第百三十五話:亀裂 その2
―――カグラが視力を失った。
その情報はすぐさまアルフレッドの元へと伝わり、彼は額に手を当てて天井を仰ぎ見る。状況は最悪の方向へと転んだと思っていたが、それもまだ甘かったらしい。こうなれば、最悪という底を突き破り、どこまで下へ落ちていくかもわからない。
目が見えないことでカグラ個人が感じる不便さ。
『召喚の巫女』が視力を失ったことでカーリア国が被るであろう被害と影響。
それらを考え、執務室で政務をこなしていたアルフレッドはため息を吐かざるを得なかった。
もしもカグラではなく、城下に住む民の一人が視力を失ったと言われたら、アルフレッドはここまで悩まない。不憫には思うが、それだけである。しかし、視力を失ったのが『召喚の巫女』であるカグラならば話は別だ。
目が見えなければ書類も読めず、満足に戦うこともできない。そもそも、日常生活を送ることすら困難になる。
「どうしたものかのう……」
顎に手を当て、アルフレッドは思考に耽る。カグラが視力を失ったという情報は臣下にも伏せており、知るのはサクラやミーファ、それに志信やシアラなどの信用のおける者達だけだ。
国王の失踪に続き、『召喚の巫女』が魔力をすべて消費し、その上で視力まで失ったとなればカーリア国も長くはもたない。遠くない内に内側から瓦解するか、他国の侵略で滅ぶことになる。そうなるよりも早く、何かしらの手を打つ必要があるだろう。
もっとも、いくら情報を規制しようといずれは漏れてしまうため、延命措置にしかならないのだが。
「国内各地で発見されている空中の亀裂も問題じゃし、ヨシト王は相変わらず見つからん……八方ふさがりじゃな」
長い時を生きてきたアルフレッドといえど、打てる手がほとんどない。せめてカグラの行った再召喚で義人が“こちらの世界”へと召喚されていたならば話は別だが、捜索を開始してから日数も経っている。希望的観測は捨てなければならないだろう。
義人が姿を消して以来溜まっている政務の数々に、国内各地で散見される謎の現象。そして、カグラが視力を失ったことへの対応。隣国では再び戦火の影が迫っており、カーリア国としても無関係ではいられない。しかし、それらに対して明確な指針を示せる“人間”がいないのだ。
アルフレッド自身が指針を示すこともできるだろうが、それは魔物であるアルフレッドの職分を超えている。
「国王と“カグラ”がいなくては成り立たない国、か……」
いっそ、ここまで国として続いたことがおかしかったのかとアルフレッドは苦く笑う。アルフレッドとしては、何百年も支えてきた国だ。辛いこともあったが、楽しくもあった日々。遥か昔に友人から言われた通り、忙しくて退屈はしなかった。
「……いかんな」
いつの間にかカーリア国が滅んでしまう未来を受け入れかけていた自分に気づき、アルフレッドは緩やかに首を横に振る。急転する事態を前にして、疲れが溜まっていたのかもしれない。
「儂も老いたのかのう……」
顎鬚を軽く撫でつつ、アルフレッドは苦笑した。優に千年以上を生きる長命のエルフの中ではまだ壮年の域を出ないが、人の中で生きる内に精神が老いていたらしい。そのことに笑うと、アルフレッドは止まっていた政務を進めるべく政務用の机に積まれた書類に目を向けた。
難局といえど、“まだ”全てが終わってしまったわけではない。片づけるべき仕事は山のようにあり、アルフレッドの指示を仰ぐ臣下も多くいた。
現状を打破することはできないが、せめて現状を維持する。それが、アルフレッドにできる精一杯のことだった。
「これから、どうなるのかな」
不意に聞こえてきた声に、シアラは無意識の内に声のするほうへと視線を向けた。その視線の先にいたのは、シアラが隊長を務める魔法隊の隊士である。女性の比率が高い魔法隊のため、仕事の最中でも同僚と言葉を交わす者がいるのだ。行き過ぎなければシアラも咎めないため、その会話がシアラの耳に入ったのはある意味仕方のないことだった。
何もない空間に亀裂が入るという謎の現象が報告されて早五日。カーリア国の中でも魔法に長けた部隊である魔法隊は国内のあちこちへと派遣され、空間に入った亀裂について調査する日々を送っていた。
