第百四十九話:王剣
睥睨する獅子の魔物を前に、義人は冷や汗が流れるのを止められないでいた。
相手はそれまでに倒した魔物とは比べ物にならないほどの威圧感を放っており、その巨躯と異形さは恐怖心を煽る。それに加えて、義人自身の状態も問題だった。
義人が戦い始めて既に二時間近く。全身に疲労が溜まっており、武器の状態も悪い。長時間を経て蓄積された疲労はいくら『強化』を使っていても無視できず、元々の体調も快調とは言えなかった。底はまだ見えないものの魔力も多少なり消費しており、全力で戦えばすぐに底をつくだろう。
「……さーて、どうするかな」
乾いた唇を舐め、義人が呟く。
『逃げるのも一つの手じゃが……』
囁くようにノーレが言うが、それは下策と言えた。この場から逃げたとしても、眼前の獅子はいずれ倒す必要がある。
下級の魔物ならばともかく、これほど強力な魔物が相手では自衛隊クラスの装備がなければ倒せない。そして、仮にこの魔物が街に下りれば、自衛隊が到着するよりも先に多くの人間をその歯牙にかけるだろう。
―――小雪に全力で魔法を撃ち込んでもらう……駄目だ。通じるかわからないし、通じるぐらいの強い魔法を撃つのは時間がかかる。それに、優希が危険な目に遭うかもしれないしな。
小雪からの攻撃を僅かに思案し、内心で否定する。攻撃力の点で言えば義人を遥かに上回るが、当の小雪は今も空飛ぶ魔物達と空中戦を繰り広げている。援護程度ならばまだしも、全力で魔法を撃つのは隙が大きい。魔力を溜めている間に攻撃を受ける可能性もある。
『ヨシト、どうする?』
逃げるか、戦うか。その選択を促すノーレに、義人は意識して口元を釣り上げた。
「冗談……こいつは、“向こうの世界”に戻るための最後の壁だろ? ゲームで言えば中ボスだ。逃げるなんて選択肢はないさ」
軽口を叩きながら、義人はノーレを握り直す。そして集中が途切れたために解けていた『強化』をかけ直すと、ゆっくりとノーレを構えた。
そんな義人の様子から戦意を煽られたのだろう。獅子の魔物が地面を踏み鳴らし、威嚇の唸り声を上げ始める。
―――おっかねぇ……けど、勝たないとな。
相手が人間ではないため、あえて大きく深呼吸をして硬直していた体を適度に脱力させていく。人間同士の立ち合いのように、呼吸の読み合いなどしないだろう。そう判断した義人だったが、すぐさまその考えを改めることになった。
「ガアアアアアアアァァァァァッ!」
先に動いたのは、獅子の魔物だった。義人が息を吸い始めると同時に地を蹴り、巨体を揺らしながら突進してくる。
「嘘だろっ!?」
それは獣の勘か、それとも本当に義人の呼吸を読んだのか。予想を覆すように疾駆し、義人を間合いに捉えると前肢を横薙ぎに振るう。義人は咄嗟に背後へと跳躍して獅子の爪を避けると、自身の胴体ほどある木を背中に背負いながらノーレを構え直そうとする。
「くっ!?」
しかし、獅子はそんな暇を与えない。義人が前肢の爪を回避したと見るや、身を翻して鞭のような三本の尾を繰り出してくる。だが、その三本の尾を鞭と言うには少し難があるだろう。当たれば蚯蚓腫れになるどころか、当たった部分をそのまま圧し折りかねない威力は鞭どころの騒ぎではない。
義人は真上に跳躍することで尾を避けるが、それすらも見越していたのか獅子はすぐさま振り返って前肢を義人へと叩きつける。黒い外殻に覆われたその肢体は、一体どれほどの硬度があるのか。義人は自身が潰れたトマトのように叩き潰される姿を幻視し、無我夢中で背後の木を蹴りつけて体をさらに上へと逃がす。
――轟音。
獅子が叩きつけた前肢は義人を捉えることなく、その後ろにあった立ち木を中ほどから圧し折った。
乾燥しやすい冬とはいえ、地に生えた生木を圧し折る威力に義人はぞっとする。そして、それと同時に勝機を悟ってノーレを振り上げた。
木を蹴って獅子の頭上へと逃れた義人は、前肢を振り切った状態で動きを止めている獅子へとノーレを振り下す。狙いは、魔物だろうと確実に急所になる脳天。一刀の元に叩き斬らんと義人は斬撃を繰り出し―――更なる驚愕に目を見開くことになった。
獅子は硬直していた体を動かすことなく、首だけ動かして義人の斬撃を額の角で受け止めたのだ。一歩間違えば受け損ねて傷を負いかねないが、獅子は迷うことなく剣を受けることを選択し、それを違えることなる実現させる。
