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「スミレちゃん起きなよ、もうお昼休みになったよ」
机に突っ伏して眠っていたら、由佳理ちゃんが肩を揺すって起こしてくれた。
もうそんな時間か。四時間目は私の苦手な古文の時間だったので、いつの間にか眠ってしまっていた。
「ああ、お腹減ったな。今日はスミレちゃんはなに弁当?」
由佳里ちゃんはいそいそと自前のお弁当箱を開けながら、こちらのおかずに探りを入れる。きっと味見という名のトレードを期待しているのだろう。
私は鞄の中からお弁当箱を取り出して彼女に見せる。
「残念ながら、今日は冷凍食品ばっかりだよ。でも、良かったら好きなだけ食べていいよ。なんかお腹減ってなくてさ……」
由佳理ちゃんの机にお弁当箱を乗せる。いつもなら喜んで食べてくれる彼女だが、いまは悲しげな顔で私の顔を見つめる。
「もしかして、お家でなんかあったの?」
「ん? いつもと同じだよ」
しいて言うなら、なにか起こるのはこれからだ。おそらく、今度父が家に帰って来たときにいろいろなことが動き始めるのだろう。
両親は、これまで不仲ながらも家族という枠組みの中に収まっていた。しかし、二人ともその枠を取り払う準備が整いつつあるのだ。そこに私の意見はまったく考慮されないだろう。
由佳理ちゃんは心配そうな目を向けたまま、私の弁当箱から卵焼きを箸で掬い、私の口許に近づける。
「食欲ないのかもしれないけど、ちょっとだけでも食べよう。大サービスで食べさせてあげるから」
親友が大サービスしてくれるというなら、私もそれに応えなければ。仕方なく卵焼きを口に入れるが、正直あまり味がわからない。
由佳理ちゃんは、私がおとなしく食べたことにホッとした様子を見せていたが、二口目を拒否したときには眉を下げて悲しそうな顔をした。
「スミレちゃん……」
「ごめんね、でも本当にこれ以上は無理みたい。帰ってから食べるから、そんなに心配しないで」
「本当に?」
笑って頷いてみせたのに、なぜか彼女の顔は晴れない。
由佳理ちゃんはこれ以上の説得は諦めたらしく無言で箸を置いた。そして、ポケットからスマホを取り出す。彼女はご飯中にスマホをいじることはほとんどしないのに、今日は珍しいな。
「ごめん、ちょっと一本だけメール打たせて。スミレちゃんにはこのジュースをあげるから、せめてこれだけは飲んでよ」
そう言って片手でメールを打ちながら、器用に野菜ジュースの紙パックを私の手に握らせる。
私は由佳理ちゃんの言葉に逆らえず、ストローを咥える。ニンジンたっぷりのオレンジ色のジュースはあんまり好みではないけれど、彼女がメールをポチポチしているのを見ながら頑張って飲み干した。
それからしばらくして、教室に要がやってきた。急いで駆けてきたらしく、息が少し上がっている。彼の登場でクラスの女子たちが色めき立った。
「スミレ、ちょっと来い!」
要はずかずかと教室へ入り、私の腕を掴んだ。なぜか顔が鬼の形相になっている。
「え、なに、どうしたの?」
「うるさい。いいからついて来い」
牙を剥く野犬のように鼻に皺を寄せ、要は私を引きずって歩く。なぜ彼がここまで怒っているのかわからないが、私はとりあえず彼の後をついていくことにした。
うちの学校には食堂がないので、生徒たちはたいてい自分の教室で昼食を食べる。たまに気分を変えて中庭を使う生徒もいるが、座れる場所が乏しいのであまり数は多くない。
要に手を取られたまま、私たちは屋上へと続く階段を上っていた。放課後、吹奏楽部の生徒がここで練習しているのを見かけたことがあるが、屋上は普段立ち入り禁止になっているので、昼休みには生徒は滅多に近づかない。予想通り、薄暗い階段は静まり返っていた。
上りきったところで、要はようやく私の腕を放した。無言でこちらを鋭く見下ろしてくる目が、怒りに満ちているようで居心地が悪い。
