5
いつもよりも一時間早く目を覚ました私は、夢の余韻もそこそこにすぐに自分のベッドから起き上がった。最近眠りが浅いせいで、ほんの少しの明るさにも敏感に反応して起きてしまう。
目覚まし要らずで便利だけど、寝過ごしてしまうのは怖いので、時計は毎日必ずセットすることにしている。
「さてと、今日こそ要を叩き起こしてやりますか」
彼に頼まれたモーニングコールを実行するのは、実は今日で二度目だ。初日は散々な結果に終わってしまったから、今日は気合いを入れる。
昨日、指定の時間に電話をかけたまでは良かったのだが、要はなかなか電話に出なかった。たっぷり五分ほど呼び出し音を鳴らしてから、ようやく気の抜けた「もしもし」という声を聞いた。
その日はこれで目覚ましとしての役目を完了したと思ったのだが、なんと要はその日、学校に遅刻したそうだ。どういうことかと話を聞くと、彼にはモーニングコールを受けた記憶が一切なかったそうだ。
要は、きちんと目が覚めたか確認しなかった私が悪いのだと言って、やり直しを要求した。
そこまで言われれば、こちらも本気にならざるを得ない。「次回こそはシャッキリと目覚めさせてやるから、首を洗って待ってろ!」という啖呵きってモーニングコール二日目を迎えたのだった。
自分の支度をすべて終えた私はスマホを握りしめ、時計が七時を指すのを待っていた。秒針まできっかり計ってから、ベストのタイミングで要へ電話をかける。
しかし、いくら待っても呼び出し音が鳴るだけで、肝心の要は電話に出ない。少し焦ってきたところで、ようやく繋がった。
「おはよう。もう七時になったよ、目が覚めた?」
「んー」
恐ろしく抑揚のない声だ。もしかしたら、まだ夢の中かもしれない。
「起きた? 今日は何曜日か言ってみ」
「んー……にちよーび」
「そんなわけあるか!」
思わず怒鳴りつけた。だが、大声を出したにもかかわらず、要はまだ寝ぼけているのか低いうなり声を上げている。
「もういい加減に起きなさい! いい? 起きるんだからね!」
「あーおきたおきた、いまおきた」
「本当かなあ……。じゃあ、要が一番好きなドッグフードの種類は?」
「……ぺティグリーチャ○」
駄目だこれ。完全に寝てるわ。てかなんでぺティグリーチャ○なの……。普段なら、こんな犬ジョークを振ろうものなら殺意を帯びた目付で睨んで怒るのに、ちゃんとボケに乗っかっちゃってるし。
私は通話を切ってため息を吐いた。馬鹿なやり取りのおかげで時間を無駄にしてしまった。電話越しに話をしていたんじゃ、いつまでたっても要は起こせない。こうなったら、直接叩き起こしに行ってやる! 幸い、要のおばさんには昔よくお世話になっていたので、事情を話せばなんとか理解を得られると思う。
私は鞄を手にして家を出た。まだ早い時間なので、インターホンを押すときはさすがに緊張したが、要のおばさんは笑って家の中へ通してくれた。
「私もあの子には手を焼いていたから、スミレちゃんが来てくれると助かるわ」
「朝早くに本当にすみません、お邪魔します」
二階にある要の部屋へ迷いなく進む。一応ノックをしてみたが、とうぜん返事は返ってこない。ここまで要が寝汚ないとは思わなかったが、仕方がない。私は勝手にドアを開けて、部屋の中へと入っていった。
久しぶりに入った要の部屋は、昔と変わらぬ雰囲気を残していた。遮光の青いカーテンに、水色の壁紙。本棚にはぎっしりと詰まった漫画の本に、勉強机の上には日に焼けて色褪せた地球儀。
壁紙もカーテンも青色系統でまとめられているせいか、まるで深い海の中にいるような気持になる。
要を起こしにきたはずなのに、ベッドの中でうつぶせの格好で眠っている彼を見たら、物音を立てないように息をつめてしまった。そっと足音を忍ばせて近き、眠り続ける要を見つめる。
こうして見ると、本当に大きくなったなあ、とあらためて思う。腕も首もたくましく成長しているし、昔はぷっくりと丸みを帯びていた頬の肉なんて、今ではまったく見当たらない。
そこでふと我に返った。いつまでも要を観察していても仕方がない。私はきっちりと閉まっていたカーテンを全開にして、ついでに窓も開け放って空気も入れ換える。そのままの勢いで掛け布団を剥ぐと、要は海老のように丸まって唸り声を上げた。よしよし、もうひと押しというところかな。
「要、いつまで寝てるの! もう七時半になったんだから、いい加減に起きなさい!」
「うるせー、布団返せよバカ」
