いち
★☆☆
素早く空を切る音が間近で聞こえた。一瞬遅れてキーンと高い打球音が鳴り響く。またファールだ。大きな入道雲を避けるようにして燦々と降り注ぐ太陽の下、次の一球へと意識は切り替わる。球審がピッチャーにボールを渡す。帽子のつばに指を添えて受け取るピッチャー。全国高校野球選手権大会。地方予選の第一回戦。プロ野球の地方試合でも使われる町営球場にアナウンスがこだまする。三回に僕らのチームが一点を先制した。そこまでは良かったがその裏すぐに二点取られ逆転を許し二対一のまま動かない試合はいよいよ最終回。九回表一アウトランナーなし。この回あと二つアウトを取られる前に一点を取らないと敗北となる。要するに追い込まれていた。左のバッターボックスに構えるバッター。太陽に反射して金属のバットがキラリと光る。カウントは三ボール二ストライク。次の球で九球目。追い込まれてから三球粘っていた。内野グランドに砂埃が待って蜃気楼みたいに見える。バッテリーが額に汗を浮かべながら次の球のサインを交換する。ボール球を投げたくないピッチャーはストレートを選んだ。腕を鞭のようにしならせて渾身の力で投げ込んで来る。ピッチャーがモーションに入るのをみてステップを踏む。タイミングを図りながら右足をストライクゾーンの方に浮かせ、両手を後頭部の後ろに引き上げてトップを作る。左足の重心に蓄えた力を一つも逃さないように鋭くバットを振り抜く。キーン。打球音が球場に響き渡る。真ん中やや低めを弾き返した球は今度こそフェアグラウンドへ転がった。振りきった腕を地面に垂らしたままのピッチャーはまだ反応出来ていない。
「抜けてくれ!」
そう願いながら打ったバッターは一目散に走り出す。放り出したバットが地面に転がる頃、ボールはそのグローブをすんでのところでかわしグングンと進んでいく。ヒット性の当たりだった。だが、「わぁ!」という歓声が聞こえる一瞬前グラブに収まった。ショートに捕られた。前のめりに体勢を崩していたショートだったが難なく鮮やかな体捌きで送球姿勢を取る。ステップを踏んで投げ出された球は一塁へと一直線に向かう。ここまでは単なるショートゴロだった。
だがここから先、誰も予想していないような展開を見せた。
球場は静まり返っている。蝉の鳴き声を残して誰もいなくなってしまったように静まり返っていた。一塁塁審が両手を真横へ広げセーフと判定しているが誰も見ていない。きっと数コンマ何秒という短い時間だったが誰の目にも架空と現実の壁が見えた。沢山の人がその光景を目撃したのに誰の思考もそこには追いついていないようだった。突如、壁は崩れ現実が押し寄せてくる。一塁ベースと頭を並べるようにして人が倒れている。いや、正しくは選手だ。止まっていた時間が我を思い出し慌てて時間を進めるようにグランドの中へバタバタと人が集まってくる。対象的に守りについていた相手チームの選手たちはまだ動けないでいる。誰もがただ呆然と注視している。それでもうつ伏せのまま手足を放り出していてピクとも動かない。真っ黒いシャツを着た一塁塁審がしゃがみ込み肩を叩いて呼びかける、反応がない事へ比例してその動きも声も不安も大きくなる。
そこへ担架を持った球場の係員がアクセクと走ってきた。やはり意識がないことを確認するとすぐ隣に担架を置き寝返りをうたせるようにうつ伏せから仰向けに寝転がらせ担架に乗せた。目を閉じぐったりとした少年の顔が見えた時。一塁側ベンチの上の客席。一番近くで成り行きを見守っていた女性から悲鳴が上がった。「キャー」とも「ギャー」とも言い難い何とも嫌な響きだった。その隣にいた女性の子供だろう。つられてしがみつくようになりながら声を上げて泣いた。不穏な空気はすぐに伝染する。
「おいおい大丈夫か?」
そう呟きながら心配そうな表情を浮かべる男性の隣
