第百四十五話:忍び寄る影 その6
“向こうの世界”に戻ると言っても、今すぐ戻れるわけではない。
優希が召喚魔法を成功させたとして、カーリア国に召喚されるとは限らないのだ。食料などの準備を整える必要があり、“こちらの世界”にいる魔物をどうにかする必要もある。それに加えて、義人や優希の両親の説得も必要だった。さすがに、何も言わずに再び失踪するわけにもいかない。
義人が魔物と戦った翌日、日が昇って明るくなるなり義人は床払いして自身の体調を確認していた。
外傷自体は小雪の『治癒』によって完治しているが、だいぶ血が抜けていて足元が覚束ない。魔法といえども失った血液まで元に戻すことはできず、その点については義人も割り切っていた。
「くそ……けっこうふらつくな……」
揺れる視界に悪態を吐きながら、義人はノーレを背負う。そして、ノーレの重みに引かれてそのまま後ろへと倒れ込んだ。
「ぐぁっ!? ちょ、いてぇっ!?」
『……戯けめ。何をやっておるんじゃ、お前は』
下は畳だったため怪我はしないが、それでも痛いものは痛い。義人は痛みをこらえながら立ち上がると、後ろへ倒れないよう前傾姿勢になりながら口を開く。
「いや、ノーレが重くてつい……」
『誰が重いと言うんじゃこの戯けが!』
背中で叫ぶノーレの声を聞き流しつつ、義人はゆっくりと歩き出す。すると、そんな義人を見かねたのか小雪が義人の袖を引いた。
「おとーさん、のーれがおもいならこゆきがもつ」
「ん? いや、大丈夫だよ小雪。ありがとうな」
小雪の気遣いに頬を緩め、義人は小雪の頭を優しく撫でる。そして、部屋の入り口で腕を組んだまま立っている源蔵へと向き直った。
「それじゃあ爺さん……お世話になりました」
続いて、礼の言葉と共に頭を下げる。荒らした庭の片付けなどしたいところではあるが、今は時間が惜しい。そのため義人が申し訳なさそうな顔をしていると、源蔵は快活な笑みを浮かべた。
「まあ、庭のことは気にするな。暇な時にでも掃除しておくわい」
掃除で済む話でもないが、それは源蔵なりの厚意だったのだろう。義人はそれに小さく頷いて応えると、源蔵は視線を僅かに鋭くする。
「正直、昨晩の話はほとんどわからんかった……が、“向こうの世界”とやらに戻るんじゃな?」
「……はい」
「ふむ、そうか……」
源蔵は腕を組んだまま視線を宙に向ける。そして僅かに黙考すると、再度視線を義人へと向けた。
「それなら、志信に伝言を頼みたいんじゃが」
「それは……もちろん、構わないけど。なんて伝えるんだ?」
源蔵が志信に、祖父が孫に向ける言葉だ。義人は一言も聞き漏らすまいと、耳を澄ませる。源蔵は傾聴する姿勢になった義人を見ると、真剣な顔で伝言を口にした。
「本当なら手紙にでも書いた方が良いのじゃろうが、儂は悪筆でな……『体には気をつけろ』、『命を粗末にするな』、そして、『己の道を見つけることができたなら、それを信じて貫け』と」
「……わかった」
源蔵の言葉に、義人はしっかりと頷く。それと同時に、義人は源蔵の気遣いを読み取って心の中で頭を下げた。
悪筆だからと言ったが、それはきっと嘘だろう。志信に伝言を伝えるためには、“向こうの世界”に無事たどり着かなくてはならない。手紙として託しても良いだろうが、顔を合わせなければならない伝言を選んだのは、義人達の無事を祈っているからに他ならない。
「ああ、それと……」
「それと?」
わざわざ言葉を区切った源蔵に、義人は感謝の途中で不安を覚えた。一体何を言う気だと身構えるが、そんな義人の感情を見抜いたのか、源蔵は一転して笑みを浮かべる。
「もしもこっちに戻ってくることがあるのなら、その時は妻とひ孫も連れてこい、とな」
そして、その言葉を数秒使って理解して、義人は気の抜けたような笑みを浮かべた。
「はははっ、わかった。しっかりと伝えとくよ」
「うむ、楽しみにしておくわい」
本当に楽しみにしているのか、笑顔で告げる源蔵。そんな源蔵に、義人は軽く爆弾発言を投下する。
「もしかしたら、嫁さんは二人ぐらい連れてくるかもよ?」
笑いながらそう言うと、源蔵はハトが豆鉄砲でも食らったように瞬きをした。そして、顎に手を当てながら視線を遠くに向ける。
「……ほほう、それはそれは。あの志信が、のう」
「向こうじゃモテモテだよ、志信は」
「お主よりもか?」
「……それはまあ、ノーコメントで」
義人は源蔵の突っ込みに視線を逸らす。恋人の手前、迂闊なことも言えない。それでも気になって義人が優希へと視線を向けると、優希は不思議そうな顔をしながら首を傾げた。