「バカはそっちでしょ。電話してやっても起きられないってどういうこと」
要は大きな体を縮こまらせて、どんどん小さく丸まっていく。これじゃあまるで、冬眠中のカブトムシの幼虫のようだ。
「もう遅刻できないんでしょ? 先生にキレられても知らないよ」
大きな体をゆさゆさと揺するが、要は枕を抱き込んだまま無反応。暖簾に腕押しもいいところだ。こちらに背を向けて眠り続ける要を見ているうちに、私はだんだん腹が立ってきた。
こっちは朝の貴重な時間を使ってまで起こしにきてるのに! 私はこいつを起こすために一時間早起きしてやっているのに! そっちがその気なら仕方がない。もう手段は選ばない。
私は要のベッドに膝をついて乗り上げた。ギシリとスプリングがしなる音がしたが、かまうもんか。規則正しく上下する要の肩に手を置いて、向こうを向いたまま眠っている要のパジャマの襟元をそっとずらす。日焼けした肌の上に、首の骨が浮き出ている。
私は静かに顔をそこに近づけて、唇を押しあてた。寝起きの温かい体温と、要のシャンプーのにおいがする。首の骨を挟むように噛みつくと、さすがに要が飛び起きた。
びっくりした顔でこちらを振り返り、首の後ろに手を当てている。そこは、ちょうど私が噛みついたところだ。
「おはよう。ようやく目が覚めたか」
「おま……いま、なにした!?」
「まったく、手間かけさせないでよね」
普段であれば鋭く眇められている彼の目が、驚きでまん丸に見開かれている。私のささやかなお返しは、彼にとっては予想外だったらしい。
「ほら早く支度して、遅れないように学校行きなさいよ」
私はそれだけ言って、要の部屋を出た。扉を閉めたタイミングで、中からガタガタという音が聞こえてきた。慌てて服でも着替えているのかだろうか。
一階に下りておばさんに挨拶だけすると、なんだかとても喜ばれてしまった。
「こんなに早く要を起こしてくれたなんて、さすがスミレちゃんね。朝食は済ませた? 良かったらうちで食べていって」
「いえ。家で食べてきましたから」
「あら残念。それじゃあ、せめてコーヒー入れるわ。まだ学校に行くには早い時間でしょ」
「ありがとうございます。いただきます」
リビングに招き入れられると、そこには要のおじさんが、新聞を片手にゆったりと食卓についていた。会うのはずいぶん久しぶりだ。緊張しながら頭を下げると、にっこりと笑って挨拶してくれた。
「いらっしゃい。スミレちゃんがうちに来てくれるのはしばらくぶりだなあ」
「お久しぶりです、おじさん。朝からお邪魔してすみません」
「要を起こしに来てくれたんだって? あの子は寝ぼすけだから大変だっただろう」
まさか、噛みついて起こしましたとも言えず、曖昧に笑ってごまかした。リビングのソファーに座らせてもらい、鞄を足元に置く。
そのとき、階段をバタバタと駆け降りて洗面所へ入っていく音が聞こえた。要が顔でも洗いに行ったのだろう。
「はい、どうぞ。インスタントだけどね」
おばさんが熱々のコーヒーを手渡してくれた。お礼を言って受け取り、ゆっくりと冷ましながら飲みこんだ。
要の両親と、こうしてゆっくり話をするのは久しぶりだ。小さい頃から二人とも嫌な顔もせず、私を預かってくれたのでとても感謝している。
「コーヒーすごく美味しいです」
「ありがとう。スミレちゃんさえよければ、明日も要を起こしに来てもらえると助かるわ。私が何度起こしても、あの子ぜんぜん効果ないのよ」
「私は構いませんよ。でも、あんまり朝にお邪魔するのは……」
朝の時間はなにかとおばさんも忙しいだろう。そんな時間に、赤の他人が家に来るのは気疲れするはずだ。そう思って断る理由を探していると、なぜかおじさんも頷きながら話に入って来た。
「うちのことなら、ぜんぜん遠慮しないでいいんだよ。要を起こしてくれるだけで、私たちは大助かりなんだから!」
「そうそう。スミレちゃんが来てくれると私たちも嬉しいのよ。明日は是非うちで朝食も食べていってね!」
「……はい。ありがとうございます」
なぜか、明日も要の家にお邪魔することが決まっていた。この二人の押しの強さに、私は昔から逆らえない。
きっと、私が朝食も独りきりで食べているのだと分かっているから、誘ってくれるのかもしれない。昔と変わらず温かく迎えてくれるのが嬉しくて、ほんの少しだけ恥ずかしい。
「スミレ、行くぞ」
呼ばれて顔を上げると、制服姿の要が廊下に立っていた。今日は長い前髪をさらりと横へ流し、いつものように眉間に皺を寄せている。もう準備が整ったのか、用意は早いので驚いた。
