第百三十六話:忍び寄る影
幸福、という言葉がある。
読んで字の如く、幸せであることを表す言葉だが、それを強く実感したのは十八年近く生きてきた義人にとっても初めてのことだった。
何故幸福かと自問すれば、即座に自答として優希の顔が脳裏に浮かんでしまうぐらいに理由はハッキリとしている。なんのことはない、ずいぶんと長い時間がかかってしまったが、優希と恋仲になったのが理由だった。幼馴染みという関係上、ある意味では自然の流れとも言えたが、それでも義人にとっては今までの人生の中でも中々類を見ない出来事と言える。
志信などの友人が一緒にいるときは違う、今まで感じたのことのない感情。それまでは優希と一緒にいても緊張することはほとんどなく、むしろ安らぐことが多かった。しかし、それに加えて言いようのない、胸が満たされるような感覚がある。
はてそれはなんだろうか、と義人は首を捻るものの、上手い言葉が見つからない。
そうやって悩み、どれぐらいの時間が過ぎたのだろうか。朝起きてから朝食を摂って以来、自室で一人ベッドに腰掛けて考え事をしていた義人に、恐る恐ると言った口調でノーレが話しかけた。
『のう、ヨシト……お主、大丈夫か?』
そう問いかけるものの、義人からの返事はない。本当は違う用件で話があるのだが、今のままでは話すだけ無駄だろう。義人は何を考えているのか、頬を緩めながら一人頷いているだけだ。そして、数秒ほど経ってからようやくノーレへと視線を向ける。
「……っと、あれ? 今、話しかけたか?」
『話しかけたが……先ほどから何を一人で笑っておるんじゃ?』
「え? あーっと……」
ノーレにそう言われ、義人は表情を引き締めた。気を抜けば無意識の内に笑みを浮かべてしまいそうになり、傍目から見ればさぞおかしく見えるだろう。それを自覚した義人だが、時間が経てば元に戻ってしまい、再び緩い笑みを浮かべてしまう。
『……ト……ヨシト!』
再度意識をどこかに飛ばしてしまったらしい義人に、ノーレが声を大にして呼びかける。すると、義人は不思議そうな顔をしながら周囲を見回した。
「……っと、あれ? 今、話しかけたか?」
『うむ。その台詞も、まったく同じものをつい先ほど聞いたわい』
「そっか、そりゃ悪かった。それで、どうかしたのか?」
不思議そうな顔をする義人を前にして、ノーレは声に出さず大きなため息を吐いた。ここ最近、彼女の使い手である義人とはことあるごとに同じような会話をしている。さすがに魔法の訓練をしている時は真剣だが、それ以外のふとした拍子に義人が気を緩ませる―――優希のことを考えて周囲の状況がわからなくなることがあった。
それ自体は別に良い。ノーレとしても、二人の関係は祝福すべきことだとわかっている。傍から見ても似合いであるし、義人と優希の仲が良いと小雪も喜んでいる。“向こうの世界”に戻れた場合、一悶着どころではない騒ぎが発生するだろうが、現状では問題ではない。そのため、ノーレは現状で気にかかっていることを確認することにした。
『妾が以前話したことを覚えておるか?』
「以前……って、いつのことだよ?」
あまりにもアバウトな話の振り方に、義人は首を傾げる。以前と言われても、ノーレと言葉を交わした機会は多いのだ。
『ほれ、“妙な気配”がすると言うたではないか』
「ああ。魔法の訓練をしている時にそんな話をしてたっけ。それがどうかしたのか?」
軽く記憶を掘り返し、義人はノーレに話を促した。すると、ノーレは僅かな間を置いてから話の続きを口にする。
『あの時は気のせいかと思ったんじゃが、ここ数日でその気配が強まったように感じるんじゃ……気のせいとは思えないぐらいに、のう』
「強まったって……その、妙な気配ってやつが?」
『うむ』
確信を持った口調で肯定の返事をするノーレに、義人は緩んでいた気を引き締めた。
