表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
異世界の王様  作者: 池崎数也
最終章
170/191

第百六十七話:暗躍

 春から夏へと季節が移ろい始めたこの時期は、日が昇るのもだいぶ早くなってきている。志信は冬の早朝よりも明るく、そして気温的にも過ごしやすい朝の空気に僅かに頬を緩めると、いつもの日課通りに早朝の鍛錬を始めようと城の裏庭へと足を運び、そこで足を止めた。

 時刻は午前五時。城の維持管理を行うメイドや朝食の支度をする料理人などは既に起き出しているが、それ以外で志信よりも早起きしている者は少ない。しかし、そこには珍しく先客がいた。


「義人……それに、ノーレか」


 そう言って志信が視線を向ける先には、屈伸運動をして体をほぐす義人の姿があった。その傍らには人間姿のノーレが立っており、義人と何事かを話し合っている。


「あ、おはよう、志信」


 その途中で義人が気付き、志信へと手を振った。志信はそんな義人に小さく笑うと、ゆっくりとした足取りで歩を進めていく。


「ああ、おはよう義人。今日は早いな」


 志信がそう言うと、義人は頭を掻く。義人は自身の護衛手段を得るため、そして日頃のストレスを発散するために朝の鍛錬に参加することがある。しかしその頻度は精々二日に一度程度で、参加率で言えばミーファの方が遥かに高かった。


「ちょっと試したいこともできたんでね。目が早く覚めたんだ」

「試したいこと?」


 義人の言葉に疑問を覚えつつ、志信も準備運動を始めるべく手に持っていた鍛錬用の棍と、『無効化』の魔法文字が刻まれた棍を地面に置く。鍛錬の際に『無効化』の棍は必要ないのだが、志信も近衛隊を預かる身。もしもの時のためになるべく持ち歩くようにしていた。


「そうなんだよ。一人で試しても良かったんだけど、志信の意見を聞きたくてさ。それじゃあ、ノーレ」

「うむ」


 義人の呼びかけに応え、ノーレが刀に姿を変える。人型の存在が刀に姿を変えるその光景は、一度見た義人としても驚くに足るものだ。


「ほう……刀に化けるとは」


 しかし、志信は色々な意味で普通ではなかった。ノーレが姿を変えたことには驚かず、日本刀に姿を変えたことに対して感心したような響きを漏らす。


「いやいや、そこは少しでも驚こうぜー。志信らしいと言えば志信らしいけどさ」


 志信の驚く顔が見られるかもと密かに期待していた義人だが、当てが外れた。志信はと言えば、そんな義人の突っ込みに対して不思議そうな顔をする。


「魔法がある世界ならば、刀に化けることもあると思うのだが……」

「……そこで不思議そうな顔をされると、想定していなかった俺の方がおかしいみたいだ」


 準備運動をしながら首を横に振り、義人は自分がおかしいのかと内心でため息を吐く。そして気を取り直すと、刀に姿を変えたノーレを手に取った。


「試したいことっていうのは、刀になったノーレについてだよ。以前使っていた剣に比べたら、だいぶ違うだろうし」

「たしかに、西洋刀と日本刀では大きくことなるな」

「そういうこと。爺さんだったら、素人が鍛錬で真剣を使うなって怒りそうだけどな」


 そう言って軽くノーレを振るうと、それを見た志信が目を細める。


「それならば、俺もいつも以上に気を入れて臨むとするか」


 地面に置いた『無効化』の棍に視線を向け、目だけでなく口元も僅かに吊り上げる。そんな志信の様子を見た義人は、頬を引きつらせた。


「あの、志信さん? なんか妙にやる気になってませんかね?」

「そんなことはない。義人には以前使った『加速』もあるからな。気を抜けば、怪我どころでは済まない。手を抜くわけにはいかんだろう」


 どこか楽しそうに返答する志信に対して、義人は顔色を悪くする。本気の志信を相手にするなど、絶対に遠慮したいところだった。

 そうやって顔色を悪くした義人を見て、準備運動をしていた志信は苦笑を漏らす。志信としては、不当な評価をした覚えはないのだ。

 滝峰義人という人間を、藤倉志信は大きく評価している。

 自身のような性格の人間と親しくするその人柄もそうだが、幼い頃より祖父である源蔵に鍛えられた志信から見れば義人自身が持つ才能―――こと戦闘における才能は、決して低くない。運動能力も同学年の男子からすれば高い水準であり、『加速』を筆頭とした風魔法、そしてそれを補佐するノーレが傍らに在るのだ。そして、今度はそのノーレが本当の意味で武器になるという。警戒こそすれ、油断をする要素などない。もっとも、親友である義人と武を競うという状況に心躍らないかと言われれば嘘になるが。