「え?どうして?なんで?」
パニックに陥る女性のグループ。
「流石にこれはヤバイだろう」
そう言って、おもむろにカメラを取り出す男性もいる。
一塁側のベンチから相手側の観客へと蝉の鳴き声をかき消すように球場はざわつきだした。倒れた少年の名前を叫ぶ男の人がいる。きっと彼の父親なのだろう。ネットに阻まれ近づくことができない。せめて返事だけでもしてくれと必死に名前を連呼するがその思いは届かない。担架に乗せられた少年は血まみれだった。出血場所がわからないほどユニフォームは赤く染められている。一層に少年の身の危険を感じた係員は、担架を持ち上げすぐさまダッグアウトへ向かって走り出した。
その後ろ少年の頭から外れて担架に乗っかっていたヘルメットが地面へ転がった。左側の一部分が欠けてなくなったヘルメットがポツンと落ちている硬式ボールのほうに転がる。その様は球場の混乱そのものだった。入れ替わるようにしてマイクを持ったスーツ姿の男が出てくる。小太りで薄くした髪の毛から額へすでに汗が吹き出ている。胸元に光るバッジをしている。大会の役員だろう。ダッグアウト近くの控室からマイクを受け取り喋りだす。
「あ。えー役員の菅原です。試合中の選手諸君、審判団は、まず一度、おちついて、ベンチへ戻って下さい。」
明らかに不慣れな言葉使いで指示を出す。一呼吸おいてから、
「只今起こった事態への対応を協議します。しばらくお待ちください。」
そう言い残し、ダッグアウト付近で駆け寄ってきた他の役員だろう男といそいそと話し合っている。さっきまでけたたましかった救急車のサイレンが少しずつ遠のいてく。球場はいつもと違った喧騒で包まれている。審判団、選手全員がベンチへ戻る頃、役員の菅原が再びマイクを持ち球場全体へ話しかける。
「えー球場にいる皆様にお伝えいたします。只今試合中に発生しました緊急事態への対応のためこれより試合を中断させていただきます。えーなお試合を中断する間、球場内を立ち入り禁止とさせていただきます。場内にいる方は荷物をまとめて一度球場外へ移動して下さい。繰り返します。———」
アナウンスと共に客席に現れた無数の役員が誘導し始める。ざわついた空気の中一人また一人と席をたち荷物をまとめ始める。
「試合中断するんだって」
「あの運ばれていった人大丈夫かな?」
「ユニフォーム真っ赤に染まってたよね。やばくない?」
「手荷物をまとめて一度球場の外へ移動して下さい」
そんな声があちらこちらから聞こえてきた。球場の外へと向かう行進の中ではつい数分前に誰もが目の当たりにした事についての話で持ち切りだった。見ていた場所によって少しずつ見え方の違いもあり、みな思い思いの言葉を口にしている。
その数分前。一塁塁審によって促されるようにベンチへ戻った一塁手はうつむいていた。自分でも何があったのかがまだ整理できていない。一瞬だった出来事が延々と見続ける悪夢のようだった。確かショートから送られたボールは左右には寸分の狂いもなかった。そうか―。首筋へ流れる嫌な汗をタオルで拭い取ると少しだけ冷静になれた。するとだんだんと何があったのか理解が追いついてきた。ショートの手から離れたボールは確かに左右に寸分のブレもなかった。だが、ボールの高さが少し低いなと感じた。できればバウンドする前にミットに納めたい。そう思うより早く右足で一塁ギリギリを踏んだまま左手のミットと一緒に体全体をボールの方に突き出す。その時、目眩のような物に襲われ一瞬辺りが真っ白くなった。慌てて、足元へグローブを差し出した。間に合った。ボールを取ったような気がした。だがそこからミットがしなるような音はしない。代わりに真後ろからガツンという鈍い音がした。慌てて振り返ると打ったバッターがそこで倒れていた。きわどいタイミングだったから一塁へ、ヘッドスライディングしたのだろう。そこへ取り損ねたボールがヘルメットへ直撃したようだった。
