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ふと昨日もこんな天気だったなと思い出す。一応、各教室に一つエアコンがついているけれど四十人近くいる教室で、直射日光も照りこんでくる。グランドのベンチに座っているくらいには暑い。いつからか昨日のことがどこか遠くの思い出に感じたし、それだけ一日なんてあっけないものだなと思う。昨日は練習試合で隣の県へ行ってきた。いわゆる遠征だ。朝六時に起きて七時に学校に集合。そのままバスに揺られること一時間三十分。
僕が通っている蒼獅学園は私立の学校でそれなりに部員の数も設備も揃っている。五年前には一度甲子園にも行っている。OB会からの寄付で送られた三十人以上乗れるバスが大きく身を揺らしながら突っ走っていく。車内の雰囲気だけなら修学旅行と何ら変わらない。昨日のテレビの話で盛り上がっているやつ、音楽聞いている人もグローブとにらめっこしているやつもいる。
隣の席の健太が話しかけてくる。
「今日の試合スタメン入れるかな?」
「健太が入らないなら俺が入っとくよ」
無論一番前に乗っている大森監督には聞こえないようにして話は続く。
「前の試合全然打てなかったのにエラーしたからなあ」
「まぁあれはバウンド難しかったからね。投げたサードも悪いっちゃ悪いよな」
「でもあれは取ってやりたかったよ。もう少し背が高ければ届くのに」
「そうだな。検討を祈るよ」
「俺はなんの検討を祈られたんだよ」
真面目そうなその顔をぐにゃっと曲げて愉快そうに笑った。
「じゃぁ今日のオーダーを勝手に予想しまーす。」
「おいおい。ほんとに怒られるぞ。」
「大丈夫。大丈夫。一番レフト、宮田。二番サード真中。三番ファースト俺。」
健太の自分勝手なオーダーを読み上げている最中
「おい。いい加減にしておけよ。」
「げっ」
二人揃って間抜けな声を出して振り返る。監督にバレたと思っていたけれど、振り返ると弥太郎がケラケラ笑う。
「弥太郎。まじで心臓に悪いから、真似するの辞めてくれ。」
「今のは絶対監督だと思ったわ。なんでそんなにうまいんだよお前。まさか監督の隠し子だったりするんじゃないよな?」
「そんなわけ無いだろーが!」
真剣な表情で怒る弥太郎に思わず吹き出してしまった。
そんな雰囲気も目的地のグランドに到着し車を降りる頃には物々しい雰囲気へと変わっていた。試合に来ているのは十八人。野球部の中に一軍、二軍、三軍とあってその中の一軍だ。当たり前だけど夏の大会でベンチに入れるのはこの一軍に入った十八人のみ。入れ替わりは頻繁に行われて試合でミスが多かったり連携が取れていないと判断されるとすぐ二軍へ落とされる。そんな弱肉強食の世界だ。僕は一応一軍に入れているけれど何度も上と下を行ったり来たり。今日もスタメンではないしなんとか入れている程度。残念だが三年になっても二軍、三軍のやつは沢山いるしそいつらは今頃一、二年と混ざって学校のグランドで自主練している。そうはなりたくないなと思いながら一軍に居続けられるかは分からなかった。
試合は優勢に進めることができた。相手のピッチャーも制球力は良かったがそれほどボールも早くなく変化球の切れ味もそれほどだった。いわゆる打ち頃な感じのピッチャーだった。学園の方針は質実剛健、堅守から流れを作るチームだったので方針通りゲッツーを四つ取れたし。エラー、フィールダースチョイスもなくヒットは七本打たれたが失点は一点だけだった。
