第百十三話:転移
「……さん……とーさん!」
体を揺すられる感覚と、自身にかけられる言葉。それらが、断絶していた義人の意識を呼び覚ましていく。朦朧とした意識ながらも、義人はゆっくりと目を開けて声のする方へと目を向けた。
「……小、雪……か?」
そう呟きながら目を向けるが、小雪の姿は見えない。目を開けても視界に何も映らず、その異常さに義人の意識は一瞬で覚醒した。
目を開けても真っ暗で何も見えず、その上刺すような冷気を感じる。義人は仰向けの状態で倒れていた体に力を入れ、慌てて上体を起こそうとした。
「っ!?」
しかし、思ったように体が動かない。まるで全身が鉛にでもなったかのように動かず、覚醒したばかりの義人の思考は混乱する。
「ちょ、なんだ!? 体が重いぞ!?」
『……起きたか、ヨシト』
焦る義人の耳に、ノーレからの声が届く。それを聞いた義人は、声に出してそれに答えた。
「起きたけど、どうなってるんだ!? 俺、どのくらい気を失ってた!?」
『気を失っておったのは十分ぐらいじゃな……あと、何が起きたか妾にも詳しくはわからん』
ノーレの言葉と同時に、義人は袖を引かれる。何事かとそちらを見れば、真っ黒な視界の中に人の顔らしきものが見えた。
「おとーさん……だいじょうぶ?」
心配そうな声をかけてきたのは小雪だった。義人は声と、僅かに見える顔の輪郭からそう判断すると、小さく頷いてみせる。
「大丈夫だけど、一体何があった? 優希は?」
「おかーさんはおとーさんのとなりだよ。こゆきがひっぱってきたの」
そう言われて、義人は首を右へと倒す。すると、自身の隣に人らしき輪郭の何かが見えて眉を寄せた。
「……目が見えないってわけじゃなくて、暗いだけか」
『そうじゃな。コユキ、指先に灯す程度で良いから火炎魔法を使ってくれぬか?』
「うん、わかった」
ノーレの言葉に、小雪は頷く。そして暗闇の中で精神を集中し、指先に火を灯そうとして首を傾げた。
「んー……んー……あれ?」
「どうした?」
小雪が火の魔法を使うと聞き、内心で身構えていた義人が尋ねる。もっとも、身構えても体が動かないのだが。
そんな義人に対して、小雪は泣くような声で答えた。
「……まほうがでない」
「え? もしかして魔力切れか?」
「ううん。なくなってないよ。でも、まほうがでないの」
そんな馬鹿なと内心で呟き、義人は目を瞑って集中する。幸いというべきか、魔力はほとんど減っていない。しかし、ひとまず自力で『強化』の魔法を発動させようと魔力を操作したところで、義人は強烈な違和感を覚えた。
「なんだ、これ……」
召喚された当初に比べれば遥かに慣れてきた『強化』の魔法を発動させたが、それでも多少体が軽く感じる程度の効果しかない。義人はなんとか上半身を起こすと、ノーレに対して口を開いた。
「ノーレ……一体どうなってるんだ?」
『妾にもよくわからん……ひとまず、妾を握ってみてくれ』
ノーレの言葉を聞いて、義人は手探りで鞘に納まったノーレを探す。気を失っている間に小雪が背中から外したのか、ノーレは義人のすぐ傍に置かれていた。
手探りでノーレの柄を握ると、それと同時に指先から魔力が抜けていく。それがノーレが魔力を『吸収』しているのだと悟ると、義人は首を傾げた。
「そんなに魔力を吸ってどうしたんだ?」
義人が知覚できるほどに魔力を『吸収』するノーレ。しかしすぐには答えず、十秒ほど『吸収』を続けてからその問いに答えた。
『すまぬな、思念通話を行うだけでも魔力の消耗が激しいんじゃ』
「思念通話だけで? たしか、ほとんど魔力を使わないはずだろ?」
『うむ。じゃが、やけに魔力を消費しておる。そうじゃのう……普段の十倍程度魔力を消費しておるようじゃ』
「……十倍?」
何故それほど魔力を消費しているのかと疑問を覚えた義人だが、それを遮るようにノーレが小雪に対して言葉を投げかける。
『コユキ、普段の十倍程度の魔力を使って魔法を使ってみよ』
「じゅうばい? んーっと……このくらい?」
ノーレの言葉を聞いた小雪は、普段よりも使う魔力の量を増やして魔法の行使を試みた。しかし、ノーレの言う十倍程度という調節が上手くできず、必要以上に魔力を注ぎ込んでしまう。