なんだそれは、と罵倒する余裕もなく、義人は思考を停止させた。そして、ノーレを受け止められたことで体が宙に浮いたままの義人へと双頭のもう片方が二本の角を向ける。
パチッという、何かが弾ける音。無意識の内に義人が視線を向けて見れば、二本角の間で弾けるように発光する紫電の輝きが目に映った。
『ヨシト!』
ノーレが自分の意思で風魔法を発動させ、義人の体を風で強制的に弾き飛ばす。それと同時に一条の電光が迸り、それまで義人がいた場所を容赦なく撃ち抜いた。
義人は枯葉のように回転しながら地面へと落下するが、ノーレが再び風魔法を発動させて着地の衝撃を殺す。
『呆けていては死ぬぞ!』
「あ、ああ……助かったよノーレ」
己の無事を実感する暇もなく、義人は跳ね起きる。そして獅子から一定の距離を取ると、その段になって自分が死を免れたことを実感した。
「くそ……なんだよ、こいつ……」
ノーレを強く握り締めることで膝が震えそうになるのを堪え、義人は一人毒づく。
動きは早く、鋭く、的確。人体では有り得ない角度からの攻撃に、雷魔法。獣と言うには賢しく、まるで“戦い方”を熟知しているかのようだ。
『それなりに知能があるんじゃろう。獣としての本能に、最適手を打つ理性……厄介じゃな。言葉が通じればまだ色々と手段が取れるんじゃが』
構えを崩さないままでノーレと言葉を交わすが、打開策はない。こうなれば魔力をすべて消費してでも全力で攻撃するべきかと義人は逡巡するが、それよりも早く獅子に動きがあった。
不意に、獅子は二つ首を巡らせて宙へと視線を向ける。それに釣られて義人も視線を向けてみると、優希を背に乗せた小雪が一直線に義人達の方へと向かってきていた。その背後には二匹ほど鳥の魔物が追尾しているが、義人の不利を見て救援を優先したのだろう。
小雪は口を開け、その先に一メートルサイズの火球を発生させる。そして小雪は優希を振り落さないよう注意しつつ、周囲を飛び回りながら巨大な火球を撃ち出す。それを見た獅子は額の角に雷を発生させると、飛来する火球へと直線状に雷を放電した。
火球と雷がぶつかり合い、轟音を立てながら弾け飛ぶ。魔法の威力は魔力量が大きい小雪が優れていたのか、火球は弾けたものの熱波が発生して獅子へと押し寄せた。
それを見た義人は、震えと恐怖を抑え込んで地を蹴る。これは小雪が作った隙であり、勝利につながる勝機。僅かたりとも義人から意識を逸らした、その間隙を突く。
「おおおおおおぉぉっ!!」
踏み込み、気合と共にノーレを振るう。狙いは、獅子の右前脚。これほどの巨体を一撃で仕留めるのは難しいが、足の一本を奪えば機動力を一気に削ぐことができる。そう判断した義人は右前脚の付け根へと斬りつけ、
「か―――てぇっ!?」
甲高い音と共に、刀身が弾き返された。外殻のない足の付け根を狙った斬撃は、すぐさま引き上げられた外殻によって弾かれる。堅固な外見に違わず、斬りつけた感触は金属のようだった。
「く、そっ……っ!?」
弾かれた衝撃で手が痺れ、ノーレを取り落しそうになる。義人は慌ててノーレを掴み直すが、そんな義人の視界に動くものがあった。
無意識の内にそちらへ視線を向けて見れば、獅子の左前脚が薙ぎ払うように迫っている。狙いは当然義人であり、まともに食らえば殴殺されかねない一撃。ノーレを振るい、弾かれた直後を狙ったその一撃は魔物ながら称賛に値するだろう。避けるには体勢が悪く、獅子の攻撃は鋭い。故に、義人が選んだのは防御だった。
両刃剣の“腹”に手を当て、斜めに倒しながら攻撃の受け流しを試みる。多少なり幅があり、刀身に『強化』の術式を刻まれたノーレならば、下手な盾よりも強度があった―――が、この場では下策だった。
「がっ!?」
獅子の殴打を受け流すことはできず、義人はそのまま真横へ殴り飛ばされる。選択としては間違っていなかったかもしれないが、義人と獅子の間には歴然とした膂力の差があった。そのため、受け流すよりも先に体が宙に浮き、勢いをそのままに弾き飛ばされるこことなる。それでも攻撃を直に受けるよりもダメージは少なく、義人は吹き飛ばされながらも体を捻り、枯葉の積もった地面を滑るようにして着地した。
「は……つぅ……折れては、いないか……」
