第百五十六話:少女 その3
「カグラの名前、じゃと?」
カグラを寝かせた義人達は、その足でアルフレッドの元に赴くなりすぐに話題を切り出した。すると、自身の机で政務をしていたアルフレッドは驚いたように義人の顔を見る。
「何故、そのようなことを聞くんじゃ? いや、その前に、ヨシト王から血の匂いがするんじゃが……」
困惑しながら、アルフレッドは説明を求めるように義人とサクラを見た。そして、サクラの袖口も何者かの血で汚れていることに気付く。
「いや、アルフレッドが危惧しているようなことはないよ。というか、その逆で」
まさかカグラを、と考えていたアルフレッドは、その逆と言われて一瞬忘我する。
「まさか、カグラがヨシト王を襲ったと言うのか!?」
これほど驚いたことは、ここ何年もない。思わず椅子から立ち上がりながら尋ねるアルフレッドに、義人は頷いてみせる。
「さっき見舞いに行ったんだけど、カグラと話している途中で『“わたしの名前”を呼んでいただけますか?』って言われてな。それで“カグラ”って呼んだら攻撃されたんだ。偽者だって言われながら、な」
義人がそう言うと、その言葉を証明するかのようにサクラも頷く。
「幼い頃にアルフレッド様からカグラ様について話を伺ったと記憶していたので、その確認に来ました」
「……そうか。それで、カグラはどうしたんじゃ?」
「当て身で気絶してもらいました。今は典医様が処方した鎮静剤で眠られています」
「そうか……」
アルフレッドは大きく息を吐くと、椅子に座り直して背もたれに体を預ける。そして遠くを見るように視線を宙に向けると、ゆっくりと頭を振った。
「“あの子”は『召喚の巫女』カグラであり、その名は母親である前代のカグラから受け継いだものである……ということは知っておるな」
「ああ。でも、『召喚の巫女』になる子は国民の中から選ぶんだろ?」
「うむ。しかし、『召喚の巫女』を務められるほどの魔力を持つ者は、“あの子”の家系以外には存在しないのが現状じゃ」
そう言って、アルフレッドは深いため息を吐く。
「故に、“あの子”は生まれた時から『召喚の巫女』としてカグラを名乗っておった。じゃが、それ以外に、あの子の母がつけた名前があるんじゃ」
母がつけた名前と聞き、義人は真剣な表情に変わる。
「ということは、それが“カグラ”の本当の名前ってわけか」
「そうじゃ。“あの子”の本当の名前は、カスミという」
カスミ、とアルフレッドが口にした時、僅かに声が震えた。義人はそれを不思議に思ったが、今はそれよりも気になることがある。
「なんで、俺が“こちらの世界”に初めて来た時に教えてくれなかったんだ? 最初に教えてくれれば、俺は……」
間違いなく、カグラではなくカスミと呼んでいた。『召喚の巫女』としての“カグラ”ではなく、一人の人間である“カスミ”として。しかし、アルフレッドはそんな義人の言葉に首を横に振る。
「『召喚の巫女』として代々継いできたカグラの名じゃ。『召喚の巫女』として、いや、『召喚の巫女』だからこそ、それ以外の名は名乗れん。儂とて、“あの子”をカスミと呼んだことは“ほとんど”ないのじゃよ」
「そんなことって……」
名前があるのに、その名前は呼ばれない。その代わりに呼ばれるのは、『召喚の巫女』であるカグラという“役職”だ。
「儂としては、“あの子”が自分の名前を憶えていたことの方が驚きじゃよ。最後に“あの子”の名を呼んだのは、本当に小さい頃じゃったからのう……」
何か大事なものを思い出すかのように、アルフレッドは目を細める。そんなアルフレッドの姿を見て義人は僅かに戸惑ったものの、すぐに気を取り直して思考を回転させた。
