第百十八話:国王代理
カーリア国の王都フォレスに午前七時を告げる鐘が鳴る。
年の瀬も迫るこの時期は、早朝だろうと城中、城下町を問わずに慌しい気配が辺りを満たしていた。もっとも、城中での慌しさと城下町での慌しさには大きな違いがあり、今年はそれが特に顕著になっている。
片や、新しい年を迎えるための準備に追われる城下の民。
今年も無事に過ごすことができたことに感謝しながら、新しい年の準備をする彼等の表情は明るい。
片や、国王の突然の失踪により浮き足立つ城中の文官武官。
民に悟られぬよう、兵士による秘密裏の捜索。城中、城下町、そして城壁の外を捜索する彼らの表情は暗い。失踪から二日目に当たるその日も、義人達が見つかったという報せは未だになかった。
義人達が“元の世界”に戻ったかもしれないという、カグラの報告を裏付けるように。
「はぁ……」
底冷えするような冷たさを感じさせる石造りの廊下を歩きつつ、現状を頭の中でまとめたカグラは無意識の内にため息を吐いていた。
吐いたため息が僅かに白く染まり、空中へと消えていく。カグラはどこか無気力な瞳でそれを追うが、それが無意味な行為だと悟ってすぐさま意識を切り替えた。
義人、優希、小雪。この三名が消えて二晩経つが、見つかったという報せはない。あるいは一人でも見つかれば話は変わるのだろうが、今のところ発見どころが手がかりの一つもなかった。
召喚の祭壇の“中”の様子を見た限り、召喚魔法を使ってどこかへ転移したと考えるのが妥当である。しかし、それが“元の世界”なのか、それとも“この世界”のどこかなのかはまだ確証がない。もっとも、カグラ自身後者の可能性はほとんどないだろうと思ってはいたが。
アルフレッドが他国に現状を知られるのを防ぐために防諜の手を尽くしてはいるが、遠くないうちに知れ渡るだろう。
捜索を行う兵達には緘口令を敷いているが、人の口には戸を立てられないものだ。それならば兵達にも知らせなければ良いのだが、それでは捜索に割く人数が非常に限られる。
義人は政務のために城中の文官と毎日顔を合わせており、どう足掻いても不在に気付かれてしまう。それならば最初から打ち明け、それ以上の情報の拡散に協力してもらう方が良い。
カグラは現状に対してもう一度だけため息を吐くと、義人が使っていた執務室へと足を向けた。
昨日は義人達を捜索するための会議があり、高位の役職に就く文官武官の時間が多少潰れている。カグラも倒れてしまったため、昨日一日は休養に当てていた。そのため、政務が滞っている。
「……あら?」
そこでふと、カグラは足を止める。目的地である義人の執務室、その中で“何か”の気配を感じた。何か―――まるで、人のような気配を。
「っ!?」
扉越しに感じた気配に、カグラは慌てて扉の取っ手をつかむ。
場所は義人の執務室―――そう、“義人”の執務室だ。補佐としてカグラも使用しているが、基本的には義人専用の部屋である。もしかすると中にいるのがサクラの可能性もあるが、その時のカグラにはその可能性を考慮するだけの余裕はなかった。
「ヨシト様!?」
常ならばゆっくりと開ける扉も、この時は邪魔とばかりに勢い良く開ける。その勢いで僅かに扉が軋むが、カグラがそれを気に留めることはない。
もしかしたら、義人が帰ってきてくれたのかもしれない。そんな希望と願望を抑えつつ、カグラは義人がいつも使用している執務机へと目を向けた。
「……カグラか、早いな。何かあったのか?」
そんなカグラの言葉と視線に答えたのは義人―――ではなく、どこか疲れたような顔をした志信だった。いつも義人が使用していた椅子に座り、突然のカグラの入室に眉を寄せているものの驚いている様子はない。
「あ……れ……?」
実に不思議そうにカグラが首を傾げる。そんなカグラに対して、志信も首を傾げた。
「カグラ? どうしたんだ?」
固まってしまったカグラに、志信が気遣わしげな声をかける。カグラはそんな志信の声で我に返ると、引きつったような笑みを浮かべた。
「い、いえ……なんでも、ありません。シノブ様こそ、何をしていらっしゃるんですか?」