「妙な気配、か……俺は何も感じないけどなぁ。気配とか殺気とか、そういった目に見えないものは志信ならわかったんだろうけど……」
『仏頂面を基準に考えるとロクなことにならんぞ? アレはお主が使った風魔法を感覚だけで打ち払ったこともあったしのう』
「そんなこともあったなー。んで、その気配がどうしたって?」
何か危険があるのか、と言外に尋ねる義人。ノーレはそんな義人の意図を正確に読み取ると、ため息混じりに答える。
『わからん。“この感覚”が何を指しておるのか、現状では判断がつかんのじゃ。ただ、何が起こっても大丈夫なように常に気を張っておけ。今のお主の様子を見ていると、不安で仕方がないわい』
「ぐぬ……そんなに気が抜けて見えたか?」
『戯けめ。その質問を口にしている時点で、気が抜けていると言っているようなものじゃ』
呆れた口調で告げるノーレに、義人は誤魔化すように乾いた笑いを浮かべた。しかし、笑っている途中で何かに気付いたのかベッドから立ち上がる。
「それなら優希や小雪にも注意を促しておかないとな」
『それはそうじゃが、何故立ち上がるんじゃ? “ケイタイデンワ”を使えばいいじゃろ?』
“こちらの世界”での生活に慣れたのか、ノーレはそう言って携帯電話の使用を促す。それを聞いた義人は、“向こうの世界”に召喚された際は部屋に置きっ放しにしていた携帯へ視線を向け、すぐに逸らした。
「い、いやぁ、家近いし、直接話せば良いだろ?」
『“ケイタイデンワ”を使った方が早いじゃろうに……』
ノーレは呆れたようにそう言うが、途中で何かに気付いたのか意地悪げな声を漏らす。
『ははぁ……さてはお主、自分からユキに会う理由にするつもりじゃな?』
ピクリと、義人の肩が震える。どうやら図星だったらしく、そんな義人の姿を見たノーレは楽しそうに笑った。
『くくく、愛いやつめ。それならば仕方ない。“ケイタイデンワ”など使わず、直接訪ねるが良いわ』
「だぁーっ! うっせ! からかうなよ!?」
ノーレの言葉に気恥ずかしさを感じつつ、義人は誤魔化すように叫ぶ。しかし、そんな義人の態度が面白いのか、ノーレが口を閉ざすことはなかった。
『何を言うか。毎日飽きもせずに顔を合わせ、乳繰り合っておるではないか』
「人が聞いたら誤解するようなことをサラッと言わないでくれませんかね!?」
そう言って、義人は手が痛むことを気にせず王剣の鞘へと裏手で突っ込みを入れる。本当に乳繰り合っているわけではないが、突っ込みを入れずにはいられなかった。そしてノーレに背を向けると、逃げるように部屋のドアノブに手をかける。
「じゃあ、ちょっと行ってくるからな!」
『うむ、行ってくるがよい。魔法の訓練は午後からで良いじゃろう。まあ、本当ならば妾も連れて行けと言いたいところじゃが、それは無粋に過ぎるというものじゃし……のう、ヨシト?』
ノーレへの返事は残さず、義人は部屋を後にする。帽子などの人相を隠す道具を手に取っているあたり実は冷静なのかもしれないが、それは確かめようもない。ノーレはそんな義人の背中を見送ると、静かになった部屋の中で小さく笑う。
『ふふ……ちと羨ましいのう』
義人が、ではない。それならば優希かと聞かれても、答えは否だ。単純に、“互いに触れ合えること”が羨ましい。
『まあ、今の妾には叶うはずもない願いか……』
それだけを呟き、ノーレは意識を遠くへと向けた。
ここ最近感じている“妙な気配”。それが強まっていると口にしたが、それと同時に言いようのない不安も覚えてしまう。
それは未知に対する恐怖か、それともどこかでその気配を知っている気がするからか。
『何もなければ良いんじゃがな』
今頃家から外へと出ているであろう義人のことを思い浮かべ、ノーレは小さく呟く。
その呟きが叶わぬことを、この時のノーレは知るはずもなかった。
「……というわけで、ノーレが注意しといてくれだってさ」
優希の家に上がった義人は、ノーレとの会話をそのまま優希と小雪に言って聞かせた。
