第百十五話:帰宅
元々義人達が住んでいた町は、ごく普通のありふれた町だった。有名な歴史的建造物や観光スポットがあるわけでもない。際立って人口が多いわけでもなく、ビジネス街のように、一つのビルが倒れたらそのままドミノ倒しになりそうなほど高層のビルが乱立しているわけでもなかった。
それでも強いて特長を挙げるならば、海に面しているため夏の時期になると海水浴に訪れる人間がいるくらいだろう。しかし、義人達の住んでいる場所からは少し遠いため、海の波音が聞こえることはない。
八ヶ月ほど前までは日常的に見ていた光景。実に平和で、周囲に戦争の影も魔物の脅威もない、そんな世界。しかし、そんな平和な世界でありながら、義人はある意味でかつてないほどの脅威に遭遇していた。
森を抜けた義人は小雪に少女の姿へと化けさせて服を着せ、自身は小雪の服を包むのに使っていた上着を羽織る。寒空の下、さすがに長袖のシャツだけでは寒い。
優希手製の少し厚めの上着を羽織り、再度優希を背中に背負い、背中に当たる柔らかい感触を頭の中から努めて追い出し、“いつも通り”にノーレを肩から提げる。
そして、“それ”と遭遇してしまったのは、森から抜けて二十分ほど経った時のことだった。
気を張り詰めながら夜を徹し、空腹と激しい眠気を覚えながらも義人は自宅へと足を向ける。幸いと言うべきか、現在位置がどこなのかは記憶と照合すればすぐに知れた。子どもの頃からあちらこちらへと足を伸ばして遊んでいた義人は、その記憶をひっくり返し、現在位置から自宅までの道のりを割り出す。
あとは自宅までたどり着けばどうにかなると道を進む義人だったが、それを遮るように“それ”は立ちふさがったのだ。
「君、ちょっといいかな?」
不意にそんな声をかけてきたのは、自転車に乗った男性だった。服装は上下紺色の長袖長ズボン。頭には紺色の制帽を被り、腰には警棒や無線機。そして、ホルスターに収まった拳銃などが確認できる。
「…………」
義人は無言で目を瞬かせた。相手は、かつてこの世界で一度も会話を交わしたことがないような職種の人間である。
男性は近くに自転車を止めると、相手を安心させるためか表情を緩ませながら口を開く。年齢は五十に差し掛かったぐらいだろう。歳の積み重ねがそうさせるのか、他人を安心させるような雰囲気を持つ男性だった。
「市民の方から通報があってね。少し、話を聞かせてもらってもいいかな?」
そう言いつつ、男性は一つの手帳を掲げて見せる。その表紙に書かれた文字を読み、義人は内心で呟く。
―――警察?
その単語を認識するのに一秒。しかし、義人は何故自分に声をかけてきたのかを認識できずにいた。
落ち着けと自身に言い聞かせつつ、義人は自身の状況を確認する。
優希を背負っているが、これは別に拉致や誘拐というわけでもない。大きな問題ではないだろう。
小雪を連れているが、見た目は四、五歳の少女である。元の姿ならば警察に通報どころの騒ぎではすまないだろうが、今は傍目から見て問題があるようには見えない。
『ヨシト、この者はなんじゃ?』
疑問に思ったのか、ノーレが義人へと問いかける。
『警察って言って、国の兵みたいなもんだよ。犯罪の取締りとかをするのが目的……』
そこまで言ったところで、義人は絶句した。
同年代の女の子を背負い、幼い少女を連れ、鞘に納まった西洋刀を肩から下げて歩く男。
「なんてこった……」
完全に不審者だった。
カーリア国にいた時ならば、西洋刀だろうが日本刀だろうが所持しても問題はない。腰や背中に提げて街中を歩いていても咎められることもない。
容疑は銃刀法や誘拐などになるだろうか、などと現実逃避気味に考える義人に、警察の男性が話しかける。
「君が肩から提げてるものを見せてもらってもいいかな?」
笑顔で話しかけてくるのは、おそらく義人を刺激しないためだろう。通報されて一人で来たのは、悪戯電話だと思ったのかもしれない。義人は嫌な汗が背中を伝っていくのを感じつつ、とりあえずノーレを手渡した。
警察の男性はノーレを受け取ると、柄を握って引き抜こうとする。しかし、いくら力を込めても抜けず、しばらく悪戦苦闘した後に口を開いた。
「これは何かな?」
