第百四十七話:誓い
カチ、カチ、と壁時計の針が音を立てるのを耳にしながら、義人はリビングで自身の両親や優希の両親と向き合っていた。
仕事が終わって帰宅した両親達を呼び、リビングのテーブルを囲むようにして椅子に座るその光景は、ある種の詰問染みてもいる。テーブルから少し離れた場所に置かれたノーレも空気に飲まれているのか、一言も発しない。
義人はテーブルの上に置かれた湯呑から立ち上る湯気を意味もなく見つめ、一度だけ深呼吸すると、ゆっくりと口を開く。
「まず、忙しいところに集まってもらってありがとうございます」
そう言って義人が頭を下げると、優希の父親が首を傾げた。
「集まるのは別に良いんだけど……何か、あったのかい? 少し、思いつめた顔をしているよ?」
「はは……まあ、困った事態に直面してまして」
優希の父親にそう返し、義人は夕方に届いた夕刊をテーブルの上へと置く。“向こうの世界”へ戻るための荷造りが終わり、テレビなどで情報収集をしていた際に届いたのだ。そしてその文面に目を通して、義人は思わず天井を見上げる羽目になった。
「朝のニュースでも流れていたんですが、最近この近くで誰も見たことがないような生き物が出没している、というのは知っていますか?」
「それは、まあ……やけに大きな鳥が飛んでいた、という話は聞いたけど」
話が見えない、と言わんばかりに眉を寄せる優希の父親に、義人は夕刊を広げて地方欄を指す。そんな義人の動作に、両親達は義人が指す場所を覗きこんだ。
「なになに……野生の“大型犬と思われる生き物”が人を襲って軽傷? この記事がどうかしたのかい?」
「ニュースで言っていた鳥もそうですが、この“大型犬と思われる生き物”というのも……その、“向こうの世界”の生き物である可能性が高いんです」
「魔物、とか言っていた生き物のことかい?」
「はい」
義人が頷くと、両親達は互いに顔を見合わせる。
「なんだってそんな生き物が……」
「ええ、それが問題でして……俺達もよくわからないんです。でも、問題はそれだけじゃない。問題は、魔物が人を襲う点なんです」
そう言うと、義人の父親が眉を寄せた。
「朝に聞いたが、人を食料と見做して襲うんだよな?」
朝方に義人が説明した話を思い出しているのだろう。義人の父親は記憶を手繰るように視線を彷徨わせている。義人は父親に頷いて見せると、この場にいる面々へ視線を向けた。
優希や小雪は義人に任せているため大人しくしているが、両親達の反応は様々である。義人の言うことを疑っているわけではない。少女の姿をしているが、小雪という存在もいる。だが、その魔物が“こちらの世界”にいる点については現実味を感じていないようだった。
「昨日、俺達は実際に魔物が人を襲おうとしたところに居合わせました。その時は何とか間に合ったので、他人が襲われることはありませんでしたが……それでも、一歩間違えば怪我人が……いや、言い繕っても仕方がないか」
怪我人が、と口にしたところで義人は考えを改める。魔物がどれほど危険な生き物かを理解してもらうには、事実を話さなければならない。
「死人が出ていても、おかしくはなかったんです」
義人がそう言った瞬間、両親達の表情が強張ったものへと変化する。しかし、それは仕方がないことだろう。“こちらの世界”では、人死にに関わることなどそうあることではない。事件や事故に巻き込まれて人死にに関わることすら稀なのだ。
そんな平和な世界で生き続けた両親と、多少なりとも変わってしまった自身を無意識の内に比較して、義人は内心だけで苦笑した。そして、それと同時に“こちらの世界”で十七年間意識することなく過ごしていた“平和な時”に大きな感謝と、僅かな寂しさを覚える。
―――なくしてから初めて気付くもの、か。実感はしたくなかったけどな……。
呟くようにして、義人は平和の有難さを実感する。魔物という危険な生き物が現れたことによってそれを実感するのも嫌な話だが、愚痴を言っても始まらない。そこまで考えて、義人は小さく頭を振って意識を切り替える。
「だから俺は……いや、俺達は、もう一度“向こうの世界”に行って、魔物が“こちらの世界”に来ないようにしたいと思っています」
