第百十九話:現代
“元の世界”へと戻ってきた翌日。
義人はおよそ八ヶ月ぶりとなる自室のベッドで布団に包まり、昨日からの疲労を睡眠によって癒していた。
自身の両親や優希の両親に対する説明もそこそこに、食事と入浴を済ませた後は布団に潜り込むと、徹夜で気を張っていた疲労からすぐに眠りに落ちた。そのため、あれこれと質問をしてくる小雪にろくに答えられていない状況である。
「ん……んー……朝、か」
そして気付けば日付が変わり、“あちらの世界”でいつも起きていた時間に目が覚めた。
義人は眠気の残る目を擦り、横になった状態で天井を見上げる。
視界に映るのは、真っ白な低い天井。跳躍しても手が届かないほどに天井が高くもなければ、華美な装飾もない。どこの家庭でも見ることができる、ごくありふれた普通の天井だった。
「……あ?」
ここ最近で見慣れたものではなく、生まれた頃から寝起きの度に飽きるほど見てきた光景。義人は寝起きで回転の悪い頭で思考を巡らせると、一気に覚醒して布団を跳ね除ける勢いで上体を起こす。
「俺の……部屋?」
周囲を見渡してみれば、確かに自分の部屋だった。何十畳もあるような西洋造りの部屋ではなく、物が置かれて少し狭苦しい、義人が生まれ育った部屋である。
窓の外に視線を向けてみれば、まだ暗い。義人が部屋に置いてある目覚まし時計に目を向けると、時間は午前五時を少しばかり過ぎたところだった。
道理で暗いはずだと思う一方、もしや今までのことは夢だったのでは、などという考えが義人の中に浮かぶ。
ある日突然異世界に召喚されて、そこで一国の王様を務めることになった。
その世界では魔法や魔物などが存在し、現実との際に悩まされながら国の運営を行う。時には笑い、時には悩み、命を狙われたこともあった。他国の国王とも会談し、その娘である王女とダンスを踊ったこともある。
今までのことを軽く思い返した義人だが、その内容は現実のものではなく夢だったと思うほうが妥当だろう。
寝ていた布団をめくってみるが、小雪の姿もない。義人は額に手を当てると、深々とため息を吐いた。
「なんだ、夢だったのか」
『夢がどうしたんじゃ?』
今までのことが夢だったと思い込もうとした義人だが、それを否定するように声が飛んでくる。その聞き覚えがある声を聞いた義人は、もう一度ため息を吐いた。
「……いや、うん。わかってた。わかってたよ」
そう呟き、義人は声をかけてきたノーレへと目を向ける。すると、前日に適当に壁に立てかけたノーレが義人の目に映った。剣を置く場所がなかったため、クッションを下に敷いて壁に立てかけておいたのである。
夢であったことがあっさりと否定された義人は、一つ欠伸をしてからノーレに対して声をかけた。
「おはようノーレ。ところで小雪は?」
『コユキならば、お主が寝ている間にそこの扉から出ていったぞ』
「出ていったって、どこに?」
『さて、のう。この家から外には出ていないようじゃが』
ノーレの言葉を聞くと、義人はベッドから降りて背伸びをする。そしてタンスから適当に見繕って洋服を取り出すと、寝間着を脱いで着替え始めた。義人としても別に着替える必要もないのだが、いつもならば起きるとサクラが着替えを持ってきてくれたため、起きても寝間着でいることが落ち着かないのだ。
「それじゃあ、ちょっと小雪を探してくるよ」
着替えが終わると、義人はそれだけを言い残して部屋を出る。もっとも、探すと言っても義人の家はカーリア城のように広いわけでもない。義人は小雪がいそうな場所にあたりをつけると、二階にある自室から一階の居間へと足を向けた。
両親はまだ寝ており、家の中は静まり返っている。どんな時間でも見張りなどの人間が立っていたカーリア城と無意識のうちに比べ、義人は苦笑した。
「俺達がいきなり消えて、向こうはどうなってるんだろな……」
