第百五十二話:帰還 その2
その日、志信は最早日課となった政務をこなすために執務室に詰めていた。傍で同じように政務をこなすアルフレッドと時折言葉を交わしつつ、いつも通りに政務をこなしていく。すると、不意にアルフレッドが顔を上げた。
「ふむ……なにやら表が騒がしいのう」
アルフレッドがそう呟き、その声を聞いた志信は机に山と積まれた書類を捌く手を止めて顔を上げる。
「たしかに、何やら声が聞こえますね」
二人は互いに顔を見合わせ、首を捻った。何か起きたのだろうかと志信は腰を浮かしかけるが、複数の気配が徐々に近づいてくるのを感じ取って腰を下ろす。
「この情勢じゃし、他国の回し者でも捕まえたのかのう」
「諜報も防諜も、まだまだ不十分ですしね。その辺りも義人が手を回してはいたのですが、失踪以来現状維持が精一杯でして……」
そう言って、志信は小さく息を吐く。
“こちらの世界”でも情報が重要な要素であることに変わりはない。しかし、現代と違って情報の入手手段が限られており、その精度にも大きな粗があった。
いっそのこと、義人が冗談で言っていた通りに近衛隊を忍者のような存在に仕立て上げようかと志信が疲れた頭で考えていると、不意に、聞き覚えのある声が耳に入ってくる。
「だ、か、ら! 志信やカグラはどこにいるんだよ!? あ、ここ? って、俺の政務室じゃないか!?」
聞き覚えのある、知り合ってからは毎日のように聞いていた親友の声。その声を聞いた志信は驚きの表情を浮かべると、すぐにその表情を崩して苦笑を浮かべ、肩の力を抜いて椅子に深く腰掛けた。
「この声は……」
扉越しに聞こえてきた声に、アルフレッドが呆然としたような声を出す。しかし、すぐに気を取り直したのか椅子から立ち上がり、扉の方へと向かっていく。そんなアルフレッドの背中を見ながら、志信は大きく息を吐いた。
「“やはり”、戻ってきてしまったのか……」
小さく呟き、志信はゆっくりと椅子から立ち上がる。すると、それに合わせたかのように執務室の扉が開き、背後にミーファを連れた義人が執務室へと入ってきた。それに続いてミーファや、志信にとってはある意味で初対面のノーレが入ってくる。
「……北城はどうした?」
ひとまず、気にかかったことを志信が尋ねた。義人が“こちらの世界”に戻ってくるなら、優希も一緒だと思ったからだ。
「ああ、優希ならちょっと眠っててな。小雪と一緒に部屋で休ませてるよ」
その問いに義人が答えると、志信はノーレへと視線を向ける。
「そちらの人は? なにやら、体が透けているが……」
「……いや、透けていることには驚こうぜ志信。まあ、なんと説明したら良いか……こいつはノーレだよ」
義人がノーレの名を呼ぶと、ノーレが一歩前に出て胸を張る。
「久しいのう、仏頂面。と言うても、前に会ったときは剣の姿じゃが」
そんなノーレの姿を見た志信は、僅かに目を細めて苦笑を漏らす。
「女性……いや、女の子だったとはな。声は聞いていたのだが……」
「お主も失礼な奴じゃな」
志信の言葉に、ノーレは腕を組んでそっぽを向く。そんなノーレの姿に苦笑を深め、志信はミーファへと目を向けた。
「それで、義人達はどこにいたんだ?」
職務中だからか、義人が傍にいるからか、ミーファは背筋を正して口を開く。
「ここ、王都フォレスから一時間ほどのところにある、例の亀裂がある場所よ。ヨシト王しか知り得ないようなことを知っていたから、本人だと判断してお連れしたわ。わたしは偽者ではないと思っているのだけど……」
「偽者? いや、“この義人”は本物だろう?」
