第百六十四話:ノーレ その2
「おはようございます、ヨシト様」
明けて翌日、政務室に顔を出すなりそう挨拶をしてきたカスミを見て、義人は思わず政務に使っていた筆を取り落してしまった。
「あ、ああ。おはよう、カスミ」
それでも気を取り直すと、なんとか挨拶を返す。すると、カスミは苦笑しながら首を横に振った。
「ヨシト様、他の者が混乱しますし、元のようにカグラと呼んでいただけますか? それに、その名前を他の者に知られたくはないので」
「え……あ、うん。わかった」
思わぬカスミの発言に、義人は無意識の内に頷きを返す。
そんな義人の隣では同じように驚きの表情を浮かべたアルフレッドがカスミ……カグラの顔をまじまじと見ていたが、すぐに我に返って表情を改める。
「カグラ、もう良いのか?」
「はい。大変なご迷惑をおかけしました」
何があったのか、まさしく憑き物が落ちたと言わんばかりのカグラの様子に、アルフレッドはもちろん義人は内心で驚愕を覚えた。
義人はカグラの妄執を断ち切るつもりだったが、逆効果になる可能性も捨て切れないと考えていたのだ。そのため、出会った頃のように凛としたカグラを見て驚愕したのである。
そんな義人の傍で、カグラはアルフレッドと話を進めていく。
「それでアルフレッド様、今回の件の処罰についてですが」
「うむ、それは……じゃな」
口を開けたまま固まっている義人を見て、アルフレッドはため息を吐いた。さすがに、今の義人がまともに働けるようには見えない。
「様々な要因が重なり合ったとはいえ、国王に手を上げたのは事実じゃ。当面……年単位での俸禄なし、というところで落ち着いた。謹慎も科そうと思ったが、それよりも政務を片付けていく方が罪滅ぼしにもなるじゃろ」
「……それは、ヨシト様が?」
カグラはそれまでの蓄えがあるため、例え年単位で俸禄なしになっても大きな問題はない。蓄えも以前『魔石』を購入した際に大きく減じてはいたが、衣食住が足りている状態で長年給金を使うことがなかったため、まだまだ余裕があった。その上で謹慎よりも政務を片付けろと言うあたりの温情処置は、義人の案だろうと思ったのである。
「……まあ、そんなところじゃ」
僅かな間を置いて、アルフレッドが頷く。カグラはそんなアルフレッドに僅かな疑問を覚えたものの、それを言葉にする前に再度アルフレッドが口を開く。
「じゃが、当然ながら“次”はないぞ?」
「はい。わかっています」
アルフレッドの言葉に、カグラは真摯に頷いた。そして、ようやく再起動をした義人へと視線を向ける。
「ヨシト様?」
「ああ、うん。大丈夫。それでカグラ、これからのことなんだけど……」
義人が言い難そうに視線を彷徨わせた。それを見たカグラは、苦笑しながら頷く。
「“あんなこと”を起こしてしまいましたし、わたしは当面自分の政務室で仕事をしていますね」
さすがに、義人もカグラも、この状況で一緒に政務をしては効率が落ちる。義人としては、気まずいことこの上ないのだ。
「それはその……いや、すまん。わからないことがあったら、聞きに行くよ」
何かしらの言い訳を口にしようとしたが、それはカグラに対する侮辱になるだろうと義人は口をつぐんだ。そんな義人を見て、カグラは再度苦笑を浮かべる。
「長い間休んでしまいましたし、当面は政務にかかりきりになりそうです。しかし、何かありましたらお気兼ねなく声をかけてくださいね」
そう言い残し、カグラは一礼してから颯爽と政務室を退室していく。そんなカグラを見送ってから、義人は大きく息を吐いた。
「驚いたぁ……」
「それは儂とて同じじゃぞ……昨日は一体どんな話をしたんじゃ?」
「いや、カグラが“ああなる”ような話はしてない……と、思うんだけど……」
“カスミ”の気持ちを聞き、告白を受け、それを断っただけだ。義人としては、他に何もしていない。
義人は首を傾げたものの、落としてしまった筆を拾いながらアルフレッドへ視線を向ける。
「それにしてもアルフレッド……あんな甘い裁定だと、他の臣下に示しがつかないと思うんだけど?」
「じゃが、妥当じゃろう? ヨシト王の気持ちもわかるが、さすがにいきなり『召喚の巫女』の役職をカグラから剥奪しても他の臣下が納得しないじゃろうて」
「……まあ、それはそうだけどさ」
鼻の頭を掻いて、義人は椅子に背を預けた。
アルフレッドが口にしたカグラに対する今回の処罰は、ほとんどアルフレッドが決めたものである。義人としてはそれを上回る重罰―――カグラから『召喚の巫女』という役職を剥奪することを考えていたのだが、それは臣下が納得しないためアルフレッドの案に落ち着いたのだ。
義人は納得がいかないとばかりにため息を吐く。