最初に思い浮かんだのは、義人にとって親友である志信。そして次にカグラやサクラ、アルフレッドなどの存在だ。
「まあ、アルフレッドがまとめてそうだな」
言葉と共に吐いた息が白く染まる。義人はそれを無感動に眺めながら、どうしたものかと首を捻った。
生まれ育った世界に戻ってこれたのは嬉しい。しかし、諸手を挙げて喜ぶことができない気持ちもあった。
「これで志信が一緒だったらなぁ」
そんな言葉を口にして、義人は寡黙ながらも頼りになる親友のことを考える。
小雪やノーレもこちらの世界に来ているが、そのあたりは許容範囲だ。だが、志信だけが“向こうの世界”に残っているというのが義人には引っかかる。
魔法や魔物の存在もだが、“向こうの世界”では戦争に巻き込まれる危険があった。幸いと言うべきか、カーリア国に戦禍は及んでいない。しかし、隣接する二つの国同士が争っており、今後その争いに巻き込まれる可能性がある。
志信ならば問題はないという気持ちと、志信だからこそと危険だという気持ちが義人にはあった。
冷静沈着で、自分よりも遥かに腕が立つ。義人が志信を評価するならばそんな評価をつけているだろう。多少人付き合いが苦手だが、義人が見ていた限り武官やその部下達と親交があり、評価も高い。
―――だが、それだけである。
志信の立ち位置は、国王である義人の友人。それに加えて腕も立つため、ある程度の自由と権限が与えられていた。それだというのに、国王である義人が姿を消したのである。現状ではどういう扱いになっているのか、義人にはわからない。
腕は立つが、魔法が存在する“向こうの世界”では志信よりも強い人間がいる。
学校の成績ならば義人よりも上だが、柔軟な思考は苦手だ。戦うことに関しては柔軟な一面を持っているが、政治を任された場合は杓子定規に対応する可能性が高い。
「俺の代わりに国王とかやらされてなければいいけど……カグラやアルフレッドがいるから、その点は大丈夫か」
そこまで考えると、義人は一度思考を打ち切る。そして到着した客間の扉に手をかけ、なるべく音を立てないようにゆっくりと開けた。
「……義人ちゃん?」
それと同時に、暗い部屋の中から声がかかる。その声を聞いた義人は、僅かな驚きを覚えながら口を開いた。
「……優希?」
お互い名前を呼び合う形になり、義人は戸惑いながらも部屋の電気をつける。すると、昨日客間の布団に寝かせた優希が上体を起こし、自身の膝を枕に眠っている小雪の髪を梳いている光景が義人の視界に映った。
義人の顔を見た優希は、柔らかく微笑む。
「おはよう、義人ちゃん」
「あ、ああ。おはよう」
挨拶を交し合う二人。優希は義人の挨拶に頷くと、今度は困ったように眉を寄せた。
「ところで、ここって義人ちゃんの家だよね? なんでここにいるの?」
「なんでって……」
優希からの言葉に、今度は義人が眉を寄せた。
「覚えてないのか? 召喚の祭壇の“中”で話をしていたら、召喚の魔法が発動したんだ」
「……そうなの?」
要領を得ない優希の言葉に、義人は疑問を覚えながらも説明をしていく。
召喚の祭壇の“中”で会話をしていたこと。
その最中に黒い穴……召喚魔法と思われる現象が発生したこと。
目を覚ましたら山の中だったため、優希を背負って家まできたこと。
それらを話し、義人は優希の傍に腰を下ろす。
「本当に、覚えてないのか?」
義人が尋ねると、優希は目を閉じて記憶を辿る。しかし、すぐに首を横に振った。
「……うん。ごめんね、義人ちゃん」
「そうか……まあ、優希が無事に目を覚ましてくれたから良かった。おかしなところはないか?」
「えと、少し頭がボーっとするぐらい、かな?」
「もしかして、熱か?」
そう言いつつ、義人は優希の額に手を当てる。そして手に伝わる温度で熱を測るが、特に熱が高いようには感じなかった。
