第百三十七話:忍び寄る影 その2
艶のある紫色の翼を羽ばたかせ、三つ目の怪鳥が空を舞う。
電柱や看板などの障害物を事もなげに避けつつ空を舞うその姿は、ある意味勇壮とすら言えただろう。
一メートルほどの体躯ながら、両翼を広げたその姿はその体躯を何倍も大きく見せていた。その大きさは、“こちらの世界”では中々お目にかかることがないほどに大きい。鳥にしては、十分以上に巨体と呼べる。体長だけで言うならばコンドルなどの方が大きいだろうが、その怪鳥は横幅もあり、体重で比較するならばコンドル以上と窺えた。
もっとも、目を引くのはそれだけではない。鋭い嘴や、小さな子供ぐらいなら鷲掴みにできそうなほど巨大な鉤爪。極めつけは、額にある三つ目と頭の両脇に生えた二本の角。三つ目や角がある鳥など、“こちらの世界”には生息していない。義人が知らないだけで、どこぞの秘境にでも行けば生息しているかもしれないが、少なくとも日本、とりわけ義人が生まれ育ったこの地でこれほど大きな鳥を見た記憶はない。
有り得ない光景を前に、義人は僅かに忘我する。しかし、すぐさま気を取り直すと、隣に立つ優希へと視線を向けた。
「……優希、どう思う?」
「“向こうの世界”にいた魔物、だよね?」
優希の言葉に首肯すると同時、義人はやはりかと内心で舌打ちする。夢か、はたまた見間違いならば良かったが、これは紛れもなく現実だ。
何故魔物が“こちらの世界”にいるのか。それを思考しつつ、義人は空を飛ぶ怪鳥の姿を目で追う。すると、そんな義人の思考を遮るように優希が小さく呟きを漏らす。
「あの鳥、なんでここにいるんだろう」
「なんでって、それは……」
俺にもわからない、と口にしかけて、優希がそれを制する。
「ううん、そういう意味じゃないの。わたしが言いたいのは、なんで街中にまで出てきたのかなって……」
「……え?」
そう言われ、義人は思考を止めた。だが、すぐに優希の言葉を飲み込み、思考を回転させる。
魔物というのは、基本的に警戒心が強い生き物だ。エルフやドワーフ、龍種などの言葉が通じる種族ならばともかく、下級に属する大半の魔物は人間に対して強い警戒心を持つ。縄張りに侵入すれば襲ってくることもあるが、それは生き物として当然でもある。しかし、それとは別に魔物が人を襲うことがないわけではない。
義人は“向こうの世界”にいた際、国王として魔物の被害に対応した指示を臣下に出すことが多々あった。そのため様々な被害状況を聞いてきたが、魔物の被害は基本的に魔物の生息地の近くで起きる。
森の近くの畑で作業をしていたら魔物に襲われた。
旅の途中、森の近くを通ったら魔物に襲われた。
海で漁をしていたら魔物に襲われた。
それらは縄張りを侵した場合に襲われたことが大半だったが、それ以外にも魔物が人を襲う理由はある。
「まさか……」
義人は視線の先で、滑空しながら徐々に高度を落とし始めた怪鳥を見据えた。
魔物が人を襲う理由、それは実に単純な話である。
―――人間を食料とする場合に、魔物は人を襲う。
まさか、と義人は浮かんだ考えを否定する。しかし、一度浮かんだ最悪の予想は中々消えようとしない。また、否定のしようもない。
仮に、である。
空を飛ぶ怪鳥が“こちらの世界”に来て、数日の時間が経っているとする。ニュースになっていない以上、これまでは人の目につかない場所にいたのだろう。しかし、警戒心が強いのならば人間が住む場所にノコノコと出てくるはずもない。それだというのに、怪鳥が人の住む街……それも、“向こうの世界”とは異なる高層の建造物や道路を走る車が存在する街に出てくるだろうか。
答えは否である。ただし、出ざるを得ない状況に陥った場合はその限りではない。
そして、この場合は出ざるを得ない状況に陥ったのではないだろうか。