今日は平日のため、優希の両親の姿はない。
「はーい」
本当にわかっているのか、義人の顔を見るなり背中によじ登った小雪が返事をする。
「でも、何に注意すればいいのかな?」
優希は疑問を覚えたのか、小さく首を傾げながらそう尋ねた。それを聞いた義人は、同じように首を傾げる。
「さあ? でも、ノーレが見当はずれなことを言うわけもないしな。とりあえず、身の回りで異常がないか注意しようか」
注意をすると言っても、気を抜かないのも疲れてしまう。そのため、適度に注意をしようと義人は内心で呟いた。もっとも、“こちらの世界”で注意するのも高が知れている。
“向こうの世界”ならば“こちらの世界”の日本のように治安が良いわけではないし、魔物なども生息している。その上、義人は国王という役職に就いていたため何が起きるかわからず、身の回りには護衛の兵士もいた。その頃と比べれば、注意する点も異なる。
“こちらの世界”で注意するならば、道路を走る車や通り魔に対してだろうか。そんなことを考え、義人は再度首を捻った。
「えーっと……信号無視をしない、とか?」
「でもそれって当たり前のことだよね」
「だよな」
“向こうの世界”に自動車はないため、危険と言えば危険だが方向性が違うように感じられる。かといって、可能性としては低いが通り魔が出たとしてもあまり問題はないと義人は思っていた。何せ、“向こうの世界”では数度とはいえ修羅場を潜っている。相手が銃器を持っていたら話は別だが、こちらは魔法が使えるためどうにかなるだろうという思いもあった。
そうやって義人と優希が意見を交わしていると、義人の背中にぶら下がったままで話に入りそびれた小雪が右手を上げる。
「こゆきはなににちゅーいしたらいいの?」
「そうだなぁ……知らない人についていかない、とか?」
「しらないひとー?」
「そう。見たことも話したこともないのに『お菓子あげるからこっちにおいで』とか、『お父さんとお母さんが呼んでる』とか言う人には注意しような。大抵、変質者だから」
そう言いつつ、背中にぶら下がる小雪を正面に移動させて頭を撫でる義人。義人に頭を撫でられた小雪は心地良さそうに目を細め、小さく頷く。
「わかった。しらないひとにはついていかない」
「よしよし、良い子だ」
「しらないひとにおとーさんがいってたことをいわれたら、たたいて“あくにんたいじ”するね」
「よしよし、ちょっと待ちなさい」
撫でる手を止め、義人は物騒なことを口走った小雪と目線を合わせる。
「退治しなくていいから。小雪が変質者を退治しようとしたら、とんでもないことになるから」
「でも、へんしつしゃなんだよね?」
「変質者だから攻撃しても良い、なんてことはないんだよ。というか、小雪が力加減を間違うと洒落にならないだろ?」
洒落にならないどころか、傷害事件になることは確実だろう。多少の傷を負わせるだけで済んだら良いが、重傷もしくは相手を死亡させる可能性もある。
「むー……でも、“てれび”では“ひーろー”がわるいひとをやっつけてたよ?」
義人の言葉に納得がいかないのか、小雪は首を捻るだけだ。“こちらの世界”で生活する間に子供向けのヒーローものアニメでも見てしまったのか、悪人は殴って退治すれば良いと思っているのかもしれない。
そんな小雪をどう諭したものかと義人が悩んでいると、優希が微笑みながら小雪の頭に手を乗せた。
「そういう時はね、小雪が退治するんじゃなくて『おとーさん』に助けてもらえば良いんだよ」
「おとーさんに?」
「そうだよ。小雪にとっては『おとーさん』もヒーローみたいなものでしょ? それに、小雪が危ないことをしたら義人ちゃんもわたしも心配するしね」
そう言って、優希が小雪の頭をゆっくりと撫でる。
「……うん。わかった」