救急隊の必死の救助もあえなく、病院に付く前に救急車の中でその息を引き取った。少年の名前を「五十嵐 輝樹」という。
☆★☆
今日も暑くなりそうな気がする。とっくに梅雨に入ったっていうのに紫陽花も僕をも脅しつけるように太陽は睨みつけてくる。時刻は朝七時十五分。十五分後には最寄り駅から電車が出発する。数分前に起き時間を見計らって作ってくれた食事を胃へと流し込む。
「まだ大丈夫?行かなくて間に合うかね?」
台所の方から祖母の心配そうな声がする。
「まだ平気だよ」
眠たそうな声でそう答えた。平気だよと言ったのはいいが時計を見て驚く。あと十二分。急がないと。ここからは秒単位だ。もう少し早く用意すればいいのにといつも思っていたけれど、毎朝気がついたらこの時間になって焦りだす。家族にも最初は本気で慌てられたものだけれど今となってはもう慣れたものだ。
「ほらもうあと十分しかないよ」
「大丈夫大丈夫!」
「お弁当玄関においておいたらかね。忘れないように持っていくんだよ」
「はーい」
本気で電車に間に合わなくなりそうなので時計をにらみながら慌てて準備をする。ようやく準備を終えたのが発車九分前。突っかけるようにしてローファーを履きながら玄関扉を開く。ほら!弁当弁当!という声にハッとして振り返ると何故か玄関に皆集合している。
「ほら、しっかり食べなさいよ。」
これは祖母
「はい。いってらっしゃい。」
洗濯ものを持った母の理恵が廊下からこちらに顔を出す。
「いってらっしゃい、気をつけてね。」
と二階から降りてきた父幸治。
(いってらっしゃい)とリビングのお仏壇の方からもそう聞こえたような気がする。
なんだか戦に行く兵士みたいだなと思ったが口には出さず
「いってきますっ!」
と短く残して玄関を飛び出す。
今日も変わらない。ふと思えば野球を始めてから今年で九年も経つのかと。感傷に浸っている場合ではないがそんなことを考える。長いようで短く淡い夏が始まろうとしていた。
僕は生まれも育ちもここ星見ヶ丘町。町自体が段々畑のようになっておりどこへ行くにも坂を登り降りしなくては行けない。昔、都があった場所からほど近く町の一番高いところに開けた場所があるのだがそこへよく殿様共が星を見に来ていたらしい。町に明かりが多く灯るようになってからもその場所だけは別世界のように灯が届かなくて今も独創的な雰囲気を醸し出している。僕自身も何度か行ったことがあるが今でもよく星が見えた。そんな町で育った僕。
野球を始めたのは小学校四年生の頃。学校でハンドベースとかキックベースが流行っていて、休み時間になるとクラス違う友達たちと示しを打ったように体育館に集まってはしゃいでいた。その中に野球をしている子が何人かいて流れでたまに野球を見に行く機会があった。それがあんまり熱心に見入っているものだから皆チラチラこちらを伺っている。
「やってみる?」
躊躇う間も無くそう声を掛けられたのが始まり。最初は見よう見まねでバットを振ったりボールを投げたりしていただけだった。どうしてバットを振るとボールに当たるのかが分からず、不思議に見ていた。それから自分の番になると闇雲に、まるで目を瞑って刀を振り回すように夢中でバットを振る日が何日か続いた。それでも何日かするとボールにかするようになった。初めて当たったボールが前に飛んだときはなんだか嬉しいようなむずかゆいような気持ちで胸の中が一杯になった。それを『楽しい』という言葉で表現できるようになるまでに時間はかからなかった。
僕は生まれつき右利きで初めは右投げ右打ちだった。小学校の頃所属していたチームでは皆右投げ右打ちだったから、あの左側のボックスは何のために使うのだろうと思っていた。帰り道車に揺られながら父に聞いてみると
