05.森を侵す者
『テト。すぐ来てくれ』
翌日、早朝。
その声に、僕は跳ね起きた。
いや、違う。正確に言えば、これは声ではない。
大きく響いたにもかかわらず、隣のクレアはもちろん、その隣のベッドにいるご両親も、静かに寝息を立てている。
だからこれは、森の王のいつもの魔法だ。
だけど一度だってこんな風に、森の王から呼びかけられたことはない。
しかも、こんな時間に、こんな場所まで。声にも若干、切迫した感じがあった。
『どうしたんですか?』
と、いつもの調子で訊いてみるが、返答はない。
まあ、そもそも届いているかどうかも分からないところだ。
あくまで、これは森の王の魔法。向こうの送信範囲ではあるが、受信範囲ではないのかもしれない。
そして当然、このままというわけにもいかない。
だから、クレアを起こさないようにベッドを抜け出すと、僕は窓から外に飛び出した。
まだ薄暗い森は、やけに静かだった。
確かに、いつも騒がしい鳥たちが起きる時間には少し早い。だがそれとは別に、言いようのない不穏な感じが漂っている。
グッとまた一歩強く踏み込むと、空気の壁を貫く感覚。景色がものすごい速さで後ろに流れていく。
ホント、身体能力強化も慣れといて良かった。
こんなの事前練習なしじゃ、扱いきれない。そして絶対に酔う。
――今のうちに、もう一度語りかけておくか?
そんな選択肢が頭に浮かぶが、却下した。
あれはあれで、そこそこ集中力が必要となる。ながら作業でできるほど、僕は器用じゃない。
それに、このペースで走れば、あっという間に森の王の元だ。
だから僕は小さな岩を踏みつけ、さらに加速した。
『急に呼びつけて、すまなかったね』
全速力で駆け付けたいつもの場所は、何も変わらず、森の王もそう謝るだけだった。
……とりあえず無事なようで良かった。
心の中でそう一息ついたが、この話はそれで終われないのだろう。
彼が、意味もなく人を呼びつけるわけがない。
『何があったんですか?』
『……人が、またこの森に現れた』
『昨日の、ですか?』
『方向から考えるに、おそらくは。だが』
『だが?』
逸る気持ちを抑えきれず、言葉を追いかけるように訊くと、森の王は一拍置いてから答えた。
『今回は数が違う。十や二十では済まないだろう』
『そんなに……』
『しかも、それぞれが鉄を纏っている。あれは、争う者の姿だ』
『…………』
鉄を纏い、争う。
それはつまり、鎧を着た兵士ということだろう。実物を見たことはないが、騎士なんて存在がいる世界だ。そう考えるのがしっくりくる。
だけど、ここは平和な地域のはず。
東西で争っているらしいが、そんなのは村でも又聞きの又聞き。この一帯は高く険しい山脈が自然の城壁となり、守られていたはずだ。
なのにどうして、兵士がここに?
