11
「スミレちゃん、さっきから顔が強張ってるよ」
慶吾さんはテーブルをトントンと指で叩き、小声で私をたしなめる。いつの間にか、あれだけいたお客さんたちは店を出て、テーブル席に座っているのは私たちだけになっている。
トイレから戻ってきてからというもの、私はしかめっ面を隠そうともしていなかった。どうしても眉間に力が入ってしまうし、気づいたら奥歯を無意識に噛みしめている。怖い顔をしている自覚はある。でも、さっきから元に戻らないのだ。
「すいません。どうしてもこの顔になっちゃうんです」
静かな店内に響かないように、私も声を落として返す。
「例の彼女となんかあったの?」
「……席を立ったときに、少し」
さっきの狭山さんとの会話を思い出してしまい、私はさらにギュッと眉を寄せた。
狭山さんがあんなにはっきりと要への気持ちを口にだすなんて思わなかった。それに、実を言えば彼女が勝ったときの条件が少し腑に落ちない。てっきり、要と別れろと要求されると思っていたのだ。
その事を慶吾さんたちに相談すると、彼らは揃って肩をすくめた。まるで、こんなことも分からないのかと言わんばかりだ。
想像力が欠如している私のために、慶吾さんが噛んで含めるように説明してくれる。
「きっとね、狭山さんは要君を振り向かせる自信があるんだよ。あれだけ綺麗な人だから、当然と言えば当然かもね。わざわざスミレちゃんたちを別れさせなくても、要君を惚れさせる事が出来るって思ってるんだよ」
「え、そんな理由で?」
ずいぶん舐められたものだ。狭山さんは、私なんか別れさせるまでもないと考えているのだろうか。
「俺の勝手な想像だけどね。だって、要君がわざわざ家まで付いてきてくれるんだよ? お礼に何か飲み物でも、って言って中に誘いこんじゃえば、もうこっちものでしょ」
ベタと言えばベタだが、それだけ成功する確率が高いから、みんな多用する手なのだろう。
「なあスミレ、もちろん勝算はあるんだろうな」
湊人さんは勝負と聞いてがぜん興奮してきたらしく、さっきから目つきが怪しい。瞬きしないし、ちょっと瞳孔が開きぎみのような気もする。
「たぶん、大丈夫だと思います」
「なんだ頼りないな。俺たちが手伝ってやろうか?」
そう言われ、一瞬だけ悪い考えが頭をよぎる。彼らに協力してもらって、狭山さんの気を逸らしてもらうのはどうだろう。この二人が愛想良く狭山さんに話しかけている間に、要を口先三寸で連れ出せれば……いや、さすがにそれは卑怯すぎる。
そもそも、不意打ちで要を店から連れ出しても意味がないのだ。私か狭山さんのどちらか一人を、要の意思ではっきりと選んでもらわなければ、私たちの溜飲は下がらない。
「いいえ、大丈夫です。二人はここで高見の見物しててください」
「お前なあ、そういう無駄に男らしい所が駄目なんだよ。相手を見てみろ、もう既に動き始めてるみたいだぞ」
そう言われてカウンターの方を見ると、狭山さんが立ちくらみを起こしたように壁に身を寄せて寄り掛かっていた。それを見て、すぐにマスターが彼女に椅子を勧める。
狭山さんの病気のことは本当に気の毒だと思う。詳しく聞かされていないから、今まで彼女が言っていた言葉を繋ぎ合わせて想像するしかないのだが、彼女の体が健康だったら色々なことにも挑戦できただろう。きっとここでバイトという不安定な仕事をすることもなかったのかもしれない。
でも、だから要に横恋慕していいというわけにはいかない。それは完全に別の問題だ。
ふと、視線を感じてカウンターの方を振り返ると、要がこちらをじっと見ていた。彼は何か言いたそうな顔をしていたが、私と目が合ったとたん、さっと視線を逸らしてしまった。
私は不安になった。今まで要に無視されたことは一度もなかった。まして、こんなにあからさに視線を逸らされた事なんて今まであっただろうか。
まさか、怒っている? でも、何にたいして怒っているか分からない。私は急に指の先が冷えていくような気がした。
その後も要の様子をさりげなく目で追ってみたが、彼が私の方へ視線を移すことは一度もなかった。