ミーファの疑念に、志信は即答する。何者かが化けているわけでもなく、魔法人形というわけでもない。志信の目から見れば、眼前の義人は本人以外有り得なかった。
「なんだよ? さっきもミーファが偽者がどうとか言っていたけど、俺が“元の世界”に戻っている間に俺の偽者でも出たのか?」
「いや、そうではないが……」
何か言い難いことでもあるのか、言いよどむ志信。その姿を珍しく思いながら、義人は首を傾げた。
「そういえば、カグラはどこにいるんだ? ここにアルフレッドがいるっていうのも妙な話だろ?」
「ふむ、儂としても自分の執務室で仕事を片付けた方が効率は良いのじゃがのう……」
顎に手を当て、アルフレッドは視線を宙に向ける。その隣で志信はしばらく言葉を探していたが、適切に説明することが難しかったのだろう。一度首を振ると、僅かに目を伏せた。
「……直接見た方が早いか」
小さな呟き声に含まれていたのは、後悔と諦観。志信がそんな声を漏らすのが珍しくて、義人は心底から首を傾げる。
「休憩は必要か?」
その問いに、義人は僅かに考えて首を横に振った。
たしかに長時間戦い続けた挙句、巨大な獅子の魔物を倒し、その足で“こちらの世界”に戻ってきたのだ。さらにそこから一時間近く走り続けたこともあって体の疲労は限界に近い。『強化』がなければ既に倒れていただろう。しかし、今はそれよりも優先するべきことがあった。
「あー……正直休みたいところだけど、今は現状の確認の方が大事だな」
義人はそう言うと、志信から視線を外して机の上に積まれた大量の書類に視線を向けた。
「うわぁ……また見たくないものが山積みになってる……」
「すまん。減るよりも増える方が早くてな」
その点については、志信としても頭を下げるしかない。古い案件を捌くよりも新しい案件の書類が来る方が早く、山と積まれた書類を減らすことができなかったのだ。
「まあ、それは追々俺が片付けるさ。カグラにも手伝ってもらわないとな……」
まずは、“元の世界”に戻る直前に怒鳴りつけたことを謝罪しなければならない。そして、例の亀裂を塞ぐために手を借りなければならないだろう。山と積まれた政務の片づけも手伝ってもらわないといけない。
―――うん、土下座でもしますかね。
頭一つ下げるだけで許してもらえるなら安いものだと、前向きに微妙に情けないことを考える義人。
志信はそんな義人に何か言いたげな顔をしていたが、それを飲み込むとカグラの部屋に向かって歩き出すのだった。
「こっちはカグラの私室がある方だよな? なんだ、カグラは風邪でも引いているのか?」
執務室にアルフレッドを残し、義人は志信やミーファ、ノーレと共にカグラの部屋へと向かっていく。義人と同じように不思議そうな顔をしているのはノーレだけで、志信とミーファは互いに顔を見合わせると、どこか気まずそうに目を伏せる。
「そういえば、サクラの姿も見えないな……城の中の雰囲気も変だし」
以前義人がいた時には感じられなかった、妙な違和感が城の中にある。ギスギスしているというか、どこか空気が帯電しているような嫌な感覚。
“元の世界”に戻っている間に何が起きたのかと内心でも首を傾げる義人だが、答えは出ない。国王付きのメイドであるサクラの姿が見えないのも違和感の一因である。
「カグラについては……容態を見てから、詳しく説明する」
「……は? 容態?」
どこか不穏な響きのある志信の台詞に、義人は目を丸くした。本当に風邪を引いたのか、それともそれ以上に重い病気に罹っているのか、疲れた頭を回転させて義人は考える。だが、あまりにも情報が足りないため、すぐに結論付けるのを諦めた。