人の目につかない場所にいたが、そこには食料がなかった。そのため、空腹を満たすために警戒心を押し切ってまで人の住む街に出てきた。そう考えれば、怪鳥の行動にも納得がいく。
事実、そんな義人の考えを肯定するように怪鳥は高度を下げている。旋回しているため地面に降り立つまでは時間がかかるだろうが、それも僅かなものだ。秒は優に超えるが、分を超えることはないだろう。
怪鳥が旋回するその下にあったのは、児童公園で遊ぶ子供達の姿。それを確認した瞬間、義人は振り向かないまま優希へと声をかける。
「優希……すぐに家に戻って、小雪を起こしてきてくれ。あと、ノーレを持ってきてほしい」
それだけ告げると、優希は迷うことなく頷く。
「うん、わかった。義人ちゃんは?」
その声色に含まれていたのは、僅かな心配と隠すことのない信頼。そんな優希の言葉に対して、義人は小さく笑う。
「ちょっと、正義のヒーローをやってくるわ」
それだけを言い残し、義人は駆け出した。
平日の昼間とはいえ、人通りが皆無になることなど早々ない。何人かの通行人は空を飛ぶ巨大な怪鳥を目撃し、驚きの声を上げていた。中には携帯電話のカメラを起動し、写真を取ろうとしている者もいる。
「ったく、気楽なもんだな!」
そんな歩行者を尻目に、義人はアスファルトの道路を疾走していく。
『強化』を使っての、全力疾走。『加速』を使った時とは比べるべくもないが、それでも現在の自分が出せる最高速度で義人は疾走する。人に見られれば、首を傾げるどころではないだろう。短距離走でオリンピックに出ればメダルの獲得も容易く行えるような速度で、義人はアスファルトの道路を走破する。
視線を向ければ、すでに怪鳥は高度をだいぶ下げていた。このままいけば、十秒と経たない内に子供の一人でも攫っていくだろう。かといって、空を飛ぶ鳥を打ち落とす手段もない。ノーレが手元にあれば話は別だが、空を飛ぶ鳥に風魔法を命中させる腕は義人にはないのだ。故に、義人に取れる手段は非常に限られている。
怪鳥の位置を確認しつつ、義人は地を蹴る力を強めていく。“向こうの世界”とは違い、全面アスファルトの道路の上だ。もしも転べば、軽い怪我では済まない。それでも義人は転倒する恐怖を抑え、ひたすらに走る。
「……え?」
公園で遊んでいた子供の中の一人が、空を見上げてそんな呟きを漏らした。呆けたように見上げたその視線の先に映るのは、紫の怪鳥の姿。普段、スズメやカラスしか見たことがないためか、自分達目がけて滑空してくる怪鳥を現実のものとして捉えられていないのだろう。そんな子供の姿につられ、周りにいた子供達も空を仰ぎ見る。
「あれ……なに?」
子供達の中の誰かが呟く。しかし、それに答えることができる者はいない。全員が一様に空を見上げ、迫りくる怪鳥を見つめることしかできなかった。
子供達が恐慌を起こすことがなかったのは、怪鳥の姿が現実離れしているからか。ロールプレイングゲームに登場するモンスター染みたその造形は、到底現実のものではない。彼らは、鉤爪を開閉させながら迫りくる怪鳥をただ見つめ、
「そうは―――させるかああぁぁっ!」
続いて響いたその声に、ようやく現実へと立ち返った。
それまで迫っていた怪鳥が、横合いから義人に蹴り飛ばされる。それはさながらピンボールのように、横からの衝撃で怪鳥の軌道が一気に真横へとずれた。横からの衝撃を受けた怪鳥は耐えきることもできず、放物線を描きながら地面へと落下する。
加速し、跳躍しての飛び蹴り。そこには技術も何もない、勢い任せの蹴撃だ。しかし、それまでの助走によってついた勢いをそのまま乗せれば、それだけで十分な武器になる。