まずい、なぜか要の機嫌がものすごく悪い。もしかして、事前に何の連絡も入れずにここへ来たのが良くなかったのだろうか。それとも、二日連続で様子を見に来たのが鬱陶しいと思われたのかもしれない。
私は頭を抱えた。これじゃあ、一緒に帰ろうと言いだすことすら出来ない。どうしたらいいのかあれこれ悩んでいると、慶吾さんがすっと片手を上げた。
「すみません、注文お願いします」
椅子に座っている狭山さんが立ちあがろうと腰を浮かせたが、要がそれを制してこちらへやってくる。まだ彼女の体調は悪いらしい。
「ご注文は」
注文を尋ねる要の声には不機嫌が滲み出ている。おまけに、私の方をまったく見ない。これはもう、間違いなく私に対して怒っている。
「コーヒーおかわり。ここのブレンド美味しいね。今度からちょくちょく来ようかな」
「ありがとうございます。マスターに言ったら喜びますよ」
「デリバリーとかはやってないの?」
「あ、それは無理っす。人手足りないんで」
「そっか、残念だな」
慶吾さんとの会話で要の表情が少し和らぐ。慶吾さんは「今がチャンスじゃないのか?」という目で私を見た。
私はそれに背中を押され、思い切って口を開いた。
「あのね、要は今日も五時で上がれるの?」
「そうだけど、それがなに?」
いつもとは違う冷たい視線と声に気持ちがくじけそうになる。しかし、それをぐっと堪えて再び要に問いかける。
「要のバイトが終わる時間まで待っててもいい? 絶対邪魔にならないようにするから、今日は一緒に帰ろう?」
要は少し考えてから、首を横に振った。
「悪いけど無理。狭山さんが今日も具合悪いみたいだから、送って欲しいって頼まれてるんだ」
「……どうしても駄目なの?」
「病人を放っておけない」
いつもの私ならここで引き下がる。でも、今日は引けない理由がある。私は要のエプロンの裾をきゅっと握り締めた。
「お願い。今日だけでいいから行かないで」
狭山さんとの勝負の事は要には話せない約束になっているので、詳しい理由は説明できない。でも、そんな説明をしなくても狭山さんではなく私を選んで欲しかった。
付き合い始めてから、ほとんど最初の私のわがままをどうか聞き届けてほしい。そんな思いを込めて要を見上げていたのだが、彼は困ったように言葉を詰まらせた後、私の手をそっと剥がした。
「悪いけど、無理だ。ごめん」
その一言で、私は目の前が真っ暗になった。
要はそっけないときもあるけれど、真剣に頼めば理由なんか聞かなくても、私の頼みに応えてくれるはずだと信じていた。でも、どうやらそれは私の勘違いだったらしい。
何も言えなくなった私に向かって、要が「ごゆっくりどうぞ」と定型になっている挨拶を残して立ち去ろうとする。
「ちょっと待てよ」
湊人さんが急に顔を上げて要を呼び止めた。
「お前、本当にスミレよりも狭山を優先させる気か?」
「なんすか急に」
思ってもいなかった人から非難されている気配は感じたのか、要はムッとした表情を浮かべる。
「お前それでもスミレの彼氏か? もっと真剣に考えてやれよ。今こいつの頼みは、そんなに無下に却下されるほど難しいことじゃないだろ。それとも、狭山を送って行くのは業務内容に入ってるのか?」
湊人さんの物言いにカチンときたのか、要の眉間が険しくなる。
「業務には入ってないですよ。でも、マスターに頼まれた時点で俺にとっては狭山さんを送って行くのも仕事の一部だと思ってます」
「でも、それはお前じゃなくてもできるだろ?」
「それは……」
それは要も分かっていることだったのか、わずかに顔を曇らせて口ごもる。
「それを承知で、スミレの願いを聞いてやるつもりはないんだな?」
「はい。仕事ですから」
要の口調は固い。こうなったら、梃子でも彼の考えを変えられないだろう。要は昔から、義理固くて頑固だった。
「分かった、もういい。その代わり……どんなことになっても後悔するなよ!」
湊人さんはそう言うや否や、急に立ちあがると財布の中から千円札を三枚取りだしてテーブルの上に置いた。
「釣りは要らない。ごちそうさま」
そう言うと、湊人さんはあっけにとられている私の腕を掴んで椅子から引きずり出した。