言葉を呑んでいた両親達にそう告げる義人。すると、今度は先ほどとは違った意味で両親達の表情が強張った。
「義人、お前……」
義人の父は、何事かを言おうとして口をつぐむ。義人の表情は真剣なものであり、その場の思いつきで言い出したものではないと気付いたのだろう。
それは、我が子ながらほとんど見たことがないような、張り詰めた表情だった。その義人の表情を見て、義人の父はああなるほど、と思う。“向こうの世界”で、曲がりなりにも国王を務めてきたその一端を垣間見た気分だった。
その様を一言で表すならば、『覚悟』だろうか。“こちらの世界”の住人の危険を少しでも減らすために、可能な限り魔物を倒してから“向こうの世界”へ戻るという危険を乗り越えるための覚悟。
義人の父は、義人の母へと無言で視線を向けた。すると、義人の母は困った子だと言わんばかりに苦笑する。
ようやく帰ってきたと思った我が子が再び見知らぬ―――世界すら違う場所へ行こうとしている。しかも、例え止めても聞かないだろう。そんな目をしている。
子供はいずれ親の手を離れるものだが、このような離れ方もどうだろうか。そんな愚痴の一つでも零したくなったが、義人の父はそれを飲み込んだ。何故なら、義人が説得しなければならないのは、自分達だけではない。
義人の父が視線を向けると、優希の父は腕を組むなり目を細めて義人へと話しかける。
「義人君、それは、君や優希がしなければならないことなのか?」
優希の父は、純粋な疑問を込めて尋ねた。危険だとわかっているのならば、それを承知で“向こうの世界”に行かせることは承服しかねるのだろう。
「“向こうの世界”には、その、魔法使いという人達がいるんだろう? その人達がどうにかしてくれないのかい?」
そう問われ、義人は首を横に振る。
「どうにかできそうな人に心当たりはあります……が、それも、“こちらの世界”に魔物が現れていると知らなければ、“どうにかする”ことすらないでしょう」
どうにかできそうな人とは、カグラのことだ。義人の知る限り最高の魔法使いにして、国王としては未熟極まりないその身を支えてくれた臣下でもある。しかし、そのカグラでも“こちらの世界”に魔物が来ているなど知りようもない。ならば、どうにかしようなどとは思わないだろう。すなわち、カグラにどうにかしてもらうとしても、“こちらの世界”の状況を知る人物が“向こうの世界”へ行く必要があった。
義人としては、カグラと顔を合わせるのは気まずい。しかし、“こちらの世界”に戻る前に起こした諍いについては謝罪をしたいとも思っている。怒りはしたが、カグラ個人については嫌いではないのだ。
僅かにカグラのことを考えた義人は、腕を組んだままの優希の父へと視線を向ける。
「それと、これはあまり考えたくないことなんですが……俺達が“こちらの世界”に来たことによって、魔物も“こちらの世界”に来た可能性もあるんです」
自分達が“こちらの世界”へ来てから、約二ヶ月で魔物も姿を見せるようになった。そう考えれば、自分達が原因である可能性もある。
“事実”を知らない義人は、そう自分に言い聞かせて口を開く。
「そう考えると、この事態を収拾する責任が“俺”にはあります」
俺達ではなく、俺にと義人は口にする。義人自身が“こちらの世界”に戻りたいと思ったために、優希がそれを叶えた。そして、それが原因で魔物が“こちらの世界”に来たのならば、その責任は自分自身が取るべきだという意思の表れである。
優希の父はそんな義人の言葉を吟味するように沈思すると、ゆっくりとため息を吐く。
「君は、魔物が危険な生き物だと言う。そして、その魔物が生息する“向こうの世界”も“こちらの世界”に比べれば危険だと言う。だというのに、“向こうの世界”に戻って魔物が“こちらの世界”に来ないようにすると、本気で言っているのかい?」
本気かと問われれば、本気だ。そのため、義人は迷いなく頷く。
「“向こうの世界”に戻るためには、優希の協力が必要……でも、そうなると、当然優希も“向こうの世界”に行くことになるんだよね?」
「……はい」
今度は、僅かな間を空けて頷く。
「“今回”のように、いつ戻ってこられるかもわからない。そうだね?」
