第百二十一話:平穏
年末の昼下がり。すでに年越しに向けた大掃除も終え、師走と呼ぶには穏やかでゆったりとした時間。
そんな時間の中、義人は自分の部屋でじんわりとした温かさを伝えてくるコタツに足を入れ、テーブルの上に置かれたミカンへと手を伸ばしていた。黄色い皮を剥くと、適当に実を取って口へと放り込む。そして咀嚼しながらミカン特有の甘酸っぱさを味わうと、満足そうに目を細めた。
「ミカンうめぇ……」
至福の表情で呟き、さらにミカンを口へと放り込む。すると、コタツの対面に座っていた小雪がコタツを抜け出し、義人の膝の上へと移動して義人を見上げる。
「おとーさん、こゆきもたべたい!」
「そうか? それじゃほら、あーん」
「あーん」
義人がミカンを差し出すと、小雪はそれに従って口を開く。そして口の中に入れられたミカンを噛み締めると、その甘酸っぱさに頬を緩めた。
「あまくておいしい……」
「だろ? 向こうの世界の果物にはない甘さだからな」
そう言いつつ、義人は次のミカンへと手を伸ばす。
つい最近まで義人がいた世界では、手に取ったミカンのように品種改良が進んだ果物はなかった。ポポロなどのように甘い果物もあったが、それでも糖度はあまり高くない。
「このミカンを向こうに持っていけば、高く売れるんだけどなぁ」
ミカンの木の苗があれば、向こうの世界でも育てることができるだろう。
そうなった場合、栽培してミカンが生るまでにどれほどの期間がかかるか。また、どれくらいの量を栽培していくらの値で売るか。それに加えて販売する相手を定め、販売ルートを考える必要もある。そうなるとどれほどの利益が出て、それを何に利用するか……などと考えたところで、義人は思考を打ち切った。
今そんなことを考えても、何にもならない。ここは義人が生まれ育った世界であり、今は留年してしまったしがない学生。間違っても国王などではなく、両親に庇護される立場の人間だ。
「おとーさん、みかんはー?」
僅かに義人が考え込んでいると、膝の上に座った小雪が不思議そうな目をして見上げてくる。
「ん? ああ、悪い。すぐに剥くよ」
「んー……こんどはこゆきがむく!」
そう言うなり小雪は義人の手からミカンを取り、真剣な表情でミカンの皮を剥き始めた。義人はそんな小雪の様子を見て、小さく苦笑する。
「気をつけないと、ミカンの皮から目が痛くなる汁が飛んでくるぞ?」
「え? それなに……みゃぁっ!?」
義人が注意の言葉を向けるが既に時遅く、猫みたいな悲鳴を上げる小雪。それを聞いた義人は苦笑を深め、小雪からミカンを取ろうとした。
「ほら、俺が皮を剥くから」
「だめ! こゆきがむくの!」
義人が伸ばした手を避け、小雪は目を擦りながら再度ミカンの皮を剥こうとする。しかし、力加減が難しいのか中々皮が剥けない。小雪の場合、力を入れすぎるとミカンどころかリンゴだろうと握り潰してしまえるため、細心の注意が必要だった。
「頑固だなぁ……誰に似たのやら」
『お主に似たんじゃろう、おとーさん?』
義人の独り言に対して、ノーレが茶々を入れる。それを聞いた義人は、眉を寄せながらノーレへと目を向けた。
「おとーさん言うな」
『どう見ても父親そのものじゃろうて。客観的に見ても、娘に甘えられている父親にしか見えんわい』
笑いを堪えるように、ノーレが声を投げかける。
「いや、そんなことはないだろ」
ないない、と首を横に振る義人。すると、そんな義人に対してミカンを剥き終えたらしい小雪が満面の笑顔を向けた。
「おとーさん、みかんむけた!」
「お、上手に剥けたなー」
「うん! はい、あーん」
笑顔で差し出されるミカンを前に、義人は何の躊躇もなく口を開く。だが、そこでふと我に返った。
―――あれ? 俺、ノーレの言ってること否定できなくないか?
差し出されたミカンを口に入れ、甘酸っぱさを噛み締めながらそんなことを内心で呟く。
どう見ても、どう考えても幼い娘に構う父親そのものである。親の後ろに馬鹿という文字をつけて、親馬鹿と呼んでも良いかもしれない。
―――いやいや、待つんだ俺。いつからこうなった? というか、どうしてこうなった?