「行くぞスミレ。もうここにいる意味はない」
「ちょっと、湊人さん! 急にどうしたんですか?」
「帰るぞ。これ以上ここであいつを待ってるお前を見てられない」
「でも、私まだ――」
勝負に負けたわけじゃない。そう言おうとして思い留まった。要はもう既にはっきりと「狭山さんを送って行く」という答えを出している。このまま店にいても、惨めな思いをするのは私の方だ。
思わず狭山さんの方を見ると、彼女は大きな目をまん丸に開いて要を見つめていた。両手を口に当て、目元が心なしか潤んでいるように見える。自分が選ばれたことがよっぽど嬉しかったのだろう。
そんな様子の狭山さんを見たとたん、私は急に足元が不安定になった気がした。まるで吊り橋の真ん中に立っているときのように、ぐらぐらと体が揺れて上手く立てない。
まさに昨日の再現のようだ。私は要の彼女のはずなのに、バイト先の先輩に簡単にまた負けた。それがとても悔しくて、ものすごく情けなかった。
湊人さんは、急に力が抜けてしまった私を支えるように腰に手を回す。そして、燃えるような目付きで要を見る。
「悪いけど、スミレはお前にはもう返さない。さっきの言葉、一生後悔しろよ」
「いや、何言ってるか分からないんですけど」
要はわけも分からずケンカを売られ、困惑しているみたいだった。しかし、湊人さんが何かよからぬ事をしようとしているのだけは理解していたらしく、私たちを止めようと追ってくる。
「お前は知らなくていいよ。こいつは俺たちが幸せにするから、もう関わるな」
湊人さんは要の手をかいくぐり、そのままの勢いで要の足を横へ払う。とつぜん足払いを食らった要は床に倒れた。
「要!」
「放っておけよ」
私は倒れた要に駆け寄ろうとしたが、湊人さんは私を無理やり引きずるようにして出入り口へ向かった。
私は助けを請おうと慶吾さんを振り返ったが、彼は面白そうに目をキラキラと輝かせて私たちの後を追ってくるのを見てやめた。彼はどう見ても、この状況を面白がっている。
私はこのまま湊人さんの腕から抜け出そうと精いっぱい抵抗したが、一回り以上も体格の違う成人男性の力には適わない。あっという間に抱きかかえられ、店の外へと連れ出される。
「湊人さん! どういうつもりですか!?」
「うるさい、お前はちょっと黙ってろ。慶吾、車!」
「了解」
慶吾さんが心得ていると言わんばかりに車のロックを外して後部座席のドアを開くと、湊人さんは私をそこへ放り込んだ。
「うわ!」
乱暴に投げ込まれ、私はシートに頭をぶつけた。頭を抱えて痛がっていると、すぐに湊人さんも乗り込んできて私の隣に座る。
「湊さん、急にどうしちゃったんですか!」
「俺だって知るかよ。……でも決めた。もうあいつにスミレを返さない」
「え?」
湊人さんは自分でも何をしているのかよく分かっていないようだ。しかし、その顔は鬼気迫るほど真剣で、私はそれ以上何も言えなくなってしまった。
「スミレ!」
カフェの扉が開いて、要が慌てた様子で飛び出してきた。さっき足払いを食らったときに足を捻ったのか、走り方が少しおかしい。
「慶吾、車出して」
「りょうかーい」
慶吾さんが車のキーを回すと、低いエンジン音と耳を覆いたくなるようなマフラーの排気音が上がる。
「ちょっと待ってください! 要が……」
私の叫びが唸りを上げるエンジンの音にかき消される。窓に張り付くと、必死な顔で車を追ってくる要と目が合った。私はとっさに窓を開ける。
「要!」
「スミレー!」
懸命に追いかけてくる要の顔が歪む。足が痛むのだろう。
「要、無理しちゃダメだよ! もういいからお店に戻って」
「ふっざけんな! スミレ浚われたまま、諦められるかー!」
要はがむしゃらに叫びながら、車を追いかけてくる。夕方の駅前は交通量が多いため、車はそれほどスピードが出ない。とはいえ、足を痛めた生身の人間が車と並走するのは不可能だ。
要と車との距離が徐々に離され始めているのに、彼は追いかけるのをやめようとはしなかった。だんだん息が上がり、彼の顔に苦痛の色が濃くなる。
私はもう見ていられなかった。