「演劇の道具です」
するりと、義人の口から嘘が出る。元の世界に戻れたと思ったら、そのまま留置所に直行などという展開は御免被りたかった。
「演劇の道具?」
「はい。演劇の道具です」
故に、義人は嘘をつく。しかし、ここで『そうなんだ』と納得するような人間は警察でなくともいないだろう。
「……それにしてはずいぶんと重いね」
「リアリティが大事ですから」
「剣が抜けないのに?」
「そのまま殺陣をやる必要があるんです」
からかっているようにしか聞こえない台詞だが、男性は気の長い人物だった。首を傾げながらノーレを義人に手渡すと、今度は背負った優希へと視線を向ける。
「その女の子は?」
「妹です」
「……なんで背負っているんだい?」
「少し、家庭の事情が複雑でして」
真顔で嘘を吐き続ける義人だったが、警察の男性が信じてくれるとは到底思っていない。義人自身、他人からそんなことを言われたら一笑するだろう。
「じゃあ、そっちの子は?」
男性が今度は小雪へと視線を向ける。その視線を受けた小雪は、怯えたように義人の背後へと隠れた。
「おとーさん、このひとだれ?」
そう言って、小雪が義人の腰へとしがみつく。男性は小雪のような見た目が小さい女の子に怯えられたことがショックだったのか、気まずそうに目を逸らした。しかし、すぐに現在の状況を思い出したのか口を開く。
「お父さん? 君、いくつ?」
小雪は見た目が五歳程度。そして、義人はどう見ても成人には見えない。
「二十三歳です」
「……いや、どう見ても二十歳は超えてないよね? 娘さんは五歳くらいかな? 奥さんは?」
小雪の存在と義人の返答に、男性も混乱してきたらしい。義人も眠気で頭の働きが悪いが、この場はどうにか誤魔化す必要がある。
「おくさん? おかーさん?」
「あー、うん。そうだね。お母さんのことだよ」
小雪を怯えさせないためか、膝を折って視線を合わせながら男性が答えた。小雪は男性の態度に多少気を緩め、義人が背負った優希を見上げる。
「おかーさん」
「……え?」
小雪の発言を聞いた男性は、笑顔で固まった。小雪はそんな男性の反応を前に、もう一度同じ言葉を口にする。
「おかーさん」
「え、えっと……その女の子が君のお母さんなのかな?」
「うん!」
満面の笑顔で答える小雪。それに反して、義人は男性から表情が見えないのを良いことに、絶望に満ちた顔をした。
―――小雪に何も言うなって言っておけばよかった。
もはや後の祭りである。
「そ、そうなんだ。教えてくれてありがとう」
男性は小雪に礼を言うと、ゆっくりと立ち上がった。そして、義人に複雑そうな視線を向ける。
「妹?」
「妻です」
投げやりだった。
ここまで来ると、誤魔化すよりもどうやって話を終わらせるべきかと義人は悩む。そして、そんな義人の発言を寝ながらに聞いた優希は、幸せそうに表情を緩める。
「さっき妹って言ったよね?」
「妹で、妻なんです」
自分で言っておいて、どんな関係だと義人は内心で呟く。
「それは、その……色々と駄目な気がするんだけど」
法律と倫理的に。そう口にする男性に、義人は内心で同意しながらも嘘を吐き続ける。
「家庭の事情が複雑でして」
「じゃあ、その辺りの事情も含めて話してもらえるかな?」
「……いやぁ、さすがに路上で話すような内容じゃないんで遠慮したいんですが」
「それなら署の方に来てくれるかな? コーヒーくらいなら出すから」
男性がにこやかに同行を促す。それを聞いた義人は、思念通話でノーレに話しかけることにした。
『ノーレ、『加速』は使えるか?』
『むぅ……なんとか使える、といったところじゃな。長時間はもたぬ。精々数秒ぐらいしか使えんじゃろう』
『それだけ使えれば十分だ』
『何をする気じゃ?』
義人の言葉を聞いたノーレが訝しげに尋ねる。そんなノーレの問いを聞いた義人は、自身の魔力を練りながら警察の男性の背後に停められた自転車へと目を向けた。
『こうする』
そう告げると同時に、義人は風の魔法を行使する。男性に当たらないように風の塊を撃ち出すと、狙い違わず自転車をなぎ倒した。
「っ!?」
突然背後から聞こえた大きな音に、男性が慌てて振り向く。義人はその瞬間にノーレへと指示を飛ばした。