六対一で逃げ切りムードの中、代打で打席に立った左のバッターボックス。左足と一緒に両手を引きながら高めの位置にトップを作る。だがなかなか手が出なかった。外中心の配球をしかれる。初球のストレートは決まったが二球目のスライダーはボール。三球目ボールだと思って見逃したスライダーはストライクを取られた。カウント一ボール二ストライクと追い込まれてからの四球目。外から入ってくるスライダーを打った。感触は良かった。抜けたかなと思ったけれど先に一塁についたのはボールだった。結果はサードゴロ。大会前だっていうのに調子が上がらない。ダメだな。これじゃ示しが付かない。
昼ごはんを食べ終わると途端に眠たくなる。昼前だって散々寝ていたのにウトウトしてしまう。今日最後の一コマは数学。先生は黒板とおしゃべりをする癖があって、ひどいときには大体十分間くらい生徒の方を見なかったりする。一方生徒は、と言うと僕と同じようにウトウトと微睡みに落ちている者ばかり。そんな奴らに混ざりながら僕は机の下で携帯をいじっていた。メッセージアプリに通知が光る。健太からだ。朝方言っていた午後練のメニューの予想を繰り広げていた。僕の予想はもっぱら守備練習。バッティング練習をしても打席に立つのはせいぜい二、三回だろうなと思っていた。健太もだいたい同じ予想をしてきたけれどそれじゃ勝敗がわかりづらいからと予想がだんだん細かくなる。
「守備練習の内容は何だ?」
「今日は何キロ走らされると思う?」
そしてしまいには監督がどこで怒りだすかという議論になり、白熱はしたけれど余計に勝敗がつけづらくなった。
携帯に夢中になっていたけれどふと辺りを見渡すと、ぐっすり眠っていたチームメイトの内、数人が起き出す。あいつら必ず授業が終わる三分前には目を覚ますから凄いよな。寝ぼけた横顔がだんだんギラギラした顔つきになるのは見ていて面白かった。終礼のチャイムは僕らにとってスタートダッシュを決めるための号砲だった。遅くグランドに入った奴らにはアップの前にグラセンから始まる。三年になってグラセンなんかしていたら下級生に笑われる。僕らにとってそれは大恥だった。
しょうがない今日も必殺技を使おう。携帯で時間を確認する。もうすぐチャイムが鳴る約三十秒前。音を立てずに椅子を引く。まだ誰にも気づかれていない。立ち上がり静かに教室の後ろのドアに近づく、隣の女子が一瞬こっちを見たけれどあの子はいつも知らない振りしてくれる。心のなかでありがとうとつぶやきながらドアに手をかけたところでうつむいて携帯を見ていたはずの健太が察したように振り返った。気づかれた!こうなったらドアまでの距離だけでも優位にしなければとドアを派手に開け、廊下へ飛び出したところでチャイムがなった。先生がぎょっとして振り返った頃には皆駆け出していた。
★☆☆
授業中もよく寝ているし、帰ってきてからも家族の話を半分うわ言のように返事をしながらベッドへ飛び込む。そんな生活だとほとんど夢を見ることもなく深い眠りについているのだけれど、代わりに眠りから覚めてもまだ寝ているような気分によくなる。起きているときに夢を見ているみたいにふわふわした感覚がどこか気持ちいい。そんな風に夢なのか現実なのか、寝ているのかの区別も曖昧になった頃。いつからか夢を見ていた。おそらく夢だったと思う。映画のコマ割りみたいに途切れ途切れに場面が変わっていくそんな変な夢だった。
今の身長の半分くらいの僕がいた。野球をしている周りにも何人かの友達がいてみんな楽しそうにはしゃいでいる。芝生の公園だった。あまり広さはないけれど幸い今の時間は他には誰もいない。下校の時間だったのだろう。公園の外には赤と黒のランドセルを背負った児童が危なっかしい足取りで下校している。公園の中水道の近くのベンチにもランドセルが転がっていた。きっと僕のもあの中に混ざっているのだろう。さながら球場に見立てたその場所に靴でバッターボックスと各塁を適当な大きさでかく。
「一人二十球ね!」
