第百二十二話:新年
肌を刺すような冷たい空気が満ち、その冷たさに合わせたかのような静寂に包まれたカーリア城の謁見の間。その場に集まった文官武官は無言で互いに目配せを交し合い、一言一句たりとも口にしない。
今日は元旦。新年の初日である。
本来ならば、この日は静寂とは縁遠いめでたい日。大晦日を超え、新しく迎えた一年を祝うための日である。
カーリア国では数少ない、国の祝日だ。今日ばかりは王も臣も民も仕事を忘れ、新たな年を祝う。その証拠と言うべきか、城下町からは祭囃子の音色が響き、カーリア城へもその音色を僅かに届けている。旅の楽師でもいたのか、遠くから聞こえてくる音色は音楽の造詣が深くない志信でも一流のものだとわかる腕前だった。
冬の冷気によって冷たくなった石造りの壁に背を預け、志信は場の空気を読み取るように周囲へ視線を向ける。
謁見の間に集まった者達の顔は、端的に言えば暗い。全員がというわけではないが、ほとんどの人間が現状に対して危機感を覚えているのか、表情を暗いものへと変えていた。
一通り見回すと、志信は静かに息を吐く。
―――国の柱となるべき国王が不在……暗くもなるか。
国王が姿を消し、すでに一週間近くが経過している。優希や小雪の姿も見つからず、噂すらも聞こえない。そんな状況では、例え新年を迎えようとも笑顔になれるはずもなかった。
場の空気を十二分に察しているのか、宰相であるアルフレッドが苦々しい表情を浮かべる。
去年―――否、過去十年に遡って、国王が不在で新年を迎えたことはあった。しかし、それは新しい王を召喚するまでのカウントダウンと等しい。故に、新しい国王を迎えるための準備を怠るなと言い含めれば、ある程度は臣下達を抑えることができた。だが、召喚した国王はこの場にいない。
カグラの弁に間違いがないならば、義人達は“元の世界”へと戻ってしまった。それならばいくら探しても見つからず、義人達が見つからないのは“元の世界”へ戻った証拠と成り得るのかもしれない。
この場に集まった文官武官達も、ある程度事態を知っている。そして、もしも本当に義人達が“元の世界”へと戻ったのなら、カーリア国は再び国王を失ったと言えるだろう。志信が国王代理を務めているが、それはあくまで代理。『召喚の巫女』であるカグラが召喚した義人についてきた、いわばおまけの存在だ。
それを証明するように、志信は王座に座っていない。王座近くの壁に背を預け、両腕を組んでこの場の空気を、この場に集まった人間を観察している。
「皆の者」
そうやって場が沈黙して十分少々。
頃合いを見計らったのか、それとも場の沈黙を嫌ったのか、アルフレッドがこの場の全員へと声をかける。国王を除けば『召喚の巫女』であるカグラと並び、最上位の役職に就くアルフレッドの一声だ。場の全員がアルフレッドに視線を向け、その視線を受けたアルフレッドは鷹揚に頷く。
「本日は祝日。仕事を忘れ、しっかりと休むように」
短い言葉。その言葉を聞いた者達は、力なく頷くことで返答した。
そんな光景を見ながらも、志信は何も言わない。志信は国王ではなく、本来この国の人間でもない。この世界の人間ですらない。そのため、この場に集まった人間の間に漂う、僅かに不穏な空気にも口を出さない。
「…………」
正確には、どう口に出せば良いかがわからなかった。
義人達の姿が消えて、まだそれほど日数は経っていない。だというのに、城中の空気は少しおかしくなってきていた。
空気が悪くなっている原因としては義人達の失踪だけに限らず、様々な理由がある。
例えば、国王が不在だというのに近隣の国同士が争っていること。
例えば、国王の代理が立てられてから陳情が通りにくくなったこと。
例えば、文官と武官の間に溝ができつつあること。
他にも細々(こまごま)とした、様々な理由が存在する。その一端に関係する志信ではあるが、本人としては思い当たる節がない。義人の代役として、己にできることをやっている。義人と同じようにはいかないが、それでも代役としてできる限りのことはしていた。
今日も、この後は執務室にこもって政務を片付けるつもりである。未だに昨年の仕事が片付いておらず、いくら新年といっても休めば今以上に政務が滞ってしまう。
「それでは、解散じゃ」
いつの間にか話を終えていたアルフレッドの言葉を最後に、志信は執務室へと向かうのだった。
国王の生活面での世話役兼護衛であるサクラは、新年早々から頭が痛くなる問題に直面していた。
眼前で椅子に座る上司……カグラに対して一度だけ視線を向けると、内心で生じる複雑な思いを噛み殺し、戸惑うように口を開く。
「あの、カグラ様……」