怪鳥に飛び蹴りを見舞った義人は勢いを殺し切れずに地面を転がる羽目になったが、それでも上出来と言えた。幸い、公園の敷地内は地面がアスファルトではなく土のため、二転三転した後に受け身を取り、勢い任せに立ち上がる。
「いってぇ……勢いをつけ過ぎたな。蹴った足もいてぇ」
『強化』を使っているとはいえ、痛いものは痛い。地面を転がった際に多少擦過傷を負ってしまったが、アスファルトの上を転がるよりは余程マシである。
義人は蹴りに使った右足を軽く振ると、異常がないことを確認した。そして、放物線を描いて地面に落下した怪鳥に視線を向ける。首などを正確に蹴り抜くことができれば即死させることも可能だっただろうが、それを望むだけの精度もない。結果として一番的が大きい部分……すなわち胴体部分への攻撃になったが、効果はあったようだ。怪鳥は翼を震わせ、奇妙な悲鳴を上げながら地面をのた打ち回っている。しかし、致命傷には程遠いのか時間を置けば起き上がってくるように見えた。
そんな怪鳥から視線を逸らさずに、義人は子供達へと声をかける。
「今の内に、ここから離れるんだ。寄り道せずに家に帰って、しばらくは閉じこもっていること。いいね?」
「え……えっと……」
義人の言葉に、子供達は顔を見合わせた。疑っているのか、それとも思考するだけの余裕もないのか。義人は内心でため息を吐きつつ、努めて声を張り上げる。
「早く行け!」
「う、うんっ!」
怒鳴るように言うと、子供達は慌てたように走り出す。欲を言えば家にたどり着くまで見送りたいが、そんな余裕もない。義人の視線の先では、よろめきながらも身を起こそうとしている怪鳥の姿があったのだから。
「ゲ……グゲェ……」
そんな呻き声を漏らしながら、怪鳥が完全に身を起こす。そして、ダメージを確かめるように頭を振ると、義人へと鋭い眼差しを向けた。
人語を話すわけではない。しかし、その瞳に込められた感情は怒り一色に染まっており、一目瞭然。義人は意識して嘲るように笑うと、そのまま肩をすくめる。
「食事の邪魔して悪いなぁ。でも、見過ごすわけにもいかないんでね」
「ゲェァァァアアアアアアアアアア!」
怒りからか奇声を上げ、怪鳥が地面を蹴る。
それは翼を羽ばたかせての低空飛行。木の板程度なら貫通しそうな鋭い嘴を義人へと向け、地面スレスレを飛びながら一直線に突っ込んでくる。
それを見た義人は、好都合とばかりに精神を集中させた。そして、真っ直ぐに突っ込んでくる怪鳥目がけて風の塊を撃ち出す。“向こうの世界”で使った時に比べれば威力も精度も低い風魔法だが、それでも真正面から突っ込んでくる敵に命中させることは容易だ。
「グゲェッ!?」
正面から風の塊にぶつかった怪鳥は、潰れたカエルのような悲鳴を上げて再度地面へと落下する。しかし、先ほどよりも早く起き上がると、威嚇するように両翼を広げた。
「決定打にはならない、と。やっぱりノーレがないと駄目か……」
冷静に分析に、義人が呟く。風魔法を使うことができても、威力が低い。鎌鼬を発生させて切りつけることもできるが、ノーレが補助に回った時と比べればその切れ味は名刀と鈍を比較するに等しい。
「かといって、あまり時間もかけられないな」
怪鳥から僅かに意識を逸らして周囲の様子を窺うと、遠くの方から人の騒ぐ声が義人の耳に届く。逃げた子供達が人を呼んだのか、それとも空を飛ぶ怪鳥につられたのか。傍には道路もあるため、車に乗った人が気付く可能性もある。
既に通行人に怪鳥の姿を見られているが、義人としては、“こちらの世界”に戻ってきたことを知られるのが怖い。どうしたものかと義人が僅かに思案すると、その考えを遮るように離れた場所で絹を裂くような悲鳴が上がった。
その悲鳴の必死さに、義人は油断しないよう意識しながら悲鳴の上がった方向へ視線を逸らす。そして、思わず目を見開いた。