カグラが自分に名前を呼んでほしいと頼んだ、その意味。
おそらくは、魔法人形と話している時に“カグラ本人”の名前を呼んで欲しいと願ったのだろう。カグラではなく、カスミと。『召喚の巫女』ではなく、一人の人間、一人の少女として。
そこに垣間見えるカグラの感情に、義人は応えることができない。しかし、それでも、無碍にするという選択もまた、取れそうにない。
それでもカグラ自身のことを本当に思うのならば、冷酷に、非情に、突き放すのも手かと義人は思考する。お前が名前を呼んで欲しいと願ったのは、義人ではなく魔法人形なのだと。だが、その指摘に何の意味があるのか。カグラが義人を偽者と断定するこの状況で、どう納得させられるというのか。
義人がもどかしげに頭を掻くと、それを見たアルフレッドは苦しげな表情で言葉を吐き出す。
「ヨシト王、お主が“あの子”のことを少しでも憐れに思うのなら……」
そこまでアルフレッドが言った途端、義人は政務用の机に拳を叩きつける。木で作られた机は痛みを訴えるように軋んで音を立てると、積み重なっていた書類がその衝撃で横へと倒れた。
そして義人はアルフレッドを見据え―――睨み付け、アルフレッド以上に苦しそうな声で告げる。
「それ以上は言うな」
絞り出すような声に、アルフレッドは声を出さずに頷く。義人はそんなアルフレッドに小さく頭を下げると、無言で退室するのだった。
その日、志信は日課である夜の鍛錬に励んでいた。
昼間に起こったカグラによる義人への暴行、いや、もはや凶行とも言える事態は、義人の無事を確認した際に義人本人の口から確認している。
手に持った棍を振るいつつ、志信は悔恨の念を募らせていく。すでに過ぎたことではあるが、シアラが魔法人形を使ってカグラの看護をしようとした際に強硬に反対するべきだった。否、反対ではなく、魔法人形の破壊という直接的な手段でシアラの案を実行できないようにすれば良かったのだ。
いつもならば鍛錬を始めれば無心になれるが、今日ばかりはそれも上手くいかない。鍛錬の場所を義人の寝室からそう遠くない位置で始めたのも、自責の念が無意識にそうさせたのだろう。今頃義人は眠りについているだろうが、志信は当分眠れそうになかった。
一通りの型をこなし、残心をしながらゆっくりと息を吐く。時刻はすでに日をまたいでいるが、気が落ち着かないため眠れそうにない。志信はもう一度型をなぞり直そうと棍を構え―――無意識の内に、後方へと突き出していた。
「っ!?」
何故自分が棍を背後へと放ったのか、志信にもわからない。
棍を突き出し、何も手応えがないとわかった段階になってようやく自分の行動を理解したぐらいだ。
すぐさま精神を切り替えて臨戦態勢に入ると、志信は棍を手元に引き戻しながら体ごと背後へと向き直る。しかし、そこにあるのは闇だけで、人の気配も魔物の気配もなかった。
「……気のせい、か?」
棍を中段に構えたままで、志信は小さく呟く。気配はなく、棍を繰り出しても手応えがない。だが、自身の体が無意識とはいえ反応したのだ。“何か”に背後を取られている、と。
それでも志信は頭を振ると、知らない内に疲労が溜まっていたのだろうと判断し、再度、背後へと棍を繰り出した。そして手応えがないことを確認すると、振り向きざまに棍を横薙ぎに振るう。
まるで、見えない何かを振り払うように。
まるで、見えない敵と戦うかのように。
志信は棍を振り切った状態から体を捻ると、背後に槍のような蹴りを放つ。それはもしもそこに人間がいたならば、軽く数メートルは飛びかねないほどの強烈な蹴り。しかしそれすらも空を切り、志信は棍から左手を離すと、右足を軸にして円状に棍を振り回す。自身の周囲を一周するように、薙ぎ払うようにして棍を振るい―――相変わらず、手応えはない。
