第百四十四話:誘い
“元の世界”と異なり、“こちらの世界”は夜の闇が深い。そんなこと思いながら、志信は城の裏手にある林の中で『無効化』の棍を振るっていた。
人工的な明かりがない、本物の暗闇である。“元の世界”では真夜中だろうと人工的な明かりが絶えなかったが、“こちらの世界”での人工的な明かりと言えば蝋燭やランプが精々だ。そんな明かりがあるのも城の中や城下の民家、重要な拠点だけで、城の外に、ましてや城中でも重要度の低い場所に明かりがあるわけもない。召喚の祭壇などなら警備のために篝火が焚かれているが、林に火の気は危険でもある。
頼りになる光は月の光だけだが、今日は満月というわけでもない。半分に欠けた月の光は満足な視界を与えないが、人目につかないのを幸いと志信は無心に棍を振るう。
夜中である。
城中の者も見張りを除いて大半が眠りに就いている夜更けに、何故このような場所で棍を振るっているのか。例えそう問われても、志信としては深い意味があるわけではない。ただの日課だった。
“こちらの世界”へ来てからというものの、早朝、日中、夜間と、一日中鍛錬に没頭していたのである。しかし、国王代理という立場になってからは鍛錬の時間がほとんど取れず、こうして空いている時間に鍛錬を行うしかなかった。
無論、国王代理という立場を考えれば不用心な行動である。護衛も連れずに城の外に出るなど、有事の際の危険性が大きいだろう。だが、例え護衛を連れていたとしても、この時間帯に外に出ようとすれば止められるのだ。かといって、この時間帯に城中で鍛錬を行えば非常に迷惑である。
そのため、それならばと見張りの兵士の隙を突いて外に出てきたのだった。練習用の棍ではなく『無効化』の棍を持ち歩いているのは、志信なりのせめてもの用心と言える。もっとも、夜中に抜け出したのはこれが初めてというわけでもないのだが。
「……ふぅ」
振るっていた棍を止め、ゆっくりと息を吐く。そして自身の体の動きを反芻し、志信は頭を振った。
ここ最近は政務に時間を取られたせいか、体が鈍っているような感覚がある。頭の中での動きと実際の動きがずれ、志信に違和感を与えていた。その違和感は僅かなものだが、それをなくすために志信は再度棍を振るい始める。
突き、払い、振り上げ、振り下す。型をなぞるようにして棍を振るい、志信は精神を集中させていく。日中の政務で溜まったストレスを発散するように、先の見えないカーリア国のことを頭から追い出すように、棍を振る。
そうして三分ほど動き続け、不意に、志信は何かの気配を知覚した。
「―――誰だ?」
鋭く、志信が誰何の声を上げる。
油断なく『無効化』の棍を構え、気配のした方へと向けると、それに釣られたのか暗がりから小さな拍手の音が聞こえた。それは志信の動きに対しての拍手か、それとも自身の存在を知らせることで害意はないとでも示したいのか、やけに響く音である。
「……っ」
僅かな時間で呼吸を整えると、志信はゆっくりを腰を落とす。それに対して、気配は足音を隠すこともなく、ゆっくりと近づいてくる。そうして志信が構えを取り続けること十秒少々、志信の前に一人の男が姿を見せた。
『よう』
男は右手を上げ、事もあろうか気安げに月明かりの下へと姿を見せる。そして警戒心のない、ゆっくりとした足取りで歩み寄り、志信の間合いから僅かに離れたところで足を止めた。
短く切った赤毛に、野性味を感じさせる眼差し。志信より低い身長ながらも適度に鍛えているのか、引き締まった体躯。腰には鞘に納まった剣を下げているが、防具の類はほとんど身に着けていない。精々心臓などの急所を守るために胸当てをしている程度だ。
「お前は……」
その男の顔に見覚えがあった志信は、手元の棍を握り直しながら記憶の中にある名前をコモナ語で呼ぶ。
『……グレア、か』
その男は、かつてレンシア国へ向かう途中で戦ったことのある相手だった。片刃の剣に火炎魔法の使い手であり、志信にとって勝敗がつかなかった相手。
『おっと、覚えていてくれたか。嬉しいねぇ』
名前を呼ばれた男……グレアは拍手を止めると、敵意はないと言わんばかりに腰の剣を外して地面に置く。そして一歩後ろに下がってすぐには剣が取れないようにすると、小さく肩を竦めた。
