第百十話:激昂
カグラが“その事態”に気付いたのは、自身の寝室で各町村に派遣している屯田兵からの報告書に目を通している時のことだった。
気の早い者ならばすでに眠りにつき始める時間だが、『召喚の巫女』であるカグラにはまだまだすることがある。現在目を通している報告書もその一環だったのだが、それを中断するほどに部屋の外の様子が気にかかった。
「少し、外が騒がしいような……」
呟きながら、カグラは報告書を机の上へと置く。内容を確認した後は国王である義人にも目を通してもらう必要があり、粗雑に扱うわけにもいかない。
この分なら明日には渡せるでしょうか、と内心で考えながら、カグラは腰掛けていた椅子から立ち上がって部屋の入り口へと足を向ける。
兵士が何も報告に来ないということは、大したことでもないかもしれない。だが、それでも確認をしなければと思う辺りにカグラの生真面目さが窺えた。しかし、カグラが扉へとたどり着くよりも早く外側からノックの音が響く。
――まるで殴りつけるような、荒々しいノックの音が。
『待て! 待つんじゃヨシト! 少し落ち着け!』
「これが落ち着いていられるか!?」
召喚の祭壇を後にした義人は、迷うことなく“ある場所”を目指して走っていた。その背ではノーレが声を張り上げて静止を呼びかけるが、義人が従う気配はない。
蹴り破るように城への扉を開け、その勢いのまま城の中へ足を踏み入れる。すると、義人の命令を聞いてこのまま待機すべきか、それとも後を追うべきかと迷っていた護衛の兵士が慌てて姿勢を正す。そして、その中でも気さくな性格をしている兵士が義人に対して声をかける―――よりも早く、義人の姿が廊下の角へ消えた。
「……え?」
まるで兵士の姿に気付かなかったように走り去る義人。兵士達はその背中を思わず見送り、数秒の時を置いてから顔を見合わせた。
「今の、ヨシト王だったよな?」
「ああ。でも、あんな怒った顔は見たことがないぞ?」
己の見たものが間違っていないことを確認し合い、兵士達は首を傾げる。しかし、すぐに何事かが起きたのだと判断すると、すぐさま義人の後を追って走り出す。
義人は自身の背後でそんな会話が交わされていることなど気にも留めず、真っ直ぐにある場所……カグラの寝室を目指す。
何もない限り、この時間は寝室にいるはずだ。時期的に、各町村からの報告書でも読んでいるかもしれない。そんな風に行動の予測が立つ程度には、義人もカグラのことを知っていた。
時間が時間だけに、すれ違う人影はほとんどない。時折巡回をしている見張りの兵士が走る義人を見て慌てたような顔をするが、義人が声をかけることはなかった。反対に、兵士が声をかけようとする頃には義人もすでに姿を消している。
義人はカグラの寝室がある区画まで止まることなく進むと、扉の両脇に守衛の兵士が立っている場所へを目を向けた。
カグラの腕前を考えれば守衛などいらない気もする、などと義人は頭の片隅で考えたが、どうでも良いことかとすぐに打ち消す。
義人は形だけの見張りに視線を向けると、そちらに歩み寄りながら背負ったノーレに右手を伸ばして鞘をつかむ。そして突き出すように兵士に押し付け、端的に用件を告げた。
「少しで良い。ノーレを持っていてくれ」
「は、はい……」
声をかけられた守衛の兵士は突然現れた人物が国王であることに驚くと、突き出されたノーレを反射的に受け取る。そして、義人の心情を知っているノーレは慌てて声を上げた。
『待たんかヨシト! まだ全てがわかったわけではない! そんな状況で巫女に話を聞いても―――』
ノーレの声を遮るように、義人はカグラの私室の扉を叩く。否、それは叩くというよりも殴るような強さで、それだけでも義人の心情が垣間見れるようだった。
「カグラ、いるか?」
しかし、そんなノックの仕方に対して声は落ち着いている。まるで、嵐の前の静けさのように。
守衛の兵士の腕に納まったノーレは、いっそ風魔法で義人を吹き飛ばして強引にでも大人しくさせようとまで考えたが、それよりも早く部屋の中から声が響く。
「は、はい。どうぞ……」
部屋の中でノックの音を聞いたカグラの声は、僅かに困惑していた。義人はそんなカグラの返事を聞くと、用件も告げずに扉を開ける。そしてカグラの私室へと踏み込むと、すぐさま扉を閉めた。
「……ヨシト様? どうかされましたか?」
突然来訪した義人に、カグラは困惑しながら尋ねる。だが、義人はどこか思い詰めたような表情で小さく首を横に振るだけだ。
ランプが置かれているものの、部屋の中は昼間と違って薄暗い。その薄暗さが義人の表情をある程度隠し、カグラは義人の表情から感情を読み取ることができなかった。
「…………」
入室したものの、義人は無言。ただ、カグラを見据えるその目だけはかつてないほど力強く、鋭い。
そんな義人の様子に、カグラはほんの少しの疑念と多分な期待を感じた。
―――これは、もしかして……。
頭を掠めたのは、数日前のアルフレッドの言葉。折を見て義人に『召喚の巫女』の役割について話すと言っていたのを、カグラはこの場で思い出す。
―――ヨシト様の方から?