「はぁっ!?」
“その光景”を見て、思わず気の抜けた叫び声を上げてしまったのも仕方がないだろう。視線を向けた先、そこには現在義人が対峙している怪鳥とほぼ同じ姿の別の怪鳥が空を飛んでいたのだから。
「一匹じゃなかったのかよ!? っとぉ!」
悪態を吐くように叫び、それを隙と見て突っ込んできた怪鳥を横っ飛びに避ける。義人とすれ違った形になった怪鳥はそのまま一気に高度を上げると、飛来する別の怪鳥の隣へと並んだ。そして、言葉でも交わすように奇声を上げると、二匹並んで山の方へと進路を取る。
義人と対峙していた怪鳥を助けに来たのか、それとも義人を脅威と見て狩場を変えるのか。まるで逃げるように、二匹の怪鳥が飛んで行く。
「くそっ、逃がすか!」
このままだと別の場所で被害が出るかもしれない。そう考えた義人は再び走り出そうとした。しかし、背後で妙に重い足音が聞こえ、足を止める。
「なん…………は?」
義人は何事かと振り返り―――そこに、四本腕の熊が立っていた。
「…………」
頬が引きつるのを、義人は自覚する。眼前にいる熊も、“向こうの世界”で遭遇したことのある魔物だ。体長は二メートルほどで、以前遭遇した化け熊よりも小さい。しかし、その体重は義人の数倍以上はあるだろう。それこそ、圧し掛かられたら圧死しかねないほどに。そして、そんな化け熊に従うかのように両脇から犬に似た生き物が二匹、歩を進めてくる。
犬種としてはシベリアンハスキーが一番近いだろうか、黒に近い灰色の毛並みに大型犬らしい体躯。噛み合わせた歯はむしろ牙と評するに相応しく、口元から垂れた涎と低い唸り声が本能的な恐怖を誘う。
怪鳥との戦闘に惹かれたのか、それとも義人が使った魔法にでも呼び寄せられたのか。明らかに義人を認識し、今も少しずつ距離を詰めてきている。
義人は無言のままで右手を掲げると、魔力を収束させて風の塊を生み出す。続いて、魔物が動くよりも早く地面に風の塊を叩きつけると、砂塵を巻き上げて魔物へと叩きつけた。
即席の目潰し。魔物の足が止まったのを見て取った義人は、全力で『強化』をかけながら地を蹴る。
―――魔物とは、反対の方向へと。
すなわち、逃げた。
「三匹相手とか無理に決まってるだろぉっ!」
戦略的撤退、などと言葉を飾ることもない。迷うことなく背を向け、全力で駆ける。
この場で食い止めなければ被害が出るかもしれない。そんな考えも浮かんだが、ノーレがない状態では時間稼ぎも難しい。
化け犬の方ならばどうにかなるかもしれないが、熊の方は中級に分類される魔物である。魔物三匹を相手に回し、倒す、もしくは時間を稼げると思えるほどに義人は自惚れていなかった。
「くそ、ノーレがいればなぁ!」
しかし、ノーレが手元にあれば話は別だ。例え三匹を相手にしたとしても、十分に倒す―――殺すことが、できる。もちろん、そのノーレを家に置いて外出した義人が悪いのだが、“こちらの世界”で魔物と戦うような未来がわかるはずもない。
なるべく人通りの少ない道を選び、義人は自宅へと向かう。ノーレが手元にあり、小雪もいれば直面している危機を乗り切ることはできる。疾走しながらそんな考えを巡らせていると、義人の背後で大きな悲鳴が上がった。
「っ!?」
急制動をかけながら、肩ごしに振り向く。そして、思わず絶句した。
目潰しをしたはずの魔物達は、迷うことなく義人を追走していた。そして、通りすがった通行人に目を止めたのか、どこか嬉しげな気配すら見せながらそちらへと進路を変えている。
先ほどの化け鳥と同じく、空腹を覚えているのか。獲物を見つけた猛獣の如く、通行人へと突っ込んでいく。