「あ、ひがでた」
そんな暢気な言葉と同時に、小雪の指先にゴルフボールサイズの火の玉が出現する。すると僅かに闇が晴れ、それに合わせて義人は周囲を見回した。
小さな灯りのため、そこまで視界が良くなったわけではない。それでも周囲を“何か”に囲まれているのはわかった。その“何か”は人間や動物などではなく、時折吹く風に合わせて葉が擦れるような音を立てている。
その音を耳にした義人は、意識して鼻から息を吸う。すると最初に土臭さが鼻につき、その後に生木のような匂いを嗅ぎ取った。
人間の鼻でも嗅ぎ取れるのだから、余程緑が多い場所にいるのだろう。そう判断した義人は、より強い灯りを求めて小雪へと指示を出す。
「小雪、その火をもう少し強くできるか?」
「……うん。できるよ」
魔法の制御に意識を割いているのか、小雪の声は普段に比べて大人しい。それでも徐々に火の玉が巨大化し、それに合わせて周囲を明るく照らしていく。
義人達がいるのは、木々に囲まれた空間だった。頭上は木々から伸びる枝葉に覆われ、地面には枯れた落ち葉が敷き詰められている。
―――どこかの森か林、もしくは山の中か……でも、なんでこんな場所に?
黙考するが、答えが出るはずもない。そして、今はそれよりも気にしなければならないことがある。
「まずいな……こんな暗い場所で魔物に襲われたら洒落にならないぞ」
基本的に、魔物は人がいない場所に住む。それは森の中であったり、海や川であったり、断崖絶壁の岩山であったりと、生息範囲が広い。義人はノーレの柄を握り締めると、周囲を警戒しながら口を開く。
「まずは視界を確保しないとな。ノーレ、全力で『強化』をかけてくれ」
『この状況では難しいが……出来る限りはやろう』
ノーレがそう言うと、義人は自分の体がだいぶ軽くなったのを感じた。体が動くのを確認すると、義人はようやく立ち上がる。しかし、それでも普段は片手でも持てたノーレがやけに重く感じられた。
「鞘に入っているとはいえ、ノーレが重いな」
『この戯け! 失礼なことを言うでないわっ!』
「……すみません」
どうやら禁句だったらしい。義人は素直に謝ると、地面を覆っている枯れ葉を足でどけていく。そして土が見えるところまで枯れ葉をどけると、今度は地面に落ちている折れた木々を集めていく。夜露で僅かに濡れているものの、小雪の火力をもってすれば大した問題にはならないだろう。
義人は空気が通りやすいように木々を組むと、その間に枯れ葉を詰め込んでいく。そして、指先に火球をさせ続けている小雪へと視線を向けた。
「それじゃあ小雪、その指先の火で枯れ葉を燃やしてくれ」
「うん!」
『む? 少し待つんじゃ。その火球、込めた魔力が……』
「えいっ」
ノーレが何かを口にしていたが、それを気にせず小雪が指先から火球を放つ。火球はゆっくりと移動し、義人が置いた枯れ葉に触れた瞬間、爆発するように火柱を上げた。
「うおっ!? 小雪!? 威力が強すぎるぞ!」
咄嗟に後ろへと跳んだ義人だが、その表情は強張っている。周囲の木々には燃え移らなかったが、義人が地面に置いた木々や枯れ葉は一瞬で炭化していた。
『じゃから待てと……まあ、視界は確保できたがな』
音が聞こえるほどの火力で燃える炭を見て、ノーレがポツリと呟く。それを聞いた義人は延焼しないように周囲の枯れ葉を足でどけ、少し離れたところに落ちていた湿った木片を炭の回りに置いた。
「即席で炭が出来たとはいえ、山火事になったら魔物どころの騒ぎじゃなくなるぞ」
「うー……おとーさん、ごめんなさい」
火球を放った小雪が、目に涙を溜めながら頭を下げる。それを見た義人は、苦笑しながら小雪の頭を撫でた。
「いや、助かったよ小雪。次からは、もう少し気をつけてくれればいいから」
義人がそう言うと、小雪は泣き顔から一転して笑顔を覗かせる。義人はそんな小雪に小さく笑うと、未だに起きない優希へと歩み寄った。
「優希はまだ起きないか……って、ん?」
ひとまず火の当たる場所に移動させようとした義人だったが、ふと違和感を覚えて表情を引き締める。気を失っているのか、それとも眠っているだけなのか。灯りに照らされた優希の姿を見て、義人は違和感の正体を思案する。
―――呼吸をしてない?