期待と希望が一瞬で砕けたのを自覚しながらも、カグラはそれを取り繕って尋ねる。それを聞いた志信は、苦笑混じりに執務机の上に置かれた書類を手に取った。
「今日から国王代理だからな。少しでも仕事を理解しようと書類に目を通していた」
朝の訓練上がりだがな、と言い足して、志信は手元の書類に目を落とす。
「そう、でしたか……いえ、そうでしたね」
そんな志信の姿を見ながら、カグラは昨日のことを思い返した。
志信が持ってきた王印の複製を使用して国王の代理を立てる……その案が挙がった結果、国王代理として白羽の矢が立ったのは志信だった。
理由としては義人と同じ世界の人間であること、その一点に尽きる。
能力的にはカグラやアルフレッドの方が国王代理に向いており、志信本人もその旨を告げたが、それはアルフレッドによって却下された。
「ここで儂やカグラが国王代理になってみよ。ヨシト王達が突然消えたのではなく、“消された”と思う者が出かねんわい。現状、シノブ殿が国王代理に就くのが最善じゃよ」
眉を寄せながらそう告げるアルフレッドの言葉に、志信は数秒の後に口を開く。
「『お姫様の殺人人形』などの魔法具を使って代役を立ててみては?」
「それも考えた……が、いくらヨシト王の姿に化けれても、能力を完全に真似ることはできん。精々、王印を自動で押すぐらいにしか役に立たんじゃろう」
「アルフレッド殿やカグラが許可を出した書類に判を押す。それで十分かと思いますが」
「する気はないが、儂やカグラが自身に都合の良い書類を許可したらどうするんじゃ? すべてを決定できる部下に、王印を押すだけの国王。それでは儂やカグラが簒奪したようなものじゃ。それに、人形が上に立つと聞いて臣下が納得するかのう」
顎鬚を撫でながらそう反論するアルフレッドに、志信は納得がいかないと首を横に振る。
「しかし、アルフレッド殿は前王が亡くなってからの十年間、国政を取り仕切っていたそうではないですか。ならば、問題はないのでは?」
「その結果、前財務大臣のエンブズのような人間が出てくる。それに、国王の決定が必要な重大事項は処理しておらん。じゃから、ヨシト王が召喚されてから最初の一ヶ月ほどは非常に苦労を強いたわけじゃ。早急に片付けてもらわねばならなかったからのう」
アルフレッドと志信が言い合う中で、カグラは発言することができない。何かを言うべきだとわかってはいるが、どうにも言葉が出てこなかった。
「書類に目を通して王印を押すだけで良いのですか?」
「そうじゃな……できれば、ヨシト王と同じように政務をこなしてほしいのじゃが」
「それは無理でしょう。カグラに補佐をしてもらっても、義人と同じように政務ができるとは思えません。せめて数年の下地があれば別でしょうが……」
「できる限りでも良いんじゃ。カグラや儂だけではなく、他の文官も補佐をするからのう」
「……わかりました。では、義人が戻るまでは俺が代理を務めましょう」
そうやって、カグラが口を挟むことなく話は決まったのである。
曖昧に笑いながら、それでいてどこか無機質な視線を向けてくるカグラ。そんなカグラに内心首を傾げつつ、志信は机に積まれた書類に目を通そうとする。
国王代理とはいえ、手を抜ける役職ではない。志信もそれを理解していたからこそ、いつもの早朝訓練も早めに切り上げて義人が使っていた執務室に来た。
アルフレッドやカグラの補佐があるものの、それでも出来得る限り全力を尽くそうと考え、まずは義人が行っていた政務の内容を理解しようとしたわけである。
もっとも、机の上に詰まれた書類の山を見た時は少しばかり挫けそうになり、持ち前の精神力でそれをねじ伏せたのはささやかな余談だ。
志信は一つ気合を入れると、臣下から上がってきていた書類に目を通し―――いきなりと言うべきか、一枚目で大きな問題に直面した。
「……わからん」
それは、臣下の名前と顔と役職、それに加えて国内の地名や町村の名前、流通している物の名前や相場がわからないことである。
臣下で言えば主だった文官武官だけでも数十人。その下にも各々の部下や兵士が存在し、覚えるだけでも一苦労だろう。