志信はそれに構わず、棍を、蹴りを、時折拳すら交えて繰り出し、一心不乱に動き続ける。
それは、何も知らない人間からすれば熱の入り過ぎた鍛錬に見えただろう。型稽古でも一人稽古でもなく、明らかに敵対する人間を想定しての動き。見えない敵が眼前にいるかのように、実戦さながらの気迫を放ちながら攻撃を続ける姿は鬼気迫っているようにすら見えたかもしれない。
春を過ぎたばかりで夜間の気温は低いが、それでも全身から汗を流しながら志信は攻撃の手を打ち続ける。
「はぁ……はぁ……」
そうやって動き続け、一体どれほどの時間が経ったのか。志信は棍を構えながら動きを止めると、荒い呼吸を正すために深呼吸をする。
相変わらず周囲にあるのは闇ばかりで、人の姿も気配もない。それだというのに志信は警戒を解かず、棍を構えたままで気息を整える。
志信とて、何の意味もなく動き続けていたわけではない。ただの訓練のために、ここまで動いたのではない。
――先ほどから、自身の死角に“何か”がいるのだ。空気のように存在感がなく、ともすれば勘違いだと思ってしまうほどに気配を押さえた“何か”が。
ここでいう気配とは、何もゲームなどで語られるようなあやふやなものではない。“こちらの世界”で言えば、魔力というわけでもない。
そこに人間がいれば衣擦れなりの音が立ち、呼吸もし、体温で熱を放つ。足音、匂い、呼吸音。それらを合わせての気配であり、熟達した人間でも完全に消すことは難しいものだ。
だが、志信があれだけ動いたにも関わらず、一向に気配を悟らせずに死角を取り続ける。さてはノーレのように幽霊に似た存在が化けて出たかと志信は半ば本気で考え、動きを悟らせないように注意しながら地面へと視線を向けた。
あいにくと言うべきか、今夜は月の光が弱い。そのため地面に影が映らず、志信は内心で舌打ちした。
本当に気のせいならば、問題はない。しかし、これが気のせいでなければ問題だ。
これほどの隠行に長けた相手が義人を狙えば、その魔手から逃れることはできないだろう。ただでさえ、ノーレはローガスのもとにいるのだ。サクラが義人と共にいてくれれば良いが、この時間になると義人も眠るため、サクラが傍にいるとは思えない。
志信は呼吸を正常なものに戻すと、ゆっくりと目を閉じる。常に死角に入られるのならば、目を開けていても仕方がない。最初から視覚を閉じて他の感覚に意識を集中させた方が、相手を捉えられる可能性が高くなる。
聴覚や嗅覚、果ては空気の振動すら感じ取れるよう触覚を研ぎ澄ませ、志信は周囲の気配を探っていく。
「―――はっ!」
そして、今度は確信を持って棍を自身の真横へと突き出した。可能な限り予備動作を省いたその一撃は変わらず空を貫き、僅かに、棍先に何かが掠めた。
それは肉体ではなく、もっと軽いもの。服の裾か、はたまた伸びた髪か。それほどに希薄な感触を棍先に感じ取り―――志信の首筋に衝撃が走った。
それが死角を取り続けた“何か”からの攻撃だと気付くのに、数瞬かかる。志信はそれでも自身に当て身を入れてきた相手へと視線を巡らせ、目を見開いた。
「な……ん、だと……」
薄れゆく意識の中で、志信は驚愕と共に声を漏らす。その声に気付いたのだろう、その“何か”は、暗闇の中で気さくに笑う。
「いやはや、驚いたわねぇ。まさかわたしの存在に気付くだけじゃなく、掠る程度とはいえ攻撃を当てるなんて」
はてさて何年ぶりかしら、と明るく言い放つその“何か”―――女性の姿を目にして、志信の意識は遠退いていく。
それでも、薄れゆく意識の中で“見知った少女”の姿を脳裏に刻み込み、志信は意識を手放すのだった。
