第百五十一話:帰還
黒い亀裂に飲み込まれた義人が最初に思ったことは、『何も見えない』という一言に尽きる。人工的な暗闇とは違い、目が慣れた状態でいくら目を凝らしても何も見えず、何も聞こえない。
上下左右、方向すらわからない状態で義人は優希と小雪の二人と手をつなぎ、離してしまわないよう強く握り締める。『召喚』を体験するのは三回目だからか、それともあらかじめ覚悟を決めていたからか、意識を失うこともない。
―――ちゃんと“向こうの世界”に戻れれば良いけど……。
優希のことを信頼してはいるが、そう思ってしまう。すると、つないだ優希の手から不意に力が抜けたことを義人は感じ取った。
一体何事かと義人が優希の方へ視線を向けようとするが、それよりも早く、それまで包まれていた暗闇が霧散する。その切り替わりの突然さは、まるでスイッチで切り替えたかのようだった。それと同時に、義人は周囲の光景を見て驚愕する。
無事に“向こうの世界”へ戻れればと思っていた。そんなことを考えていた義人は、それ故に反応するのが遅れてしまう。召喚の祭壇から“元の世界”に戻ったのだから、“向こうの世界”に戻る時も召喚の祭壇に戻るのでは、という考えが無意識にあったのだろう。
視界に映ったのは、木の幹から張り出た枝。場所は森か林の中なのだろう。周囲にも木が生えており、濃い緑の匂いがする。だが、問題は“足場”がないことだろう。
――暗闇を抜けたと思ったら、空中に放り出されていたのだ。
落下するような浮遊感があったのは、僅かな時間だけだった。義人は咄嗟に優希と小雪を抱き寄せると、『強化』をかけて着地しようとする―――が、できたのは、優希と小雪を抱き寄せるところまでだった。
「ごふっ!?」
空中の亀裂から落下し、強かに背中を打ち付けた義人は思わず悲鳴を上げる。そんな義人の姿を見て、それでも優希と小雪を離さなかったのは褒めるべきか、それとも助けるのが間に合わなかったことを詫びるべきか悩みながら、ノーレも地面へと降り立った。
「が……いってぇ……」
「おとーさん、だいじょーぶ!?」
義人に抱き寄せられていた小雪が慌てて起き上がり、義人に『治癒』をかけ始める。義人はそんな小雪に礼を言おうとするが、それよりも早く慌ただしい足音が近づいてくることに気付いた。
「何者だ!?」
木々をかき分けるようにして姿を見せたのは、複数の兵士だった。動きを妨げない程度の防具に、腰に差した刀が印象的である。その姿に見覚えがあった義人は、痛みを忘れたように身を起こした。
「さすが優希、成功だ! ……って、おい、優希?」
「気を失っておるようじゃな」
腕の中で意識を失っている優希を見て、義人は心配の色を顔に浮かべる。やはり『召喚』の負荷が大きかったのかと考えるが、そんな義人の思考を遮るように兵士が声を上げた。
「もう一度問うぞ。貴様らは何者だ?」
そう言いつつ、兵士達は義人達の周囲を囲むように陣形を整え、刀の柄に手を這わせる。それを見た義人は眉を寄せた。末端の兵士ともなるべく顔を合わせるようにしていたが、覚えていないのか。それとも今までいなかった人物――ノーレがいるからだろうか。兵士達の警戒の色は濃い。
「何者って……俺を忘れたのかよ。というか、もしかして“こちらの世界”では時間が早く流れているなんてことはないよな?」
“こちらの世界”から“元の世界”に戻った際は時間の流れも同じだと感じていたが、まさか違うのかと義人は首を傾げる。それで忘れられてしまったのかと、そう不安に思う義人だが、遠くから兵士を伴ってこちらへと駆けてくる人物を見て表情を和らげた。
「何事だ……よ、ヨシト王!?」
義人達を囲む兵士の声を聞いて様子を見に来たのだろう。複数の兵士を伴ったその場に現れたのはミーファだった。
「ミーファか。良かった、話が通じそうな―――」
言いかけて、義人は口を閉ざす。何故なら、ミーファも他の兵士達と同じように刀の柄に手をかけたためだ。そんなミーファの様子に、義人は困惑する。
「ど、どうしたんだよミーファ。そんなおっかない顔をして……」
―――何か怒らせるようなことをしたっけ……って、そりゃ国王がいきなりいなくなれば困惑もするし、怒りもするか。
それらしい理由を見つけ、義人は小さく頭を下げた。
「ごめんミーファ。いきなり消えたことについては謝るよ。でも、それは事故みたいなもので―――」
「いくつか、質問に答えていただきたい」
ひとまず謝罪をと頭を下げた義人を、ミーファが感情の見えない声で遮る。続いてミーファは腰の刀を抜くと、油断なく正眼に構えた。
抜身の刀を向けられ、義人は眉を寄せる。
「お、おいおい、物騒だな……」