「あれは左打ち用のバッターボックスだよ。」
とあっけらかんとした顔で言われ、父さんはあっちのボックスを使って打つんだと教えてくれた。
それでも頭の上に?マークを浮かべていると
「今度皆でバッティングセンターに行ってみようか」
そう提案してくれた。バッティングセンターと言う所に行ったことがなかったからよくわからなかったけれど言葉の響きだけでなんだかワクワクしていた。
次の週の週末に約束どおりバッティングセンターに連れて行ってくれた。人じゃない物が投げるボールを打つのは初めてだった。バシンバシンと響く機械音に初めのうちはビビっていたけれどそんなことよりもも左のボックスへ入っていって打つところを見せてくれた父の姿がかっこよかった。それを自分もやってみたい。と思ったのが小六の頃。右打ちならいとも簡単にバットを振れるのに、左だとイメージがつかなくて生まれたての子鹿みたいにヘナヘナしたスイングになってしまった。でもチームで唯一の左打者だったから誰からも注目してもらえた。それにまだ平らにならしてある打席に足を踏み入れるのは、さながらジョージ・マロリーのような気持ちで興奮した。
左足でバランスを取りながら右足を大きく浮かせる。それと同時に両手を引きながらテイクバックをとるスタンスはこの頃からほとんど変わっていない。
中学校に上がると友達と一緒に野球部に入った。軟式野球でチームとしてはそれほど強いところではなかったけれど気にはならなかった。また新しいチームの一員としてスポーツをすることにしたのだが、思いのほか体はよく動き皆によく褒められた。一年生の頃から少しずつ試合に出場する機会も与えてもらい、試合で活躍すると二、三年生に凄い!と褒められた。ほかの人が出来ない事ができるのはとても嬉しかった。何よりこの頃は人並み以上のプレーができたからそれで満足だった。それからは試合だけしていればいいやと思うようになり、つまらない練習にはたまに顔を出す程度になった。そんな緩慢な態度を取っていたんだけれど、中二の七月を期に今度は練習ばかりするようになった。つまらない練習は確かにつまらないままだったけれどそんなことはもはやどうでも良くなっていた。家に帰ってもとグローブにボールを当てたり、モクモクとスパイクを磨いたりと今までしていなかった事に夢中になった。そうやって野球にかける時間がどんどん増えていった。それから二年生での最後の大会を終え世代交代をして、ついに自分らの代になった。最後の大会はここ十数年では少なくとも行ってない都市大会までコマを進めた。もちろん僕以外のチームメイトの活躍があったのもわかっているけれど、野球なんてこんなもんかなと思っていた。
家から最寄りの仲林駅へは長い下り坂でほぼ一本道になっている。とにかく坂だらけの町なのだけれどこの坂が一番緩やかで一番距離が長い。しばしばダラナガ坂って呼ばれている。家から駅までは距離としては一キロ無いくらい。坂を下った先には小学校や中学校もあるからこの時間は児童、生徒、学生と沢山の人が坂を降りていく。いつものようにそんな子供らの間を縫うように駆け抜けていると前方に見知った後ろ姿の女の人を見つけた。小さい頃からよく知っている。年は二十一歳で僕より五つ上。名前は沙貴。家が近所で昔っから仲が良かった。僕には姉も妹もいなかったから、ホントの姉になったつもりでかわいがってくれていた。物心つく前から「沙貴ねえ、沙貴ねえ」って呼んでいた。そんな彼女も今はもう大学四年生。あまり同じ電車になることはなかったから、暫く会ってなかった。今日はいつもより早いのだろうか?ちょうど肩にかかるくらいの高さで揃えた髪の毛を揺らしながら坂を下っていく。
「おはよう。」
追いかけながらその後ろ姿に声をかけた。一瞬振り向きざまに何か懐かしいものを見たような顔をした気がしたけれど、隠すようにすぐ元に戻った。