いつの間にか小雪が娘のように接してくるのを受け入れていたことに気付き、義人は愕然とする。
育ての親であることには間違いない。その点で言えば、小雪を娘と思うことは間違っていないだろう。
「でも、未婚の父ってどうなんだろうか……それどころか、恋人もいないし」
そんなことを口にして、義人は自分でダメージを受ける。思わず頭を抱えたくなった義人ではあるが、そんな義人の行動を遮るように義人の部屋の扉がノックされた。
「ん? どうぞ?」
「義人ちゃん、お邪魔するね」
義人の言葉に対して、そう告げながら部屋に入ってきたのは優希だった。すると、優希の姿を見た小雪が表情を輝かせて立ち上がり、飛びつくようにしてしがみつく。
「おかーさん!」
「どうしたの?」
「みかん!」
小雪は単語一つで会話を終わらせると、皮を剥いたミカンを差し出す。差し出されたミカンを見た優希は、首を傾げながらも差し出されたミカンを口にした。
優希は目を覚まして以来、寝る時などは自宅に帰っているものの、それ以外は大抵義人の家で過ごしている状態である。優希の父はあまり良い顔をしなかったものの、小雪が義人と優希の傍にいたいと“お願い”をしたらあっさりと折れてしまった。
優希はミカンを食べながら小雪を抱きかかえると、義人の対面へと座ってコタツに足を入れ、膝の上に小雪を座らせる。小雪は優希の膝の上に座れたことが嬉しいのか、満面の笑みを浮かべた。
義人はそんな優希と小雪の様子を眺め、先ほどまで考えていたことを頭の中から追い出す。そして、真剣な表情を浮かべて壁に立てかけたノーレへと視線を向けた。
「さて、生活もだいぶ落ち着いてきたし、そろそろ状況の整理をしたいな」
『そうじゃな……妾としても、異存はない』
義人の言葉に肯定を返し、ノーレは意識を優希と小雪に向ける。
『お主らも良いな?』
「うん」
優希が頷くと、小雪もそれを真似るかのように頷く。それを確認したノーレは一拍の間を置き、この場にいる全員へと話しかける。
『まずはこの世界についてじゃが、妾としては気になる点がいくつかある』
「気になる点?」
『うむ。まずは、魔法……いや、魔力についてじゃ。ここ数日、“こちらの世界”で過ごしてみたが、“向こうの世界”と“こちらの世界”では魔力の質がかなり違うようじゃ』
「しつが、ちがう?」
小雪がノーレの話す内容を復唱し、首を傾げた。そんな小雪を見ながら、義人も僅かに首を傾げる。
「質が違うって言われてもな。いまいち話が見えないんだけど」
『むぅ……例えばじゃ、ヨシト。お主が“こちらの世界”で魔法を使おうとした時、何か思うことはないか?』
「思うことっていうと、魔法が使いにくいとかでいいのか?」
特に深く考えず、義人は思いついたままに答えた。すると、その答えを聞いたノーレは満足そうな声を漏らす。
『そうじゃ。“こちらの世界”では非常に魔法が使いにくい。ヨシトのように魔法に不慣れな人間ならともかく、妾でさえ魔法が使いにくいと感じるのじゃ。高い魔力を持つコユキでもそうじゃろう?』
話が振られたことを理解したのか、優希の膝の上に座った小雪は何かを考えるような顔をしながら頷く。
「うん。こゆきもまほうがつかいにくい」
“こちらの世界”に来てから何度か魔法を使った時のことを思い出したのだろう。小雪は少し不機嫌そうにノーレの言葉を肯定した。
『つまり、“こちらの世界”では魔法の腕の良し悪しや魔力量の大小に関係せず、魔法が使いにくいのじゃ』
「……えーっと、なんで?」
ノーレの断言に対して、優希が不思議そうな顔をしながら挙手する。すると、ノーレも興が乗ってきたのかどこか楽しそうな口調で話を続けた。
『ヨシトは以前巫女から聞いたじゃろうが、魔力と言うのは“世界に干渉する力”じゃ。魔力を使って火を熾したり、氷を生み出したりすることができる。しかし、それはヨシト達の常識からすれば自然のものではないじゃろう?』
「そりゃそうだ。“こちらの世界”じゃ、人間が道具を何も使わずに火を熾したり氷を作ったりはできないよ。というか、魔法自体が実在してるかわからないし」
違う世界には存在していたため、確実に実在していないとは言えない。義人も自分が知らないだけで、もしかするとこの世界にも魔法という不可思議な現象が存在しているかもしれないのだ。
今より遥か昔。平安時代などでは、当たり前のように妖怪や幽霊の存在が信じられていた。しかし、現代ではそんな話を持ち出せば笑い飛ばされるか馬鹿にされるか、あるいは正気を疑われるかのどれかだろう。だが、“こちらの世界”でも魔法を使うことはできたのだ。ならば、“あちらの世界”で言うところの魔物や、妖怪や幽霊が存在し、義人達以外にも魔法やそれに似た力を使える人間が存在しているかもしれない。