国内の地名や町村の名前については数が多くないため覚えられそうだが、楽かどうかと問われれば首を横に振るしかない。
流通している物については、穀物や野菜、海辺で取れる魚介類、鉱物や民芸品など、多岐に渡って様々な物がある。それらの名前や特徴、現在の相場などが書かれている資料は一目見ても何が書いてあるのかわからないほどだ。他に覚えなければならないものと比べても情報量が多く、相場などは日々変動していく。
志信は他の書類にも目を通してみるのだが、そこに並ぶのは見知らぬ名前と専門的な用語で書かれた内容のみ。各町村からの陳情に、臣下からの陳情。中には魔物の討伐依頼などもあり、それに対する人員の編成と予算について見積もる必要があった。
「これは、困ったな……」
生来、志信は人の顔と名前を覚えるのが苦手だった。その辺りも人付き合いが苦手になる一因だったのだろうが、今は割愛する。
地名や物の名前は追々覚えていくことができるだろう。しかし、現状で全てを覚えることは到底不可能だ。当面はカグラやサクラに尋ねた方が手っ取り早く、間違いもない。
「まずは臣下の名前と顔、それと役職を覚えるべきか」
優先して覚えるものを口にするが、それだけで何日かかるかわからない。そのため、志信はすぐさまその考えを放棄した。少なくとも、残り少ない今年の内に覚えるのは不可能と思える。ならば、これもカグラやサクラに尋ねた方が無難だろう。
「カグラ、この者についてだが……」
未だに立ち尽くしていたカグラに、志信は書類を見せる。カグラはそんな志信の声に一度瞬きをすると、どこかゆっくりとした動きで書類を手に取った。
「財務官の一人ですね。この方が何か?」
「いや、どんな人物でどんな役職に就いているのかと思ってな。恥ずかしながら、面識がない。顔も覚えていないんだ」
武官の人間ならばある程度覚えているが、文官となるとほとんど覚えていない。志信がそのことを説明すると、それを聞いたカグラは僅かな苛立ちと共に口を開いた。
「……何故、文官の人間は覚えていないんですか?」
「何故、と言われてもな……接点もなかった」
志信は主に武官―――ミーファやシアラ、グエン等と付き合いがある。他にも各部隊の隊長とは顔見知りであるし、部隊に所属する兵士達とも面識がある。その点で言えば、武官達に限るならば義人よりも縁が深いだろう。しかし、カグラが聞きたかったことはそんなことではない。
「ヨシト様は、文官武官も問わずに覚えていらっしゃいますよ? 主だった役職に就いている方ならば、最初の数日で全員覚えられました。その後も……」
そこまで言ってカグラは空中に視線を向ける。そして何事かを考えるように沈黙し、数秒経ってから不意に笑顔を浮かべて口元を袖で隠した。
「ああ……そういうことだったんですね、ヨシト様。だから、暇があれば城の中を出歩いたり、食事の際は臣下が使う食堂に行ってたんですか……ふふふ、そうならそうと言ってくだされば、わたしも咎めませんでしたのに……いえ、気付かなかったわたしが悪いのでしょうね」
「……カグラ?」
突然機嫌良く笑い始めたカグラに、志信は訝しげな視線を向ける。しかし、そんな志信に構わずカグラはくすくすと童女のように笑う。
「でも、ヨシト様も人が悪いですね……ええ、本当にひどい人……態度ではなく、口で示してくだされば……」
「カグラ、どうした?」
楽しそうに笑っているところに口を出すのはどうかと思ったが、それでも志信は再度カグラへ声をかける。すると、カグラは笑うのを止めて志信へと視線を向けた。ただ、その視線、その瞳には、どこか暗い光が見える。
「どうもしません。ただ、ヨシト様について一つ知ることがあったというだけです。それでは、その財務官についてですが……」
志信の疑問を流し、書類を書いた文官について説明を始めるカグラ。そこに今まで機嫌良く笑っていた名残はなく、表情は仕事を行うための真剣なものしかない。
志信はそんなカグラの様子に再び内心で首を傾げたものの、説明を聞くために意識を傾けるのだった。