それも、何もない森の向こうから。
そんな疑問が浮かんだ僕に、森の王からさらなる事実が告げられた。
『そして彼らは群れをなし、こちらに向かってきている』
『こっちに、ってことは――』
『ああ。おそらくは、君の村を目指しているのだろう』
『――っ!』
村に兵士がやってくる。
どう考えても、良いことには思えない。
しかも、村ではそんな話一つも聞かなかったし、こんな時間に、こんな場所から、だ。争いの火が、ここまで飛んできたと考えるのが妥当だろう。
だけど、どうして……。
ここは争いとは無縁のはずだろう。
……いや、嘆いている暇はない。
僕にそんなことをさせるために、森の王も呼んだわけじゃないだろう。
そう思って森の王を見れば、その黒い瞳はしっかりとこちらを見ていた。
『テト。君の頼みがある。村の人々に、このことを伝えてほしい』
『で、でも!』
『ああ、無理を言っているのは分かっている。だけど私はもう動けないし、争う者を止める術も知らない。時間が無いんだ』
『ですが……』
『もちろん、力は貸すよ』
そう言うと、森の王の身体から深緑の光が零れ、周りの地面も淡く輝き出した。
魔法の光だ。それも、すごく強い。
ずいぶんと前から、まともに魔法は使っていないと聞いていたが、さすがは森の王。まだこれだけの力を持っていたとは。
目の前の光景にそんな感想を抱いた僕に、森の王は静かに語り始めた。
『私の魔力の全てを、器ごと君に譲る』
『そんなことができるんですか? ……いや、でも、そんなことをしたら――』
『ああ、私の生は終わる。だが、気に病むことはない。悲しまないでほしい。元より、近く森に還る身だ。予定が少し早まっただけの話さ』
『だけど……』
『それに、これはとても嬉しいことなんだ。未来ある君の糧となれる。そして君も、村の人々も、この森の良き民だ。少しでも役に立てるならば、管理者としても本望さ』
『…………』
『ただし、君が管理者を継ぐ必要はない。管理者はあくまでも補助だ。いてもいなくても、森は変わらず機能する。だが、彼らだけは――君の愛しい人だけは、助けてあげてほしい。古き者からのお願いだ』
『……はい、分かりました』
『ありがとう』
――大変な役目を押し付けてすまないね。
森の王のそんな言葉と共に、周囲の光がグッと僕に集まり、あっという間に何も見えなくなった。
木漏れ日に似た輝きと、落ち着く香り。
それが身体中に染み渡る感覚がすると、やがて視界は晴れ、見慣れた風景が戻ってきた。
ただそこに、木でできた精巧な鹿の像があることを除いては。
…………。
身体の奥底から、力があふれ出てくる感覚。
だけど、それと反比例するかのように、周りは静かだ。いつもの声は、もう聞こえない。
森の王……。
……いや、ダメだ。こんなことをしている場合じゃない。
せっかく森の王が力をくれたんだ。何とかしてクレアたちに危機を知らせなくては。
だけど、どうやって?
今すぐ家に戻って、騒いでみるか?
にゃーにゃーと鳴きわめき、家の中を走り回れば、みんな起きてきて、異変を感じるだろう――が、それじゃあ足りない。いくら僕が騒いだところで、まさか兵士が迫ってきているなんて思いもしないだろう。
じゃあ、村の誰かをここまで連れてくるか?
この時間でも誰かは起きているだろうから、その人をうまく誘導して、兵士が来ているのを目撃させれば――って、これもダメだ!
この辺りは聖域扱いで、立ち入り禁止だ。それに、その人を一番に危険に晒すことになる。
あとは……やっぱり、テレパシーの魔法か。これが使えるようになれば一番早い。
頼む!
森の王から受け取った力と、この危機的状況で、目覚めろ。僕の――
「うわっ……なんだ、像か」
その声に驚いて視線を上げれば、そこにいたのは一人の男性。
どこかの枝にでも引っかけたのか、頬には真新しい傷があり、頭には帽子型の兜。使い込まれた感じの革の鎧を着て、その手は腰からぶら下げた何かを握りしめている。
昔、映画で見たような、イメージ通りの兵士だ。
そして、ということは、握っているのは間違いなく剣の柄。人を殺せる凶器。
それが、もうこんなところまで迫っている。
「おかしいな。この辺りで、何か光ってたと思ったんだけど……」
兵士はそう呟きながら、森の王の頭にポンと手を置いた。
もちろん、それが誰であるかを彼は知らないんだろう。ただの木の像だと思っているんだろう。
だが、そんなのは関係ない!
湧き上がる感情のままに、気付けば僕は声を上げていた。
「ふしゃぁあっ!」
「うおっ、びっくりした」
僕の威嚇に驚いて、兵士は手を離し、少し後ずさった。
以前の世界なら、この森から追い出せるほどの威力だっただろうが、まあいい。とりあえずの目的は果たせた。
……だけど、よくよく考えたら、これは失敗じゃないか?
ここはバレずにいたほうが良かったんじゃないか?