「コーヒーご馳走さまでした」
学校へ行くタイミングを図っていた私は、要の誘いに乗って席を立った。二人で並んで歩いていると、要がたまりかねたように押し殺した声を出す。
「お前さ……さっきの、ほんとどういうつもりか知らないけど、やめろよな……」
不機嫌そうに眉をしかめる要は、こちらを見ようともしない。よっぽど私の起こし方が気にいらなかったらしい。
せっかく起こしてあげたのにお礼もないとは。私は要の態度にイラッときた。
「なんのこと? どうでもいいけど、明日はもっと早く起きてよね。私まで遅刻しちゃう」
いつものお返しだ、ざまあみろ。そう言い返したいのをぐっとこらえて、あえてすっとぼけてみせる。噛まれたときの痛みや恥ずかしさを、こんな簡単な喧嘩なんかで発散させてたまるもんか。自分ひとりだけ、いつまでも悶々とした思いを抱えていればいい。普段私がどんな思いを味わわされているか、これで少しは分かっただろう。
いつもの要なら絶対になにか言い返してくるはずなのに、このときの彼は無言だった。不思議に思って見上げると、彼は耳まで赤くなっていた。
あと少しで夏休みが始まる。しかし、その前に期末テストを終えなければならない。楽しみなようでもあり、少し憂鬱な気持ちにもなる。でも、友達と夏休みの予定を相談しあっていると、やっぱり心は浮足立ってしまう。
テスト範囲が発表になるのはまだ少し先だが、今から復習しておけば直前になって焦らなくてすむ。
放課後、私は図書室で苦手な古文のテキストを解いていた。今日の図書室はいつもより人の気配がない。普段は図書委員会の当番がカウンターに座っているのに、今日は彼らの姿もない。
大きく開いた窓から、部活に励む生徒たちの掛け声や吹奏楽部の演奏が聞こえる。それが耳に心地よくて、ほどよい集中力が生まれる。
だから、私の向かいの席に誰かが座り、こちらをじっと見つめていたことに、しばらく気づかなかった。
「ねえ。要君の幼なじみの、石脇スミレさんだよね?」
顔を上げたタイミングで声をかけられ、驚いて声の主の女子を見つめた。ふわふわ揺れる明るい色のボブカット。くるりと上を向いた長いまつげに縁取られら大きな目。ふっくらとした唇が印象的な可愛らしい顔は、昨日の朝も見た覚えがある。たしか、要のクラスの生徒だ。
「そうだけど――なにか用ですか」
「うん、じつは石脇さんと少しお話したいなと思ってたから、気づいてくれるのずっと待ってたんだ。私、要君と同じ七組の近藤藍です」
そう言って、近藤さんは頭を下げる。
「どうも、一組の石脇スミレです」
名乗られたからには、こちらも名乗る。私も彼女にぺこりと頭を下げた。
「それで、なんの用?」
彼女との接点なんてまったく思い当たる節がない。まどろっこしいことが嫌いなので、用件を尋ねてみる。すると、近藤さんは意外そうな目を向けてきた。
「ふーん、石脇さんって、そういう感じなんだ。見た目の印象とはちょっと違うんだね」
「……用がないなら勉強したいんだけど」
「やだなあ、少しくらい私にも興味持ってよー。こっちは女子同士で楽しくおしゃべりしたいなーって思ってるんだから」
にこにこと怖いくらいに愛想の良い彼女を見て、私は嫌な予感がした。彼女の笑みは、なんだか本当の気持ちがちっとも見えない。
「石脇さんてさあ、要君の幼なじみなんだってね。今日も二人で一緒に登校してくるから驚いちゃった。もしかして、毎日待ち合わせしてるの?」
「昨日は偶然。今日一緒だったのは――まあ、なりゆきかな」
「最近、よく要君と一緒にいるって噂の女子は石脇さんのことでしょ? 二人が手を繋いで廊下を歩いて行くのを見たって言う子がいるんだよ」
「そんな噂が流れてるの? 幼なじみだから廊下で会えば話すこともあるけど、そういう噂を広められるのは、あんまり好きじゃないな」
「そっか、嫌な気持ちにさせたならごめんね。でも、石脇さんも大変だね。あることないこと噂されちゃって。こんなんじゃ、学校にいても気が休まらないね」
近藤さんは、同情するようにため息をこぼす。
「もし石脇さんが困ってるなら、いい方法があるよ。ほとぼりが冷めるまで、要君と距離をおいてみるのはどう? 人の噂も七十五日っていうから、しばらくお互いが接触しないように気を付けてみたらいいと思う。幸い、クラスも一番遠いから、きっとうまくいくよ」