「おはよう。」
とつぶやくその声はなんとなく悲しげだった。
「久しぶり!今日はこの電車に乗るんだ。電車あと何分で出る?」
「そうだよーまだ眠たいよ。えと、」
と言いながら左手につけている腕時計を覗き込む。
「やばい。あと一分しかないじゃん。急がなきゃ!」
「まじかよ!油断した。」
踏み切りの警笛が聞こえる。警笛が聞こえるのに、まだ駅までは百メートル近くある。経験からわかっていた。これは本当にマズイ!!先を行く沙貴姉を追いかけながら器用に後ろ手で定期券を取り出す。今日はのんびりしすぎたな。と思ったけれど後悔こそ何の役にも立たない――。―
電車にはギリギリ間に合った。一つしか無い車線の上をその体をガタゴトと揺らしながら走り出した。車内はそれなりに人が乗っていて座ることはできなかったけれどが冷房の風がここまで届いた。気がつくともう汗びっしょりだった。
「星見鉄道をご利用いただきありがとうございます。次は若林ー若林。左側のドアが開きます。」
ガサガサと雑音混じりのアナウンスからスピーカーから聞こえる。
「危なかった。ホントギリギリだったけど間に合ってよかった。声かけてくれて助かったよ。ありがとう。」
肩で呼吸しながら風を求めて髪をなびかせる。
「この電車逃すと今度四十五分後だからね。油断しているとひどい目に合うよ。」
「なんか経験者は語るみたいだね。今日は朝練無いの?」
乗り過ごしたときのことなんて思い出したくもないから先の発言はスルーしておく。
「三年に上がってからは朝は自主練習になったんだ。その代わり放課後がかなりハードでさ。自主練になってからはほとんど参加してないからいつもこの電車に乗ってる。」
「そっか。頑張ってるんだね、あんまり無理しないようにしなよ。」
「うん。」
本当は朝練参加しないと試合に出してもらえないことも分かっていた。皆必死こいてやっているのも知っていたし、行ったほうがいいのだろうなと漠然と思っていたけれど自主練という言葉に甘えてズルをしていた。そこまでしてやらないとだめなのか?と自問自答ながらも同時に毎日チクチクと心が傷んだ。だから心のなかで話し相手を欲した。
それから終点に着くまでの三十分弱は他愛もない話をした。
「二週間後には夏の大会が始まるんだ」
「そっか。もうそんな時期なんだね。こっちはレポートと課題で毎日切羽詰まっていてもう家じゃやらないから今日は早く学校に行くことにしたの。」
「なんか大学生も大変そうだね。来年はもう就職してるってことだよね?」
「そうだよ。私は乗り遅れたからまだ決まってなくて、履歴書だって書かないといけないし本当にやばい!」
そんな風に言葉のラリーは続いていく。それが途中駅で沙貴姉の友達も合流してきて更に他愛もない話になった。車内についている扇風機がこちらに顔を向けるごとに話題は変わる。変わる。
「最近付き合うことになった彼氏が意味分からないんだよね。」
「どうして付き合った瞬間別の人みたいに見えちゃうのかな?」
「沙貴は今、気になる人いないの?」
とか。就活に焦っていてもこういう話には抜け目が無いらしい。紹介してくれた文乃と園子と三人で楽しそうに喋っている。二人は沙貴姉と違ってピアスもしているし、髪の毛も染めている。なんでも春には就職が決まった組で、決まった人たちから最後の夏を楽しむ準備をするらしい。僕も最後の夏を楽しむ余裕がほしいと思った。
三人の恋バナには特に興味もなかったから適当な距離でうなずきながら聞き流していた。話の合間に僕の方をチラチラと盗み見てはクスクス笑ったような顔をするのは何なのだろうか?顔見知りなわけでも無くろくな挨拶もしなかったけれど、そんなに面白い顔をしているだろうか。周りの視線に気づいたみたいで沙貴姉もこちらをチラチラ見てくる。?マークを頭の上に浮かべた顔で見返すが視線をそらされ何も言ってくれない。女子大生ってよく分からない。出来損ないのおもちゃで遊ばれているような気持ちになってけれど何も言えずに終点の駅についた。