 志信がそんなことを内心で考えているとは露知らず、互いに準備運動が完了する。

 志信は『無効化』の棍を手に取って数度振るい、体がほぐれていることを確認してからゆっくりと棍を構えた。それに対して、義人は一度深呼吸してからノーレを正眼に構える。


「それじゃあ、いくぞ」

「ああ」


 互いに声をかけ、同時に地を蹴った。義人は志信の懐へ飛び込むように、志信は義人の目的であるノーレの使い勝手を見るために、敢えて大きく隙を作る。


「はっ!」


 志信を斬るのが目的ではないため必要以上に体重を乗せず、それでも十分に速度の乗った一閃を義人が繰り出す。志信はその太刀筋を冷静に見切ると、ノーレと直接刃を合わせないよう刀の側面に棍を当てて軌道を逸らし、義人の次手を待った。

 志信の意図を十分に読み取った義人はすぐさま刀を返すと、次々に斬撃を繰り出す。志信の力量を信じ切っているが故に繰り出される斬撃の数々を、当の志信は当然のように防いでいく。

 十合ほど刀と棍を打ち合わせ、計ったように両者が距離を取ると志信が口を開いた。


「いつもよりも太刀筋が鋭いな……もしや、ノーレが軽いのか?」

「ああ。前使っていた剣よりも、普通の刀よりもかなり軽いよ」

「そうか。打ち合った感じからして、その辺の刀よりは頑丈なようだな。切れ味もありそうだ。良い刀だな」

『褒めても何も出んぞ? それに、“妾”の本領はここからじゃ』


 志信の賛辞に当然と言わんばかりに答え、ノーレは自身の持ち手に声を向ける。


『ヨシト、“使うぞ”』

「了解。“その姿”で使うのは初めてだから、加減をよろしくな」


 そう言うなり義人が地を蹴ると同時、ノーレが『加速』を発動する。それに伴い義人の姿が残像を残して消え、志信は真横へと棍を振るった。

 一気に速度を上げて姿を消した義人の進行方向を狙った打突。しかし、ノーレがそれに気づくと、『加速』の方向を変えて義人の体を棍が命中する位置から外す。そして円を描くよう疾走し、志信の側面から義人が斬りかかった。


「ほう……」


 その動きを見て、志信は感嘆のこもった声を漏らす。

 以前『加速』を見た際は、どちらかというと直線的な動きばかりだった。『強化』を使って走るよりも遥かに速度があるため直線的にならざるを得ない部分があったのだが、“今の”ノーレならば多少は方向変更も可能らしい。


「速いな。それに、動きが変則的になった上に攻撃も鋭くなった」


 心が浮き立つのを抑えつつ、志信は義人が繰り出す斬撃を次々に弾く。さすがに攻撃の際はある程度速度を落として義人自身が踏み込む必要があるため、速度が落ちた瞬間ならば志信も十分に対応できる。

 義人としてはその気になれば走りながら斬りつけることも可能だが、その場合はバランスを崩す危険性が高い。下手をすると、『加速』を初めて使った時のように自滅する羽目になるだろう。踏み込まなければ体重も乗せにくいため、通常なら斬れて皮数枚、ノーレを使っても骨まで断つことはできないだろう。



 ―――しかし、それでも十分に驚異的ではある、か。



 義人の動きを見ながら、志信は冷静にそう評価する。目が良く、接近戦に長けていなければ、義人が消えては現れ、斬撃を繰り出してはすぐに姿を消しているようにしか見えない。

 それに加えて、以前志信が見た『加速』よりも速度が上がっているように感じられた。王剣から解放されたノーレの力か、“元の世界”で潜り抜けたという死線を経験した賜物か、あるいはその両方か。僅かな期間で実力を大きく向上させた義人に、志信は惜しみない賛辞を贈る。


