第百五十三話:帰還 その3
城外から見上げる窓には未だ明かりが点いており、それを目にした志信は短く息を吐き出して頭を振った。
時刻は既に、深夜と呼んで差支えない時間。それでも志信が見上げる先―――義人の執務室の明かりが消えることはない。
義人達が“こちらの世界”へ戻り、義人達が姿を消していた間のことを説明して半日も経っていない。志信が義人の話を聞く限りでは、“こちらの世界”に戻る際に長時間魔物と戦い、その挙句に上級に近い魔物を倒し、“こちらの世界”に戻るなり長距離を駆け抜いて戻ってきた。その疲労は、志信が考えているよりも大きいだろう。本来ならばすぐに休息を取るべきだが、義人はそれを断って執務室で溜まった政務を片付けている。
義人自身、大きな疲労を感じていると言っていた。しかし、志信が“こちらの世界”で起こった話をするなり、頭を抱えたのだ。そして、絞り出すように小さく呟く。
「こりゃ、布団に入っても眠れそうにないな……」
義人からすれば、“こちらの世界”に戻ることができればカグラの手を借りて事態を収束させることができるという希望があった。だが、当のカグラは“向こうの世界”に戻った義人を再度召喚するために『召喚の儀式』を行おうとし、それを防ごうとした志信やサクラすら打ち倒した。
その結果、魔力の使い過ぎで視力を失い、錯乱したカグラを落ち着かせるために魔法人形を使って義人が“こちらの世界”に戻ってきたと言って見舞いまでさせていたのだ。義人当人からすれば、自分の知らない間にもう一人の自分がいて、事態をややこしくしたようなものである。
布団に入っても寝付けないのは仕方がないと、志信は申し訳なく思った。自分がもっと強硬に反対していれば、あるいは今の事態はなかったかもしれない。そう考えるといてもたってもいられず、仕事の現状を引き継いだ志信は城外からの執務室の警護を買って出ていた。そのため、引き継ぎの兵士が来るまでは鍛錬をしながら警備を行っている。
政務を手伝えれば良かったのだが、溜まった政務を次々に片づけていく義人の姿を見ては邪魔になるとしか思えなかったのだ。
内部は護衛の兵士が固めているため、外部からの侵入者さえ防げれば義人の身は安全である。そう頭の中で考えた志信だったが、それを否定するかのように、執務室の窓が開け放たれた。
「とうっ!」
そして、聞き慣れた声が届くと同時に、義人が窓から飛び降りる。続いてドレスに似た衣装をまとったノーレも窓から飛び降り、ドレスの裾を押さえながらゆっくりと下りてきた。
義人は落下の途中で壁を蹴ると、その勢いを利用して宙返りをして着地する。その身軽な動きを見た志信は、一つ頷いて賛辞を口にすることにした。
「ずいぶんと動きが身軽になったな。だが、護衛の対象が自分から外に出てくるのはどうかと思うんだが」
「ははは、まあ、向こうで色々とあって。あと、そういうことは気にしないでくれ」
笑いながら頭を掻く義人に、志信も小さく笑う。しかし、風魔法でも使っているのかゆっくりと地面に降り立ったノーレは呆れたような声を漏らした。
「戯けめ。失敗したら笑いごとではないんじゃぞ?」
「いやー、扉の前は護衛の兵士が固めているからこっそりとは出てこれないしさ」
悪びれず答える義人に、ノーレはため息を吐いた。そんなノーレの姿を視界に収めつつ、志信は僅かに首を傾げる。
「しかし、こんな時間に会いに来るということは、俺に何か用か?」
「ん? ああ……」
義人も今が非常に遅い時間であると自覚しているのだろう。一度だけ頬を掻くと、不意に真剣な表情を作る。
「爺さんからの伝言があって、な」
「お爺様からの?」
「そうだ。本当ならすぐに伝えなきゃと思ってたんだけど、今日のことで頭から抜けててなー。今しがた思い出したんだ」
