後編
幸か不幸かロワンの両親はとうに水の泡となっていた。それに、親戚も近くにはおらず、人付き合いも悪い。だからなのか、誤魔化せた。ギリギリのラインではあったけれど。
一週間、本当に一週間だけだからな。
眉間にできたシワを揉みほぐしながらロワンは言った。
「お前を、遠い遠い水底に住む親戚ってことにした」
「うん、うん、うん!」
「 条件は、ここに書いてある通り 」
「バレないバラさない!そして不審な行動をしない!あと、キミに向こうの技術を教えるってことでしょう?あぁ、楽しみだなぁ!水底の国ってなんかロマンがあって良いですね!!」
キラキラと、黒真珠のような瞳を輝かせて彼女は笑った。
「...........」
「何ですか!突然、黙ってしまって?!私は大丈夫ですよーちゃぁんと約束守りますから!!」
「お前の髪、昆布だな 」
何ですかその微妙な例え!!などと抗議してきた彼女を傍目に、ロワンは片手で目を覆った。
きっと。気のせいだ。
きっと、きっと、気のせいだ。
眩しい、銀色がちらついたのは。
ーーーーーーーーーーーーーーー
予想通り、彼女が水底の人々のように歩けるようになるのに2日かかった。
3度目に自宅のドアノブを壊された時、ロワンはそう吐き捨てた。
「この馬鹿力女が 」
現実を見るのが嫌になって、連れてきた近所のカフェで、抗議するように彼女はべっと舌を出す。
「ひどいですよぅ。これでも私。陸じゃ、ペン以外持てない女って有名だったんですよ?」
「じゃあ、おめでとうだな。なんでも壊す怪力女にランクアップだ 」
「うぅ、ロワンさんがいじめる!!」
「思い出せ、お前がどれだけウチのものを壊してくれたか。俺が正しい」
どうやら、陸で生活してきた彼女は水底の人よりもずっとずっと力が強いらしく、それは水底を歩けるようになる薬とやらを呑んでも変わらなかった。
壊した沢山のモノを思い出したのが、言葉に詰まった彼女はふてくされたように飲み物を飲む。
「やっと、お外出られたんですよ!ならいろんなところが見たいです。じゃなきゃ続き教えませんからね?」
「それは困る 、キミから聞ける話は貴重なんだ 」
ロワンは楽しげに笑った。
きっと他の研究者だったらもっと大切に、もっと詳しく聞きたいと切望するくらいには貴重だ。
「ほらほら、ならば丁重に扱いなさいよ!!」
えへんと、胸をはる彼女に誰かの影が重なる。
暗い欲望が心の中で蠢く。
彼女の華奢な顎を持ち上げて、その漆黒の瞳と己の瞳を合わせる。
このまま、そんな欲望に流されたらどうなるだろうと考える。
「そうだな、キミを丁寧に丁重に切り開いて中を見たいと思うくらいには 」
「いや.....いやいやいや、それはてーちょーに遠慮させて頂きます 」
「あはは、お前が色々とぶっ壊した仕返しだよ。さあ行こうか、しょうがないから町案内するよ 」
さあ、行こう
そう言って繋いだ彼女の手は華奢で暖かい。
天真爛漫で、好奇心旺盛。
キラキラした瞳でこの世界を見つめる。
そしてその行動力で俺を振り回す。
重ねてはいけないと識っていながら。
銀色に重ねてしまう。
手を伸ばしても届くことはないのに。
手を伸ばして空を掻く。
嗚呼、どうかどうか、この焦げ付いた何かが俺を焼き切らないでくれ。彼女が....メメルが水面の向こうへ還るまで。
ーーーーーーーーーーーーー
1週間。
たった1週間。されど1週間。
本当に色々とあった。
彼女の出身地が疑われて研究者たちに追われた。水底の人たちは滅多に町から出ないから。
メメルに焦がれた彼女のことを知られて、女々しい男だとぶん殴られたり。あれは痛かった。けれど人魚を見たいからと未発表の薬品を無断で使った彼女も人のことを言えないとロワンは思う。
研究者として、色々な話を夜な夜なしたり。
1週間という時間は相手に絆されるにはどうにも十分すぎる時間だったらしい。それに気づいたのが最後の日のことだった。
重ねてきた影が消えて、黒真珠の髪がチラつくぐらいには絆されたらしい。地味に移り気だった自身に対して、少しだけ呆れたように小さく笑った。
「なんんですか?また、なんか文句ですかね?」
先日買った貝殻の小箱にお土産を詰める彼女は振り返ってじとりとこちらを見つめた。
「いや、なんでもない。ただ....」
「ただ?」
「随分、モノを壊さくなったなと思っただけだ 」
「ひどいですね!これでも4日目にはだいぶマスターしましたよう!」
そう言って、怒ったようにむくれる彼女だが此方を見つめる瞳は柔らかい。
ーーーーーーーーメメルは言う。
彼女が飲んだ薬には水中での呼吸補助と水圧への耐性を上げる効果があるのだという。もし、これが切れてしまえば彼女は息ができず、水圧にも負けてに死んでしまうのだという。
だが薬を飲んでいる間に水面へ上がれば水底の人たちと同様に死んでしまう。
ならばどうすればいいのか。
ーー人魚姫は泡になって消えたんです。なら逆に泡に乗って帰ればいいのだと思いつきましてーー
彼女は考えた。ならば薬が切れた瞬間に陸と同じ空気で包まれた泡に入ってそのまま浮かび上がればいいのでは。
ーーつまり、陸のお姫様は泡に乗って還っていったってところですただ問題は、人が一人入る泡を生成するモノには沢山お土産は入らないことです。
などと深刻そうな顔をした彼女を思いっきり叩いたのはきっとおかしい事ではない。ーーーーーー
「あと少しか 」
「ええ、あとちょっとで泡に入る時間ですね」
長い黒髪を弄ぶ。水底の人たちにはない髪色が光の中で艶めく様を銀に煌めくそれと見紛うことはもう無いだろう。
ただ。
ただ、それが見れなくなるのを寂しいと思う。
そっと、その漆黒に口付ける。
「なっ!!!っ!!なにしてるんですかっ!!」
いつか、そうしたように彼女の華奢な顎を持ち上げて、その漆黒の瞳と己の瞳を合わせる。
「約束だ。メメル。いつか、いつか、俺にキミの世界を見せてくれ。きっと、水面の向こうに行くから 」
一瞬。
水の流れが止まったように思えた。
蕾がふわりと開いたような笑みを浮かべて彼女は伝えた。ええ、ええ、待ってますと。
そうして彼女は水面の向こうに還っていった。
ーーーーーーーーーーー
「お前、なんでこんな研究してんだ?」
仕事場である水面に行くための研究をする研究所で、時たま同僚の研究者たちにそう聞かれる。呆れたように、信じられないように見つめて。
「なに、ただ向こうに有る黒が見たいんだ。 」
そう言って彼はわらった。