「慶吾さん、車止めてください!」
運転席へ身を乗り出し、慶吾さんに頼んだ。
「湊人、どうする?」
慶吾さんは曖昧に笑い、バックミラー越しに湊人さんに問いかける。車を停止させるのは、慶吾さんではなく湊人さんの判断に委ねられているらしい。
私は湊人さんに向き直ると、ぎゅっと彼の腕を掴んだ。
「湊人さん、車を止めてください」
「嫌だ」
「お願いだから、止めてください。要、このままずっと追いかけてくる気なんです」
湊人さんは私を見つめたまま逡巡するように唇を噛んだ。
「あいつは自分からスミレの手を放したんだ。自業自得だ」
「でも……」
「それに、俺の方がスミレをもっと大事にしてやれる。だから、あいつとは今日限り別れて、俺と付き合おう」
湊人さんの腕を掴んでいた手を彼に握り返され、私はようやく彼が本気で私に告白しているのだと分かった。でも、私の心は彼に応えられない。
「ごめんさない。私は要と別れたくありません」
「どうして!」
湊人さんが私の手をさらに強く握る。その力があまりに強くて、一瞬だけ泣きたくなった。湊人さんに、こんなに苦しいほど感情をぶつけられたのは初めてだった。
「俺は本気でスミレを好きになった。慶吾と同じくらい――もしかしたらそれ以上に、お前を幸せにしてやりたいと思ってる。あいつよりも大事にするよ。だから、俺を選んでくれ」
色素の薄い彼の瞳がまっすぐ私を見つめる。混じりけのない好意を告げられ、私は胸が痛くなった。素直に嬉しいと思う反面、私は彼の想いには決して応えられない。
私は首を横に振る。
「ごめんなさい。要じゃなきゃダメなんです」
苦しいときも、楽しいときも、思い返せばいつも近くに要がいた。幼なじみとして彼にはたくさん助けられたし、私も彼に手を貸す場面はたくさんあった。しかし、これから恋人として側にいられるようになったのに、いま要から離れられるわけがない。
「泣くほどあいつがいいのか?」
そう言われ、湊人さんの手が私の頬を撫でる。気づかないうちに、私は涙を流していた。
無言で頷くと、湊人さんが私の手をそっと離した。きっと、私の気持ちが動くことはないと悟ってくれたのだろう。
「分かった。……慶吾、車を止めてくれ」
「ああ」
車はゆっくりとスピードを落とし、やがて狭い脇道へ入って停車した。
湊人さんが車の鍵を開けて、ドアを開く。
「振り回して悪かった」
「はい」
「……今度、また泣かされるような事があったら相談しろよ。今度こそあいつをぶん殴ってやるからさ」
湊人さんが物騒な事を言って少し笑う。おそらく彼なりの冗談なんだろう。
私は湊人さんに申し訳なくなって、声を上げて泣きたくなった。でも、ここで私が辛い顔をしたら湊人さんが傷つくかもしれない。手段はかなり強引だったが、彼は私のためを想って行動したのだ。
私は無理やり笑顔を作って頷いた。
「はい、きっと連絡します。慶吾さんも、ありがとうございました」
「お礼なんて言わなくいいんだよ。俺たちの方こそ、スミレちゃんの気持ちを無視して連れまわして悪かったね」
私は慶吾さんの車から飛び出し、要を探した。しかし、いつの間にかかなり引き離されてしまったようで、彼の姿はどこにも見えない。
私はすぐに、今まで通って来た道を見つけて走り出す。慶吾さんは、最後に脇道へ入るために曲がっただけで、あとはずっと真っすぐ車を走らせてきた。だから、この道を戻っていれば、きっと要に会えるはず。
要を探しながらひたすら走る。今日に限って走りにくい靴を履いていたことにいらだちを感じる。こんなことなら、いつものようにスニーカーを履いてくれば良かった。
「スミレ!」
遠くから要の声が聞こえてきた。声の出所を探すと、ずっと向こうの方から息も絶え絶えな様子で彼が走ってくるのが見えた。
要の髪は乱れて顔の半分が隠れ、汗でシャツもぐっしょりと濡れている。足を引きずっているせいか、ボロボロに傷ついて悲壮感さえ漂っているようだ。
そんな要を見たとたん、私は自分でもなんだか分からないくらい感情のコントロールが利かなくなって、涙をこぼしながら要に駆け寄った。