「……はい」
念を押すように尋ねる優希の父に、義人は目を逸らさず答える。優希の父はそんな義人を真っ直ぐ見ていたが、すぐに首を横に振った。
「義人君、君や優希が“向こうの世界”に行ったのは、言わば召喚という“事故”に巻き込まれたからだ。それでも、君は優希を守って、世界を超えてでも戻ってきてくれた……でも、今回は違うだろう? 君は自分の意思で“向こうの世界”に行こうとしていて、優希をそれに巻き込もうとしている」
一息に告げ、優希の父は鋭い視線を義人へと向ける。
「親としては、納得できるものじゃない。ましてや、優希は大事な娘だ。一年近くも離れて、ようやく戻ってきてくれた、大切な娘だ。危険があるとわかっていて、快く送り出そうとは思えないよ」
そうして出てきたのは、否定の言葉。娘の身を案じた、親としての言葉だった。そして、その言葉に対して唱えるべき意見を、義人は持っていない。
「今ならまだ、君も優希も、“こちらの世界”で学生に戻ることもできる。一年留年することになるだろうけど、努力すれば人並みの生活を送ることもできるだろう」
そこで一度言葉を切ると、優希の父は座っていた椅子に背を預ける。
「学生として勉学に励み、卒業して、就職して、働いて、結婚して、幸せな家庭を作る……そんな、平凡だけど幸せな道を諦めることになる」
それは、おそらく義人の両親や優希の両親が歩んできた道なのだろう。そして、義人は幼い頃からそんな両親達の姿を見ている。故に、その道がどれだけ平和で、平凡で、しかし幸せな道かを知っている。
「―――君は、そんな優希に対してどう責任を取ってくれるんだい?」
答えろと、真っ直ぐな瞳が語る。虚偽は許さず、沈黙も許さず。“その道”を捨てるに足る未来を示せと、優希の父は迫る。
「…………」
そんな優希の父を前に、義人は静かに息を呑んだ。
たしかに、優希の父が告げたことは真実である。このまま魔物のことを他人に丸投げして学生に戻れば、平和な生活が戻ってくる可能性が高い。自分と同じように、優希に“こちらの世界”での生活を捨てさせる必要もなくなる。
僅かな葛藤。だが、そんな葛藤を破るかのように、暖かな感触が右手に触れた。
「……優希」
その感触に視線を向けてみれば、隣に座る優希が静かに微笑んでいた。言葉はなく、しかし、雄弁に語る瞳で義人を見ている。
そんな優希に勇気づけられ、義人は優希の父へと迷いない視線を向けた。
「その、御両親を前にして言うのは恥ずかしいことなんですが……」
そう前置きしつつ、義人は優希を見る。長年傍にいた幼馴染みであり、恋人でもある優希の顔を。そしてすぐに決意を固めると、気が挫けないように腹に力を込める。
「俺は、優希のことが好きです。こう言うと恥ずかしいですが、その、あ、愛しています」
決意を固めたものの、さすがに照れるのか義人は軽く頭を掻く。優希の父は義人の発言にピクリと眉を動かしたが、無言で先を促した。
義人は無性に感じる恥ずかしさを飲み込むと、先ほど触れてきた優希の手を優しく握る。
「ずっと、傍にいてほしいです。ずっと、隣で笑っていてほしいです。例え“向こうの世界”に行ったとしても、ずっと、一緒にいてほしいんです」
義人がそう言うと、優希は笑顔を浮かべて義人の手を握り返す。
「最近気づいたんですが、俺は優希がいないと駄目な人間です。でも、優希がいてくれたら、道を間違えそうになっても元に戻れる」
志信のことを諦めそうになった時、それを正してくれたように。優希が傍にいてくれれば、道を誤ることはないと義人は心底から思える。
「優希が傍にいてくれれば、俺は幸せです。そして、俺も優希を幸せにします」
幼い頃から、そして、“向こうの世界”に行こうとも、ずっと傍にいてくれた。そんな優希がこれからもずっと傍にいてくれれば、幸せだろう。
「たしかに、“向こうの世界”は危険な場所です。でも、絶対に、優希を守り抜きます。俺は決して強い人間ではないですが、それでも、絶対に優希を守り抜きます。例え自分の体を盾にしてでも、優希を守り抜きます。だから……」
視線を一度、下へと向ける。大きく息を吸い、これから告げる言葉を反芻する。