その場にいたのは、母親と子供二人の親子連れだった。赤ん坊を乳母車に乗せ、それを小雪の外見と同年齢程度の少女が楽しげに押している。そして、母親はそんな子供の様子を見ながら微笑みを浮かべていた。
その場にいたのは、そんな、どこにでもいるような普通の親子連れだった。
その親子連れの中で悲鳴を上げたのは、母親の女性である。
それはそうだろう。何が悲しくて、閑静な住宅街で体長が二メートルを超すような四つ腕の化け熊と遭遇しなければならないのか。
涎を垂らしながら接近していく化け熊と、従者のように従う化け犬。それを見た義人は体ごと向き直ると、僅かに逡巡する。
自分一人ならば逃げ出すことは容易だ。事実、今は逃げている最中であり、化け熊達の移動速度よりも義人の方が早い。だが、魔物に襲われる人を見捨てることもできない。
もしも見知らぬ通行人を見捨てることができれば、義人は無事に家までたどり着くことができる。その代わり、親子連れは間違いなく魔物の牙にかかることになるだろう。それを是とするか、非とするか。
「迷うまでも……ないか!」
勝てないから逃げ出す。しかし、被害が出そうになれば立ち向かう。
なんとも中途半端な自分に僅かな落胆を抱きつつ、義人は地面を蹴った。
“自力で”『加速』を発動し、弾丸の様に一直線に走り出す。加減もなく加速したため地面を蹴った右足から鈍痛が伝わるが、義人はそれを無視して化け熊を睨み付けた。『加速』を使うことで一気に魔力が消費されるが、気を張って体から力が抜けないように意識する。
彼我の距離はおよそ二十メートル。それを三歩で走破し、義人は全力で『強化』をかけながら体当たりを敢行する。
加速し、踏込み、肩口からぶつかり、化け熊を一気に吹き飛ばす。それと同時に『加速』を解除すると、風魔法を発動して突風を叩きつけて二匹の化け犬も吹き飛ばした。
「っつぅ……早く、逃げてください」
体重差を無視して体当たりをした影響か、左肩から妙な痛みが伝わってくる。それでも、義人は痛みに眉をしかめながらも、母親の女性へと声をかけた。
「え……あ……は、はい……ありがとう、ございます」
母親の女性は義人の言葉に戸惑いながらも頷くと、娘を抱き上げ、乳母車を押しながら足早に去っていく。義人は遠ざかる足音を背後に聞きながら化け熊達に視線を向けると、化け熊達はダメージなどないかのように起き上がっていた。
「くそ……嫌になるな。素手で熊と戦うとか、俺は志信の爺さんじゃねえんだぞ……」
確かめるように左手を開閉しながら、愚痴のように呟く義人。僅かに痛みがあるが、拳を握ることはできる。腕も、動かすことはできるようだ。
そして、自分が漏らした呟きの内容に気付き、義人は眉を寄せる。
「志信の爺さんか……帰ってきてないかな……」
ここからならば、志信の家まで遠くはない。走れば三分とかからずに到着することができるだろう。ただ、志信の祖父である源蔵が帰宅しているかはわからなかった。“こちらの世界”に戻って以来、志信のことを伝えるために何度か電話をしているが、一向に捕まらないのだ。もっとも、志信からは『祖父は旅に出ている』という話を聞いてもいたので、納得のできることではあったが。
「でも、あそこなら庭も広いし塀にも囲まれてるか……」
上手くすれば、人目につかずに戦うことができる。そして、この場に留まって戦えば、再び通行人を巻き込む可能性もあった。
「……ああ、くそ! お前らこっちに来い!」
一瞬だけ迷い、義人は化け熊達に背を向けて走り出す。ついでどばかりに挑発を兼ねて風の塊を飛ばしてみると、化け熊達は咆哮を上げて義人の後を追い始めた。
志信の住む家は、義人の住む家からそう遠くない場所にある。それは志信の祖父、源蔵の意向からか、洋風の住宅が増える昨今の風潮に逆らうような、純和風の家だった。