さすがに、新しい情報や考えることが多すぎた。それを理解している志信は、気にすることなく頷く。
「構わんさ。それで、伝言とは?」
祖父からの伝言である。志信は背筋を伸ばすと、義人の言葉を待った。そんな志信に、義人も真剣な表情に変わる。
「ああ……『体には気をつけろ』、『命を粗末にするな』、そして、『己の道を見つけることができたなら、それを信じて貫け』だってさ」
「……そうか」
祖父である源蔵の言葉を心に刻み込むと、志信は穏やかに笑う。
「お爺様は、元気だったか?」
「おお。元気も元気、相変わらずだったよ。爺さんはあと五十年以上長生きすると思うね、きっと……と、あと一つ伝言があるんだった」
「義人、お爺様があと五十年以上生きたら、ギネスブックに載るぐらいの年齢になるのだが……まあいい。それで、もう一つの伝言とは?」
そう言うと、義人は苦笑しながら最後の伝言を口にする。
「『もしもこっちに戻ってくることがあるのなら、その時は妻とひ孫も連れてこい』……だってさ」
苦笑混じりに伝える義人に、志信は祖父らしいと笑う。しかし、それから志信は困ったように腕を組んだ。
「妻とひ孫か……俺のことを好いてくれる女性がいれば、それも可能なのだがな……」
「好いてくれる女性がいればって……あの二人も報われないなぁ」
ハハハと乾いた笑いを漏らす義人だが、後半の言葉は呟くような大きさだったため志信には届かない。その後ろではノーレが呆れたような顔をしており、志信は首を傾げた。
「何か言ったか?」
「いや、何でもないよ。本人が頑張ることだし」
「……そうか?」
義人が何でもないと言うのなら、そうなのだろう。そう納得する志信だった。
そこで、一度会話が途切れる。意図してか、それとも自然のものだったのか、志信は会話が途切れたことに僅かな疑問を覚えつつ義人を見ると、義人はなにやら言い難そうに、しかし、源蔵からの伝言を口にする時以上に真剣な表情へと変わっていた。
「他にも、何かあるんだな?」
「ああ、まあ、その……」
義人は何度か口を開閉し、視線をあちこちへと向ける。しかし、そうしていても話が進まないことを理解しているのだろう。一度だけ深呼吸をすると、真っ直ぐな視線を志信へと向け―――姿勢を正して頭を下げた。
「ごめん、志信。俺は、“元の世界”に戻った時、お前を見捨てようとした」
「…………」
義人の言葉に、志信は沈黙をもって応える。
「みんなで“元の世界”に戻るって誓ったのに、俺は、お前を見捨てようとしたんだ」
まるで血を吐くかのように、苦しげな声で謝罪する義人。
“元の世界”に戻り、家族と再会し、平和で穏やかな生活を送り、隣に優希もいる。そんな日々を過ごす内に、義人は優希に対して口にしてしまったのだ。
―――“こっちの世界”で、ずっと、一緒に生きていかないか、と。
志信の存在を無視したその言葉を、一度口にしてしまった。それが、義人には許せない。無論、わざわざ志信に伝える必要がないのは確かだ。だが、それは志信に対する負い目になる。
そんな頭を下げる友人の姿を見て、志信は小さくため息を吐く。
「……馬鹿者め。言わなければ、わからないだろうに」
こんなことを言われたとして、志信には返す言葉がない。義人も、それは理解している。この謝罪が一方的なものであると、理解しているのだ。
「ああ。でも、そこは隠しちゃいけないところだ。だからすまない、志信」
愚直に頭を下げる義人。そんな義人の姿を見た志信は、一瞬眩しいものを見るかのように目を細めた。しかし、すぐに頭を振ると、頭を下げる義人へと言葉を投げかける。
「だが、そう思ってもなお、お前は“こちらの世界”に戻ってきた。俺には、それで十分だ」
例え一度“こちらの世界”に戻ることを、志信を“元の世界”に連れ戻すことを諦めたのだとしても、現実は違う。義人は“こちらの世界”に戻ることを決意し、魔物の群れを突破し、勝ち目の薄い化け物を相手に戦い抜いてきた。