「やはり、お前は大した奴だ」


 その一言は、短いながらも心底からの言葉と思わせた。しかし、それを聞いた義人は苦笑を浮かべる。


「褒めてくれるのは嬉しいけど、顔色一つ変えずに攻撃を捌いている志信にそう言われてもなぁ」


 速度は上がり、動きも直線的なものから変則的なものへと変わった。武器がノーレに変わったことにより、攻撃力という点でも以前とは比べ物にならないだろう―――それでもまだ、志信には届かないが。


『まだ速度を上げられるが、そうなるとお主への負担が大きくなるのう』

『これ以上速くなったら、俺の足が先に悲鳴を上げそうだ』


 ノーレの言葉に思念だけで返し、義人は志信の周囲を駆け続ける。

 ノーレが本気で『加速』を使えば、現状よりも速い速度で移動することは可能だった。だが、義人が自分の足を使って移動している以上、足腰への負担も大きくなる。


『速度も出せて七割と少々、といったところか。これ以上は、お主の成長待ちじゃな』

『今のままでも十分だと思うけどな』

『そうじゃな……お主が手加減なく、相手を殺すつもりでかかれば十分かもしれんな』

『……おっかないこと言うなよ』


 それなりに勢いよくノーレを振るってはいるが、万が一のことを考えて寸止めできる速度でしかない。それでも並の兵士ならば一合目で決着がついているだろうが、相手は志信である。義人としては、例え自分が殺す気で戦ったとしても志信には敵わないという思いがあった。


『でもまあ、一応限界は知っておきたいな』

『そうじゃな……ちと、距離を取れ』


 ノーレの指示を受け、義人は一足飛びに志信から距離を取る。『加速』を使った状態だったため一気に二十メートル近く距離が開いたが、助走距離としては十分だろう。突然距離を取った義人に志信は片眉を上げるが、油断なく棍を構え続ける。


「志信、本気のノーレの『加速』がどれくらい速いのか試してみたいんだけど」

「……それは、義人とノーレが本気を出すということか?」


 どこか警戒したように尋ねる志信に、義人は首を傾げた。


「んん? まあ、そうなるけど……」


 何故志信がそんな質問をするのかわからず、とりあえずといった様子で義人が頷く。


「そうか……」


 義人の回答を聞いた志信は深呼吸を一度行い、棍を握り直して再度構え直す。腰だめに棍を置く中段の構えではなく、常よりも右足を後ろへ引き、さらに弓の弦を引き絞るかのように棍を握った右手を後ろへと引く。


「それならば、俺も本気で迎え撃とう」

「……え? なんで?」


 明らかに打突に向いた構えに変わった志信に、義人は何故そうなったと言わんばかりに尋ねた。すると、志信は真剣な表情で口を開く。


「義人はどう思っているかわからんが、義人は強い。おそらく、今の義人……“そのノーレ”を握っているのなら、ミーファと戦っても高い確率で倒し得るだろう。いや、正直に言えば、俺もお前を確実に倒せるかと聞かれれば答えは否だ」


 僅かに腰を落とし、志信から殺気にも似た気配が漂い始める。それを肌で感じ取った義人は、慌てたように口を開いた。


「ちょ、ちょっと待てよ志信! これは訓練であって―――」

「訓練でも、俺は義人の本気を見てみたい」


 来い、と言外に告げる志信に、義人は内心でため息を吐く。


『あ奴、本気じゃぞ』

『わかってるよ。ったく、ただの訓練のつもりだったのになぁ』


 義人もノーレを構え直すと、適度に体を脱力させる。そして乾いた唇を軽く舐めると、真剣な表情で告げた。


「いくぞ、志信」


 地を蹴った瞬間、義人の姿が消える。先ほどまでの『加速』とは違い、一直線に、しかし先ほどよりも遥かに速く、義人は志信の懐へと飛び込んだ。

 右足で踏み込み、僅かに痛みが伝わってくるのを無視してノーレを振り上げ、そこでようやく志信が義人の動きを知覚する。


「っ!?」


 予想よりも速い踏み込みに、志信は迎撃を捨てて防御を選択した。引いた棍を頭上に掲げ、それと同時に上体を僅かに逸らす。

 そんな志信に対して、義人は間違っても志信を斬らないようノーレを自身の方へと引きながら振り下した。義人にとっても予想外の速度で、寸止めが出来そうになかったのである。