「どうかしましたか?」
サクラの言葉に反応したカグラは、どこか優しさすら感じさせる穏やかな表情をしていた。サクラはそんなカグラの様子に底知れぬ不安を覚えつつ、首を横に振る。
「……いえ、何でもありません」
サクラがカグラの部屋へと訪れた理由は、単に新年の挨拶をするためだった。その挨拶も滞ることもなく終わり、あとは退室するだけ。そのタイミングで、サクラはカグラに対して言い様のない感覚を覚えたのである。
義人達が姿を消し、臣下の中には不安の声を上げる者も多い。それだというのに、何故か今日のカグラは機嫌良く笑顔を浮かべていた。そして、サクラの表情はカグラの笑顔に対比するように暗い。
情緒不安定、と言うべきだろうか。サクラは頭の片隅でそんなことを考え、ここ最近のカグラの様子を思い出す。
突然機嫌が悪くなる時もあれば、逆に突然機嫌が良くなる時もある。そんなカグラの様子を目の当たりにして、サクラはどうしても不安を覚えずにはいられなかった。
「……失礼しました」
そんな言葉を残し、サクラはカグラの部屋から退室する。
「……ふぅ」
扉を閉め、カグラの私室から離れたところでサクラは小さくため息を吐いた。
新年だというのに、どうにも気が重い。その理由を考え、サクラはすぐに一人の人物の顔を脳裏に思い浮かべた。
―――本当に、ヨシト様は“元の世界”へ戻られたのでしょうか……。
心中だけでそう呟くと、サクラは軽く頭を振る。
一週間近く経っても何の情報も入らない以上、カグラの言う通り義人達は“元の世界”へ戻ったのだろう。しかし、それだというのに何故かカグラの機嫌が良い時がある。
現状に対して疑問が沸くばかりのサクラではあるが、自分にできることはほとんどない。国王の付き人ではあるが、カグラのように何かしらの権限があるわけではないのだ。精々が、城中で働く他のメイドに顔が利くという程度である。
「むぅ……どうしたものでしょう……あら?」
考えることを放棄して城下町にある実家に顔を出そうか、などと考えていると、不意にサクラは足を止めて傍にある扉へと目を向けた。
サクラが目を向けたのは、国王が使用するための執務室。今日ばかりは臣民が普段の仕事を忘れて過ごすはずだ。しかし、無人のはずの執務室から人の気配がする。
僅かに目を細め、サクラは音を立てずに執務室の扉へと歩み寄っていく。そして扉越しに室内の気配を窺うと、小さく眉を寄せた。
賊でも侵入したのかと思ったが、室内の気配は動いていない。サクラはそのことを確かめると、右手で扉をノックした。
「……誰だ?」
すると、すぐさま返事が返ってくる。その声に聞き覚えがあったサクラは、『失礼します』と口にしながら扉を開く。
「サクラか。どうした?」
執務室にいたのは、志信だった。執務用の椅子に腰掛け、机に積まれた書類を一枚ずつ確認している。そして時折手を止めると、何度か内容を確認してから王印を捺し、処理が済んだ書類を入れる箱へと入れていく。
「その質問をそのままシノブ様にしたいのですが……何をされているのですか?」
「何をと言われても……」
サクラの言葉に、志信は自分の姿を確認する。
かつて通っていた学校の制服を着て、手には王印の複製を持ち、執務机には大量の書類。格好としては、以前の義人とそう変わるものでもない。そのため、志信は不思議そうな色を瞳に宿しながら首を傾げた。
「政務を片付けているのだが?」
「そっちではありません。今日は祝日なので、お仕事をしなくても良い日なんですよ?」
何故不思議そうな顔で聞かれるのかわからず、サクラも同じように首を傾げる。すると、そんなサクラの反応を見て志信は苦笑した。
「例え休みの日だろうと、政務を片付けなければな。このままでは、机の上が書類で埋まってしまう」
そう言って、志信は既に机の半分近くを占領している書類の山を軽く叩く。そして、特に気負うことなく言葉を続けた。
「俺は国王“代理”だからな。国王が戻ってきたら国が潰れていた……そんな事態になったら申し訳が立たん」
サクラと話しつつも、志信は政務の手を止めない。そんな志信を見ながら、サクラは驚きで目を見開く。
「シノブ様は、ヨシト様が戻ってこられると思っているのですか?」
志信の様子と言葉に、思わずサクラはそう尋ねた。すると、その問いを向けられた志信は困ったように小さく笑う。
「さて、どうだろうな?」
「どうだろうなって……」
まるでからかうような返答に、サクラは僅かに表情を変える。そして、そんなサクラの表情の変化を見た志信は笑みを深めた。
「すまんな、別にサクラをからかおうとしたわけではないんだ」
「……と、言いますと?」