と、そんな後悔が頭をよぎったが、どうやらそれは杞憂だったようだ。
「なんだよ、猫かよ。ほら、しっしっ。どっか行け。これから人間がいっぱい来るから踏まれちまうぞ」
明らかに無警戒な表情で、手を払う動作をする兵士。
まあ、それもそうか。こっちはどう見ても、ただの猫だ。
だけど、おかげで結構重要なことが聞けた気がする。
これから、ということは、おそらくこの兵士が先頭なんだろう。多分、偵察役か何かじゃないだろうか。
だったら、この兵士を足止めできれば、少しは時間を稼げるかもしれない。
でも、具体的にどうすれば……。
とりあえず兵士は周りをキョロキョロと見回し、意識はこっちに向いてない状態だけど、猫の身体でできることなんて限られてるし、使える魔法は治癒のみ。手札としては最弱だ。
ああ、今ほど元のデカい図体が欲しいことはない!
「やっぱり気のせいだったか」
兵士がそう言い残し、歩き始める。このまま真っ直ぐ進めば、すぐに村だ。
マズい、マズいマズい!
何とかしないと。でも、何をすれば?
今の僕に何ができる?
できることできることできること。
――いや! もうこうなったら一か八かだ!
そう思って僕は、全力で兵士に飛びかかり、その横顔に拳をお見舞いした。
「おふぅっ!」
拳が見事に決まり、空気が漏れるような音を口から出して倒れる兵士。
人間だった頃も含め、初めて人を殴ったが、意外といけるものだ。パワー面は身体能力強化があってこそだが、技術面は猫としての狩猟本能のおかげかもしれない。
だけど、問題はここからだ。
これは本当にただの足止め。その場しのぎとも言えないレベルだ。
いくら猫だとしても反撃されないとは限らないし、第一、村のみんなに知らせる方法は未だに思いつかないんだから。
「…………」
……あれ? 起きてこないな。
というか、動かない。
まさか打ち所が悪くて……なんてことはないよね?
ほら、兜も被ってるし。
…………。
……生きてます、よね?
足音の出ない足をより一層忍ばせて、兵士の顔の辺りに近づく。
すると、そこにあったのは――
「あはぁぁぁぁぁ……」
成人男性の、得も言われぬ恍惚の表情だった。
おおぅ……。
いやまあ、生きててくれて嬉しい限りなんだけど、まあ控えめに言って、気持ち悪い。
どうしてこの人、こんなに気持ち良さそうなの?
もしかして、そういう性癖の方だろうか。
僕の拳が――猫パンチが、そんなに良かったんだろうか。まあ、フニフニの肉球だと自負してはいるが。
と、そう思って自分の前足を見ると、そこにはぼんやりとした光が宿っていた。
……んん? 何だ、これ?
これは明らかに、魔法の光だ。もしかしたら猫パンチに力を込めるあまり、魔法まで発動させてしまったのかもしれない。
だけど、僕の使える魔法は一種類しかないはずだ。
その確認のために、改めて兵士の顔を見れば、直前まであった頬の傷はキレイに消えている。治癒が発動したと考えて、まず間違いないだろう。
でもそう考えると、ますます分からない点が出てくる。
治癒は傷を癒し、活力を与える魔法だ。自分にも使ったことがあるから、よく分かる。
だけどそれなら、こんな風に動けなくなるようなことは起こらないはず。むしろ、活発になってもおかしくない。
なのにどうして、この兵士は倒れたまま動かない?
それも、こんな気持ち良さそうに、脱力しきった表情で。
……ん? 気持ち良い?
そういえば、治癒を自分に使ってみたとき、陽だまりのようなポカポカとした気持ち良さがあった。
もしそれが度を越していたら、どうだろうか?
つまりは、気持ち良すぎたら。
正直今、森の王の力のおかげで、魔法をうまく制御できているとは思えない。現に暴発に近い形で、僕の猫パンチには魔法が宿っている。
だったら、可能性はありそうだ。
食後のうたた寝のような心地良さが、真冬のコタツのような逃れがたさが、僕の魔法にあるのだとしたら、この人と同じように兵士たちを無力化できるかもしれない。
となれば早速、検証だ。
本人には悪い――かは、ちょっと難しいところだが、ちょうどいい人材もいることだし。
そして僕は再度、めいっぱいの魔力を猫パンチに込めた。
「ふ、あああああぁぁぁぁあああ……あ、あ、あふぅんっ!」