念のためにとノーレに手を伸ばす義人だが、すぐにその手を止めた。ノーレの刀身は折れており、その破片は人型のノーレが姿を見せると同時に消失している。つまり、今の義人は戦うとしても素手か魔法で戦うしかないのだ。幸いと言うべきか、“こちらの世界”に戻るなり『強化』を使ったかのように体が軽く感じられる。この状態で『強化』を使えば、素手でもそれなりの強さを発揮できるだろう―――ミーファに敵うべくもないが。
それでも、義人の傍には小雪とノーレがいる。もしもミーファが襲いかかってきても、対応することは十分に可能だった。
「……それで、質問ってのは?」
気を落ち着かせ、義人は尋ねる。すると、ミーファは僅かに考え込んでから口を開いた。
「今までどこにいたのか、教えてもらえますか?」
「“元の世界”だよ。あー……俺や優希、志信が元々いた世界な」
「ふむ……しかし、『召喚』を使える者は一人だけです。どうやって“元の世界”へ行かれたのですか?」
「カグラの手は借りてないよ。でも、優希も『召喚』……まあ、ノーレ曰くでかい魔力でのごり押しらしいんだけど、それで『召喚』みたいなことができたんだ」
義人がそう言うと、ミーファは気を失った優希、何故ミーファが険しい表情をしているかわからないのだろう、不思議そうな顔で首を傾げる小雪、そして、義人を庇うように立つノーレへ視線を向ける。
「彼女は?」
「……なんとも説明が難しいんだけど、ノーレだよ。剣が折れたら出てきた」
「……は?」
信じられないと言わんばかりに、ミーファは首を傾げた。義人もその気持ちがわかったため、もっともらしく頷く。
「ミーファの気持ちもわかるけど、本当なんだ。“向こうの世界”に魔物が現れてさ。それらと戦っている時に折れた……折ってしまったんだ」
「“向こうの世界”に、魔物?」
「ああ。多分、あの亀裂を通ってきたんだろうな」
そう言いつつ、義人は空中の亀裂を指差す。その言葉を聞いたミーファは周囲の兵士と目配せを交わした。
「たしかに、魔物が亀裂の中に入ったのではないかという報告がシアラ隊長からありました」
「では、本物?」
兵士達が言葉を交わし、ミーファへ視線を向ける。この隊の隊長はミーファだ。判断するのはミーファの役割である。
「“本物”かもしれない……が、その可能性は低いだろう。カグラ以外に『召喚』を使える者がいるとは思えん。“アレ”と同じように“偽者”の可能性の方が高い」
しかし、ミーファは首を横に振った。カグラのことを良く知るだけに、彼女と同様に『召喚』ができる者がいるとは思えなかったのである。だが、この場で偽者だと断じて斬るわけにもいかない。
眼前の義人達が他国……最悪自国の人間の策略だとすれば、それに対応するための検討が必要になる。姿を似せるだけなら魔法人形を使えば良く、知識は“それらしいこと”をでっち上げれば良い。なにせ、“向こうの世界”のことなど確かめようがないのだ。
周囲を囲む兵士達の気配が変わったことを感じ取ったのだろう、義人が慌てて口を開く。
「お、俺達が本物であることを証明すれば良いんだな?」
「……それが可能であるなら」
油断なく刀を構えつつ、ミーファが答える。それを聞いた義人は、すぐさま思考を回転させた。
この場で義人達が本物であることを証明する方法は、非常に少ない。国王の証明であるノーレは折れており、王印は今頃執務室で埃を被っているだろう。それでも義人がすぐさま思いついたことは、小雪を“元の姿”に戻すことだった。白龍は非常に希少な種族のため、偽るのは難しいだろう。しかし、これはすぐに却下する。
優希が言うには羞恥心が芽生えている小雪に、『この場で服を脱いで元の姿に戻ってくれ』などとは言えるはずもなかった。父親として、言いたくなかった。さらに言えば、周りを囲んでいる男の兵士に、そんな小雪の姿を見せたくなかったのである。かといって、物陰に行かせてくれと言っても取り合ってもらえないだろう。
「城に戻れば王印があるからそれで一発なんだろうけど……疑いが晴れないままでそんな重要な物に触らせてくれないよな?」
義人がそう尋ねると、ミーファは無言で首肯する。そんなミーファに、義人は頬を掻いてみせた。そうなると、残る手は一つしかない。
「俺達が“本物”である証拠ねぇ……志信がいれば一発で証明できるんだけど」
そう言うと、僅かにミーファの表情が動く。
「それは、どうやって?」
「志信の祖父の名前、住んでいた町の名前、クラスメートの名前、担任の教師の名前……色々と話せるぞ? なんならこの場でその名前を書くから、志信に見せてくれ」
義人の言うことが本当ならば、それはたしかに証拠になるだろう。『クラスメート』というものが何を指すのかわからなかったが、そう判断したミーファは、今しがた義人が挙げた中で答えを知っているものを問う。