「別に良いじゃないか。正直、今回俺達が“元の世界”に戻った時の混乱を考えれば、今後も召喚国主制を続けるメリット……利点はないだろ? だったら、『召喚の巫女』もいらないはずだ」
「ふむ、そうじゃなぁ……」
その言葉に、アルフレッドは顎鬚を撫でながら思考するように視線を遠くへ飛ばす。
義人の言うことにも、一理はある。しかし長年、それこそ何百年と続いてきたこの国の根底を崩しかねないその提案には、簡単に頷けそうにない。
「しかし、この国での『召喚の巫女』という役職は非常に重要なものじゃ。かつて税率を引き下げた時のように、すんなりと話が進むものでもないじゃろう」
それ故に、アルフレッドは義人に自制を促す言葉をかけた。義人とカグラならば大丈夫だとは思うが、万が一にも国王と『召喚の巫女』が対立するような避けなければならない。
「……まあ、さすがにあの時はすぐに手を打たないといけなかったしな。でも、そうか……やっぱり“いきなり”は無理だよなぁ……」
ぼやきながらも机に積まれた書類を片付けていく義人を横目に見て、アルフレッドは内心でため息を吐く。
「ヨシト王、お主の言いたいことも気持ちもわかるし、裏で色々と動いておることも知っておる……が、それは“あの子”のためになることか? それとも、“この国”のためになることか?」
アルフレッドも、義人が“元の世界”に戻る前から色々と動いていたのは知っている。“こちらの世界”に戻ってきてからはさすがに動けていないが、乱れた政務もだいぶ落ち着いてきていた。そろそろ、義人も動き始めるのではないかとアルフレッドは釘を刺す。
「さあ? どっちかというと前者かな。でも“カグラ”のためになるのかって聞かれたら、ならないんじゃないかねぇ……まあ、“カスミ”のためにはなるだろうさ。それに、カーリア国のためにもなるんじゃないかって思ってる」
「……どういう意味じゃ?」
義人の言葉が指す意味がわからず、アルフレッドは首を傾げた。そんなアルフレッドに義人は笑ってみせると、次の書類へと手を伸ばした。
「そのまんまの意味だよ」
そこで会話を打ちきり、義人は政務に集中するのだった。
「いや……本当にどんな心境の変化があったんだ……」
今日一日のことを振り返りながら、義人は首を傾げる。
政務のことでカグラの元へと訪れる機会があったのだが、カグラは笑顔で、しかし事務的な対応をするだけだったのである。その反応に、先にカグラの政務室にいた文官達が戸惑ったほどだ。
「うーん……わからん」
首を捻りながらも、それでも悪い変化ではないのかと義人は一つ頷く。
そうやって自室へと戻り、扉を閉め―――そこで、部屋の中に自分以外の人間がいることに気付いた。
“彼女”は義人の寝台で心地良さそうに寝そべっていたが、義人が部屋に入ってくるなりそちらへと振り返り、横になったままで頬を膨らませる。
「ちょっとー、いつになったら兵士を移動させるのよー。思わず、一切合切何も気にせずに全員気絶させようかと思ったじゃない」
まるで自分の部屋のようにくつろぐ“彼女”―――ミレイの姿を見て、義人は大きな脱力を覚えた。そして、ミレイとの約束が見事に頭から抜け落ちていたことに今更ながら気付く。義人は頬を掻くと、ミレイに向かって頭を下げた。
「あー……ごめん、ミレイ。ちょっと立て込んでてさ……」
「あまり時間かけるとまずいのよ? 明日で良いから、ちゃんと兵士に指示を出してよね?」
「ああ、わかったよ」
ならば良し、と言わんばかりに頷き、ミレイは寝台から身を起こす。そして興味津々といった風情で目を輝かせると、笑顔で口を開いた。
「で、何が立て込んでいたの? 浮気が発覚して奥さんに追いかけ回されていたとか?」
「……冗談で言ってるんだろうけど、内容が縁起でもねぇ……」
ミレイが言うところの奥さん……浮気が発覚して怒った優希が自分を追いかけてくる光景を想像し、義人は肩を震わせる。しかも、追ってくる優希の表情は何故か笑顔だ。その光景が実現していれば、義人は逃げずに最初から土下座をして優希に寛恕を乞うだろう。そのあとに何が起こるかは、優希と長年共に育った義人をして想像すらつかない。
笑顔の優希に追い掛け回される想像で義人がげんなりとしていると、閉めた扉からノックの音が響く。
「ヨシト様、目通りを願う者が……」
「……こんな時間に? 誰だ?」
義人は不思議に思いながら扉へと視線を向ける。
時刻は既に夜。普通の謁見者は訪れるどころか城内に入ることすらできないだろう。もしや商人のゴルゾーが何かしらの情報でも持ってきたのかと、義人は僅かに表情を改める。
すると、ミレイは義人の顔を見て、ノックされる扉を見て、にやりと笑った。
「あ、駄目ですヨシト様! おやめください! そんな、御無体な!」
「って、いきなり何を口走ってますかねあんたはぁっ!?」