『とりあえず、その棒っ切れを下ろしてもらえると嬉しいんだが?』
『……勝手に武器を下したのはそちらだろう』
武器を外して手の届かないところに置くというのは、敵意がないことを示すには適切な行動である。しかし、“元の世界”ならいざ知らず、“こちらの世界”には魔法という存在があるのだ。武器が手元にないから戦えない、などと思うのは早計だった。棍を下した途端、火の玉が飛んでくるということも十分にあり得る。
微塵も油断を見せない志信をグレアは面白そうに眺めると、口の端を釣り上げた。
『いいねぇ、丸腰相手でも油断しないその姿勢。俺がお前さんくらいの歳の頃にゃ、身についてなかった用心深さだ』
く、と笑い、グレアは両手を上げる。敵意がないことを証明したいのだろうが、それに対して志信は視線を僅かに鋭くすることで応えた。
『おいおい、そんなにそそる目で見るなって。殺り合いたくなっちまう……ま、今日は本当に戦う気はなくてな』
そう言うと、グレアは地面に座り込んで胡坐をかく。本当に敵意がないのだろう、頬杖までついて志信を見上げるその視線に、好戦的だった色はない。
どんな達人といえども、座った状態からでは行動が一手遅れてしまう。志信は厳しい表情でグレアを見据えたが、対するグレアはそんな志信の視線を受け流すだけだ。
志信は構えを解かずに、視線の厳しさはそのままに口を開く。
『こんな夜更けに、以前殺し合った人間がきたんだ。裏があると思うのは当然だと思うが?』
『ん? ああ、まあ、そうだな。そりゃもっともな話だ。しかし、今日の仕事は話し合いだけって上からも言われてるしな』
敵意を見せないグレアに、志信は無言で構えを解く。しかし、それでも何かあればすぐに対応できるよう、『無効化』の棍を握ったままで、だが。
そんな志信の様子を見て、話を聞く気があると思ったのだろう。いっそ気安さを感じさせる口調でグレアが話し出す。
『いや、どうやってお前さんの部屋に忍び込もうかと思ったが、そっちから出てきてくれて助かったぜ。やっぱりあれか、“国王の代わりにずっと椅子に座って書類仕事”ってのは、体が鈍るか?』
そして、志信としては聞き逃せない言葉を口にした。
『お、なんで知っているのかって顔をしてるな』
僅かにでも表情が動いてしまったのか、グレアが口元を緩める。
義人が姿を消し、志信が国王代理を務めている。それは、少なくとも他国に漏れて良い情報ではない。しかし、志信の心中を察したのかグレアは呆れるような表情を浮かべた。
『おいおい、前に国王が急病で倒れたって言ったのはそっちだろう? それから調べてみれば、ここ最近は国民の前に顔も出していない。国のあちこちの動きは鈍くなっている。それで気付くなっていう方が無理ってもんだぜ? それに『召喚の巫女』もあの様子じゃなぁ』
カーリア国の現状を知っている。言外にそう告げるグレアに、志信は視線をさらに鋭くする。
『……そうなると、やはり俺を殺しに来たと考えるのが自然だが?』
国王代理である志信がいなくなれば、それでカーリア国は詰みだ。カグラの状態も知られている以上、アルフレッド一人ではもたないだろう。だが、相変わらずグレアが敵意を見せる様子はない。どこか面白そうな表情を浮かべるだけだ。
『そりゃごもっとも。しかし……お前さんは、この国をどう思う?』
『どう、とは?』
突然の質問に、意図が読めない志信はそのまま問い返す。すると、グレアは志信から視線を逸らしてカーリア城へと向けた。
『建国から約六百年……ここまでこの国が長続きするなんざ、おかしな話だ。異世界から召喚した人間を国王に据え、国を運営していく。ここまで続いたことがそれこそ奇跡……いや、狂気の沙汰としか思えねえ』
『…………』
グレアの言葉に、志信は沈黙で返す。それは志信自身も感じていたことであり、返すべき言葉もない。
『他国よりも大きい割合で魔物が生息し、そのせいで人口が大きく増えることはない。商業、工業、農業、魔法技術、そのどれもが他国に劣り、目立った特産物があるわけでもない。まあ、刀ってのは良い武器だと思うがな。兵士の数こそそれなりにいるが、そのほとんどは魔物相手にしか戦ったことがなく、人を殺したこともねえ。『召喚の巫女』さえいなければ、数日で攻め落とせるだろう』