ファーストベースをかいていた子がそう言いながらバッターボックスへ向かう。今日は五人しか集まっていないから試合をするにはちょっと人数が少ない。そんな時はバッティング練習みたいに交代でボールを打っては遊んでいた。マウンドの当たりに黄緑色のテニスボールが何個か転がっている。とりあえず適当な所にボール拾いに行こうと思ったけれど、瞬きをすると突然景色が変わる。
友達と学校の教室でテニスボールを使ってキャッチボールをしている。キャッチボールなんて言っているけれど、ただのちょっかいだった。皆半分わざと半分偶然を装うようにしてよくボールを女子に当てて遊んでいた。その度にムッとした顔で睨まれるけれど、それが面白かった。教室から先生がいなくなる休憩の時間や給食を食べ終わったあとの時間はいつもそうやって遊んでいた。そうしていつまでも続いたらいいのにと思う時間ほどあっけないほど突然終りが来る。午後の始業のチャイムが鳴る前に先生が入ってきた。
「見られた。やばい。」
最初は軟式ボールを使ってグローブでやっていたけれど、ふざけていたら投げたボールが教室の窓を見事に割ったことがあった。あのときはこっぴどく怒られて以後校舎内でのキャッチボールは禁止と言われていた。流石に僕らも反省の色を露わにしそれからボールをテニスボールに変えた。キャッチボールは辞めてない。ちょうどテニスボールを持った僕の方に先生が向かってくる。ボールを他の子に渡したらそっちに行くのかな?それはそれで面白そうだなと思ったけれどボールを投げる前に景色が変わった。
家の近所のカメラ屋さんの駐車場いつも車が止まってなくてだだっ広いアスファルトが広がっているそこは恰好の球場だった。芝生の公園がメイン球場だとしたらここはサブ球場ってところ。野球をしているとランドセルを背負った男の子がこっちへ走ってくる。お兄ちゃんと言っている。僕には弟なんていないはずなのに。きっと夢だからなんでもありなのだろう。飛び飛びに景色も変わるし不思議な事がちょくちょく起こる。その子は自分の名前をトシと言った。トシだけなのかトシ○○なのかはわからなかった。でもそれだけで心を通わせる事ができた。
その後もくるくるとシーンは目まぐるしく変わっていった。弟を名乗るトシが出てこないことあったけど七割くらいには必ず登場した。シーンが変わるごとに僕は成長していった。それから僕は少年野球チームに入ってどんどん野球にハマっていった。夢であるとわかっても自分に懐いてくれるトシは可愛かった。どちらかがどちらかの試合を見に来るなんてことも多かった。僕がファインプレーをすると一番に喜んでくれて試合が終わると目を輝かせて寄ってきた。僕もトシがヒットを打つと自分のことのように喜んだ。トシはまだ小さいせいかバッターボックスに入ると軟式ボールが怖くて体がガチガチになることが多かった。そんな時いつも「トシ、気楽にいけよ」と声をかけた。それに頷くトシ。夢の中で本当に弟がいればいいのになと何度も思った。現実の世界に戻ったら母親にお願いしてみようか。
突然目の前が真っ暗になった。しばらく真っ暗な闇の中に投げ出された。体を動かしてみたが背景が変わらないので本当に動かせているのか感覚がない。諦めて目を瞑りそのまま何か変化があるのを待った。頭の中は不思議と空っぽだった。なんだかやらなきゃいけないことを思い出せないようなそんなもどかしい気持ちを抱えていた。気がつくと瞼の向こう側が明るくなっていることに気がついた。眩しくないようにゆっくりと目を開ける。
そこは自分の家の玄関だった。そのことに気づいた瞬間周りにいる人の話し声、木造住宅の匂いが頭の中に一斉に入ってきた。気圧されながら頭で情報を整理しようとしている時、正面に見える昔ながらの格子の入った玄関扉がガラガラと引かれる。誰が来たのかと思えば自分の父方の祖母と祖父だった。もう外出もめったにしなくなった二人がどうしてこんなところまで来たのだろう?しかも周りの人と同じように派手な色のない正装をしている。見るからに喪服だった。これじゃぁお葬式じゃないか。そんな時今度は左手のリビングへ続くドアを開け父が出てきた。一体何なのだと声をかけようとしたのだが、僕の方など見向きもしない。