「カスミ、か……」
深夜になり、義人はカグラの本当の名前を口に出しながら寝台に寝転がっていた。
枕替わりに腕に頭を乗せて天井を見上げ、眠気が訪れるのを待つ。しかし、今日起きたことがあまりにも衝撃的過ぎて、眠気は一向に訪れない。
カグラの凶行に、カグラ自身の“本当の名前”。後者はまだ良いとしても、前者は笑って流せる話でもない。
凶行―――文字通り、凶行だ。
もしも義人の反応があと僅かでも遅れていれば、今こうやって天井を見上げることもなかったかもしれない。義人は無意識の内にカグラに傷をつけられた首を撫で、ため息を吐く。
これが一兵士の反逆ならば、ここまで義人も悩まない。しかし、相手は『カグラ』である。宰相であるアルフレッドに並ぶ、カーリア国きっての高官。カグラ自身との仲もあるが、気軽に処罰を決めることもできない。
「“元の世界”みたいに心神喪失で無罪、なんてわけにもいかないしなぁ……」
あの時のカグラが正気だったかと言われれば、義人としても簡単に頷くことはできない。だが、だからといって御咎めなしという選択も取れない。
カーリア国におけるカグラの存在は、義人が考えているよりも大きい。次代の国王を『召喚』する魔法使いにして、カーリア国最強の矛であり盾。相手が小国ならば単身で忍び込み、正面から突破して国王の首を取ってきかねないほどの強力な存在だ。
レンシア国の国王であるコルテアが、その“保有者”である義人と愛娘の政略結婚を敢行してでも同盟を結ぼうとする程度には『カグラ』に対する評価が高い。
カグラが戦えなくなっているという話を嗅ぎ付けている国もあるだろうが、それでもいつ回復するともわからないのは恐ろしいことだろう。だが、このままでは良い方向へは転ばない。
義人は天井から視線をずらすと、寝室に用意された机の脇に置かれたリュックへと目を向ける。
“元の世界”から持ち込んだが、“こちらの世界”に戻ってきてから荷解きする暇もなかった。リュックの中には“元の世界”の食べ物やゲーム機などが入っているが、さすがにそれらを食べたり、ゲームで遊んだりする気分でもない。
視線をリュックから天井に戻すと、義人は再度ため息を吐く。こうやって一人で考え事をしていると、暗鬱な気分になってくる。残念と思うべきか小雪は訪れず、ノーレもおらず、気分は落ちていくばかりだ。
それでもいずれは眠れるだろうと思考を回転させるが、状況に辟易しているのか深く考えることができない。
まだ、カグラは処方された薬で眠っているだろう。目を覚ますのは今夜か、それとも翌朝か。少なくとも、それまでに何かしらの解決案を考えておく必要がある。
―――でも、“これから”のカーリア国のことを思えば、『召喚の巫女』という存在は―――。
そこまで考え、義人は寝台から起き上がった。そして苛立たしげに頭を掻くと、傍に置いてある水差しから水を一口飲む。続いて魂すら吐き出すように深いため息を吐くと、頭を振って浮かんだ考えを掻き消す。
「……優希はまだ起きてるかな……」
暗鬱とした気分を払いたくて、無性に優希の顔が見たくなった。義人は寝台から起き上がると、枕元に置かれた物体へと視線を向ける。
「一応、持って行くか」
呟きながら手に取ったのは、一振りの刀だった。ノーレが折れてしまったため、倉庫に置かれていたものを拝借したのである。『魔法文字』も使われていない普通の刀だが、自分の身を守るには十分だろう。
いつもなら傍にいるノーレも、今夜はローガスの元にいる。城の中ならば安全だろうが、警戒して過ぎることはない。
そう判断した義人は鞘に納まった刀を手に提げながら扉へと向かおうとして、
「こんばんは」
背後に、そんな声を聞いた。