「熱じゃないみたいだ。寝過ぎたから頭がボーっとするんじゃないか?」
「寝過ぎたって……そうなのかな?」
「ああ。優希が眠り始めて一日以上……三十時間くらい経ってるからな。中々起きないから心配したよ」
そこまで口にした義人は、優希の両親に電話をするべく腰を上げる。電話をかけるには非常識な時間だが、優希が起きたと聞けばすぐに来るだろう。優希が小雪の髪を梳いているところを見た場合、優希の父がどんな行動を取るか少しばかり義人には不安だったが。
ちなみに、志信の家に対しては既に電話をかけてあったが、誰も出なかった。志信の祖父である源蔵は志信を一人前だと判断してからよく家を空けているため、義人としても頭が痛いところである。
とりあえず志信の家には一日一回は電話をかけるとして、義人は目先の問題である優希の家に電話をかけた。おそらくはまだ寝ているだろうと思った義人ではあるが、その予想を外すように五コールもしないうちに電話が取られる。
『はい、北城です』
「おはようございます、おじさん。義人です」
『義人君か? 君がこんな時間に電話をかけるということは……』
「はい。優希が起きま」
ガチャン、という音を立てて電話が切られた。一体何事かと義人が首を捻っていると、一分も経たずに家のチャイムが鳴らされる。
チャイムを鳴らすには非常識な時間だが、非常識な時間に電話をかけた義人は来訪者が誰か予想がつき、すぐに玄関の鍵を開けた。すると、そこに立っていたのは義人が予想した通りに優希の父である。
「……走ってきたんですか?」
「はぁ、はぁ……もちろん、はぁ……娘が、目を覚ましたと……はぁ……聞いたら、ね」
義人と優希の家は、そこまで離れていない。走れば一分もかからないが、優希の父は全力疾走してきたのか、息も絶え絶えである。
「とりあえず、優希は客間にいるんで」
そう言って義人が促すと、優希の父は靴を脱いで客間へと突撃していく。義人はその背中を苦笑しながら見送ると、二階の方から人が降りてくる音を耳にしてそちらへと目を向けた。
「義人、どうかしたのか?」
寝起きらしく、眠そうな顔で聞いてくる自身の父に、義人は苦笑を浮かべながら答える。
「優希が起きたことを電話で伝えたら、おじさんが飛んできたんだ」
今頃は客間で感動の対面だろうか、などと義人は考え、とりあえず近所迷惑にならないよう玄関の扉を閉めるのだった。
優希の父親に三分ほど遅れてやってきた優希の母を加え、親子の再会が終わって一時間。優希の両親が来たことによって目を覚ました義人の両親も加え、いささか早い朝食が居間のテーブルに並べられていた。
「いやいや、本当に良かった」
そう言って、優希の父が笑う。その視線の先には優希の姿があり、視線を受けた優希は申し訳なさそうに頭を下げた。
「お父さん、心配かけてごめんね?」
「いいんだよ、優希。無事に帰ってきてくれたんだから、それ以上のことないさ」
娘と父親の会話を耳にしながら、義人は自分の膝の上に座ろうとしている小雪の両脇を抱え上げる。そして膝の上に乗せると、それが目に入ったのか義人の母がにこやかに笑った。
「あらあら、義人ったら。そうやってると、本当に小雪ちゃんのお父さんみたいね」
何が楽しいのか、うふふと笑う義人の母。すると、その言葉を聞いた小雪が首を傾げた。
「おとーさんはこゆきのおとーさんだよ?」
「そうなの? じゃあ、優希ちゃんは?」
「おかーさんはこゆきのおかーさんだよ?」
無邪気に答える小雪と、それを聞いて眉の角度を吊り上げる優希の父。義人もしっかりと説明をしたのだが、心情的には納得できていないらしい。
どうしたものかと義人が考えていると、隣に座っていた優希が小雪の耳元に口を寄せて何事かを囁く。それを聞いた小雪は、首を傾げながらも無垢な瞳を優希の父へと向けた。
「おじーちゃん、どうしたの?」