「義人ちゃん、どうかしたの?」
「……いえ、なんでもないです、はい」
話が聞こえなかったはずもないが、と首を傾げながら義人は源蔵へと向き直る。すると、源蔵のからかうような視線とぶつかった。
「……何か言いたいことでも?」
「いやなに、若者を微笑ましく思うのは老人の特権じゃよ」
「そんな特権は放棄してくれ……」
疲れたように呟き、義人は軽く頭を振る。まさか両親だけではなく源蔵にまでからかわれるとは、と内心で呟くと、すぐに気持ちを切り替えて懸念事項を口にした。
「伝言は必ず志信に伝えるとして、俺が戦った魔物……まあ、凶暴な動物みたいな生き物が何故か“こっちの世界”にもいるんだけど」
「うむ、知っておる」
「“向こうの世界”に戻る前になるべく倒して数を減らしていくつもりだけど、倒しきれないやつもいると思う。その時は……」
「なるほど、引き受けた。異世界の動物には興味もあるしのう……さて、どれほどのものか」
好戦的な表情を浮かべる源蔵に、義人は僅かに引きながら言葉を続ける。
「いや、警察とかに通報をして、あとは安全な場所にいてくれって言いたかったんだけど」
本当に魔物に挑みかねない源蔵に、義人はなんとか思いとどまらせようとした。しかし、源蔵ならば並の魔物程度なら倒してしまいそうで、強く言うこともできない。
警察に通報をとは言ったものの、“こちらの世界”の人間が魔物と遭遇した場合は高い確率で恐慌に陥るだろう。犯罪者などの相手をして場数を踏んでいる警察も、人外の魔物を相手に戦えるかと聞かれれば義人も首を横に振らざるを得ない。
義人も、初めて魔物と遭遇した時は非常に驚いたものだ。幸いと言うべきか志信や優希がいたためすぐに気を取り直したが、二人がいなければどうなっていたかわからない。
魔物の危険性を知る身としては、一刻も早く行動を起こすべきだろう。
義人はノーレを背負い直すと、もう一度源蔵に頭を下げる。
「それじゃあ……」
「うむ、息災でな。無事に“向こうの世界”とやらに戻れることを祈っておく」
「……はい。ありがとうございました」
心からの感謝を言葉に乗せて、義人は源蔵に別れを告げるのだった。
魔物の襲撃を警戒しつつも自宅へと帰った義人は、両親からの質問責めをかわしながらリビングへと足を向けた。そしてテーブルの上に置かれていた今日の朝刊を手に取り、続いてテレビの電源をつけてニュースをやっているチャンネルを選ぶ。
優希はそんな義人を一瞥すると、ひとまず小雪を寝かせるべく布団のある客間へと足を向けた。昨日から不規則に寝ていたため、小雪は今にも立ったまま寝そうだったのだ。
「おい、義人……本当に大丈夫なのか? 優希ちゃんに怪我をしたって聞いたんだが……」
「見ての通り、もう大丈夫だよ。ちょっと貧血気味だけど」
父親からの心配に苦笑で応え、義人は紙面に目を走らせる。
義人が魔物に襲われたのは昨日だが、それ以前に魔物が人目に付いている可能性もあるのだ。そのため全国的なニュースから、目立った地方のローカルニュースにまで目を通していく。テレビからはニュースキャスターが原稿を読み上げる声が聞こえてくるが、義人としては新聞の方に意識を集中する。
―――ない、ない、ない……どこにも載ってない、か……。
新聞の一面から目を通していくが、魔物に関するニュースは見つからない。そのことに安堵を覚え、しかし、それと同時に耳に飛び込んできたニュースキャスターの声に驚愕する。
『次のニュースです。先日、謎の巨大な鳥が発見され―――』
「っ!?」
謎の巨大な鳥というフレーズに、義人はテレビへと視線を向ける。
『―――町で歩行者が携帯電話で偶然撮影したものなのですが―――』
ニュースキャスターの声と同時に、テレビ画面に表示される一つの映像。その映像を見た義人は、思わず額に手を当てる。
「……マジかよ」
そこに映っていたのは、空を飛ぶ紫色の怪鳥。その映像はきちんとしたビデオカメラではなく、携帯に付いているカメラを使用したのだろう。手振れが酷く、鮮明な画像とは言えない。しかし、それでも義人から見れば確信を持って言える。映像に映っているのは、魔物だと。
「義人? どうかしたのか?」
動きを止めた義人を不思議に思ったのか、父親が声をかける。その声を聞いた義人は眉を寄せると、ため息を吐きながらテレビを指差した。
「親父、今テレビに映っている生き物……これ、なんだと思う?」
「鳥……だよな? 大きいけど」
首を傾げながら返答する父親の姿に、義人は一応頷きを返した。