ノーレに添えていた右手を軽く開閉し、折れていないことを確認する。弾き飛ばされた際に木々に当たらなかったのは幸運だった。義人は距離が開いた状態で獅子へと向き直る。
『……戯けめ、下手な受け方をしよって』
自身の現状を確認する義人に、ノーレの声がかかった。そんなノーレに義人は謝罪の言葉をかけ、
「悪い、ノーレ……え?」
――ピシリと、手元から乾いた音が上がったのを義人は聞いた。
謝罪の言葉は、途中から疑問へと変わる。一体何の音かと、義人は獅子に対して隙を見せないよう最大限の注意を払いつつ、僅かな瞬間だけノーレの刀身に視線を走らせる。
「……っ!?」
ノーレの刀身に、ヒビが入っていた。
刀身の真横からの衝撃に、耐え切ることができなかったのか。刀身が僅かに歪み、刃金はひび割れて零れ落ちる。それでも完全に折れていないのは、『強化』の恩恵だろう。だが、それもかろうじて折れていないという程度で、少しでも揺らせばそれだけで折れかねない危うさがあった。
『強化』が施された刀身ではあるが、絶対不変というわけでもない。血脂に汚れれば切れ味も落ち、固いものを斬りつければ刃毀れもする。そして、元来刀剣は横からの衝撃に弱い。刀に比べればマシだろうが、それでも剣の強度にも限りがある。
『まったく……お主には、魔法ではなく剣の扱い方から教えるべきだったかのう……』
呆然とする義人に、ノーレは透き通るような声色でそう呟いた。まるで苦笑するように、仕方のない奴だと微笑むように、どこか遠くに語りかけるような口調だった。
「……の、ノーレ?」
その声色に不吉なものを感じたのか、義人が戸惑うように声をかける。その声を聞いたノーレは、この場に相応しくない穏やかな口調で言葉を紡ぐ。
『ほれ、前を向かんか。油断すれば、死ぬぞ?』
「あ、ああ……」
ノーレの言葉に、義人は前を向く。見れば、獅子はゆっくりと距離を詰め始めている。気付くのがあと少し遅れれば、危険だっただろう。
『ヨシト、こうなっては仕方ない。アレはコユキに相手をさせよ。お主はユキを守りつつ、コユキを補助して戦うんじゃ』
前を向いたものの、集中力が途切れてしまった義人へノーレが指示を出す。その指示の内容を理解した義人は、僅かに目を見開いた。
「小雪に?」
『うむ。妾がこの状態では、お主も戦えまい。だから、“お主が”魔法を使って小雪を補助して戦うんじゃ……よいな?』
「俺が? ……ノーレは、どうするんだよ?」
ノーレの落ち着いた声色に、義人は震える声で問いを投げる。動きが止まった義人をどう見たのか、獅子の魔物は飛びかかるべく姿勢を低くした。しかし、それを邪魔するように空から小雪が火球を撃ち出してくるため、真横へ跳んで義人から距離を取る。
『妾は……』
義人はそんな獅子と小雪の戦いを見ながら、ノーレの声を聞く。迷うように、それでいて何かを振り切るように、ノーレは言葉を紡いでいく。
『ここまで、かのう……さすがに、剣がこうなっては、な』
そう呟くノーレに、義人は再度刀身へ視線を落とす。ヒビが入り、折れかけの刀身。そして、ノーレはその折れかけの剣だ。折れればどうなるのか、想像するのは難しくない。
「“向こうの世界”に戻れば……」
『“今の時代”の技術では、無理じゃよ。少なくとも、カーリア国の魔法技術ではなおさらじゃ。あの巫女でさえ、妾のような存在は初めて見たと言っておった……まあ、それも仕方ないが』
最後は義人に聞こえない程度の声量で呟き、ノーレは言葉を切る。そして呆然と自身を見下ろす義人の表情を見て、苦笑にも似た気配を漏らした。
『まあ、なんじゃ……』
“この姿”になって、既に六百年。その長い時間も、大半は使い手がいなかったため眠っていたに等しいが、それでも最後に使い手に足る人物と出会うことができ、共に過ごすことができた。
故に、ノーレが口にしたのはどこか嬉しげな雰囲気が滲む声だった。
『―――お主の剣として振るわれる生活も、悪くなかった。それに、ノーレという名前も悪くなかった』
その言葉を最後に、かろうじてつながっていた刀身が音を立てて折れる。ゆっくりと、半ばで折れた刀身が地面へと落下し、軽い音を立てて地面へと刺さった。
「ノー……レ?」
死地にいることも忘れ、義人は折れた刀身をぼんやりと眺める。
――手に持った折れた剣から、聞き慣れた声が返ってくることはなかった。