「でも、そう考えると陰陽師って本当に魔法みたいなことをできたのかもなー」
『なんじゃ?』
「いや、こっちの話。それで、ノーレの話を続きは?」
脱線しかけた思考を戻し、義人はノーレに話の続きを促す。ノーレはそんな義人の対応に僅かな不満を抱くものの、すぐに忘れて話の続きをすることにした。
『簡潔に言うならば、“こちらの世界”は魔力によって世界に干渉することが難しいようじゃ。だから、魔法を使う場合には多くの魔力を消費する』
確信があるのか、それともまだ推測の段階なのか。義人はノーレの言葉を聞きながら情報を整理すると、何かに思いついたように口を開く。
「つまり、“こちらの世界”は魔法という超常現象を使えるようにはできてないってことか?」
『いや、それだと魔法自体が使えんじゃろう。おそらくは、“こちらの世界”にも魔法のようなものが存在しているのだと思うんじゃが……』
後半になるにつれて自信がなさそうなノーレではあるが、その内容自体は今しがた義人が考えていたことと似ている。
義人はノーレの話を頭の中でまとめると、顎に右手を当てながら視線を宙に飛ばす。
「そう言えば、魔法を使う時に普段の十倍ぐらい魔力を消費してるって言ったな……ということは、俺は“向こうの世界”の普通の魔法使いぐらいしか魔法が使えないってことになるのか」
『魔力の消費量を考えるとそうなるのう。コユキでも、メイドと同じぐらいしか魔法が使えんと考えるべきじゃ』
魔力量自体は変わっていないが、消費量が増えたため魔法の使用回数も減ってしまう。義人は今までに体得した魔法の技術と自身の魔力量を考え、困ったように眉を寄せた。
「一度に使う魔力の量も増えたし、魔法の制御が難しいな。“向こうの世界”だったら『強化』を使う必要はなかったけど、“こちらの世界”だと『強化』を自力で使わないといけないし」
“こちらの世界”に戻って以来、何故か義人も“向こうの世界”に行く前の身体能力しかない。義人も運動神経には自信がある方だが、それでも『強化』らしき効果が働いていた頃には到底敵わないのだ。
「でも、“こちらの世界”で魔法を使う機会ってあまりないんじゃないかな?」
主に義人とノーレが意見を交わしていると、控えめに優希が疑問を挟む。
『そうなのか?』
「そうだなぁ……“こちらの世界”だと魔法の存在を信じていない人間がほとんどだし、もしも人目のあるところで目立つ魔法を使ったら、次の日からは表を歩けないことになるかもな」
もしも魔法を使っているところを他人に見られれば、大きな騒ぎになるだろう。警察に通報され、危険だからと逮捕される可能性もある。
そんな有り得るかもしれない未来を想像し、義人は内心でため息を吐いた。
警察に通報されるだけならば、まだ誤魔化しが利くため百歩譲って問題はない。しかし、人間は自分で理解できないものや認められないものに対しては酷く攻撃的になることもある。警察に通報などではなく、直接的もしくは間接的に手を出してくることすら考慮しなければならない。
この場合に手を出される対象は己の身であり、家族の可能性もある。
「あー、面倒くさい。“こちらの世界”に戻って万事解決。ハッピーエンドだ、なんてのは虫の良すぎる話か」
そもそも、志信が一緒に戻っていないためハッピーですらない。義人はテーブルに突っ伏すと、億劫そうに右手を挙げて三本の指を立てて見せた。
「魔法は使わなければ良いとして、今後の展望は三つに分かれそうだな」
義人の表情を見た小雪がミカンを食べる手を止め、首を傾げる。
「みっつ?」
「そう。一つは“こちらの世界”で生活しつつ、志信がカグラの手を借りて“こちらの世界”に戻ってくるのを待つ。一つは志信のことも“向こうの世界”のことも忘れて元の生活に戻る。そして最後に……」
薬指、中指と順に折り、最後に人差し指だけを残して義人は言葉を紡ぐ。
「どうにかやって“向こうの世界”に戻る、と。俺としては最初の案が実現してくれると嬉しいね。まあ、その場合は小雪やノーレの扱いをどうするかも決めなきゃいけないけど」
そう言って、義人は最初の案が実現する可能性を考える。そして、すぐに首を横に振った。
―――それはあり得ない、か。
何の理由があって志信を“こちらの世界”へ戻すというのか。その理由が一片たりとも存在しない。