僕はこのローカル線を降りてJRに乗り換えて更に四つか五つ駅先の駅まで行く。もう二年間通ったけど大体電車に乗ってからは寝ているかぼけーっとしているのであいだの駅の名前すらはっきり思い出せない。女子大生グループはここが最寄り駅なので改札口へと向かう。お互い「またね。」と短く言葉を交わして僕は四番線のホームに降りる。電車が来るまでなんとなく空を眺めていた。
JRに乗って数えてみると五駅先のあおい駅を降りると同じ制服を着た学生が一気に増える。ここから十分ほど歩くと私立蒼獅学園につく。各学年およそ五〇〇人。単純計算をして、全校で一五〇〇人。スポーツが盛んでバレーだかバスケは全国の常連組なのだそう。チームメイトの弥太郎が自慢げに語っていたけれど、お前はしがない野球部だろう。
それはさておきスポーツに力を入れているのか私立だからなのか勉強は全くで授業なんてほとんど豚に念仏状態。そんな学校だ。
ボケーッとしながら通学路を歩いていると後ろから声を掛けられた。
「五十嵐先輩!おはようございますっ。」
十中八九野球部の連中だろう。振り向かずとも大体わかったけれど挨拶されているのに振り向かないわけにはいかない。学校に行くまでの暇つぶしにちょうどいいなと思いながら後輩集団に混ざって登校することにする。
学校について部室に荷物を置いてから教室に入ると、朝練を終えた同じ野球部の健太に朝一番から笑われた。
「おはよう。ところでお前今日それで登校してきたんだよな?」
そう言いながら健太は机に集まっていた仲いい数人の友達と一緒にまだ腹を抱えて笑っている。
「は?今日なんかあったっけ?―――おはよ」
「いや、逆にこっちがなんかあんのか聞きたいわ!昨日の夜どんだけ寝乱れたんだよ?あ・た・ま。あ・た・ま」
と腹を抱えていた片手で自分の頭を指差すジェスチャーをしてくる。
「え?」
まるで頭の上に乗っかった?マークを探すみたいに髪の毛を撫でる。なんだか嫌な予感がする。そうしてみると教室中からクスクスと笑い声が聞こえるようで、恥ずかしい気持ち半分トイレへと直行した。
鏡の前に経つと羞恥心で全身が真っ赤に染まるようだった。髪の毛は逆立っておりこれじゃまるで鶏の鶏冠だった。もう誰に見られるでもないのに慌てて水道の水を浴びるように髪の毛に押し付け寝癖を直した。
「どうして誰も言ってくれなかったんだよ」
小さくボヤいた。家を出る前に誰かたった一声でよかった。髪の毛。と言ってくれればもう一度鏡の前に立ったのに。そういうところ本当に無神経だ。うちの家族は。とりあえず誰かの性にしないと気が収まらない。あぁだから電車の中で沙貴姉達にあんな顔をされていたのか。一人で勝手に納得した。小さくため息をついてもう一度鏡越しに自分と向き合うとあの時から一ミリも変われてないなと思った。
教室に戻り健太と顔を合わせるとまた笑われた。世の中にはまだ俺らにも分からない謎があるのだな。という顔をしていた。
「健太最近調子はどう?」
さっさと話題を変えてやりたい。
「そうだなー中の上ってところかな。まぁどんなに調子良くなってもトサカ頭になることは無いと思うけど。」
「うるせーな、もういいよ。トサカとでもなんとでも好きなように呼べよ。」
しばらく髪の毛切ってなかったし、今度寝癖がつかないくらい短く切ってもらおう。
「そんな怒るなって悪かったよ。それよりさ、今日は午後練のメニュー賭けようぜ。」
健太はそうやってなんでも賭けにして誰かと競うのが好きだった。
「いいよ。負けたほうが帰りジュース三本な!見てろよ。絶対泡吹かせてやるからな。」