誰が来たかはわからないが、誤解されること確実な声を上げるミレイ。扉の外にいたであろう兵士からは、何やら動揺したような、空気が凍りついたかのような気配が伝わってくる。
「さては、亀裂から兵士を移動し忘れた俺に対する嫌がらせだな!?」
「なんだ、わかってるじゃないの」
「少しは悪びれろよ!?」
ケロリとした表情で告げるミレイに、義人は驚愕しながら突っ込みを入れ―――次の瞬間、吹き飛ぶようにして扉が開いた。まるで台風か竜巻でも直撃したように木製の扉が軋み、蝶番が悲鳴を上げる。
「ユキという者がありながら、お主は何をしとるんじゃこの戯けがっ!」
続いて、ドレスに似た衣服を翻しながらノーレが風を纏って飛び込んでくる。その剣幕に、そして飛び込んできた人物に義人は二度驚き、思わず三歩ほど後ろに下がった。
ノーレはそんな義人に鋭い視線を向けると、続いて義人が手籠めにしようとしたであろう女性に目を向け、驚愕に目を見開く。
「相手は巫女じゃと!? 幾日経っても迎えに来ぬから妾の方から戻ってみれば、ヨシト、お主―――」
大いに勘違いをしたノーレが義人に詰めようとする。しかし、寝台の上にいるミレイをもう一度見ると、見開いた目を一気に細め―――その名前を口にした。
「……ミレイ、か?」
驚愕を通り越し、かえって冷静になったノーレが静かにミレイの名を呼ぶ。呼ばれたミレイは、ノーレの姿を見て口元を笑みの形に変えた。
「その声にその喋り方……ええ。お久しぶりね、“お姫様”」
そう言って、ミレイは身を起こす。ノーレはそんなミレイを見て、信じられないと言わんばかりに首を横に振った。
「何故、お主がここに……御母堂との“約束”でこの国には来られないはずではないのか?」
「うーん……まあ、そうなんだけど。さすがに放っておくわけにはいかなくなってね。あのばばあもさすがに見逃すでしょ」
「放っておく? ……まさか、あの亀裂のことか?」
ノーレの言葉に、ミレイは首肯する。
「そそ。あなたの“お姉様”の時よりも状況が悪くなってるからねぇ。“そっち”も含めてどうにかできないかと思って、ね」
顔見知りらしい二人の会話に入っていけず、義人は話を聞くだけに留める。そんな義人に構わず、ミレイはノーレの姿を頭からつま先まで確認すると、感慨深げな息を吐いた。
「しかし、あなたが“その姿”でいるってことは、あの剣は折れちゃったのね。でも、よく考えたら“その姿”のあなたに会うのは初めてかしら?」
「うむ……そうじゃな。しかし、妾もこの姿で表に出られるとは思わなんだ」
「あら、良いじゃない。古い知り合いが生きているっていうのは嬉しいものよ。エミ―――」
「今の妾は“ノーレ”じゃ。それ以上でも、それ以下でもない」
何かの名を口にしようとしたミレイを、ノーレが静かに遮る。それを聞いたミレイは数度目を瞬かせたが、それまで義人が見たことのない、柔らかい笑みを浮かべた。
「……そう。それじゃあ、わたしもそう呼ぶわね」
「そうしてくれると妾としても嬉しいのう」
そう言って互いに笑い合う。そして、それを会話の切れ目と見て義人は口を開いた。
「二人は知り合いなのか?」
「んー……知り合いと言えば知り合いね」
「妾が“入って”おった剣、あれを作ったのがミレイなんじゃ」
「へぇ……そうなんだ」
ノーレの説明に頷き、しかし、引っかかる点があって義人は首を傾げる。
「前、ノーレって疑似人格とか言ってなかったっけ? ということは、もしかしてミレイがノーレを……」
作ったのか、とは言わない。義人の目から見ればノーレは作り物などではなく、一個の人格を持っているように見えた。疑似人格などと言われても、逆に鼻で笑っただろう。
ミレイはそんな義人の言葉を聞き、驚いたようにノーレへと視線を向けた。
「ちょっと、そんな説明したの?」
どこか咎めるような響きがこもった声に、ノーレは渋面を作る。
「さすがに本当のことは言えんじゃろう……この国には『カグラ』がおるんじゃぞ? お主の末裔ならば、“お姉様”の魔法を再現しかねん」
「それはまあ……そうね」
ノーレの言葉にミレイも真剣な顔で頷く。義人は二人が交わす会話の内容が半分も理解できず、こめかみを指で叩いた。
「……で、結局、ノーレって何者? その口ぶりからして、疑似人格なんかじゃないんだろ?」
とりあえずは、気になる点を尋ねる。ノーレとミレイは互いに目線を交わし合ったが、折れたようにミレイがため息を吐いた。
「ええ。エミ……っと、今はノーレか……」
紛らわしいわねぇ、とぼやくミレイだが、その表情は真剣なものだ。一つ間を置くと、義人の疑問に答えるべく口を開き―――義人の疑問に答えたのだった。
「彼女はこのカーリア国が建国されるよりも昔―――この地方にあった国のお姫様よ」