一瞬、そんな考えが頭を過ぎった。
「優希っ!?」
義人は慌てて優希の傍に膝をつくと、呼吸を確認する。優希の口元に耳を寄せ、呼吸音を聞き取ろうと耳を済ませた。すると、か細いものの静かな呼吸音が義人の耳に届く。義人はそれを確認すると、気が抜けたように腰を下ろした。
「はぁ……心臓が止まるかと思った」
『しかし、普通の状態とも違うようじゃぞ? 寝ているにしては、呼吸が浅すぎる』
訝しげにノーレが呟くと、義人は再度優希の呼吸音を確認する。
「そう言われてみればたしかに」
優希は静かに、しかし小刻みに呼吸していた。義人はそのことに不安を覚えるものの、ひとまず火に当たって寒さを和らげるべきだと判断する。優希の背中と膝裏に腕を通し、横抱き……所謂お姫様抱っこをして優希を持ち上げた。
「軽いな……」
思わずといった様子で義人は呟く。すると、ノーレから押し殺したような声が響いた。
『ヨシト、妾との扱いの違いについて話があるんじゃが』
「ノ、ノーレが『強化』をかけてくれてるから軽く感じるんだよ!」
アハハと笑って誤魔化し、義人は火の傍に移動する。そして上着を脱いで小雪の火炎魔法で乾燥した地面へと敷き、その上に優希を寝かせた。その際焚き火からは少し距離を取り、寝ている間に優希が火傷をしないようにも注意する。上着を脱いだ義人は寒さを感じたが、火に当たっていればなんとか凌げそうだった。
「おとーさん、寒いの?」
すると、それを察した小雪が義人の膝上に飛び乗ってくる。見た目が子どもだからか、それとも中身が白龍だからか、小雪の体温は高い。義人は小雪の温かさに頬を緩めると、それを察したのかノーレが言葉を発した。
『寒いのならば、しばらくそうしていてはどうじゃ? 近くに魔物が来たら、妾が教える。それからの対応でも間に合うじゃろう』
「そうだな……そうしよう。『強化』がないと体が碌に動かない上に、こんなに寒いんじゃな」
「うん! えへへ……」
小雪は甘える猫のように笑い、義人に背を預ける。義人はそんな小雪に一つ笑うと、頭を撫でた。
『……それにしても、落ち着いておるな』
不意に、ノーレが呟く。それを聞いた義人は、小雪の頭を撫でる手を止めた。
「落ち着いているって、俺が?」
『うむ』
肯定の意思を示すノーレに、義人は少しだけ考え込んだ。そして、すぐに苦笑を浮かべる。
「いきなり森の中に放り出されるのはこれで二度目だしな。それに、召喚されてから驚くことの連続だったから慣れたのかもな」
今までのことを思い返し、義人は自分の言葉に頷いた。色々とありすぎて、驚くことに慣れてしまった
のかもしれない。
義人としては慣れたくなかったなと思うが、それでも突発的な事態に対してすぐに落ち着けるようになったのだから文句も言えなかった。
「でも、本当はけっこう焦ってるんだぞ? 食べ物や水はどうしようとか、ここはどこなのかとか、考えることが多すぎる」
『そうじゃな。それにしても、ここがどこか、か……』
「わかるのか?」
考え込むように呟くノーレに、義人は期待を込めて尋ねる。
『いや、さすがにそれはわからぬ。しかし、妙な違和感があってな』
「違和感?」
『そうじゃ。先ほど、思念通話を使うのに普段の十倍ほどの魔力が必要と言ったじゃろう?』
「ああ。俺も自分で『強化』を使ってみたからそれはわかる。普段に比べて、魔法が使いにくいってな」
右手を握り締め、頷く義人。『強化』を使用しない状態だと、非常に体が重く感じられた。今の状態では、馬のように速く走ることもできないだろう。跳躍しても、腰の高さまで跳べるかわからない。
『妾達の魔法の腕が鈍ったのか、それとも別の原因があるのか……』
「腕が鈍ったとして、そう簡単に魔法が使えなくなるのか?」
『余程のことがない限り、ないじゃろうな。ふむ、そう考えると別の原因と見た方が妥当か』
「別の原因ねぇ……」
何が原因かと考える義人だが、現状で考えられることなど限られている。
魔物の存在を警戒しつつ、義人は焚き火の傍で一晩中考えを巡らせるのだった。