「スミレ、無事だったか!」
要の声はずっと走り続けていたせいでガラガラになり、顔からは滝のように汗が流れ落ちている。ここまでずっと痛めた足で走り通してきたのは辛かっただろう。
私は何も言えずに、要の胸に飛び込んだ。
要はもう口もきけないほど疲れきっていたらしく、ぜえぜえと浅い呼吸を繰り返していたが、しっかりと私を受け止めてくれた。まるで発熱したときのように熱い彼の手が、私の頭を掴んで自分の胸へと押し付ける。
要のシャツは湿っていて、汗の匂いがした。しかし、そんなことはぜんぜん気にならない。彼が私を追いかけて来てくれた。ただそれだけで、涙が出るくらい嬉しかった。
ようやく少し要の息が整ってきたころ、この体制では要の足に負担がかかることに気づき、ハッとして彼のシャツから顔を上げる。
「要、足は? 足、大丈夫なの?」
「まあ普通にけっこう痛いけど、歩けないほどじゃない。お前こそ、そんなに泣いてどうしたんだよ。――まさか、あいつらに何かされたんじゃ」
「大丈夫、何もされてないよ。要がこんなに一生懸命追いかけてくれると思わなかったから」
私がそう言うと、要はため息を吐いた。まだ息が乱れているので、ため息は小刻みだ。
「あんな風に拉致られたら、追いかけるに決まってるだろ。本当はまだ業務時間残ってたのに店を放りだしてきたから、後でマスターに謝らなくちゃいけないな」
「ごめん」
私と要は並んで歩き出す。足をくじいた要が心配だったので、肩を貸しながら本当にゆっくりゆっくりと来た道をたどる。
「そういえばお前、なんで急にあんな事言いだしたんだ?」
要は怒った様子もなく、本当に不思議そうな顔をしている。おそらく、さっき私が店で「一緒に帰りたい」と要に訴えたことを言っているのだろう。
「ああ、それはもういいの。これからはもうバイト先にも押し掛けないし、あんなわがまま言わないから安心して」
狭山さんとの賭けのことは怖くて言えない。結果は私の負けだから、もうあの店には二度と入る気はないし、彼女のやることに口出しもしない。
もちろん、要の事は信じているが、もしも彼の気持ちが狭山さんへ傾いたらと考えると、本当は怖くてたまらない。でも、そんなことを要に言えるわけもない。
私は不安な気持ちを隠して笑うしかないのだ。
「要は一度お店に戻るんでしょ? 私はここから一人で帰るよ。私まで一緒に店に行ったら邪魔になるだろうし、要はこのあと狭山さんを送っていくんでしょう? なら、ここで別れた方がいいと思う」
できるだけいつもの口調でそれだけ口にして、支えていた要の肩をそっと下ろす。
「じゃあね。また夜にでも連絡するよ」
そう言って駅の方へ歩き出す。しかし、急に腕を引かれて足を止める。
「なに?」
要は私の腕を掴んだまま不機嫌そうな顔で私を見ていた。一方的にしゃべり過ぎたせいで、怪しまれているのかもしれない。
「俺はそんなに信用できないのか?」
「なにが? 私そんなこと言ってないよ」
じっとこちらを見つめる要の目が、何もかも見透かされているようで落ち着かない。背中に冷たい汗が流れた。
「お前は無理してるとすぐに分かる。頼むから、俺にだけは本音を隠さないでくれよ」
「何も隠してないってば!」
ちょっと怒ったように彼の手を振りほどく。
「俺が狭山さんを送って行くのが不安なんだろう。俺にとってはそれも仕事のうちだから、スミレが心配するようなことには絶対にならないよ」
「要が仕事だと思ってても、彼女の方がそう思ってないんだよ!」
気づいたときには、思わず口が滑っていた。ここまでしゃべってしまったら、適当にごまかすことはできない。
「今日、狭山さんと話をしたの。彼女は要のことが好きだってはっきりと言ってた。私よりも前に自分と出会ってたら、絶対に自分を選ぶはずだって。……だから、どうしても彼女の前で私と一緒に帰るって言って欲しかったの」
そう、私は狭山さんの前で要に自分を選んでもらいたかった。そして、彼女の育ち始めていた恋心を打ち砕き、私たちの間にあなたの入る隙間はないんだと示したかったのだ。
しかし、要が選んだのは狭山さんの方だった。