 そして、カン、という軽い音を立てて、棍が半ばから断ち切られた。ほとんど抵抗なく、ノーレの切れ味を証明するかのように。


「……大した切れ味だな」


 かろうじて義人の斬撃を避けきった志信が小さく呟く。

 日本刀は西洋刀と違い、“斬る”ことに特化している。しかし、そんな日本刀でも木製の棍を両断するのは非常に難しい。達人が名刀を使い、斬る対象の材質が悪い上に動かなければようやく成り立つかどうか、といったところである。

 人間が扱っている棍ならば、大抵は刃が少しめり込んだところで止まるか、表面を滑ってしまい両断することなどできはしないのだ。『強化』などの魔法がある世界のため、多少は難易度が下がるだろうが、それでも簡単に成し得ることではない。


「いや、俺も驚いてる……なんだこれ、切れ味良すぎだろ。というか、『加速』が速すぎるだろ」

『ふふん、驚いたか。言ったであろう、軟鉄程度ならば斬ってみせるとな』

「正直に言って、冗談だと思ってた」


 義人の腕と言うよりも、ノーレ自身の切れ味が鋭すぎたために実現できたことではあるが、義人と志信は互いに驚きの感情を覚えながら視線を交わし合う。


「以前も言ったが、初見ならば限りなく有効な魔法だな」

「速すぎて、踏み込んだ時に足が痛んだけどな……って、そう思ったら余計痛くなってきた」


 踏み込んだ右足の関節部から鈍い痛みが伝わり、いたたた、と呻き声を上げながら義人はしゃがみ込む。足首や膝に大きな負担がかかったようで、義人は思わず地面へ寝転んだ。


「痛い痛い痛い……折れてないみたいだけど、滅茶苦茶いてぇ。初めて『加速』を使った時よりもいてぇ」

「大丈夫か?」


 痛みを訴える義人を見て、志信は心配げな表情を浮かべた。そんな志信に、義人は苦笑いを返す。


「おー、大丈夫だけど大丈夫じゃない。これ、あんまり多用できそうにないわ」

「ふむ……驚異的な速度だったが、体へかかる負担が大きいのか」


 寝転ぶ義人の傍で、ノーレが刀の姿から人間の姿へと変わる。そして腕を組むと、足を押さえる義人へと視線を落とした。


「やはり七割、出せて八割までじゃな。それ以上速度を出せば、ヨシトにも負担が大きいようじゃ」

「だな……あ」


 ノーレの言葉に寝転んだまま頷き、そこから不意に義人が固まる。


「ん? どうしたんじゃ?」

「……いや、実用性がなさそうなことを思いついただけ。気にしないでくれ」

「そうか?」


 首を傾げるノーレに軽く答え、義人は身を起こす。そして痛みが引かない右足を庇いながら立ち上がると、小さく呟いた。


「『加速』、か……」








 朝の鍛錬を終え、足の痛みもすぐに引いた義人はいつも通りに政務に就いていた。臣下からの報告の中にはいくつか“亀裂”が塞がっているのを確認したというものもあり、義人は頬を緩める。


「ミレイは上手くやってくれているみたいだな」


 何故“亀裂”が塞がったのかを知らない臣下達の不思議そうな顔を思い出しつつ、政務の山を切り崩していく。そうやって政務をこなしていると、執務室の扉がノックされて財務大臣のロッサが入室してきた。手には数枚の書類を持っており、報告か相談のために訪れたのだろう。


「何か問題でも起きたか?」

「いえ、問題というわけではありません。ここ一ヶ月の財務状況をまとめたので報告にきました」


 そう言って、ロッサは手に持った書類を差し出す。義人はロッサの差し出す書類を受け取ると、以前聞いていた報告について思い出し、口を開いた。


「そう言えば、使途不明金の件はどうなった?」


 義人が書類に目を通しながらそう言うと、ロッサは不思議そうな顔で数度瞬きをする。


「どうなったと言われましても……カグラ様から何も報告はないのですか?」

「カグラから? いや、何も聞いてないけど」


 紙面に走らせていた視線をロッサに向けると、義人は続きを促す。ロッサは戸惑いながらも口を開くと、現状の報告を始めた。


「金の流れについて確認を進めていたのですが、その途中でカグラ様に『その件はわたしに任せてほしい』と言われまして。ヨシト様への報告もしておくと……いえ、申し訳ありません。私も気が緩んでいたようです。カグラ様に引き継いだことを報告するべきでした」