そんな義人を責めるつもりなど、志信にはない。むしろ、志信にとっては、自身にこそ謝罪するべきことがあると思っていたぐらいだ。
「頭を上げてくれ義人。それを言うなら、俺とてお前に謝罪しなければならない」
志信がそう言うと、義人は訝しげな顔をしながら僅かに頭を上げる。それを確認した志信は、義人と同じように頭を下げた。
「すまない、義人。俺は、カグラを止めることができなかった。この国が悪しき方向へ進むのを、止めることができなかった」
志信がそう言うと、義人は虚を突かれたように目を瞬かせる。予想外のことを言われたと、困ったように。そして、どこか気まずそうに頬を掻いた。
「あー……いや、カグラのことも、どちらかというと俺が原因なんだろうし、政務のことも、最悪の事態にはなってなかったけど……」
「しかし、魔法人形を使うことを止めなかったのは事実だ。アレがなければ、カグラもあんな状態にはならなかっただろう。そして、今のカグラは間違いなく義人の負担になっている。違うか?」
僅かに事実を曲げて志信は言い募る。魔法人形を使うという案を出したのはシアラであり、志信はそれに反対していた。しかし、そのことを義人は知らない―――が、義人は志信の言葉に首を横に振った。
「嘘は言わないでくれよ、志信。使ったのは、シアラだろ?」
以前義人はシアラと魔法人形について話をしており、他に使用者が思い浮かばない。それ故の発言だったのだが、志信はそれを肯定するように沈黙した。義人はそんな志信に苦笑を向けると、軽く握り拳を作って自分の頬に当てる。
「まあ、そういうわけで……志信、諸々のことを含めて、俺を殴ってくれないか? そうしないと、俺は自分を許せそうにないんだ」
軽く、しかし冗談などではなく、義人はそんな頼みごとを口にした。それを聞いた志信は、義人と同じように拳を握ってみせる。
「なら義人、お前も俺を殴ってくれ。そうでないと、俺の気が済まない」
「いやいや、志信は悪くないだろ」
「ならば、義人が俺に対して感じている負い目もなしだ」
互いにそう言って、真正面から視線を合わせる。だが、そこに妥協の色がないことを両者とも見て取り、僅かに義人の視線が鋭くなった。
「―――そっか、それなら話は簡単だな」
互いに引く気がないことを悟り、義人は感情の見えない声で呟く。しかし、義人はそれまでの緊迫感をいなすように笑みを浮かべると、いっそ軽やかに代替案を口にした。
「志信、ちょっと喧嘩でもしないか?」
ちょっと散歩でもしないか、と尋ねるぐらいの気軽さで、義人が提案する。それを聞いた志信は目を見開くが、意図を理解してすぐに笑みを浮かべた。
「なるほど……それは良い考えだ」
互いに負い目があり、それを流すためにも殴ってほしかったが、どちらか片方だけといわけにはいかない。
――そうなると、話は簡単だった。
義人は体をほぐすように軽く伸びをすると、志信も合わせて軽く屈伸を始める。
「ノーレ、ちょっと人が来ないように見張っておいてくれ」
「お主、妾をなんだと……まあ良い。ほどほどにな」
ノーレは義人の言葉に呆れつつも、どこか苦笑に似た表情を浮かべながら周囲を警戒する。そして義人と志信は互いに歩み寄ると、拳を握って口を開く。
「そういや、志信とは喧嘩したことがなかったな」
「ああ。それがまさか、こういう形で行うことになるとはな」
これから喧嘩をするというのに、そこに暗い感情はない。義人と志信は互いに苦笑に似た表情で笑い合うと、示し合せたように拳を突き合わせた。
「それじゃあ」
「やるか」
言葉が終わると同時に、二人は右足で前へと踏み込む。そして固めた拳を相手の左頬に叩きつけ―――相手の拳を受けてたたらを踏んだ。