なにか彼に悪いことでもしたかと考えたが、心当たりはまるでない。怒られる筋合いもないのに、この男はなにをそんなんにイラついているのか。
そんな要を見ていると、私もだんだんムカムカしてきた。
「ねえ、なんで急にこんな所に連れてきたの。私、要に怒られるような事した覚えないんだけど」
「……怒ってねえよ」
「嘘。人殺しみたいな目になってるよ」
殺人衝動を覚えた人間なんて目の当たりにしたことはないが、それくらいこの幼なじみの目付きは尋常ではない。
とつぜん、要が私のシャツの襟を掴んだ。あっという間に、きっちりと結んでいたはずの胸元のリボンが解かれ、素早い動きでボタンをはずされる。
「なに? なんなの!」
私は身を引いたが、強い力で逆に引き寄せられた。
怒りの形相のまま、要の顔が降ってくる。鎖骨に近い所に、彼の唇が触れた。次の瞬間、頭の中でガリっと音がするほど強く噛まれる。
「痛い! やめてよバカ!」
飛び上がるほどの痛みは一瞬で消えたが、要の鋭い歯はまだ私の皮膚に食い込んだままだ。まるで甘噛みをするように何度も噛まれては、濡れた唇が肌の上に落ちてくる。
「いや! もう、なんなの本当に、要のバカ」
首筋に埋まる髪を掴んで引きはがそうとしても、彼の頭は離れない。それどころか、私の抵抗を封じるように、彼の腕がギュッと巻きついて拘束された。遠くから見たら、きっと抱き合っているように見えるかもしれない。
きつく噛まれるたびに、なぜか彼に責められているような気持になってくる。
いったいなにを怒っているんだろう。私は悪いことをしたんだろうか。もうなにも分からなくて、ぐちゃぐちゃな気分だ。
ようやく要の頭が離れていったときには、私の額にはうっすらと汗が滲んでいた。
要の牙は遠ざかったが、彼の腕はなぜか解けない。もう抵抗する体力も残っていない私は、その腕に支えられるようにして立っていた。
「どうして言わないんだよ」
「なにを?」
「家でなんかあったんだろ。なんで朝会ったときになにも言わないんだよ!」
「どうして要にそんなこと言わなきゃならないの」
「スミレは隠すのがうまいから、普通にされてると見抜けないんだよ。……辛いことがあったときは俺に言えよ。そうしたら、噛んでやれるから」
意味が分からない。「噛んでやる」ってなんなんだ、偉そうに。それじゃあまるで、私が要に噛まれることを望んでいるみたいじゃないか。
「泣けないくらい辛かったんだろう。食欲落ちるくらいしんどいんだろう。今は泣いたっていいんだ。噛まれた所が痛むんだから」
要の言う通り、さっきさんざん噛まれた所が痛んで熱を持っている。目頭がたちまち熱くなった。
「ほんと痛いよバカ」
「ああ。そうだな」
「謝れバカ犬」
「悪かったよ。噛んでごめんな」
涙を流してもいい理由を与えられると、今まで我慢していた涙が溢れて止まらなくなってしまった。
離婚の話を仄めかされたとき、私は家のことで泣かないと決めていた。子はかすがいという言葉があるのに、私は家族を繋ぎ止めることもできない役立たずだ。
泣かないことは私の意地だった。父も母も家族をやめたいというのなら、私には彼らを止める術はない。そんな二人のために泣いてなんかやらない。これ以上、惨めになりたくなかった。
「少しは落ち着いたか」
鼻をすする私に、要は彼にしては優しい口調で尋ねる。
「……うん。ありがとう」
そう答えると、ようやく彼の腕が離れていった。私が顔を押し付けていた要のワイシャツは、涙でぐっしょりと濡れていた。
「ごめん。シャツ汚した」
「いや、いいよ別に。ジャージあるし」
要は冷たくなったシャツを摘まんで眉を寄せる。やっぱり濡れてしまったシャツは不快なのだろう。
それを見ていたら、なんだか急にお腹が減っていたことを思い出した。もうすぐ昼休みが終わる。食べ損ねたお弁当は次の休み時間に急いで食べよう。
ぐうと鳴った私のお腹の音を聞いた要が、なぜか満足気に「よし!」と呟いていた。