―――責任を取れと言われれば、男としてはこう答えるしかないよな。
責任を、決意を、義人は口にする。
例え“向こうの世界”に行くことがなかったとしても、いずれは言ったであろう言葉を。
「娘さんを、優希を―――俺にください」
それが、責任の取り方です。
最後にそう付け加え、義人は優希の父に頭を下げる。すると、それに合わせて優希も頭を下げた。
優希の父はそんな二人の様子を眺め、多少の間を置いてからポツリと呟く。
「……それ、優希本人には言ってあげたのかい?」
「……まあ、ずっと一緒にいてほしいとは」
僅かに顔を上げて、義人は答える。すると、優希の父は優希へと視線を向けた。
「優希の気持ちは?」
その問いに、優希は顔を上げる。
「わたしも、ずっと義人ちゃんと一緒にいたい。義人ちゃんが一緒にいたいと望んでくれるように……ううん、きっとそれ以上に、義人ちゃんと一緒にいたいと思ってる」
迷いも逡巡もなく、優希はそう答えた。そこに嘘偽りはあるはずもなく、あるのは義人へ向ける真っ直ぐな感情のみ。
優希の父親は腕を組んだままで、目を閉じた。何事かを考えているのか、黙考するように頭を左右に揺らす。
「…………はぁ」
そしてどれだけの時が過ぎたのか、不意に大きなため息を吐く。しかし、次に浮かんだ表情は苦笑染みた笑顔だった。
「こどもはいつか、親の手から離れるものだけど……こんなに早いとはね」
「お父さん……」
そんな優希の父の表情から答えを悟ったのだろう、優希が嬉しそうな声を上げる。優希の父はそんな娘に笑いかけると、表情を引き締めて義人へと視線を向けた。
「義人君」
「はい」
「娘を、優希を泣かせるようなことはしないと誓えるね? 絶対に幸せにすると、誓えるね?」
「―――はい」
義人は力強く頷く。優希の父はそんな義人の様子を見てから、隣に座る優希の母へと視線を向けた。
「お前は……」
「あなたと同じ気持ちですよ……優希、義人ちゃんにうんと幸せにしてもらいなさいね?」
口元に手を当てながら微笑む優希の母。そんな彼女に、優希は満面の笑みで頷く。
「うんっ!」
優希がそう答えると、場の雰囲気が一気に弛緩する。義人の父はそれを見計らったように義人に声をかけた。
「義人、絶対に優希ちゃんを泣かすんじゃないぞ?」
「わかってるって」
「優希ちゃん、義人が馬鹿なことをしたら、殴っていいからね?」
「ちょ、おふくろ、それはひどい」
仮に優希に殴られるような事態になれば、肉体よりも精神的に重傷を負いそうである。
そんな許可を出すのは止めてくれと焦る義人に、その場にいた全員が笑い声を上げるのだった。
『良き、御両親じゃな……』
両親達の説得が終わり、夕食を食べて風呂に入って部屋に戻るなり、ノーレが呟く。さすがにいつものように優希との仲をからかう気はないのか、その声はしんみりとしたものだった。
「……ああ。自慢の両親だよ」
そんなノーレに、義人は呟くように返した。そして、部屋の隅に置いてあるリュックへと視線を向ける。
『出発は明日、か。お主の体調を思えばもう少し先に伸ばしたいが、そうすることもできんか』
「ああ。あまり時間を置くと、魔物の危険さが認知されて外出を制限されるかもしれないしな……体調だって、動けないほどじゃないし」
そう言って、義人はノーレを手に取る。続いて鞘から抜き放つと、その重さを確かめてから鞘に戻した。
『魔物の相手は危険じゃぞ?』
「わかってるよ。それでも、可能な限り数を減らしてから“向こうの世界”に戻るさ」
ノーレを壁に立てかけ、義人はベッドへと座る。体調を考慮して、今日は早めに眠るつもりだった。ちなみに、小雪は優希の護衛も兼ねて優希の家に行っている。
この状況で二手に分かれるのは考え物だったが、なにせ“こちらの世界”で過ごす最後の夜だ。最後は親子水入らずでと、優希も自宅へと帰っている。
義人は小雪が暴れていないことを祈りつつ、電灯を切ってからベッドに横になった。そして、天井を見上げながら口を開く。
「明日は頼むぜ、相棒」
『わかっておる……おやすみ、ヨシト』
「うん、おやすみノーレ」
挨拶を交わし、義人は目を閉じる。
明日は大変な一日になるなと思いながら、義人はゆっくりと眠りに落ちていくのだった。