 己の失態と捉えたのか、ロッサが慌てて頭を下げる。それを見た義人は書類を机の上に置くと、宙に視線を向けた。


「カグラか……役職的には引き継いでも問題はないけど、報告がないのは気になるな……」


 顎に手を当てながら首を捻り、義人は思考を飛ばす。

 最近、カグラが義人の政務室に顔を出すことは少なくなった。元々は義人が政務に対する知識がなかったために共に同じ場所で政務を行っていたのだが、“こちらの世界”へ召喚されてもうじき一年。“元の世界”に戻っていたブランクもあるが、義人も政務には慣れてきている。

 そのため、カグラは自分に割り当てられた執務室で政務を行っており、文官や武官の出入りも多い。義人に提出される書類の半数以上は各大臣や各部隊の隊長経由で宰相であるアルフレッド、『召喚の巫女』であるカグラに提出され、確認の上で義人へ回される。

 そのカグラから報告がないということは、自身の裁量で片付けるつもりなのか。それとも、義人に報告するほどに情報が集まっていないのか。

 義人は最近のカグラの様子を思い返し、小さくため息を吐いた。



 ―――まさか、俺と顔を合わせにくいから報告に来ないってわけじゃないよな?



 そんなことを考える義人も、一対一でカグラと会うとなれば躊躇が先に立つだろう。カグラの告白を断ってから起きた、義人から見れば謎の態度の変化も原因が不明なのだ。

 そう考え、しかし、政務については“信用”できるため、義人はロッサに苦笑を向けた。


「カグラなら悪いようにはしないだろう。まだ何も言ってこないってことは、証拠が揃っていないか、横領をした奴を見つけたけど適切な処分を決めかねているってところか。ま、今度話を聞いておくよ」


 横領は由々しき事態だが、カグラが対応を始めているのなら焦る必要もない。そう判断した義人は、ロッサからの報告資料に再度目を通し始めるのだった。








 その夜、カグラは自身の執務室で一人椅子に腰かけていた。

 その手にはロッサから引き継いだ使途不明金に関する情報と、自身が洗い出した情報が書かれた書類を持っており、感情の見えない視線を紙面に走らせていく。

 誰が、いつ、どれほどの金額を使ったのか。それらの証拠を固め、あとは本人を呼び出して突きつけ、身柄を確保するだけだ。


「…………」


 しかし、カグラは無言でその書類を引き出しにしまい込むと、鍵をかけて自分以外取り出せないようにする。そして椅子に背を預けると、蝋燭の火でおぼろげに照らされる天井を見上げ、小さくため息を吐く。

 何事かを考えるように、無機質な視線を天井に這わせること数分。視線を下したカグラは懐から薄い木箱を取り出すと、蓋を開けて中に収めてある(くし)を取り出した。

 義人から贈られた櫛を、宝物を持つかのように両手で包み込み、一つ頷く。


「ヨシト様……」


 小さく、深い感情のこもった呟き。しかし、カグラは何かを振り払うように頭を振ると、櫛を木箱に戻して懐へ納める。

 そして、先ほどの書類を入れたものとは別の引き出しを開けると、そこから別の書類を取り出す。続いて紙面に書かれた情報に目を通すと、小さく唇を噛み締めた。

 苦悩するように、それでいて何かを決断するかのように。そうやって書類に目を通し終えると、それまで浮かべていた感情が表情から抜け落ちる。


「これで、きっとヨシト様がわたしを―――」


 呟き、カグラが顔を伏せた。その表情を窺い知ることはできないが、決して笑顔ではないだろう。かといって、怒りを覚えているというわけでもない。




 ――ただ、蝋燭の火で壁に映った影の口元だけが、歪に弧を描いていた。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