「はっ……かったい拳だなぁっ!」
頬から伝わる衝撃で視界が揺れるのにも構わず、義人は再度志信へと殴りかかる。今度は顔面ではなく、腹部への拳撃。志信はそれを敢えて受けると、お返しとばかりに義人の腹部へ拳を叩きこんだ。
「義人こそ!」
腹部への衝撃で僅かに咳き込むものの、志信はそれを振り払うように笑う。
相手が一度殴れば、こちらも一度。殴られた個所と同じ個所を殴り返す。そこには技巧も何もない、単純な殴り合いだ。
純粋な“戦い”ならば、義人は志信の足元にも及ばない。しかし、これは“戦い”ではなく“喧嘩”だった。二人とも胸に抱えていた感情を吐き出すように殴り合い、痛みを忘れるかのように笑い合う。
そうして、何度殴り合ったのか。互いに本気で、されど、大きな怪我を負うことがないように殴り合って数分。義人は口の中に溜まった血を唾と共に吐き出し、志信は頬から流れる血を袖で拭う。
そうして再度殴り合いを再開しようとして、そこでふと、志信は疑問を覚えて口を開いた。
「ところで、今更だが一つ尋ねておきたいことがあるんだが」
「なんだ? ちなみに、俺はあと一発でダウンするぞ。そしたら何も考えることなく朝までぐっすりだ」
殴り合いでテンションが上がったのか、義人は口の端から流れる血を乱暴に拭って大きく笑う。そんな義人に志信も笑い返し、浮かんだ疑問を投げかけた。
「義人が“こちらの世界”のことを諦め、“向こうの世界”で生きていくことを考えたのは……やはり北城のためか?」
その思わぬ質問に、義人は気勢が削がれたように怯む。
「ぐ……むぅ。まさか、志信からそんな突っ込みがくるとは……侮ってたぜ」
「お褒めに預かり恐悦至極。それで、答えは?」
どこか楽しそうに尋ねる志信。それに対して義人は、大きく息を吸い込んでから答えた。
「後で優希が目を覚ましてから伝えようと思ってたけどな……俺から告白して、今は恋人同士だよっ!」
照れ隠しか、義人は今まで以上に力強く志信に向かって踏み込む。そして踏み込みと同時に志信へ拳を突き立てると、志信は純粋に笑みを浮かべた。
「そうか―――おめでとう」
「ああ―――ありがとう」
お返しと言わんばかりに繰り出された拳が、義人の腹部へと突き刺さる。義人はその一撃に耐えることをせず、志信と同じように笑みを浮かべると、ゆっくりと意識を手放し始めた。
「ちぇ……やっぱり、勝てないかぁ」
倒れながら、義人はそう呟いた。志信は倒れていく義人を腕で受け止めると、惜しみなく賛辞を贈る。
「だが、強かった」
その言葉を聞き、義人は嬉しそうに笑ってから意識を失うのだった。
「まったく、お主らあれじゃろ? 戯けではなく阿呆じゃろう?」
それまで見張りをしていたノーレが、呆れたように言葉をぶつけた。すると、義人を地面に寝かせた志信が小さく頭を下げる。
「む……否定はできないな」
「仮にも一国の王が、後先考えずに殴り合うなど……まったく」
頭が痛い、と言わんばかりにノーレは頭を指で叩く。
「やれやれ、男というのは、本当に……」
そう呟くノーレだったが、地面に寝かされた義人に向ける視線は柔らかい。
「本当に、馬鹿じゃなぁ」
その視線とその声色に、志信は“何か”を感じ取った。だが、それを尋ねるのは野暮に過ぎるだろう。そう判断した志信は口の中に流れ込んできた血を吐き出すと、どこか晴れ晴れとした表情で夜空を見上げた。
「そんなものだ、男というのは」
「妾にはわからんよ……と、寝ているかもしれんが、小雪を連れてくる。仏頂面……いやさ、シノブ。お主らはそこで待っておれ」
それだけを告げ、ノーレは地を蹴って開いたままの執務室の窓まで跳躍する。
名前を呼ばれた志信は驚きの視線を向けながらノーレの後ろ姿を見送ったが、すぐに苦笑して義人の隣へと腰を下ろすのだった。