そこで言葉を切ると、グレアは城に向けていた視線を志信へと向ける。
『だが、国民は盲目的に今の統治を受け入れている。正直な話、俺からすれば性質の悪い洗脳でもされてんのかってぐらいだ』
気持ち悪い話だ、と言葉を続け、グレアは頭を掻く。
『『召喚の巫女』は厄介で、統治するのは難しく、“うまみ”がほとんどない……が、その厄介な『召喚の巫女』が倒れ、国王は不在で、臣下の間には不穏な空気が醸成されつつある。俺ならすぐに尻尾巻いて逃げ出すね』
グレアの言葉を聞き、志信は内心で舌打ちする。義人の意向もあって防諜には気を付けていたが、情報は筒抜けらしい。
『っと、無駄話が過ぎたな』
そんな志信の心の動きを見て取ったのか、グレアは僅かに口元を釣り上げた。そして、ここからが本題だったのだろう、視線に力を込めて志信を見据える。
『それで、だ。どうだシノブ、お前さん、うちに来ないか?』
『……何?』
思わず、志信は聞き返す。この距離で聞き間違えることはないが、それでも問わずにはいられなかった。
『それは、お前の仕える国に来いということか?』
『ああ。このままいけば、この国は遠からず自壊する。そんな国にいる意味はねえし、義理もねえだろ?』
対するグレアは、気軽に笑いながら勧誘の言葉を重ねる。
『俺が仕えているとこの王様はな、腕っぷしの強い奴が大好きなんだよ。だから、傭兵の俺達も重宝されてそれなりに権力も与えられる。ああ、この国から引き抜くわけだから、もちろん給料ははずむぜ? 今みたいに書類仕事をしなくても良いし、女も好きなだけ抱ける』
笑ってこそいるが、提案自体は本気なのだろう。グレアは自分達側へ寝返った場合の利点を挙げていく。
聞けば、たしかに好条件だった。金も得ることができ、女も宛がわれ、書類仕事に追われず、鍛錬に励むことができる。志信としては最後の部分にのみ惹かれたが、それで頷くほど馬鹿ではない。
『他国の人間を引き抜くために、以前殺し合った人間を差し向ける。それで信じろと?』
『一度殺し合ってあるからこそ、だろ? たしかに、他の奴を引き抜こうっていうなら人選を間違えているわな。だが、お前さんは殺し合った相手を憎むような人間じゃねぇ。それなら、顔を知っている奴の方が都合が良い』
『……わかったような口を利くものだな』
殺し合った相手を憎まずにいる。そんな狂った思考は持ち合わせていない。志信はそう思い、しかし、断言ができない。
『ん? そりゃそうさ。俺達とお前は、同類だ。だからわかるんだよ。殺し合ってある程度腕も知っているし、お前なら隊長も気に入る。それになにより……』
そこで、グレアは笑みの質を変えた。それまで浮かべていた気安い笑みを消すと、猛獣のように獰猛な笑みを浮かべる。
『お前も、戦いに身を置ければそれで良いって人間だろ?』
故に同類。
殺し合った相手を憎むよりも、その腕を認め、称賛する。己が強いか、それとも相手が強いか。打倒し得るのか、それとも武運拙く敗れるのか。気にするのはその一点のみ。
狂っているのかと聞かれれば、そうだろう。壊れていると言われれば、それも頷く他ない。しかし、そんな生き方しかできないのだ。
グレアの言葉に、志信は沈黙する。
“こちらの世界”に来て経験した、命を賭けた戦い。“元の世界”で経験することはなかったであろう、いくつもの死線。それらを超えた時に抱いた感情を考えれば、グレアの言葉を切り捨てることもできない。
己の全てを以って敵を打倒する―――そのことに、心が躍った。
それを志信は認めると、グレアの瞳を見返す。
『返答は如何に?』
グレアが回答を迫る。
ここで頷けば、今の環境から抜け出して戦いの日々に飛び込むことになる。“元の世界”では経験し得ない、非日常の世界だ。現状でも十分に非日常と呼べるが、気の向くままに戦えるのならそれも悪くはない。
悪くは、ない。
『―――断る』
しかし、志信は首を横に振った。すると、意外なものを見たと言わんばかりにグレアが数回瞬きをする。
『……一応、理由を聞いておいても良いか?』