納得が出来ない様子で尋ねるサクラ。そんなサクラの視線を受けて、志信は政務の手を止める。そして窓の方へと視線を向け、どこか遠くを見るとゆっくりと口を開く。
「俺自身も、上手く言葉にできない。だが、義人のことだ。俺が“こちらの世界”にいることを責任に感じて、戻ってくるかもしれないな」
「しかし、戻ろうと思って戻れるものでもないのでは?」
義人達が“こちらの世界”へと来た理由は、カグラによる『召喚』が原因だ。しかし、現状のカグラでは魔力が足りないため『召喚』を行うことができず、“元の世界”へ戻った義人達は『召喚』の魔法を扱うことができない。もしも小雪が長年魔法を扱っていれば『召喚』の魔法も使えた可能性があるが、今のところ魔法の扱いが下手である。
一番高い可能性としては、カグラが魔力を回復して再度『召喚』の魔法で義人を“こちらの世界”へ召喚することだろう。いくつかの可能性を挙げ、サクラはそう考える。
もっとも、義人が知っていてカグラ達が知らない『召喚』に関する“落とし穴”があるため、事実は異なるのだが。
志信は外に向けていた視線を戻すと、王印を指先で弄びながら小さく笑う。
「カグラにも言ったことだが……正直なところ、義人が“こちらの世界”に戻らないのなら俺はそれで良いと思っている。“向こうの世界”で北城や両親と平穏無事に過ごす……それが自然で、おそらくは、それが一番だ」
「“元の世界”がとても平和な場所だというのはお聞きしていますが……」
「ああ。何十年後のことはわからないが、今に限って言えばとても平和だ。魔物も存在しない上に、“こちらの世界”よりも様々な面で発達している」
魔法はないがな、と付け足し、志信は次の書類へと手を伸ばす。サクラはそんな志信に対して納得したような、それでいてどこか不満そうな目を向けた。
「カグラと同じように、義人が“元の世界”に戻ったことが気に食わないか?」
サクラの視線を受け止め、志信が問う。その問いに込められた感情は鋭いが、サクラは気圧されることなく首を横に振った。
「そういうわけではありません」
「なら、サクラはどう思っているんだ?」
手に取った書類を机の上に置き、試すように志信が尋ねる。サクラは僅かな間に考えをまとめ、ゆっくりと、しかし芯の感じられる声を発した。
「もし、“元の世界”で生活することがヨシト様にとって最も安全で、最も心地良いものなら……」
そこで言葉を切り、サクラは目を閉じる。そして、自分に言い聞かせるように言葉を口にした。
「ヨシト様は、“元の世界”で生きるべきだとわたしは思います」
「……国王がいないというのは、この国……いや、どの国だろうと致命的と言える事態だ。それでも良いのか?」
前代の国王が死んでからの十年。それを乗り越えることができただけでも奇跡に近い。しかし、義人が戻らなければ今度はその五倍近い期間が国王不在という事態になる。新しい国王を立てるか、国そのものの体制を変えなければカーリア国は滅びの一途を辿るだろう。
「良い悪いで判断するのならば、間違いなく悪いのでしょう。しかし、ヨシト様はわたしの主君です。ヨシト様のことを第一に考えるのならば、“元の世界”で平和に過ごされたほうが良いですから」
―――それは悲しくて、寂しいですけど。
続きそうになった言葉を飲み込み、サクラは微笑む。
義人は、“こちらの世界”で生きるには向いていない。いや、生きるだけならば問題はないだろう。だが、国王という役職に就くには向いていないのだ。
時には臣下と共に食事を取り、時には笑い合い、時には酒宴に混ざる。
時には落ち込み、時にはカグラに怒られ、時には臣下に呆れられることもある。
時には自ら行動して、時には臣下に贈り物を贈り、時には率先してみんなを引っ張る。
サクラから見れば、それらをまとめて義人の美徳に思えた。しかし、それだけで完全に務まるほど国王という役職は甘くない。
運良く今までなかったが、人の生き死にに直接関わる事態になればどうなるか。国を運営する以上、どこかしらで人を死なせることになるが、それでも自分の手を直接下すような事態になればどうなるか。
それを考えれば、義人は“元の世界”で過ごすべきだろうとサクラは思った。
もっともそれは、個人の感情を抜きにすればという話だが。
「そうか」
そんなサクラの心情を知ってか知らずか、志信はそう呟く。
「……はい」
答えた声は、どこか固い。志信は小さく息を吐くと、椅子に背中を預けて天井を仰ぎ見た。
「“こちらの世界”に戻ってくる手段がないことを祈るか」
何に祈れば良いかはわからない。
志信はそれだけを口にすると、再び政務に集中するのだった。