ようやく納得したのか、それとも優希に頭を撫でられる心地良さでどうでも良くなったのか、小雪が頷く。そして、それに続いて口を開けると、小さなあくびが零れた。
「……こゆき、ねむい」
小雪が洋服の袖口で目を擦りながらそう言うと、義人と優希は顔を見合わせる。
「今日は何時に起きたんだ?」
「六時過ぎ、ぐらいかな? 小雪が目が覚めたとかで、起きるのがいつもより早かったね。それじゃあ小雪、少しだけお昼寝しようか?」
「うん……」
昼寝というには早い時間帯だが、小雪は生まれて一年も経っていない。人間で言えば赤ん坊であり、眠いと言うなら寝かせるべきだろう。そう判断した義人は優希の言葉に追従するように頷いた。
「そうだな。優希のベッドで良いか?」
「……んー」
既に眠気が強くなってきているのか、返ってきたのは生返事である。義人はそんな小雪に苦笑すると、横抱きに抱え上げて優希のベッドへと寝かせた。すると、小雪はものの数秒で眠りに落ちてしまう。そんな小雪の寝顔を眺めて、義人は苦笑を柔らかいものへと変えた。
「いや、眠るの早いなー。食べて、寝て、遊ぶのが子供の仕事だけどさ」
「そうだね。“向こうの世界”でも割とお昼寝はしていたんだけど、“こっちの世界”でもそれは変わらないや」
優希は眠りについた小雪を一撫ですると、壁に掛けてある時計へと目を向ける。
時刻は午前十一時を僅かに回ったところであり、時計を見た優希はポンと音を立てながら両手を合わせた。
「そう言えば、お昼ご飯の材料がないんだよね。お米もあまりなかったし、義人ちゃんさえ良ければ一緒に買い物に行かない?」
「買い物? 重いものがあるなら付き合うよ」
「いいの?」
「もちろん。重いものは俺が持つから」
魔法の訓練は午後からのため、丁度良いと言えば丁度良い。自宅に帰って自分一人で昼食を取るよりも、優希の家で優希や小雪と共に昼食を取った方が余程建設的である。
そうして、義人と優希は二人で連れ立って外出をすることにしたのだった。
義人や優希が住む住宅街から最も近いスーパーは、徒歩で十五分ほどの位置にある。本来ならば自転車を使った方が早いのだが、特に互いに示し合せることなく、自然と徒歩で向かうことにした。その際義人はニット帽で髪型がわからないようにし、優希は度の入っていない眼鏡をかけて印象を変えるようにしている。“こちらの世界”に戻ってそれなりに時間が経つが、今まで周囲に気付かれていない以上有効なのだろう。義人は最低限の警戒心だけ残しながら歩を進めていく。
優希と話しながら歩くこと五分少々。義人達は赤信号に捕まってその足を止めた。道路の近くには大きめの児童公園があり、幼稚園や保育園に通っていないと思われる子供が数人ほど遊んでいる。
義人はそんな子供たちを遠目に眺め、僅かに目を細めた。空は雲一つなく、たしかに屋外で遊ぶには最適だろう。春が近づいているため、気温も十分暖かい。空には渡り鳥でも飛んでいたのか、やけに“巨大な影”が地面を走っている。
それらの光景を眺め、義人は隣に立つ優希へと話を振った。
「いや、それにしても小雪もいつの間にヒーローもののテレビ番組なんて見たんだか―――」
そこで不意に、義人は言葉を途切れさせる。
“何か”が、引っ掛かった。
それが何なのか、僅かに黙考する。そして、つい今しがた地面を移動していた影に視線を向け、そこから空を仰ぎ見た。
そんな義人の様子に気づいた優希は、義人と同じように視線を移動させ、『あ』と声を漏らす。
「大きい……鳥?」
疑問の含みを持たせて、優希が呟く。優希の声を聞いた義人は、それに応えることもできずに呆然と空を見つめた。確かに、鳥と言えば鳥だろう。しかし、素直に首肯するわけにもいかない。
そんな義人の視線の先にあったのは、
「……おいおい。なんで“アレ”が“こっちの世界”にいるんだ……」
“向こうの世界”に召喚されたその日に遭遇した紫色の化け鳥が、“こちらの世界”の空を飛んでいる姿だった。