『ノーレ、『加速』だ!』
『うむ!』
腰にしがみつく小雪を抱きかかえ、義人は地面を蹴る。一足飛びで男性から距離を離し、振り向くよりも早く傍の路地へと飛び込む。そして魔力が続く限り走り続け、逃げ出すのだった。
「……あれ?」
倒れた自転車に気を取られた男性は、今まで話していた義人の姿が見えなくなっていること気付いて首を傾げる。視線を外していたのはほんの数秒。そして、現在いる場所は人通りがないものの見通しの良い住宅街の一角。どう間違っても、数秒の間に姿を消すことはできない。
男性は頬をつねり、ひとまず夢ではないことを確認してから口を開く。
「狐か狸に騙されたかな……」
納得できないものを感じつつも、とりあえず倒れた自転車を起こすのだった。
距離を稼ぎ、そのまま適当に入り込んだ住宅の庭の片隅で、義人は乱れた息を整えていた。
「はぁ……はぁ……最初から、ああしておけば良かった」
そう言いつつ、義人は優希を地面に下ろさないように注意しながら上着を脱ぐ。そしてノーレが外から見えないように包むと、優希を背負い直して手に持つ。
『これヨシト、突然何をするんじゃ!?』
「……こっちの世界では、武器の類を携帯してはいけないって法律があるんだよ。今回はそれに引っかかったわけさ」
他にも通報される要素があったのだろうが、それは口に出さない。現在も不法侵入として通報されそうだが、義人にそれに気付く余裕はなかった。
「それにしても……魔力の消費が……ひどい、な」
使ったのは下級の風魔法一回に、『加速』を数秒。それだけで、義人は手足に鉛をぶら下げたような疲労を感じていた。
『お主は巫女やメイドのように魔力を消費をすることに慣れておらんからのう……』
「おとーさん、だいじょうぶ?」
義人の様子を見た小雪が心配そうに尋ねる。それを聞いた義人は、深呼吸をしてから頷く。
「なんとか。さて、今のうちに家にいかないとな」
眠気と疲労で今にも倒れそうな体を動かし、義人は歩き出す。
自宅までは徒歩で五分程度の距離だが、人目を避けながらのためその倍近く時間がかかるだろう。記憶の中の景色とほとんど変わっていないことを懐かしむ余裕もなく、義人は周囲に気を配りながら歩を進めていく。
そうやって歩くこと十分。義人は時折すれ違う人に怪訝そうな視線を向けられつつ、なんとか自宅の前までたどり着いた。
「……帰ってきた」
この世に生を受けて十七年。その大半を過ごした家屋を目の前にして、義人は小さく呟いた。
義人は無意識の内にポケットを漁るが、家の鍵は持っていない。そのため呼び鈴のボタンを押そうとして、不意に一枚の紙が貼ってあることに気付いた。
紙面を飾るのは、三枚の写真といくつかの文字。
「これは……」
『探しています』という言葉に、義人や優希、志信の顔写真と名前。おそらくは警察が作成したものなのだろう。紙の端に近くの警察署の電話番号が記載されている。
しばらくその紙を眺めた後、義人は玄関の呼び鈴のボタンを押した。そして、十秒ほど経ってから応答の声が響く。
『……はい。どちら様ですか?』
聞こえたのは、聞き覚えがある声だった。八ヶ月ほど聞いていなかった、自身の父親の声。
懐かしさよりも先に安心を感じながら、義人はゆっくりと口を開く。
「あの……俺……義人、だけど」
発した声は、大きく震えていた。
『……ッ!?』
驚くような絶句。そして、家の中から響く慌しい足音。その音が徐々に近づき、玄関の扉の鍵が開けられる音が響く。
「義人っ!?」
扉を開け、文字通り血相を変えて叫んだのは父親だった。その背後には、母の姿もある。驚きに目を見開き、口元に手を当て、言葉も出ない様子だった。
義人は両親の姿を見て、目を伏せる。
記憶にある両親の顔よりも、少し痩せたように見えた。それはきっと、自分達が姿を消したことが原因だろう。そこまで考え、しかし、義人はすぐに顔を上げた。
言いたい言葉はたくさんある。だが、それが中々口から出ようとしない。
目の裏が熱くなり、視界がぼやけてくるのを感じながら、それでも一番言いたかった言葉を口にする。
「―――ただいま」
それは謝罪ではなく、帰宅を告げる言葉だった。