そうやって義人が考え事をしていると、カグラの私室の傍までたどり着く。扉の両脇には兵士が二人立っており、油断なく外敵の侵入を拒んでいるようだった。
「あれ? カグラの部屋って護衛の兵士をつけてたっけ?」
油断ない立ち振る舞いや、腰に刀を差しているところを見ると魔法剣士隊の兵士なのだろう。ミーファや志信、そして義人の顔を見ると、驚愕の表情を浮かべて駆け寄ってくる。
「ヨ、ヨシト王!?」
「ほ、本物ですかっ!?」
膝をつき、困惑と驚愕の眼差しで見上げてくる兵士二人に、義人は再度首を傾げた。
「やっぱり俺の偽者でも出たのか?」
「い、いえ、それは、その……」
兵士二人の反応に、義人は首を傾げたままで思考を回転させる。しかし、回答を導くよりも早く、その答えが自らやったくるのだった。
――ガチャリという音と立てて、カグラの部屋の扉が開く。
そして出てきたのは―――人形だった。
人形は丁寧な手つきで扉を閉めると、見張りの兵士がいないことを不思議に思ったのか周囲に視線を向ける。そして義人の顔を見ると、気さくに右手を挙げた。
「よう、俺」
「…………」
自分と瓜二つな顔から声をかけられ、義人は思わず沈黙した。人形はそんな義人の反応に何も思わなかったのか、そのまま義人達の方へと歩き出す。
徐々に近づいてくる人形の姿を見た義人は無言のまま拳を握りこむと、とりあえずといった風情で正拳突きを入れた。
「―――って、誰だお前は!?」
「ぐはっ!?」
問答無用で拳を叩きこまれ、人形が後ろへと転がる。
「む、良い突きだ」
何やら頷く志信。踏み込み、体の捻り、体重の移動、それらが無駄に整った一撃だった。義人は拳を振り抜いた体勢で固まっていたが、志信の声を聞いてすぐさま再起動する。
「―――はっ!? いきなり同じ顔の生き物が出てきたんで、つい殴ってしまった……」
義人は我に返って自身の握り拳を開くと、廊下に倒れた自分とそっくりな人形へ視線を向けた。
「……で、なにコイツ……って、魔法人形か?」
「ああ……もういいぞ、『戻れ』」
志信がそう言うと、地面に転がっていた人形は一度肩を竦めてから元の木製人形の姿へ戻る。志信は元に戻った人形を拾い上げると、無言でポケットに入れた。
義人はカグラの部屋から自分の姿を真似た魔法人形出てきたその意味を考え、頬を引きつらせる。
「まさか、俺が本物か疑われたのって……」
義人の疑問に、志信は頷くことで応える。それを見た義人は額に手を当てると、視線を宙に向けた。
「なるほどな……でも、そうなるとなんで俺のコピーなんかを使ったのか―――」
「ヨシト様? 今、変な音がしませんでしたか?」
再び扉が開き、今度はサクラが部屋の外へと出てくる。扉を閉め、そして、廊下に立つ義人の顔を見て目を瞬かせた。
「ヨ、シト……様?」
呆然と呟くサクラ。一体何があったのか、義人が最後に見たサクラの表情に比べれば明るさが欠けており、不眠症にでもかかったのか目の下には薄っすらとクマが出来ている。義人は僅かに戸惑ったものの、頭を掻いてから右手を上げた。
「あー……久しぶり、サクラ。帰ってきたよ」
自分の姿を真似た魔法人形や、志信の言葉。そしてサクラの今の姿を見れば、嫌な予感が湧き上がってくる。それでも義人は表情に不安を浮かべないようにしていると、サクラがゆっくりと義人の元へと歩み寄ってきた。
「本当に……ヨシト様、なんですね?」
「ああ。いきなりいなくなってごめんな。迷惑をかけた」
「い、いえっ! そんな……でも、これでカグラ様も……」
「……サクラ?」
最後に何かを言いかけ、そこで言葉が途切れる。すると義人が疑問に思う間もなく、ゆっくりとサクラの体が傾き始めた。慌てて義人が抱き留めるが、気を失っているのかサクラからの反応はない。義人はサクラが呼吸していることを確認すると、小さく息を吐く。