そんな、“見当違いな”期待。
まさか、もしかしてとカグラは考え、
「カグラ」
そんな思考を叩き切るように、義人がカグラの名を呼ぶ。その声色は真剣で、硬い。カグラは常にない義人の様子に、気を引き締めつつも小首を傾げる。
「なんでしょうか?」
「前に言ったよな? 魔力が回復すれば、“元の世界”に戻すことができるって」
前置きも何もなく、義人はそんな問いを投げかけた。カグラは唐突な質問の意図がわからず、曖昧に頷く。
「は、はい。たしかにそう言いましたが……」
それが何か、と答えるカグラに、義人は苛立ったような鋭い視線を向ける。
「どうやって?」
「……召喚の魔法を使ってですが?」
今まで向けられたことのない、敵意ある視線。それを受け止めたカグラは、身を硬くしながら答えた。すると、義人は余計に苛立ったのか声を大きくする。
「だから、使えない魔法でどうやって“元の世界”に戻せるって言うんだ!?」
それは義人からすれば至極真っ当な、しかし、カグラからすれば意味のわからない問いだった。それを示すように、カグラは困惑を表情に浮かべる。
「……申し訳ありませんが、ヨシト様の仰ることの意味が」
「わからないって言うのか? それとも、とぼければ誤魔化されると思っているのか!?」
最早、隠すべくもない。義人は完全に敵意をむき出しにしてカグラに言葉を叩きつけ、それを受けたカグラは困惑を強めながら口を開く。
「よ、ヨシト様? 一体どうされたのですか? いつもと様子が……」
「そりゃ違うさ。これでいつも通りだったらどうかしてる」
吐き捨てるように告げ、義人はカグラへと一歩だけ歩み寄る。その一歩は地面を踏み抜くように荒々しく、その音を聞いたカグラは僅かに肩を震わせた。
“こちらの世界”に召喚された時は、気が動転している部分もあってそこまで感情を見せていない。だが、今回ばかりは義人も黙っているわけにはいかなかった。
「なあ、どうなんだよ?」
もしも手元にノーレがあったならば、迷わず剣を抜いていたかもしれない。それほどの激情を抑えながら、義人は言葉をつないでいく。
対するカグラは、義人の言葉に何も返せなかった。
カグラとて、荒事には慣れている。師であるアルフレッドを含め、正面からまともにぶつかればカーリア国内で敵う者はいないだろう。その強さに裏打ちされた胆力も持ち合わせている。だが、それが全ての面において発揮されるというわけではない。
「そのっ、あの……」
理由もわからず、憎からず思っている―――直截に言えば、強く想い、慕っている人物からの突然の怒声。それが普段は回る口を閉ざし、言葉を紡ぐことを許さない。だが、義人はうろたえるカグラを気に留めず、言葉を吐き出し続ける。
「答えてくれ、いや、答えろカグラ! なんで騙した!? 初めから全てを話せば、俺が協力をしないと思ったからか!?」
「…………」
答えはない。カグラは必死に頭を働かせ、義人が放つ言葉の意味を考えていく。
「答えないのか? それとも、答えられないのか?」
義人はカグラを真っ直ぐに見据え、舌鋒鋭く問いただす。
「わ、わたしは、その……」
義人の言葉と視線を受けたカグラは、小さく呟きながら思わず視線を逸らす。まるで、己の非を隠すかのように。
そんなカグラの様子を見た義人は、カグラが“元の世界に戻れないことを知っていたのに黙っていた”と判断した。
「……そうか」
――判断して、しまった。
義人は一向に答えを返さないカグラに鋭い視線を向けていたが、小さな呟きと共に視線を弱める。しかし、視線の強さが弱くなった代わりに、今までにない色が瞳に宿った。
「残念だよ、カグラ。“信用”はしてたんだけどなぁ……」
それは、失望という感情。どこか空虚めいた視線でカグラを見据え、義人は言葉を紡いでいく。
「長くても三年……そのくらいなら、珍しい経験だったって思いながら“元の世界”に戻れたかもしれないさ。だけど、戻れないっていうのはさすがに許容できないし、それを黙っていたのは許せない」
「…………」
カグラは答えない―――答えることができない。
義人の問いかけの意図が掴めず、それに対する答えも浮かばない。それに何より、義人の言葉と感情の変化がカグラの思考力を奪っていた。義人はそんなカグラを一瞥すると、用は済んだと言わんばかりに踵を返す。
「あ……」
カグラの口から、意味のない声が漏れる。ほぼ無意識のうちに義人を引き止めるように右手を伸ばし、それと同時に、カグラは言い様のない感覚を覚えた。
“かつて”体験した、嫌な感覚。伸ばした手が届かず、背を向けた義人は振り返らず、ただ拒絶の言葉を投げかけられた、とある夏の夜の一幕。その時の感覚がカグラの動きを止めた。
“あの夜”とは状況も違う。だが、それでもカグラの胸に去来するその感覚は、数ヶ月の時を過ぎてもなお鮮明に思い出せる“あの夜”と同質のものだった。
――声をかけて、振り向いてもらえば良い。
頭ではそうわかっていても、“あの夜”のように声帯が麻痺したように声が出なかった。
――すぐに追いかけ、袖を引いて引き止めれば良い。
そう考えても、足が一歩たりとも前に進もうとしなかった。まるで自分の体ではないように、歩を進めることができなかった。
だから、カグラは右手を伸ばす。“あの夜”と同じように、届かないとわかっていても右手を伸ばす。
理由もわからずに向けられた悪意の意味を教えてほしいと、何故そんな目でわたしを見るのかと、問いかけたかった。だが、そんな願いも聞き届けられない。
義人は立ち止まらずに扉を開け、声をかけることもなく部屋の外へと歩み出て行く。
それだけが、“あの夜”とは違っていた。