道路に沿うように作られた塀に、見知らぬ人間が足を踏み入れることを戸惑わせるような木造りの門扉。そして、その門を潜った先に立つ、平屋建ての母屋。さらに、母屋から僅かに離れた場所には道場が建てられ、庭は広い面積に渡って玉砂利が敷き詰められている。
日本人としては、平時に見れば心の落ち着く光景だろう。縁側にでも座り、お茶でも飲めばさぞ気分が安らぐに違いない。しかし、今の義人にそんな余裕はなかった。
化け熊達から一定以上距離を離さないように注意しながら走り、志信の家まで到着したら一気に跳躍する。そして門扉の頂上に手をつくと、跳んだ勢いと『強化』を使った腕力を頼りに門を飛び越えた。続いて、着地をするなり門を閉めている閂を外し、門を開け放つ。
志信の祖父が帰ってきたら土下座をして謝ろう。そんなことを考えながら、義人は化け熊達を門の中へと招きこんだ。広い庭と、周囲からの目を阻む塀。これで武器があれば完璧だったが、さすがに道場の扉を破って中にあるであろう木刀などを借りるわけにもいかない。それは、最終手段だ。
「ガアアアァァァー!!」
義人が速度を落としたことを好機と見たのか、化け犬の片方が力強く地面を蹴る。そして一気に速度を上げると、義人へと肉薄した。それに気づいた義人は油断なく迎撃の構えを取るが、思わず目を見開く。
当然のことではあるが、人間を相手にする場合と獣を相手にする場合では戦い方が異なるものである。相手が二足歩行で人間大の生き物ならば、ある程度は適応も可能だろう。しかし、相手は犬と似た姿形をした魔物だ。四肢を地面について走るその姿は、義人の腰ほどの高さもない。
ノーレがあったならば、話は別だった。真っ直ぐ突っ込んでくるだけなら、一刀両断にすることも可能である。しかし、現状義人が取れる攻撃手段は無手での打撃か、風魔法のみ。低い位置を走る獣が相手ならば、タイミングを合わせて蹴り上げるのも効果的だろう。そう判断した義人は、反射的に右足で回し蹴りを繰り出す。だが、化け犬は蹴りの軌道を見切ったのか、それまでよりもさらに低い体勢で蹴りを回避して義人の懐へと潜り込むと、迷うことなく首筋目がけて飛びかかってくる。
首―――とりわけ動脈を噛み切られでもしたら、間違いなく致命傷になる。出血多量か、もしくはその前に痛みでショック死することになるだろう。そんな未来が僅かに脳裏を掠め、義人は全力で頭を横へと倒す。
ガキン、という牙の噛み合わさる音が義人の耳に届く。そのあまりの近さに思わず震えそうになるが、そんな余裕もない。化け犬の牙をかわしたものの、飛びかかってきたその体自体は避けようがない。
「―――ぅおっ!?」
化け犬の体重がかかり、蹴りを繰り出した体勢だった義人はそのまま後ろへと倒れた。その際背中を打ち、僅かに呼吸が止まる。しかし、そこで咽るよりも早く、義人を倒した化け犬とは違う、もう一匹の化け犬が接近しているのが目に入った。そして、嬉しげに歯を鳴らしながら義人へと飛びかかってくる。
「食われて……たまるか!」
意識が遠のくのをつなぎとめ、必死に集中して義人は全力で風魔法を行使する。自分と化け犬の間に魔力を集中させると、自身が吹き飛ぶのも構わず突風を生み出す。瞬間的に発生した竜巻並の風圧を受け、化け犬二匹が真後ろへと吹き飛んだ。そしてそのまま壁に叩きつけられると、僅かに呻き声を上げて動かなくなる。当たり所が悪かったのか、それとも気絶しただけなのか、義人にはわからない。義人は地面に接地していた分、それほど吹き飛ばなかったが、それでも激しい勢いで玉砂利の上を転がったせいで服が裂け、体のあちこちに裂傷ができていた。
「いってぇ……自爆技って、洒落になんねぇ……」
肩の痛みだけでなく、全身から痛みが伝わってくる。量はそれほどでもないが、裂傷の内いくつかは血が出ていた。