「……では、シノブの祖父の名前は?」
「藤倉源蔵」
過去にその名前を聞いたことがあるミーファは、内心で一つ頷く。確かにその名前は志信の祖父の名前である。そして、その名前を知る者はカーリア国でもほとんどいないだろう。そう考えながら、ミーファは小雪に視線を向けた。
白龍である小雪の替え玉を見つけるのは至難の業だ。白龍を見つけて飼い慣らし、人の姿に変化する術を教え、カーリア国の人間を騙す。そんな手間を割くぐらいなら、最初から白龍を使って襲った方が早い。
義人達の様子や話す内容、それらを踏まえ、眼前の義人達が偽者だった場合の危険性を考える。
本当に偽者だとして、その意図はなんだろうか。こんな辺鄙な場所に姿を見せ、ミーファ達にすぐ捕まることに何の意味があるのか。下手をすればその場で斬られ、王都に連行されたとしても厳重な監視がつく。そこまでしてミーファ達を騙す理由は見つからない。
ミーファは少しの間熟考すると、眼前の義人達が本物である可能性の方が高いと結論付けた。義人達が本物であるならば、これ以上喜ぶべきこともない。刀を鞘に納めると、膝をついて頭を下げる。
「大変失礼しました、ヨシト王。そして、お帰りをお待ちしていました」
頭を下げたミーファを見て、義人は安堵の息を吐く。
「わかってもらえたか……って、こんなことをしてる場合じゃなかった。現状はどうなってる?」
立ち上がってから優希を背負い、そう尋ねる義人。その問いを聞いたミーファは、困ったように眉を寄せた。
「何から報告すれば良いものか……まずは城に戻っていただいたほうが話は早いかと」
ミーファがそう言うと、義人はその案に同意して頷く。続いて、警戒を解いた兵士達に視線を向けた。
「これはお願いじゃなくて命令なんだけど……絶対にこの亀裂に魔物を通さないでくれ。詳しいことは省くけど、この亀裂を通った魔物が“向こうの世界”に来たんだ」
「先ほどの話にもありましたが……了解しました。他の場所で警戒に当たっている者達にもそう伝えます」
そう言って、義人の命令を聞いたミーファが部下達に指示を出し始める。しかし、それを聞いた義人は首を捻った。
「……え? この亀裂って何ヶ所もあるのか?」
「はい。現状把握しているだけでも二十ヶ所近くあります」
二十ヶ所と聞いた義人は、思わず額に手を当てた。そして、なんとか気を取り直して口を開く。
「し、仕方ない。それなら他の場所にいる兵士に伝令。絶対に亀裂に魔物を通すなと伝えてくれ」
想像以上の事態である。“こちらの世界”から姿を消した三ヶ月弱で一体何が起きたのかと、義人は困惑した。
「それと、カグラは今どこにいる? 城か? カグラならどうにかできるんじゃないのか?」
一通り指示を出してからそう尋ねると、ミーファは気まずそうに視線を逸らす。
「カグラは、その、城にいますが……」
歯切れ悪く答えるミーファを不思議に思いつつ、義人は言葉の先を促す。ミーファは言葉を探していたが、上手く伝える言葉が見つからなかったのだろう。僅かに肩を落として首を横に振る。そんなミーファの様子を見て、義人は質問を変える。
「とりあえず、城に戻ればわかるんだな? なら、ここはどこだ? 城の近くか?」
ミーファから現在位置を確認し、義人は額を指で軽く叩く。
幸いと言うべきか、王都フォレスからはそこまで遠くない。馬に乗るか、『強化』を使って走れば一時間程度で到着できるだろう。優希を背負った状態でも、二時間あれば到着できる。しかし、今は少しでも時間が惜しいため、義人は小雪に視線を向けた。
「小雪」
「うん、わかってる」
義人の意図を汲んだのか、小雪が物陰へと姿を消す。そして、二分ほど経つと白龍の姿で物陰から出てきた。
『じゃあ、おかーさんはこゆきがせおっていくね』
口に咥えたリュックを義人に渡し、代わりに優希を背中に乗せる小雪。そんな義人の行動を見たミーファは、小雪が元の姿に戻ったのもあって心底から安堵した。
「本当にヨシト王だったか……城に戻るのであれば、お供いたします」
「じゃあ、走っていくから道案内を頼むよ」
「了解しました。馬があれば良かったのですが……」
魔法剣士隊は移動するのに馬を使わないため、この場に馬はいない。それを知っている義人は首を横に振った。
「時間がないから良いさ」
短くそう言うと、義人はノーレに目を向ける。
「ノーレはどうする?」
「それならば、妾は小雪の背に乗っていくかのう」
走りたくないのか、ノーレがそう言う。すると、小雪は小さく眉を寄せる。
『……こゆき、おもいのやだ』
「重くないわっ!」
小雪の発言に突っ込みを入れるノーレに小さく笑い、義人は城に向けて駆け出すのだった。