志信が頷くと思っていたのか、グレアは不思議そうに尋ねた。それに対し、志信は右手で握っていた棍を強く握り締める。
『たしかに、お前の言う通りだろう。このままでは、この国は遠くない内に自壊する。それは否定できん。そして、俺が戦いを求めているということも、否定できん。だが……』
そこまで口にして、志信は強い意志のこもった視線をグレアへと向けた。
『俺のこの“力”は、自ら他人を害するために身に着けたものではない。己の思うままに力を振るえば、それはただの暴力。それは、俺の望むところではない。それに、俺のこの“力”は義人のために振るうと誓った』
『……誓った? 姿を消した国王本人にか?』
グレアがそう尋ねると、志信は首を横に振る。
義人本人に、そんなことを言ったことはない。言えば、義人は苦笑しながら困るだけだろう。ならば、誓う相手は義人ではない。
『自分自身に、だ』
最早問答は無用と言わんばかりの志信に、グレアは温度のない視線を向けた。
『このままだと、確実にこの国は滅ぶぞ?』
『それは、“このまま”ならばというだけの話だ』
『……事態が好転するアテがあるってのか?』
グレアは訝しげな表情を浮かべる。そんな情報は入っておらず、現状を覆すような手立てがあるとは思えない。そうやって疑問符を浮かべるグレアに、志信は小さく笑ってみせた。
『アテがあるわけではない……が、親友が良くしたいと思った国だ。それなら、最後まで付き合うさ』
その返答をどう思ったのか、グレアから表情が消える。
『くだらねぇ……残念だぜ、シノブ。お前さんは明らかに“こっち側”の人間だろうに。そんな馬鹿みてぇな理由に命を賭けるってのか?』
このままいけば、カーリア国の崩壊に志信自身も巻き込まれるだろう。それだというのに志信は臆することなく頷いた。
『たしかに、お前から見れば馬鹿な理由だろう。たしかに、お前の言う通り戦いに身を置くのが楽しくもある』
だが、と言葉をつなぎ、志信は手に持った棍をゆっくりと構える。腰を落として棍先をグレアへ向け、そして、小さく笑みを浮かべた。
『それで良い。それだけで、俺は命を賭けられる』
親友がより良くしたいと願った国なのだ。それならば、それで十分。例えこの国が滅ぶとしても、最後まで付き合える。
そんな志信を見てどう思ったのか、グレアは小さく呟く。
『この国もそうだが……お前さんも大概に狂ってるな』
グレアには理解できない考えだった。しかし、志信の表情を見れば、意見を翻すようにも見えない。
『はぁ……残念だ。本当に、残念だぜシノブ。隊長もお前さんが来てくれるのを楽しみにしてたんだがな』
そう言うと、グレアは立ち上がって剣を拾い、背負いながら志信に背を向けて歩き出す。無防備にすら見えるその行動に、志信は構えを崩さないままで片眉を上げた。
『逃げるのか?』
『おう。勧誘に失敗したらそのまま退けって言われてるしな。まあ、ここで一戦交えるのも楽しそうだが、ここで戦ったらさすがに人が来る』
やけにあっさりとした引き際に、志信は訝しげな表情を浮かべる。グレアは肩を竦めながら足を止めると、振り返ることなく別れの言葉を投げかけた。
『残念だが仕方ねぇ……それじゃあな、シノブ。今度出会うことがあったら、その時は決着をつけようや』
それだけを言い残し、グレアは暗闇の中へと姿を消す。志信はそんなグレアの背を見送ると、周囲に気配がないことを確認してから棍を下した。
「“このまま”なら……か」
自分で口にした言葉を繰り返し、志信は小さくため息を吐く。
「“元の世界”で平和に暮らしているのなら、それで良いのだがな」
義人が優希や小雪、ノーレと平和に、幸せに過ごしているというのなら、それで満足だ。しかし、義人の性格を知っている身からすれば、それは可能性が低いだろう。どうにか“こちらの世界”に戻る手段を探しているのではないかと考え、志信は苦笑する。
「“間に合う”かは、わからないか……」
そう呟きを残し、志信は歩き出す。さすがに、そろそろ見張りの兵士が気付くだろう。それまでに部屋に戻り、明日の政務に備えて眠らなくてはならない。
今の自分にできることは、この国が崩壊するのを少しでも先延ばしにすることだけなのだから。