一夜明け、東の空から太陽が顔を覗かせ始める刻限。義人は火が小さくなってきた焚き火に、乾燥させた木片を放り込みながら小さく欠伸をした。
今のところ、魔物の襲撃はない。それどころか、動物の気配すらほとんどなかった。義人は自分の膝の上で眠る小雪と、隣で眠る優希を交互に見る。
「……さすがに眠くなってきた」
『緊張しながら一晩明かしたからのう……お主も少しは睡眠を取れ、と言いたいが、この状況ではそれも叶わんな』
「眠るとしたら、安全な場所にたどり着いてからってわけだな。でも、せめて何か食べたいぞ」
『食べるものがないんじゃ。仕方なかろう』
時折腹の虫が空腹を訴えるように鳴くが、時間が経ちすぎて逆に空腹感を感じない。義人は自分にもたれかかりながら幸せそうに眠る小雪の頭を軽く撫でると、眠気を誤魔化すためにもう一度欠伸をした。
「……ん、ぅ……おとー、さん?」
すると、頭を撫でられたことに反応したのか、小雪がゆっくりと目を開ける。義人はそんな小雪に対して苦笑して見せた。
「起こしちゃったか」
「……うん。おかーさんは?」
「優希はまだ起きないな」
そう言いつつ、義人は隣で眠る優希へと視線を向ける。しかし、優希は相変わらず静かに寝息を立てるだけで、一向に起きる気配がなかった。
「……こりゃ、本当に危なくなってきたか」
食料も水もなく、現在位置もわからない。夜が明けて徐々に明るくなってきたものの、どの方向へ向けて進めば良いかもわからない状況だった。
「おとーさん、こゆきおなかへった」
膝の上に座っていた小雪が、義人を見上げながらそう口にする。それと同時に「きゅー」という可愛らしい音が響き、義人は頬を掻いた。
「せめて、今どこにいるのかがわかればな……」
周囲は木々に囲まれており、現在位置を教えてくれるようなものはない。義人は頭上を覆う木々を仰ぎ見て、ふとあることに気付いた。
「そうか。わからなければ調べればいいんだ」
『……どうやってじゃ? そんな魔法はないぞ?』
「いや、魔法じゃなくて……小雪で」
『む? ああ、なるほど』
義人の言葉に納得がいったらしく、ノーレが賛同の意を示す。しかし、当の小雪は首を傾げるだけだ。
「おとーさん、なに?」
「ちょっと小雪にお願いしたいことがあるんだ」
「おねがい?」
「そう、お願い。一度変化を解いて龍の姿に戻ってくれないか? そして、空からこの辺りの様子を見てほしいんだ」
頭を撫でながらそう言うと、小雪は力強く頷く。
「うん! まかせて!」
元気良く答え、小雪が勢い良く立ち上がる。そして、何を思ったのか自分の服に手をかけ、何の躊躇もなく脱ぎ始めた。
「……あの、小雪さん?」
白いコートを脱いで丁寧にたたむ小雪に、混乱した義人が敬語で話しかける。すると、小雪は不思議そうな顔をした。
「ん? なに?」
「何故に脱ぐ?」
たたんだコートを手渡され、義人はつい受け取ってしまう。小雪はコートの下に着ていた白い長袖の服に手をかけると、義人の隣で眠る優希へと目を向けた。
「おかーさんが、おようふくをきてるときにもとにもどるとやぶれるから、もとにもどるときはぬぎなさいって」
「……そうか。いや、そうだよな」
洋服ごと変化するものだと思っていた義人は、少し残念そうに呟く。その辺りも魔法でどうにかなると思っていた義人だが、現実は甘くないらしい。
そうやって義人が残念がっていると、全ての服を脱ぎ終えた小雪が少し離れた場所へと移動し、精神を集中するためか目を閉じる。
一瞬の発光。
その眩しさに、義人は反射的に目を閉じた。カメラのフラッシュのような光を受けた義人は、軽く頭を振ってから目を開ける。
「小雪……だよな?」
そこには、記憶にある姿よりもさらに大きくなった白龍の姿があった。最後に龍の姿で見た時は全長一メートル程度だったが、今では優希の身長と同じぐらいの大きさがある。
『おとーさん、どうかしたの?』
成長が早いなと驚いていた義人だが、その驚きを遮るように小雪の声が響いた。義人はそれが思念通話によるものだと悟ると、何でもないと笑ってみせる。
「それじゃあ小雪、まずは空から周囲の様子を見てくれるか?」
『うん』