「ひー怖い怖い。じゃぁそういうことで。ちょっと瞑想してくる。」
そう言うとちょうど始業のチャイムが鳴った。皆それぞれ自分の席へ着く。さてはあいつ瞑想とか言って寝る気だな。と思いながら先生が教卓に登った時点で僕も机に突っ伏した。
中学校で最後の大会が終わる頃になると学年の廊下から窓を割るような勢いで受験という二文字が教室に飛び込んできた。今の偏差値よりも高いところを目指すと決めた人。別に行けるところに行けばいいやとフラフラしている人とが入り乱れている。急に教室の床の木でできたタイルの何処かに地雷が埋められていることを知らされた少年のようにオドオドと過ごした。野球部の連中もそれぞれで地元の公立高校で野球を続ける人。町の中心のそこそこ頭のいい学校に勉強しに行く人。まだ決まってない人。
僕といえば別にプロ野球選手を目指していたわけではないが、高校では硬式の野球をやろうと漠然と決めていた。使命感なのかある日、目を覚ましたら突然思い立ったと言うような感じで。どうせやるのだったら甲子園を目指せるくらいのチームに行きたいと思い電車を乗り継いで1時間半ほどかかる私立の高校へ願書を出した。本当は少し怖かったのだけれど、そうすることが最善だと思った。
入試の項目にスポーツ推薦の枠があったからそれで受験したのだったが、驚くほどあっけなかった。体力テストを行うなんて噂を聞いていたけれど、実際は中学一年レベルのテストと簡単な面接だけで合格が決まった。入学金として用意しなきゃいけない金額にも驚いたけれどその時はそれ以上に何も感じなかった。
あれから丸々二年と二ヶ月があっという間に過ぎ去った。でもそれは過ぎ去った今だから言えることであって一日一日はとても長く感じた。その一日一日は仮に中学時代の野球生活が右肩上がりだとしたら、高校は右肩下がりだった。正直言って舐めていた。こんなにバカみたいにノックを受け、ランニングでは五キロを十五分で走れ。と言われるとは思ってもみなかった。弱音なんて吐く場所も時間もないほど追い詰められた。入りたては新入生だけで六十人ほどいたが半年で十五人辞めてそのあと一年でさらに十人辞めていった。僕もやめたいと思ったときは何度かあった。
グランドに入っているときのストレスを外に出てから吐き出した。思ってもないことばかり口から飛び出して友達と何度も喧嘩した。親とは口も聞かない日々が何日も続いた。家にいる時はなんて言われようが「別に」しか答えなかったような気がする。ご飯が喉を通らなくて何度も箸を投げた事もあった。でも不思議とやめるとは言わなかった。自分でも良く分からなかったけれどそんな勇気すらもなかったのかもしれない。ギリギリでなんとかしがみついていた。こんなにしんどくて辛い思いをしてまで続ける意味があるのかわからなかった。これで夏が終わったら野球人生はそれまでなのかなと漠然と考えていた。それ以上のことは何も考えていない。
気がつくと四時限が終わっていた。お昼休みだ。寝ぼけた目を擦りながら忘れずに持ってきた弁当を机に広げる。ぎっしり詰まったご飯と大判サイズのおにぎり二個。今日のおかずは冷凍の春巻きとハンバーグと朝作ってくれただし巻き卵そしておやつに菓子パン二つ。これだけの量が帰りの電車に乗る頃には無くなっている。よくビールを鯨飲するなんて言うけれどこれは鯨食だなと思う。一年ほど前は疲れてご飯どころじゃなかったけれど今じゃ疲れたストレスでご飯を食べているような感覚だった。
昼休みだっていうのにご飯も食べず化粧を治す女子と、下世話な話で盛り上がる男女に挟まれて飯を食べる。野球部の奴らは連れ立って部室で食べているのだろうけど、なんとなくそうする事は気が重くていつも一人で黙々と食べた。周りも変わらないし僕も変わらない。今日は今日だ。