「でも、これであとは熊だけ―――」
そう言って義人は顔を上げ、目の端に映った“何か”に、いきなり殴り飛ばされた。
左頬と、左脇腹への衝撃。掬い上げるように放たれたその衝撃で、義人の体が宙に浮く。次いで地面を三回ほどバウンドして壁に叩きつけられると、義人は自分を殴り飛ばした相手へと目を向けた。
化け犬が吹き飛んだことなど気にも留めなかったのか、そこには二本の右腕を振り切った体勢の化け熊が唸り声を上げながら立っていた。義人が起き上がるよりも早く接近していたらしく、義人は思わず舌打ちをして眉を寄せる。
左頬に伝う、温かい液体。右手で触れて見れば、べったりと血が付着していた。どうやら殴ると同時に爪で抉られたらしく、すぐには止まらないほど血が流れている。
脈拍と同時に血が傷口から溢れる感触と、継続的に伝わってくる痛み。深呼吸のために息を吸い込んでみれば、左の脇腹もじくじくと痛む。
致命傷ではないが、重傷に近い。気を抜けば膝が震えそうになるのを堪えながら、義人は深くため息を吐いた。
「さて……こいつはどうやって倒せばいいのやら……」
化け犬二匹を倒せたのも、実力と言うよりは運に近い。志信なら素手でも十分に余裕をもって倒すことができただろうが、義人は志信ではなかった。義人は改めて親友の規格外さを実感し、痛む体を無視して構えを取る。
それと同時に、化け熊が四つ腕を広げながら義人へと突進した。それを見た義人は、迷わず右手を振って風の刃を化け熊へと飛ばす。しかし、飛ばした風の刃は化け熊に僅かな傷をつけるだけで、化け熊の突進を鈍らせることもできなかった。
「くそっ!」
腕が振り下されるよりも早く、義人は真横へと転がって化け熊の突進を避ける。そしてすぐに距離を取ると、再度風の刃を生み出して化け熊へと放った。
体格や体重差もさることながら、全身を覆う体毛や、脂肪と筋肉による防御力、頑強さは人間の比ではない。化け熊は四つ腕を振るって風の刃を叩き消すと、義人へと再度突進する。
このまま逃げ回っても、いずれは捕まるだろう。だが、義人も自身の攻撃が通じないとわかっている以上は逃げ回るしかない。振るわれる四つ腕をかわし、時には掠らせながら、逃げ回ることしかできない。
「っ……はぁ……はぁ……倒すのは、無理だな……」
逃げ回っている間にも血が流れ、徐々に体が重くなってきた。義人はそれを自覚し、足を止める。
ここまで疲労していては、逃げることも困難。時間が経てば、化け犬が起き上がってくる可能性もある。その上、化け熊を“倒す”方法もない。
―――覚悟を、決めるしかないか。
心中で独白し、義人は歯を噛みしめる。
先ほど口にした正義のヒーローならば、ここから華麗な大逆転も可能だろう。しかし、義人はヒーローなどではない。
動きを止めた義人を訝しんだのか、化け熊がゆっくりと近づいてくる。それを見た義人は、同じように化け熊へとゆっくり歩を進めた。
全身……とりわけ左半身の痛みが酷いため、体の左半分を引きずるようにして歩いていく。化け熊も最初は訝しげにしていたものの、義人の様子を見て抵抗らしい抵抗も不可能だと判断したのか喜ぶように口元を歪めた。そして、大人の頭でも噛み砕けそうな口を開きながら、義人へと四本の腕を伸ばす。
それを見た義人は、不意を衝くように軽く地を蹴った。
魔物も生きているからと、倒す―――気絶させることを考えていたが、それも最早無理である。このままでは義人自身が死に、その後は手当たり次第通りかかった人間を襲うだろう。
それならば、残った手は一つ。
倒せないのならば―――あとは、殺すしかない。
開いた口を目がけ、右手を突き出す。それと同時に化け熊の口が閉じられ、義人の右腕へと鋭い牙が食い込み、