召喚する際には召喚者が魔力を消費する。この場合は召喚の魔法が使えるカグラ……一般の魔法使い百人分以上の魔力を持つ彼女でも、召喚を行えば魔力が底をついてしまう。そしてそれ以上に、五十年ごとにしか“こちらの世界”へと繋がる“穴”が開かないのだ。それではどう足掻いても志信は“こちらの世界”へと戻れない。
けれど、と義人は思考に沈みながら思う。それならば、何故自分達は“こちらの世界”に戻ることができたのか。それが義人にはわからない。
召喚について記された本の内容が嘘だったのか。
しかし、わざわざ嘘を書く必要性が義人には思いつかない。何かしらの意図があったのだとしても、それは何百年も昔の、本を書いた者にしかわからないだろう。
「そうなると……」
義人は優希と小雪に視線を向ける。あの夜、あの場にいたのは義人と優希、それと小雪の三人だ。ノーレを含めれば四人としても良い。だが、義人は何もしていない。ノーレも何か強い魔法を使うためには義人の魔力が必要となるが、義人が自覚できるほどに魔力が減っているわけでもない。そうなると、必然的に答えが限定される。
「なあ、優希。それと小雪」
「なに?」
「んー?」
優希か小雪、もしくはその両方が原因だろう。義人に名前を呼ばれた優希と小雪は首を傾げ、不思議そうな顔をする。
「“こちらの世界”に戻ってきた理由はわからないか? 魔法を使ってみたとか……」
そう言いつつ、義人は可能性の低さに気付く。
優希は膨大な魔力があっても魔法が使えず、小雪は魔法が使えても細かい調節ができない。そして、そんな義人の考えを肯定するように優希と小雪は首を横に振った。
「わたし、どうやったら魔法が使えるかわからないよ?」
「こゆきはきづいたらこっちのせかいにきてたよ」
「……だよな」
二人の答えを聞き、義人は疲れたようにため息を吐く。何かしらの原因があるからこそ“こちらの世界”に帰れたのだ。その原因が魔法に関することだと義人は当たりをつけている。しかし、そこから先が出てこない。
あー、と気の抜けた声を漏らす義人。すると、そんな義人を見かねたのかノーレが優希へと意識を向ける。
『……のう、ユキ。お主は本当に魔法が使えないんじゃな?』
「うん。どうやって使えば良いかもわからないよ」
『それは、本当にか?』
「ノーレ? 本当って言うのはどういうことだ?」
疑うような声を出したノーレに、義人が僅かに目を細めながら尋ねた。ノーレはそんな義人の視線を受けると、確信のこもらない声で答える。
『あの時の状況を考えるに、魔法を使ったのはユキだと思うのじゃが……』
「優希が?」
『うむ。“こちらの世界”へ来て魔力が底をついていたのも、それが原因ではないのか?』
ノーレの言葉を聞いた義人は、再度優希へと視線を向けた。しかし、優希は困ったように首を傾げるだけである。
「そう言われても、本当に思い当たる節がないんだけど……」
「だよなぁ。それに、優希が嘘をつく理由も意味もない。魔力がなくなってたのも、何か他の原因があるんじゃないのか?」
『他の原因か……すぐさま思いつくものはないのう』
現状“まとも”に魔法が使える義人とノーレが頭を捻るが、答えの欠片すら出ない。膨大な魔力で強引に魔法を使っている小雪は、義人達の話の内容に飽きたのか再びミカンを食べることに集中し始めた。そんな小雪を眺めつつ、義人は内心で舌打ちする。
―――こんなことになるのなら、あの『本』を持っておくべきだったな。
激情に駆られ、召喚に関する『本』はカーリア城の自室へ放り出してきてしまった。そのことを後悔しつつ、義人は小雪が時折差し出してくるミカンを口へと放り込む。
「本当、どうするかねぇ……」
そこまで焦ることでもないか、と自分に言い聞かせ、義人は思考を打ち切った。折角“こちらの世界”へ戻ってくることができ、その上新しい年も目前に迫っている。
政務に追われることもなく、のんびりと休むなど“向こうの世界”では中々なかったことだ。
―――少し休むぐらい、良いよな。向こうも、カグラやアルフレッドが何とかしてるだろ。
“こちらの世界”へと戻ってきて以来、徐々に染み込み始めた楽観と緩み始めた緊張感が義人をそう思考させる。考えるべきこと、やらなければならないことを後回しにすればどうなるか、散々学んだというのに。
平和な世界へ戻れたことで、そのことを義人は忘れていた。それほどに“こちらの世界”は平和で、居心地が良すぎる。
故に、この時の義人は“向こうの世界”がどうなっているかを軽く考えていた。
カーリア国が非常に危ういバランスの上に成り立っていることを、軽く考えていたのである。