ、それはきっと後悔になる。

 迷いに、逡巡に、帽子を両手で強く握り締め、それでも、シアラは自身の想いの丈を口にした。



「―――好き……です」



 そんな、告白の言葉を、想いの丈を口にした。

 自分の口にした言葉を反芻したのか、シアラの顔が一気に赤くなる。その想いを口にして安堵したのか、それともかつてない緊張からか、シアラの両膝が力なく震える。

 シアラは崩れ落ちそうになるのを必死に堪えると、志信の答えを待つべく力強い視線を向けた。答えがどうであろうと、確りと受け止めるという決意を秘めて。

 対する志信は、シアラの告白の言葉を受けて硬直していた。しかしすぐにシアラの言葉を反芻し、理解し、口を開く。


「シアラ、俺は……」


 そう言いつつ、志信は視線を地面へと落とす。そんな志信の動きにシアラは僅かな恐怖心を覚えるが、志信とそれなりに長い付き合いを経たシアラはそれが拒絶の意思表示ではないと読み取った。

 事実、シアラの告白に志信は拒絶を覚えたわけではない。しかし、常のように平静ではいられず、激しく動揺していた。だが、言を左右にしても意味はないと悟り、自身に喝を入れるように大きく息を吸う。


「俺は、その……女性に好いてもらえるような男ではない、と思っていた。義人とは違って社交性にも乏しく、性格も明るいものではない」


 ぽつりぽつりと呟いたその言葉は、志信の本心だ。

 本人に言ったことはないが、義人のようになれたらと思ったことは―――実は、何度もある。

義人のように性別や身分、果ては種族さえ問わずに接することができ、時には自分の体を張って笑いを取り、“こちらの世界”では大きな身分差がある一般の兵士達の食堂に紛れ込んで場を盛り上げることもできない。当初は壁のあった兵士達の態度も今では気安いものとなっており、一部の兵士には本当の意味で忠誠を誓わせてもいるのだ。

 思い返せば、志信にとっての人生の大半は祖父との鍛錬が占めていた。それが無為とは、口が裂けても言えない。だが、他の普通の学生たちに比べれば、普通とは言えなかっただろう。義人と遊びに出掛けることも多かったが、それも今までの足跡からすればごく一部。“こちらの世界”に来てからはいっそう接する機会があったが、それだけだ。

 義人とは互いに信頼し、それを確かめることなく信じることができるが、密かに憧れ―――劣等感と紙一重の感情を覚えてもいた。もっとも、その点では義人も志信と似たようなものであることに、志信は気付いていなかったが。

 しかし、眼前の少女はそんな自分を好いていると言う。偽りなく、心からの本心で、『藤倉志信』が好きだと言う。今も不安を押し隠し、真っ直ぐに見つめてくるシアラが。“あの”、寡黙で人と話すことを好まないシアラが。

 志信はさらに深呼吸を一つすると、シアラの瞳を穏やかに見つめ返す。


「だが、シアラの気持ちを聞いて……嬉しかった。今までにないほどに」


 志信とてこの寡黙で、しかし、共にいて心地の良い少女のことが嫌いではなかった。否、そんな言葉ではすまないだろう。志信とて、“シアラのことも”好ましく、一人の女性として見ていたのだから。

 そんな志信の言葉に、常は寡黙なシアラの表情がゆっくりと華やいでいく。


「俺も、シアラのことを好―――」


 しかしそこから先の言葉を、シアラは言わせなかった。飛びつくようにして志信の唇を自分の唇で塞ぎ、続く言葉を言わせず、聞かない。

 そして場違いにも、飛びつかなければ唇まで届かない自身の身長の低さを少しだけ悲しく思いもした。

 シアラの行動に、志信は思わず思考を停止した。右手から棍が滑り落ち、乾いた音を立てる。目を見開き、至近に映るシアラの顔を動かない頭で眺める。自身の首に回されたシアラの両腕と唇に触れた柔らかな感触が、どこか遠くに感じられた。志信の両腕がシアラを抱き締めるべきかと僅かに動くが、結局は力なく下げられる。


「…………」


 どれだけの時間が過ぎたのか。一瞬のように思え、永くも思えた時間が過ぎる。

シアラは言葉を紡がず、ゆっくりと志信から離れていく。そして唇に右手を伸ばし、左手を帽子越しに胸に当てて目を閉じた。

 続いたであろう志信の言葉が、これ以上ないほどに嬉しい。これまでの人生の中で、これ以上嬉しいと思えたことがないほどに、嬉しかった。

 “だからこそ”、シアラはそれから先の言葉を聞くわけにはいかない。

 志信の答えを聞けば、きっと自分は戦えなくなる。志信を相手に戦うことが、できなくなる。“自分にできること”をと固めた決意が、溶けるようにしてなくなってしまう。カグラの味方をと誓った決意が、消えてしまう。

 それほどまでに嬉しく、温かく、そして、痛いほどに切なかった。

 酷い話だ、とシアラは内心で苦笑する。自分の想いは遂げたくせに、相手の想いは聞こうとしないのだから。

 目じりから涙が一筋、流れ落ちる。


「……シアラ?」


 シアラの様子にただならぬものを感じ、志信が声をかけた。その声に、シアラは袖口でゆっくりと涙を拭う。 


「ありがとう、シノブ。嬉しかった……本当に、嬉しかった」


 せめて、“最後”には笑顔を。

 拭った後から涙が溢れそうになるが、それでも、シアラは笑顔でそう言った。

 普段は無口で、無表情で、帽子で視線すらも隠すようなシアラだったが、この時ばかりは、華やぐように笑みを浮かべていた。


「……本当に、ありがとう。これで、心置きなく―――」



 ――カグラ様のところへ行ける。



 掠れるような声で、シアラが呟く。

 咄嗟に、志信は手を伸ばしかける。だが、それよりも早くシアラは踵を返し、志信に背を向けて駆け出した。喜ぶように、それでいて悲しむように、普段とは違った様子でシアラが走り去っていく。

 志信はそんなシアラを追おうとするが、何故か足が動かない。まるで自分の体ではないように、一切の言うことを聞かないのだ。

 そうやってシアラの背を見送ること数秒、夜の闇に紛れてシアラの姿が見えなくなる。


「俺は……」


 力なく呟き、志信は地面に腰を下ろす。そして深呼吸をして体を倒し、地面に背を預け、大きなため息を吐いた。


「……情けない」


 走り去るシアラを止めることもできず、言葉をかけることもできなかった自分を卑下しながら、志信は月の隠れた夜空を仰ぎ見るのだった。








「…………」

 情けないと、自分を卑下する言葉が小さく響く。

 その言葉を聞き、同じようにため息を吐いた少女に、志信が気付くことはなかった。


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