近藤さんは、にこにこの笑顔で人差し指を立てる。なんだがその仕草が胡散臭く見えて、さらに嫌な気持ちになった。彼女がなにをいいたいのか、ようやくわかった。
しかし、いくら気に食わない相手だといっても、要のクラスメイトなのであまり刺激するようなことも言えない。私はちょっと鈍感そうに見えるように、曖昧に微笑んだ。
「心配してくれてありがとう。でも、自分のことは自分で決めるよ。噂はすごく不愉快だけど、そんなものに行動を制限されるのはもっと嫌だから」
私の返事を聞くと、近藤さんはますます意外そうに目を丸くした。そして、ぐっと身を乗り出してくる。
「おとなしくて気が弱そうに見えたんだけど、石脇さんて、つくづく見た目とは正反対の人なんだね」
「よくいわれる」
長く伸ばしたストレートの黒髪と、目元の泣きぼくろのせいで、私は地味で控え目な性格だと誤解されることが多い。きっと近藤さんも、気弱そうな私なんて、少しプレッシャーをかければすぐにいうこときくだろうと思ったに違いない。しかし、生憎と私はそんな従順な性格はしていない。
「そうみたいだね。……でもそれじゃあ困っちゃうな」
近藤さんは可愛らしい顔を曇らせる。彼女の仕草はいちいちわざとらしくて、少し前に流行ったアイドルを思い出させた。まあ、そういうのが好みだという男は山ほどいるから、好きな人にはたまらないしぐさなのだろう。
彼女がワイシャツのボタンを二つ開けているのも、ブレザーをあえて着ないのも、スカートの丈をかなり短くしているのも、男子の目線を気にしてのことだろう。しかもそれが板についているので、自らをプロデュースすることがとても上手い。いっそ惚れ惚れするほどの徹底ぶりだ。
「じゃあ、仕方ないか。本当のこと言うね」
それまで首を捻ってなにかを考え込んでいた近藤さんだが、いままで浮かべていた笑みをふっと消した。さっきまでの話し方とはまるで別人だ。妙に甲高かった声も、今は低く響くハスキーボイスに変わっている。もしかすると、こっちが地声なのかもしれない。
がらりと変わったその表情に少し鳥肌が立った。
「幼なじみっていう立場を利用して要君に付きまとうのやめてくれない。見ててすごくムカつくから」
あまりの変わりっぷりに、言葉が一瞬出てこなかった。なにが楽しいおしゃべりをしようだ、ちっとも楽しくない。
「私、要くんが好きなの。いまは彼に告るために距離を詰めている最中だから、他の女にちょろちょろされると目ざわりなんだよね。べつに石脇さんは要君のこと好きじゃないんでしょ? だったら、邪魔しないでほしいんだ」
真剣な眼差しできっぱりとそう告げる近藤さんは、大きな目でこちらを威嚇するように睨む。
彼女の言いたいことは分かった。でも、すごく気に食わない。そもそも、自分が告白するのに邪魔だから要に近寄るな、というのはずいぶんな理屈だと思う。
いますぐ「ふざけるな」と彼女の胸倉をつかみたくなった。しかし、私は持ちあがりそうになる手をグッとこらえて我慢する。私が近藤さん相手にこんなところで暴れてしまったら、要に迷惑がかかるかもしれない。
「私は近藤さんの邪魔するつもりはないよ」
「じゃあ――」
「でも、協力もしない。自分の力で頑張ってね」
そういってにっこり笑ってやると、近藤さんはぐっと目に力を込めた。そこには対抗心とか憎しみとか、そんな感情が渦巻いているように見える。
「あんたにいわれなくても頑張るし。でも、用事もないのに要君に近づいたら許さないから、そのつもりでいてね」
「こんなところで私相手に凄んでいないで、早く告白でもなんでもしたらいいのに」
「もちろんそのつもりだから。だけど、その前に色々やることがあるの。外堀埋めたり、ライバルを蹴落としたり」
「……大変だね」
だから、ライバルと認定した私を蹴落としに来たのか。なんだか釈然としないが、なにもいわないことにした。
近藤さんはさっと立ちあがり、足音も荒く帰って行った。
ああ、なんだかすごく疲れた気がする。
そのとき、机の上に載せていたスマホが震えた。表示を見ると、登録したばかりの要の番号だった。
「もしもし、どうしたの?」
『いや、まだ家に帰ってないみたいだから、どこほっつき歩いてるのかと思って』
「図書室で勉強してた」
そう答えてから、まだ空白のある古文のテキストに目を落としてため息が漏れた。思わぬ乱入者のせいで、予定していたところまで終わらなかった。
『どうした? ため息なんて吐いて』
「べつに……恋する女は恐ろしいね」
『は?』
「んーん、こっちの話」