シアラも例に漏れず、十名ほどの部下を率いて確認された亀裂の一つ……カーリア城から東へ徒歩で五時間、『強化』を使いながら走って三十分ほどの位置にある森の傍へと足を運んでいた。
「ヨシト王もいないし、カグラ様の様子も変だし……アルフレッド様は毎日忙しそうにしてるよね」
「うん。それに、この妙な現象がね……あーもう、いくら魔法隊の人間だからって、知りもしない現象を調査しろって言われても困るんだけどなー」
シアラと大して歳が変わらない隊士達が愚痴のように言葉を交わし合う。シアラはそれを無表情に聞いていたが、何か思うところがあったのか隊士のほうへと歩み寄った。
「……そんなことを言ったら駄目」
「うわっ、隊長!?」
背後からかけられた声に、無駄口を交わしていた隊士達は慌ててシアラの方へと向き直る。愛玩的な扱いを受けることもあるが、シアラが魔法隊の隊長であることに変わりはない。何かしらの叱責を受けると思った隊士が背筋を伸ばすと、シアラは小さくため息を吐いてから空中に走った謎の亀裂に視線を向ける。
「……わたし達は、できることをやれば良い。今は調査が大事」
「それはそうなんですが……さすがに、調査しても何もわからないと気も滅入りますよ……」
魔法剣士隊と交代をしながら調査をしているが、一向に原因も亀裂の正体もわからないため隊士達にも疲労の色が見え始めていた。それを理解しているが、シアラとしては受けた指示を全うするしかない。
「……わからないなら、わからないで良い。それも一つの報告。それに、その場合はアルフレッド様から次の指示がくる」
調査の結果としては最低だろうが、わからないものはわからないのだ。シアラはカーリア国ではカグラに次いで魔法や魔法具などについて詳しいが、そのシアラでも目の前の現象は理解できない。しかし、カグラが義人の再召喚をしようとしたその日以降にこの現象は確認されたのだ。紐付けて考えるのが妥当だろう。
今のところ、亀裂によって何かしらの影響が出たという話は聞いていない。これから先も影響がないかはシアラも断言できないが、現状では害がないと言える。
「隊長なら“コレ”が何かわかるんじゃないんですか?」
そう言って、隊士の一人が空中の亀裂を指差す。その場所にあったのは、直径一メートル、幅二十センチほどの亀裂だった。それまであった風景を切り取ったように、真っ黒な多角形の穴が空中に浮いている。
「……わかったら苦労はしない」
「そうですよね……」
試しに木の棒を亀裂の中に入れてみたり、石を投げ入れたりしてみたが、特に変化もない。ただ、投げ入れた石が戻ってこなかったことがシアラの気にかかっていた。
「いっそのこと魔法を撃ち込んでみましょうか?」
良いことを思いついたとばかりに一人の隊士が手を合わせる。
「……駄目。何が起こるかわからない」
そんな隊士を見て、シアラは小さく首を振った。木の棒や石が大丈夫だったのだから、魔法も大丈夫という結論には賛同できない。
そうやってシアラが部下と亀裂の調査をしていると、不意に傍の森から一斉に鳥の群れが飛び立った。魔物には分類されていない、小型の鳥である。まるで何かから逃げるように、鳥の群れが森から離れていく。
「隊長、今のって……」
いきなり鳥の群れが飛び立ったことに疑問を覚えた隊士が呟く。
野生の動物というのは自身に迫る危機に対して敏感であり、時には予知染みた正確性を持って行動を取ることがある。そのことを知っているシアラは亀裂の調査を一時中断すると、常に携帯している木製の杖を両手に握りしめて森の方へと視線を向けた。
「……全員、警戒」
小さいが、よく通る声で指示を出す。すると、それまで緩い雰囲気だった魔法隊の隊士達も気を引き締め、各々杖を構えた。
カーリア国の東側には魔物が生息する鉱山地帯があり、その周囲にある森にも魔物が多く生息している。しかし、だからといって森に住む鳥達が一斉に逃げ出すことはない。逃げた鳥達も日常的に森にいる以上、魔物と接する機会はあるのだ。
その鳥達が逃げ出した。その一事だけで、警戒する理由になる。