「なんなんだ、一体……」
「義人の顔を見て、緊張の糸が切れたのだろう。心苦しかったが、最近心労が溜まっていたようでな」
「つまり、今のカグラはサクラに心労が溜まるような容態なんだな?」
ため息混じりに呟き、義人は腕に抱いていたサクラを護衛の女性兵士に渡す。
「悪いけど、サクラを部屋に連れて行って寝かしてやってくれるか」
「はっ! 了解しました!」
横抱きにサクラを持ち上げ、一礼してから去っていく女性兵士の背中を見送る。それから義人は一度だけ深呼吸すると、カグラの私室の扉に手をかけた。
――正直なところ、開けたくない。
一体何が起きたのか、カグラの身に何があったのか。それらを志信の言葉やサクラの様子、魔法人形を使って自分自身の姿を真似させていた点から推測すると、希望的観測を抱くこともできない。そのため義人は再度深呼吸をすると、ゆっくりと扉を開いていく。そしてカグラの私室に入ると、ベッドの上で身を起こしているカグラが目に入った。
扉が開く音に気付いたのだろう、カグラが不思議そうな顔で扉の方―――義人の方へと視線を向ける。
―――なんだ、元気そうじゃないか。
視線を向けてきたカグラに、義人は内心で安堵の息を吐く。ベッドの上で身を起こすことができ、顔色も悪くない。少なくとも、命に関わる事態ではないらしい。
あまりにも周囲の様子がおかしいため、カグラが危篤の状態になっていることすら覚悟した義人だったが、良い意味で肩透かしを食らったようだ。
そう思い、カグラに声をかけようとした義人だったが、
「―――サクラ? 何かあったんですか?」
そんな、カグラの言葉に思わず動きを止めた。そして、義人はその時点になって気付く。
―――俺を、見ていない?
義人の方を見ているカグラではあるが、その視線は僅かにずれている。
「っ!?」
その事実に、背中に氷でも差し込まれたように義人は戦慄した。
「か、カグラ?」
絞り出すように、義人はカグラの名を呼ぶ。すると、カグラは不思議そうな表情を崩し、花が咲くような笑みを浮かべた。
「ヨシト様でしたか。どうしたんです? 執務室に戻るのではなかったのですか?」
頬に手を当て、それが当然とばかりに笑顔を浮かべるカグラ。負の感情など見えない、綺麗な笑みで、義人がいる方向へと顔を向けてくる。
「あ、ああ、そうなんだけど、ちょっとカグラの顔が見たくなってな……」
なんとか言葉を濁す義人だが、それを疑問も思わなかったのだろう。カグラは義人の言葉を聞くと、心底から嬉しそうに笑みを浮かべる。
「ふふっ、おかしなヨシト様。先ほどまでご一緒だったではないですか」
そこまで言うと、カグラは一度言葉を切って無邪気な、しかしどこか艶を感じさせる笑みを浮かべた。
「もちろん、ヨシト様にそう言っていただけるのは嬉しいですけどね」
「そ、そっかー……あはは。それじゃあ、俺は執務室に戻るよ」
「はい。次にいらっしゃるのをお待ちしていますね」
無理矢理に誤魔化し、義人はカグラの部屋を後にする。そして廊下に立っていた志信に声をかけることなく執務室に戻ると、椅子に腰を掛け、頭を抱えてから口を開いた。
「―――で、何があったんだ?」
頭を抱えたままで義人が尋ねる。その質問を聞いた志信は、執務室に控えていたメイドにお茶を頼むと、義人と同じように椅子に腰かけた。
「長くなる……が、話さないわけにもいかんな」
メイドが淹れたお茶で唇を湿らせ、志信は頭を抱える義人へ真っ直ぐな視線を向ける。そして、義人が姿を消してからの出来事を話し始めるのだった。