「それじゃあ、今いらっしゃる方から奥の客室へお集まり下さい。間もなく始めます。」
そう言いながら奥の客室へ入っていく。周りからは祖父母夫婦も顔見知りの親戚たちと短く言葉を交わしながら奥の部屋へと消える。
「ご愁傷様。」
そんな言葉があちこちから聞こえた。いよいよ冗談じゃないなと思った。悪い予感が少しずつ形を持ち始めた。皆に続きいつもは使っていない客室へ向かうと僧侶が座っている。その後ろへゾロゾロと集まった人たちが正座をして座っている。
お通夜が始まった。最初は黙り込んでいた弔問客だったけれど家族の誰かが喉の奥を小さく鳴らした。違う人の嗚咽が混じった。故人への思いが高まるに連れて落涙するものが増えた。気がつけば座敷には入り切らない悲哀が慟哭を呼んだ。こぢんまりとした客室の一番おく、白い布を顔にかぶせて寝ている。その布団。弔問客との別れの言葉をかわすために住職によってその白い布が取り払われ、故人の顔が露わになる。そこに寝ているのは僕自身だった。よく見ると故人の前には五十嵐輝樹という名前と遺影がある。なんだか頭がクラクラする。
「いや、そんなはずがない。僕はここにいるだろ?」
パニックになった僕はそこへ駆け寄り、その顔を覗き込む。
「なんで?そこにいるの?」
その頬を触ろうと手を伸ばしたが触れることはできず通り抜けてしまう。必死になって何度も繰り返す。
「これじゃあ本当に僕がここにいないみたいじゃないか。」
後ろを振り返り家族に、親族に声を掛けるけれど誰も反応してくれない。
通夜と言っても昔みたいにそれほど長い時間行われるわけではない。一段落すると、次第に故人と別れを告げお葬式の日程を確認して自分の家へと帰路をたどる人がでてきた。お座敷からは一人二人と人が減っていく。日が暮れて部屋に明かりがつく、家族が食事をしに別の部屋へ出ていく。誰に声を掛けても何の反応も返してくれない僕は諦めて呆然と突っ立っていた。
改めて座敷を見渡すと先程までいなかった小、中、高と中の良かった友達が訪れていた。その中に沙貴もいた。久しぶりに顔を見た友達もいたけれど、涙を流すその姿を生還することはできなかった。食事を食べ終えた家族は交代交代で僕の所へやってきてくれた。母理恵は泣いている友達に声を掛け昔話を始めた。それからまた一緒になって涙を流した。
父幸治はそんな母を見守りながら、
「辛いのはわかるけれど、もう遅いから早めに家に帰るんだよ。」
とやるせない気持ちを隠しながらそう声を掛けた。
僕はこれからこの世とおさらばしなくてはいけないのだろう。
「あぁなんていう運命なんだ。」
それから沙貴は母親に見送られ家に帰ることになった。その後随分と遅い時間まで理恵と幸治は僕のそばを離れなかった。それは長い長い夜伽の夜だった。そこに言葉はなかったから僕は再び闇の中へ放り出されたような気分担ったけれどさっきよりは心がほっと暖かかった。僕はそうしている二人の間をそれから見慣た客室をグルグルと彷徨った。彷徨いながら色々な事を考えた。
本来の体から離れた僕はなぜこんな状態になってしまったのか。いずれ体がなくなった時どうなるのだろうか。有りていに言えば何をやり残したのだろうか。そんなことを蝋燭の炎が揺らめく中、お線香の香りに包まれた部屋で考えていた。月はおぼろ。涼しい夜だった。満月から少し欠けたつきが雲の間に見え隠れする様はまるで泣いているようだった。死んでしまった僕さえもが悲しかった。