強い魔物が冬眠から目を覚まし、空腹を満たすために手当たり次第に周囲の生き物を襲い始めたのか、それとも天変地異の前触れか。そんな考えがシアラの頭を過ぎった。しかし、警戒をしていても一向に変化はない。
「隊長、どうしますか?」
緊張の滲んだ声で隊士が尋ねる。その声を聞いたシアラは僅かに逡巡したものの、強い意志を持って口を開いた。
「……もう少しだけ待機。でも、何も変化がなければこちらから確認に行く」
「了解しました」
森の方を注視するが、鳥が飛び立って以降は何も変化がない。だが、“何か”があったことは確実だろう。そう判断したシアラは、何かあった時のために十人いた部下を半分に分けて残し、半分を自身が率いて森へと向かう。
隊長という立場を考えればシアラがこの場に残って指揮を執るべきだったが、森の中に入って中級以上の魔物に襲われた場合、並の隊士では生還できるかわからない。そのため、シアラは何があっても対応できるように周囲に気を配りつつ、森の中へと足を踏み入れた。
可能性は低いが、上級に分類される魔物が森の外に出ようとしているのなら重大な事態である。その場合はシアラが殿を務めてでも隊士を逃がし、事の次第を報告しなければならないだろう。
そんな覚悟すら抱きつつ森の中を進むシアラ達だったが、それを裏切るように何も起こらない。静かな―――静かすぎる森の中を慎重に進み、シアラ達は異常がないかを確認していく。
「何もないですね……」
「……油断したら駄目。何が起こるかわからない」
部下が気を抜きそうになるのを注意しつつ、シアラは周囲の様子を確認する。
風も吹いていないため、木々がざわめく音すら聞こえない。もうじき春を迎えるため、冬眠から目を覚ました魔物の姿があると思ったがそれもない。元々冬眠が必要ない魔物の姿も、見当たらない。
異常と言えば、それが異常だった。もしや魔物が生息しない地域だったかと首を傾げるシアラだったが、カーリア国は建国して以来、国内に数多く生息する魔物に悩まされてきた国である。どの地域にどんな魔物がいるかも、おおよそはわかっていた。その知識と照らし合わせれば、今シアラ達がいる森は中級以下の魔物が生息する場所のはずである。
警戒しながら森の中を進むこと少々。シアラ達は木々がない、開けた場所へと到着した。もっとも、開けたといっても森の中である。半径五メートルほどの、森全体に比べれば針の穴のような空地だった。
「……っ」
そして、シアラは思わず息を呑んだ。龍種などの上級に属する魔物がいたわけではない。森の中で見つけたその空地には、今までシアラ達が“調査していたもの”が存在していた。
――空中に浮かぶ、謎の亀裂。
しかし、その大きさはそれまで見たものとは比較にならない。
「大きい……」
隊士の一人が無意識の内に呟いた。シアラ達が新たに見つけた亀裂は、それまでのものより遥かに大きい。縦幅と横幅、共に二メートル近くあるだろう。人間だろうと簡単に飛び込むことができるほどの大きさの亀裂―――否、最早大穴と言える代物が空中に浮かんでいた。
「隊長」
「……うん。報告が必要」
そう言って、シアラが部下に指示を出そうとする。しかし、それよりも早く目の端に妙なものが移り、シアラはそちらへと足を向けた。
“ソレ”を目にしたシアラは膝を折り、真剣な表情で地面を見つめる。
枯れ葉が散らばり、ところどころ土がむき出しになった地面。その土の部分が、不自然に凹んでいた。
「……これは、足跡?」
魔物が住む森の中である。間違っても人間の足跡ではないだろうが、魔物の足跡が地面に残っているぐらいならば特におかしくはない。
「……大きい」
シアラが妙だと思ったのは、その足跡の大きさだった。小型の魔物は言うに及ばず、シアラが今まで見たことのある魔物の中でも最も大きいであろう足跡。足跡の周囲を探してみると、同じような形の足跡が複数残っている。それらを観察して、シアラは小さく呟いた。
「……四足獣……それも、かなり大きい」
己の言葉に嫌な予感を覚えて、シアラは思わず振り返る。
その足跡の先には、今しがた見つけた大きな亀裂があった。