「たしかに鳥だよ。“向こうの世界”の、だけど」
「……ということは」
「ああ。あれは魔物だよ」
どこか疲れたように義人が言うと、父親は何かを察したのだろう。僅かに表情を硬くする。
「もしかして、お前が怪我をしたのは……」
「ああ、うん。隠しても仕方ないから言うけど、人を襲おうとしたんで戦ったんだ」
本当は『戦った』で済むような話ではなかったが、必要以上に心配をかけることもない。義人がそんなことを考えながら告げた言葉に、義人の父は目を見開く。
「……お前に聞いてはいたけど、本当に人を襲うんだな……」
何のために、とは聞かない。人間以外の動物が他の生物を襲う理由など、非常に限られている。
「警察には」
「言っても、逆に危険に晒すだけだよ。民間人の誘導とかには役立つだろうけど、直接戦うのは危険だ」
義人がそう言うと、義人の父は心配そうに目を細めた。
「……義人は、そんな化け物と戦ったのか?」
「…………」
その声に含まれていたのは、大きな心配と小さな怒り。
自分の息子が危険な生き物と戦ったことに対する心配と、怪我を負ってまで戦ったことに対する怒りだ。しかし、人を襲おうとした魔物から人を守ったのならば、それを強く責めることもできない。
義人の父はそれでも怒るべきかと逡巡するが、すぐに諦めたように息を吐く。
「あまり……危ないことはするな」
「……ごめんなさい」
素直に謝罪する義人。小雪はともかくとして、義人の父にとって魔物とは得体の知れない生き物である。その危険性も話してある以上、どうあっても心配をかけてしまうだろう。
「義人ちゃん、小雪を寝かせてきたよ……どうしたの?」
そうやって義人と義人の父が話をしていると、優希がリビングへと足を踏み入れてくる。そして、場の雰囲気を感じ取ったのか首を傾げた。
「いや、なんでもないよ」
そんな優希に苦笑を向け、義人は再度テレビへと視線を向ける。しかし、ニュースの扱いとしては小さいものだったのか、すでに次のニュースへと移っていた。もしもこれで怪我人や死者が出れば話は変わるのだろうが、幸いと言うべきか今のところは怪我人も出ていないようだった。おそらくは、一番の重傷者は義人自身だろう。
義人はそのことに安堵すると、思考を巡らせるように視線を宙へと投じる。
己の体調が気にかかるが、今はそれどころではない。少しでも魔物を倒し―――殺して数を減らし、“こちらの世界”の人間に被害が及ばなくする必要がある。だが、そのためにはどう考えても手が足りない。現状では、魔物と戦える者は義人と小雪しかいないのだ。
源蔵も戦うと言っていたが、さすがに助力を乞うのは難しい。被害者が出ないようにするためには戦える存在が貴重だが、本当に源蔵が魔物相手に勝てるかと聞かれれば義人としては首を傾げざるを得ない。
下級の魔物程度ならば倒せるかもしれないが、相手が地面を走る魔物だけとは限らないのだ。事実、義人自身も化け鳥の魔物を目撃している。そのため、魔法などの遠距離の攻撃手段を持たない源蔵では危険が大きいだろう。
―――まあ、爺さんならそれでもなんとかしそうで怖いけどな……。
空飛ぶ化け鳥を叩き落とす源蔵の姿を幻視し、義人は軽く頭を振る。魔物の対処は頭を悩ませる事柄だが、他にも問題はあるのだ。
―――親父やおふくろ、優希のおじさん、おばさんにどう説明しよう。
魔物が“こちらの世界”にいることは、ニュースでわかる。しかし、その魔物を義人達が退治しようとした場合はどんな反応があるか。
きっと、止められるだろう。いや、間違いなく止められるだろう。自分の子供が進んで危険なことをしようとしているのだ。それを止めない親など、育児放棄した親ぐらいしかいない。
魔物を放置する危険性。
今後も魔物が増える可能性。
そして、自分達ならそれを打破できるかもしれないという現状。
それらを説明し、納得させるしか方法はない。さすがに、説明せずに飛び出すのは親不孝にもほどがある。それに、今のままでは準備不足に過ぎるというものだ。
―――食料の他にも、向こうの世界で使えるものを買っておくか。
言葉に出さずに思案して、義人は一つ頷く。
小雪が寝入ってしまったため出歩くのは後になるだろうが、まだ朝も早い。店もほとんど開いていないため、都合は良いだろう。さすがに、今の体調で一人で出歩こうと思えるほど、義人は自分の力量に自信を持っていない。
「となると、まずは朝ごはんかな……」
そうなると、今は少しでも体調の回復に努めるべきだろう。そう判断し、義人はどこか疲れたように呟くのだった。