義人の言葉に頷き、小雪は背中に生えた翼を羽ばたかせる。そして何度か羽ばたかせると、その体が宙に浮いた。
頭上に生える枝葉を物ともせず、小雪が飛翔する。下から見上げる義人は、枝葉の隙間から見える小雪が空を飛ぶ光景にすら驚きを覚えず、思わず苦笑した。
「慣れってのは恐ろしいな」
呟くように言葉を口にする。
そうやって下から眺めていると、一分と経たずに小雪が地面へと下りてきた。それを見た義人は、何かあったのかと首を傾げる。
「どうした小雪。何かあったのか?」
義人が尋ねると、小雪は前足で木々の奥を指しながら思念通話で答えた。
『うん。あっちに、へんなたてものがあった』
「建物? 村でもあるのか……どのくらい建物があったんだ? 距離は?」
『んー……いっぱい。きょりはあるいてさんじゅっぷんくらい?』
「いっぱい、ねぇ……まあいいや。歩いて三十分ぐらいなら、すぐにでも向かおう」
カーリア国の国王だと言えば、食事ぐらいはもらえるだろう。義人はそう判断して、未だに眠り続ける優希へと視線を向ける。
小雪には道案内を頼むとすれば、移動させることが出来るのは自分しかいない。龍の姿に戻った小雪の背中に乗せるという手もあるが、翼が生えているためにすこぶる寝心地が悪そうだ。
義人はノーレを背中ではなく体の前面へと移動させると、自力で『強化』を使って優希を背負う。そして優希の下に敷いていた上着に小雪の服を乗せ、袖の部分を縛ってノーレの柄に引っ掛けた。
『……傍から見ると、一体どのように見えるんじゃろうな』
「言うな。とりあえず、元の世界だったら警察に通報されるだろうよ」
寝ている女の子を背負い、鞘に納まった剣を肩にかけ、その柄には洋服がぶら下がっている。
少なくとも自分なら通報するなと気を滅入らせながら、義人は火が消えかかっている焚き火に砂をかけていく。そして火が完全に消えたことを確認すると、小雪が示す方向へと歩き始めた。
『おとーさん、こっちだよ』
小雪を先導にして歩くこと三十分。山を下るようにして歩き続けた義人は、『強化』を継続して使用する精神的疲労を堪えながら口を開いた。
「……『強化』を使うだけだってのに、すごく疲れるんだが」
『普段と比べて、必要な魔力が多いからのう。消費しているわけではないとはいえ、大きな魔力を常に全身に行き届かせるのは難しいじゃろう』
気を紛らわせるように会話を交わす義人だが、精神的な限界が近い。今まで働いていた『強化』に似た効果がなくなっており、自力で『強化』を長時間使い続けることが大きな負担になっていた。
「それにしても、まだ見えないのか……ん?」
三十分ほど歩き続けた義人だが、不意に妙な音が聞こえてその足を止める。
『おとーさん?』
足を止めた義人に対して小雪が先を促すが、足を止めた義人はそれに反応を示さない。聞こえた音をもっとよく聞き取れるようにと耳を澄まし、“その音”を聞いた。
「っ!?」
音が聞こえると同時に、その方向へと駆け出す。距離は遠くない。『強化』を使用した状態で木々の合間を駆け抜け、義人は正面へと目を向けた。
森を抜けるのか、木々の間から光が見える。正面から朝日に照らされて視界が白く染まるが、それに構わず義人は先へと進んでいく。
「ここは、まさか……」
遠くから聞こえる音を目指して、義人は進む。
今は遠い、だが、かつては毎日のように耳にしていた音だ。少なくとも、召喚された世界には存在しなかったはずの音。
義人は背後についてくる小雪に意識を割く余裕もなく、その音―――車のエンジン音がする方へと走る。
木々が生い茂る森を抜け、視界が開ける。義人は朝日の光に目を細めるものの、右手でそれを遮って眼前の光景を目に焼き付けた。
舗装された道路。
道路の上を走る乗用車。
道端に立つ電柱。
乱立するコンクリート造りの建物。
視界に広がった“懐かしい”光景に、義人は目を見開く。
「嘘、だろ?」
無意識の内にそう呟いて、義人は目を瞑る。そして、目を開いてもう一度眼前の光景を確認した。続いて、自分の頬をつねって痛みがあることを確認する。
「は、はは……夢でもないや」
そこは、およそ八ヶ月ぶりの“元の世界”だった。