「あああああああああああぁぁぁ!」
腕を食いちぎるよりも早く、義人は全力で鎌鼬を発生させた。口の中、否、体の中で風の刃が暴れ回り、化け熊は思わず閉じた口を開ける。そして口から大量の血を吐き出すと、二歩、三歩と後ろに下がった。
「とどめだ!」
残った魔力のほとんどを使い、義人は風の塊を発生させる。続いて、物理的な破壊力を伴ったその一撃を、化け熊の腹部へと叩き込んだ。先ほどまで使っていた魔法とは威力の違うその一撃に、さすがの化け熊からも悲鳴が上がる。
残った魔力では『強化』を維持するだけで精いっぱいだが、それでも、自身の放った魔法が決定打になることを義人は確信していた。
「ガァァァァァァアアアアアアアッ!」
化け熊は断末魔を上げると、そのまま仰向けに倒れこむ。そして数回痙攣すると、まるで糸を切ったかのように動きを止めた。
「……は……や、やったか……」
倒れて動かなくなった化け熊を見て、義人は小さく呟く。
化け熊が倒れ込んだ際の音と断末魔で近所の人間が様子を見に来るかもしれないが、義人にはそれを気にする余裕もない。今は、それよりも先にすることがあった。
「……あっちにも、とどめを刺さないと」
そう言って、義人は二匹の化け犬に向かってゆっくりと歩き出す。気を失っているのか、それとも死んでいるのかはわからないが、生きているのならとどめを刺さなければならない。
その後はどうすれば良いのか。そんなことを胡乱な頭で考えながら、義人は化け熊の口へと突っ込んだ右腕に視線を向け、思わず顔をしかめた。
―――見なきゃ良かった……。
喰いちぎられてはいないが、それでも牙が深く食い込んだせいで傷が深い。穴のような傷口から覗く白い物体は、自身の腕骨だろう。熱さを伴った痛みは、そのまま倒れて泣き出したいほどに辛かった。
痛みのせいか、自分がちゃんと歩けているのかもわからない。音も遠く聞こえ、今なら例え耳元で銃声が聞こえても平気だろう。
故に、義人は気付くことができなかった。
倒れたはずの化け熊が身を震わせ、その身をゆっくりと起こす。そして、門扉へ向かって歩いている義人の姿を見つけ、歯を鳴らしながら六足で歩き始めた。しかし、その化け熊の足取りも義人同様に遅い。何せ、体の内側を刃物で滅多刺しにされたようなものだ。人間では致命傷であり、即死してもおかしくはない。だが、それでも化け熊は義人の傍まで歩み寄ると、その身を立ち上がらせていた。立ち上がり、背を向けた義人に対して四つ腕の内一本だけを振り上げる。
立ち上がることはできても、四本の腕すべてを動かすだけの力は残っていないのか。それでも、腕一本が動けば十分である。
腕が一本動けば、義人を殺すことも可能だ。
「義人ちゃん!」
「おとーさん!」
切羽詰まった声が遠くに聞こえ、義人は無意識の内に声のした方へと視線を向けた。向けた視線の先にいたのは、入り口の門から敷地内へと足を踏み入れた優希と小雪の姿。優希は義人の言葉を守ったのか、抱き締めるようにして両手でノーレを持っている。
そして二人は、義人の様子を見て目を見開いた。
「おとーさんっ!」
義人の危機を見た小雪が、すぐさま地面を蹴る。しかし、門から義人がいるところまでは、一足で詰められないほどの距離があった。
小雪の行動を見て、義人は痛む体で背後へと振り返る。すると、そこには右腕を振り上げた化け熊の姿があった。
避けるだけの体力は、既にない。
風魔法を放つだけの魔力も、既にない。
「おとーさんからはなれろっ!」
小雪が叫ぶ。しかし、小雪が駆け寄るよりも、満身創痍の化け熊が腕を振り下す方が早い。
小雪が化け熊を倒すよりも、化け熊が義人を殺す方が―――早い。
そして、その予測を証明するかのように、化け熊の剛腕が義人へと振り下された。