私の胸の内にドロドロと渦巻いていた気持ちをすべて白状すると要は目を丸くした。しかし、すぐに苦虫をかみつぶしたような表情になる。
「どうしてすぐに俺に相談しなかったんだよ」
「出来るわけないでしょ。お店では要の方が私を避けて目も合わせなかったじゃない」
「あれは、お前が慶吾さんとか湊人さんと親しそうにしてるから、それでムカついて……」
「もしかして、やきもちだったの?」
そう尋ねると、要は観念したように深く頷く。
「いくら慶吾さんが義理の兄になるとはいえ、あんまり目の前で仲良くされるとイライラする。それに、湊人さんがスミレにベタベタしたせいですげー気分悪い」
どうやら要は、彼らに嫉妬していたせいで私にそっけない態度を取ってしまったらしい。それを聞いて、私は少しだけ罪悪感が湧いてきた。なにしろ、ついさっき湊人さんに告白されたばかりなのだ。私に同情したせいだったのかもしれないが、それでも要にとっては面白くない出来事だろう。
秘密にしているのも嫌だったので、私は正直にその事を打ち明けた。瞬間、要は目を吊り上げる。
「ちょっとお前、こっち来い」
「え、なんで?」
要は掴んだままの私の腕を引いて、狭い路地裏へぐいぐい引きずり込んでいく。はたから見れば、きっと犯罪を疑うかもしれない光景だ。それくらい、強引なやり方だった。
要の選んだ路地裏はちょうど居酒屋の裏手に位置していて、ビール瓶のケースや段ボールが積まれ、大通りから人の目を妨げる目隠しになっていた。
要は段ボールの影に私を連れてくると、すぐさま私を突き飛ばして壁際に追い詰める。そして、襟元を大きく開き、無言のまま私の鎖骨のあたりにがぶりと噛みついた。
「いた!」
久しぶりに噛まれた痛みで小さな悲鳴を上げてしまう。それを聞いた要は、顔も上げずに片手で私の口を塞いで声を封じた。
彼の髪が首筋に触れてくすぐったいのと、薄い皮膚越しに骨を噛まれる痛みとで、私は目をきつく閉じた。今すぐにでも叫びたいのに、要の手が邪魔で声が出せない。そうなると、痛みをどこにも逃せないので、私はどんどん追い詰められていく。拳をギュッと握りしめ、いつ終わるともしれない痛みに耐える。
ようやく要が唇を放した時には、私は汗だくになっていた。目を開けると、涙で視界がぼんやりと滲んでいる。いつの間にか、痛みのあまり涙が出ていた。
「痛いよ馬鹿。手加減なしで噛んだでしょ」
要の怒りはまだ収まっていないのか、彼はギリギリと歯ぎしりをしながら険しい顔を向けてくる。
「俺を捨てたら、もっとひどく噛んでやる。一生跡が消えないくらい深い傷をつけて、俺の事を忘れられなくしてやる」
「なにそれ、脅してるの?」
「そう。脅してる」
要は鼻が触れそうなほど顔を近づけてくる。
「絶対後悔させてやるからな。毎日スミレに付きまとって、他の男なんて一切近寄らせない。電話もメールも一時間置きにかけて、スミレの部屋には盗聴器だって仕掛けてやる」
近い距離のまま睨んでいるが、要はそのまま触れるだけのキスをして私を抱きしめた。強気で不穏な言葉を吐いている癖に、私が苦しくならないように配慮したそっと優しい抱擁だった。
本来根が優しい要は、そんな事を実行する事はできないだろう。しかし、こうして脅してでも自分に縛りつけたいと思うほど、彼は私の事を必要としている。そう考えたら、なんだかとても嬉しくなった。
「……なに笑ってんだよ。俺は本気だからな」
「うん。要だったら、ストーカーになってもいいよ」
「お前が嫌だって言っても絶対離れない。俺が何年我慢してたと思ってんだ」
要はものすごく不満そうだ。五歳のときに私を好きになったという彼の話が本当ならば、十二年越しの恋だ。そう簡単に手放してたまるかと言いたいのかもしれない。
私はここが屋外だということも忘れて、要の首に手を回して彼の耳に顔を寄せる。
「お願い、もう不安にさせないで」
わがままの極みのような無茶な願いを囁くと、要が一瞬息をのんだような気配がした。そして、彼は返事の代わりに背骨が軋むほど私を強く抱きしめる。
私は思わず「ぐふっ」とうめき声を上げてしまった。