『おじーちゃん』と呼ばれた優希の父の動きが止まる。そして、僅かに身を震わせながら口を開いた。
「……お爺ちゃん、だと?」
「あら、それじゃあわたしはお婆ちゃんかしら」
複雑そうな顔をする優希の父とは対照的に、優希の母は嬉しそうな顔をする。義人の両親は特に抵抗がないのか、暢気に互いを『お爺さん』、『お婆さん』と言い合って笑っていた。
小雪は義人の膝から下りると、不思議そうな顔をしながら優希の父親の元へと歩み寄る。
「おじーちゃん?」
下から見上げるように見てくる小雪。それを見た優希の父は、葛藤を一瞬で片付けると笑顔で答えた。
「どうしたんだい?」
優希の父がそう答えると、小雪も笑顔になってその膝の上に飛び乗る。優希の父は自分の娘の小さい頃にそっくりな少女を膝の上に乗せると、苦笑を浮かべた。
「嬉しいやら悲しいやら……優希、お前そっくりの娘だな」
「本当に、小さい頃の優希にそっくりねぇ」
「ああ、たしかに小さい頃の優希ちゃんに似てるな」
「でもうちの義人にも似てますよ」
息子や娘と一緒に戻ってきた孫らしき少女に、大人達は笑顔で話しかける。小雪も義人と優希の親だから安心しているのか、笑顔を浮かべてご機嫌の様子だった。
そんな両親達の姿を見ながら、義人は隣の椅子に座る優希へと視線を向ける。
「なあ、優希」
「なに?」
「俺達、帰ってきたんだな」
「……うん、そうだね」
義人の心情を察しているのか、優希は労わるように微笑んだ。
「お疲れ様、義人ちゃん」
「優希もな」
それだけを口にして、義人と優希は顔を見合わせる。そして示し合わせることもなく、互いに笑うのだった。
もちろん、義人としては志信のことを忘れたわけではない。だが、目の前の笑い合う両親達を前にすれば、帰ってきたのだという思いが強く実感できた。
義人は椅子の背に体重を預けると、気の向くままに天井を見上げる。
「これからどうするかな……」
義人は“元の世界”に戻ることだけを考えていたが、戻った場合のことを考えていなかった。一ヶ月ぐらいの失踪ならばまだどうにでもなっただろうが、義人達の場合は八ヶ月である。確実に留年の上、消えていた八ヶ月を説明することもできない。
異世界に行っていました、などと言えば医者にかかることを勧められるだろう。
「そう考えると、戻ってきてもまともな生活を送れない気がするな」
今のところ、こちらの世界に戻ってこれたことを知っているのは義人と優希の両親だけだ。しかし、義人達が戻ってきたことを周囲に知られれば喜んでマスコミなどが食いついてくるだろう。
長い間失踪していた学生が、剣と五歳ぐらいの子どもを連れて帰ってくるなど珍事もいいところだ。噛み付いたスッポンのようにしつこく、義人達の事情を考えようともせずに根掘り葉掘り調べる可能性もある。
そうなると、この八ヶ月のことを説明しても信用されない義人としては周囲の人間に知られるのも困りものだった。
「くそ……今の時代だったら、召喚された時点で詰んでるんじゃねえか」
“元の世界”に戻れても、以前のような生活は送れない。これが義人達よりもはるか昔に召喚された人間なら、まだ話は違っただろう。神隠しという現象が信じられていた時代もあるのだ。しかし、現代では人が一人消えただけでもそれを調べようと躍起になる。
義人が考え事に集中していると、それを妨げるように優希が義人の手を握った。
「大丈夫。どうにかなるよ」
「……そっか。そうだな、どうにかなるか」
優希の言葉を丸呑みして、義人は自分を落ち着けるように大きく息を吐く。
悪い方向にばかり考えていたが、もしかしたら良い方向に事態が転がるかもしれない。少なくとも、すぐさま事態が急変するということはないだろう。
まだまだ考える時間はあると自分に言い聞かせ、義人はもう一度だけ大きく息を吐くのだった。